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「井伊直政」は、「徳川家康」に仕え「徳川四天王」のひとりとして名を馳せた戦国時代の武将です。井伊直政が生まれた頃の井伊家は、駿河国今川家の支配下にあり、お家断絶の危機に晒されていました。井伊家の再興のため、そして徳川家康の恩義に報いるために信念を貫いた井伊直政の生涯をご紹介します。
明智光秀と三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の出生の謎や愛刀に迫った刀剣ワールド財団監修のムック本を発売中!
井伊直政の武将年表戦国武将「井伊直政」の出生から最期までを年表でご紹介します。
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「池田恒興」(いけだつねおき)は、「織田信長」と密接な関係にあり、歴史的な戦いにも関連した人物。2014年(平成26年)に地上波テレビで放送されたコミック原作のドラマ「信長協奏曲」では、俳優の「向井理」さんが池田恒興を演じています。織田信長の生涯をはじめ、「桶狭間の戦い」や「清須会議」(きよすかいぎ)などを語る際には、池田恒興を外すことができません。この池田恒興について詳しく解説します。
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「石田三成」(いしだみつなり)は、色白の美少年で「豊臣秀吉」に仕えた知的な武将です。アニメやゲームでも、その側面が描かれる傾向があります。
石田三成は、豊臣秀吉に気に入られて家来となり、事務方として外交を担当しました。
その後、石田三成は「五奉行」となって、豊臣政権の中核を担い、太閤検地、朝鮮出兵などで活躍をみせます。その石田三成の生涯を名言や功績をふまえて、追体験しましょう。
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「今川義元」(いまがわよしもと)について、あなたはどのようなイメージをお持ちでしょうか。「公家かぶれの戦国大名」というイメージを持っている人も少なくないと思います。今川義元は「桶狭間の戦い」で、25,000以上の大軍を擁しながら、わずか2,000の「織田信長」に敗れたからです。しかし、そんな今川義元は、実は優れた領国経営能力と家臣・太原雪斎(たいげんせっさい)の後ろ盾によって、米の生産量が多いとは言えなかった駿河・遠江・三河を豊かな国にすると共に、軍事力・外交力を用いて領地拡大に成功した手腕の持ち主。「今川義元」はその実力から、「海道一の弓取り」と呼ばれていました。ここでは、一般的なイメージとはギャップのある今川義元の実像についてご紹介します。大河ドラマでも注目される戦国大名です。
今川義元の武将年表戦国武将「今川義元」の出生から最期までを年表でご紹介します。
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今川氏の最盛期と言えば、戦国時代に東海道で圧倒的な支配力を誇っていた「今川義元」(いまがわよしもと)の時代です。若き「徳川家康」を人質として召し抱え、領土を拡大しながら今川家を戦国大名化させました。そんな「海道一の弓取り(国持ち大名)」の異名を持つ今川義元の跡を継いだのが、嫡男の「今川氏真」(いまがわうじざね)です。しかし、「織田信長」に敗北した今川氏真は、父が築いた栄光を一瞬で滅ぼしてしまいます。名君であった父に対して、暗君として語られることの多い今川氏真の人生や人物像について見ていきます。
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「上杉謙信」は、越後国(現在の佐渡島を除く新潟県)山内上杉家16代当主の戦国武将です。長年内乱が続いていた越後国を治めて、繁栄させるために尽くした一方で、「武田信玄」や「織田信長」など、名だたる武将と合戦を繰り広げてきました。
上杉謙信の武将年表戦国武将「上杉謙信」の出生から最期までを年表でご紹介します。
天と地と上杉謙信が主人公の大河ドラマ「天と地と」についてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。
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「卍」の字が書かれた特徴的な金色の兜をかぶり、戦国時代から江戸時代を生き抜いた武将「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)。大河ドラマでも、どの俳優が演じるか注目される人物です。そんな上杉景勝の人生は、叔父にあたる上杉謙信の後継者争いで、上杉景虎をはじめ、多くの親族を失った壮絶なものでした。上杉景勝はどのような経緯で上杉家の家督を継ぎ、そして、なぜ豊臣家の「五大老」と呼ばれるまでになったのでしょうか。
ここでは、「名将言行録」(めいしょうげんこうろく)や「上杉家御年譜」、「上杉家文書」などの歴史的資料をもとに、上杉景勝の誕生から米沢城で死を迎える最後までを解説。養父である「上杉謙信」にならって寡黙だったと言われる上杉景勝の、数少ない名言や逸話についても順にご紹介し、人となりに迫ります。また、上杉家の家紋や愛用していた刀についてもぜひご覧下さい。
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「上杉景虎」(うえすぎかげとら)は、越後の龍と称された軍神「上杉謙信」の養子で、後継者候補だった武将のひとりです。「北条氏康」の七男として生まれ、上杉謙信にある意味人質のような形で養子へ出されましたが、上杉謙信に深く寵愛されました。しかし上杉謙信亡きあとの後継者争いで、上杉景虎を含め4人いた養子のひとりである「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)に敗れ、わずか26歳の若さでこの世を去りました。上杉謙信に寵愛されながらも後継者になれなかった上杉景虎の歴史についてご紹介します。
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月のような形をした大きな立物が特徴的な兜と甲冑を身にまとい、安土桃山時代から江戸時代前期を生きた戦国武将「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)。わずか10歳で家督を継ぎ大きな権力を持った宇喜多秀家の人生は波乱万丈でした。一体どんな人生を送った武将だったのでしょうか。宇喜多秀家の輝かしい前半生と流罪で苦しんだ50年に亘る八丈島での後半生について、歴史的資料「宇喜多秀家年譜」や「百家系図」をもとに解説します。宇喜多秀家が「豊臣秀吉」に愛された理由や50万石の戦国大名となった半生、関ヶ原の戦いの敗北理由、妻である「豪姫」(ごうひめ)との強い絆など、宇喜多秀家の波乱に満ちた人生に迫ります。また、宇喜多秀家の家紋や刀についてもご紹介しているので、ご覧下さい。
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「大内義隆」は戦国時代の武将で、「周防国」(現在の山口県東部)の在庁官人だった大内氏の第16代当主です。22歳で家督を相続し、従二位(じゅにい)の地位まで昇りつめた西国一の戦国大名として知られています。「毛利元就」を傘下におさめていたこともあるほど力を持っていた大内義隆ですが、重臣である武断派の「陶隆房」(すえたかふさ)の謀反によって自害に追い込まれた悲運の武将です。わずか45年でその幕を閉じた大内義隆の歴史についてご紹介します。
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「大谷吉継」(おおたによしつぐ)は、病と闘いながら戦国の乱世を生き抜いた武将として知られています。戦場では顔を白い布で覆い、類稀な才能を発揮。「小田原征伐」などで活躍しました。その才能は、豊臣秀吉からも認められたほど。ここでは、ミステリアスな部分も多い武将・大谷吉継についてご紹介します。
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「大友宗麟」(おおともそうりん)は、鎌倉時代から続く名族「大友氏」の最盛期を築いた戦国大名です。海外貿易によって得た経済力を背景に、巧みな外交や家臣団の奮戦により近隣諸国を席巻。一時は、北九州6ヵ国を支配下に治めるほど勢力を拡大しました。
しかし、キリスト教への帰依や薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県)に本拠を構える「島津氏」の台頭などがきっかけとなり、勢力は急激に縮小。晩年は、滅亡の危機に瀕するほど衰退してしまいました。
大友宗麟の栄枯盛衰の歴史に注目しつつ、その人物像やユニークな逸話、ゆかりの刀剣などをご紹介します。
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天下人「織田信長」の父であり、「尾張の虎」と称された武将「織田信秀」(おだのぶひで)。室町時代末期、尾張国(現在の愛知県西部)の下級武士だったにも関わらず、織田信長が天下を取る基盤としても重要な役割を果たしたと言われています。尾張国の周辺は、美濃国(現在の岐阜県南部)の「斎藤道三」(さいとうどうさん)や、三河国(現在の愛知県東部)の「松平清康」(まつだいらきよやす)、駿河国(現在の静岡県中部・北東部)の「今川義元」(いまがわよしもと)など、強敵揃い。織田信秀は、下級武士からどのように成長し、覇権を広げていったのでしょう。織田信秀の出自や人生、そして織田信長へと受け継がれた愛刀などについてもご紹介します。
織田信秀の武将年表戦国武将「織田信秀」の出生から最期までを年表でご紹介します。
万松寺織田信秀が建立した名古屋市中区にある「万松寺」をご紹介します。
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戦国時代、天下布武を目指し、その後の歴史を大きく変えた織田信長。400年経った今でも織田信長のリーダー像に惹かれる人は多く、人気は衰えません。歴史的史料である「信長公記」や「名将言行録」をもとに、天下人となった織田信長の生涯をご紹介します。
織田信長の武将年表戦国武将「織田信長」の出生から最期までを年表でご紹介します。
天下統一を目指した織田信長が生涯を通して参戦した戦いを紹介します。
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「織田有楽斎(織田長益)」(おだうらくさい[おだながます])は、あの「織田信長」の弟という宿命で生まれてきた人物。他人を見る目の確かさで、激動の時代を生き延びました。武家茶道「有楽流」の開祖としても有名。屋敷があった場所は現在も「有楽町」と名前が残るなど、多くの人の心を惹き付ける魅力を持っていたのです。そんな織田有楽斎(織田長益)の生涯をご紹介します。
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「織田信長」と言えば、圧倒的な力で「天下布武」(てんかふぶ:武力で天下を統一すること)を達成したイメージが強い武将です。しかし戦国武将として台頭するまでに苦戦していた時期もありました。そして、織田信長を長年苦しめていたのが実の弟である「織田信行」(おだのぶゆき)です。当初は兄弟で協力して領地経営をしていた2人ですが、次第に織田家の当主争いが勃発し、熾烈な戦いへと発展していくことに。今回は、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも織田信長との兄弟バトルが話題となった織田信行について紹介します。
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「織田信長」と言えば、戦国の世で天下統一の野望を抱き、あと一歩のところで横死してしまったカリスマ的人物。この織田信長が最期を迎えた「本能寺の変」では、織田家の未来を担う存在だった嫡男「織田信忠」(おだのぶただ)も、父とともに自害していました。次世代のリーダーとして期待されていたにもかかわらず、その能力を発揮できぬまま悲劇的な最期を迎えてしまった織田信忠とは、一体どのような武将だったのでしょうか。NHK大河ドラマ第59作の「麒麟がくる」で、ジャニーズJr.の「井上瑞稀」(いのうえみずき)さんが演じたことでも話題になった織田信忠について見ていきます。
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「織田信長」の息子には、「本能寺の変」で父とともに自害した「織田信忠」(おだのぶただ)と、対照的な人生を送った次男「織田信雄」(おだのぶかつ・のぶお)という武将がいます。織田信長から未来を期待されていた織田信忠に対し、織田信雄は親子の縁を切られそうになったり、2度も改易(かいえき:大名の領地・身分・家屋敷を幕府が没収し、大名としての家を断絶させてしまうこと)されたりと、織田信長の息子でありながら散々な武将人生を歩んでしまった人物です。その一方で、長生きした織田信雄は多くの子孫を残し、その血は明治維新に至るまで受け継がれていきました。さらに、そのなかには現在の皇室に繋がる家系も。後世に「愚将」と評価されてしまった織田信雄の人生を振り返りながら、織田信雄が残した子孫について見ていきます。
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「勝海舟」(かつかいしゅう)は武士、そして政治家として幕末から明治維新へと激動する日本で重要な役割を果たした人物のひとりです。とりわけ、「戊辰戦争」においては幕府軍の軍事総裁となり、「江戸城無血開城」を実現させた功績は大きく、江戸の町が戦火に焼かれることを防ぎました。少年時代より剣術を学び、「直心影流」(じきしんかげりゅう)の免許皆伝を受けるほどの剣豪である一方、旺盛な向学心によって蘭学にも精通していた勝海舟。どんな人物であったのか、その生涯に迫ると共に、「刀剣ワールド財団」が所蔵する勝海舟の愛刀「海舟虎徹」(かいしゅうこてつ)について詳しくふれていきます。勝海舟勝海舟が主人公の大河ドラマ「勝海舟」についてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。
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「加藤清正」(かとうきよまさ)は、勇猛果敢で戦国武将の名にふさわしい猛将というイメージですが、実は武芸だけでなく、築城や領地統治などにも手腕を発揮しました。また、一時は「石田三成」(いしだみつなり)との対立から「徳川家康」に与しましたが、亡くなる直前まで豊臣家の行く末を案じていた義に厚い武将です。
ここでは、現在も人気のある加藤清正という武将の生涯と、その名言を通して魅力に迫っていきます。
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「織田信長」や「豊臣秀吉」などの天下人に一目置かれながら、40歳の若さで生涯を閉じた「蒲生氏郷」(がもううじさと)。数々の戦場で武功を立てただけでなく、領地の経営や家臣団の統制にも長け、「世に優れたる利発人」と称された戦国武将でした。その一方で、キリシタン大名や「千利休」(せんのりきゅう)の高弟「利休七哲」(りきゅうしちてつ)のひとりとしての顔も持ち、当代きっての文化人としても知られた人物です。「六角氏」(ろっかくし)の重臣一族から「織田家」の家臣、そして、東北一の大大名へとのし上がった蒲生氏郷の生涯をたどり、その人物像に迫っていきます。
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「菊池武光」(きくちたけみつ)は、平安時代の末期から室町時代までの長きにわたって九州を制していた菊池一族の15代目当主。己の技量のみで当主になり、九州地方においては時代の変化に大きな影響を与えました。少年期に死の危機に瀕しながらも、政治力と戦略により九州制覇を成し遂げています。数々の戦いで勝利をおさめた菊池武光は、勇将としてその名をとどろかせました。菊池武光について解説します。
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「木下家定」(きのしたいえさだ)は、「豊臣秀吉」の正室で「北政所」(きたのまんどころ)の名で知られる「ねね」の兄にあたる人物です。もともと武士ではありませんでしたが、義弟である豊臣秀吉の従者となり、親族として天下人を支えました。豊臣秀吉の死後は、妹のねねの警護と世話をしながら江戸時代まで生き延び、多くの子孫を残しています。そのなかには「関ヶ原の戦い」で東軍寝返りをしたことで有名な武将「小早川秀秋」(こばやかわひであき)も。戦国の世で表舞台には立たなかったものの、裏で豊臣家やねねを支えた木下家定についてご紹介します。
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「吉川元春」(きっかわもとはる)は、戦国時代最高の智将とも言われる「毛利元就」(もうりもとなり)の次男です。吉川元春自身も戦の天才として知られており、生涯を通じて76戦無敗だったとも言われています。また、兄「毛利隆元」(もうりたかもと)、弟「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)との3兄弟は絆が強いことでも知られ、父・毛利元就がこの3兄弟を「3本の矢」に例えた話はあまりにも有名です。今回は、毛利元就の次男として兄弟と共に毛利家を支え、また戦の天才としても名高い吉川元春についてご紹介します。
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「黒田官兵衛」(別名:黒田如水・黒田孝高)は、大河ドラマ『軍師官兵衛』で天才軍師として描かれた戦国武将です。攻城戦で相手の食糧補給手段を絶つ「兵糧攻め」や備中高松城(現在の岡山県)を浮城にした「水攻め」など、戦術に長けた武将でした。それゆえ、主君からは信頼以上に恐れられることもあったとか。
また軍師とは別に、加藤清正、藤堂高虎と共に「三大築城名手」と称される築城の名手としての顔や、一夫多妻制の時代にひとりの妻のみを生涯愛した「愛妻家」の顔も持っていました。
こちらのページでは、軍師・築城の名手として活躍していた黒田官兵衛の戦歴や人物像だけでなく、黒田官兵衛が残した名言や家紋、愛用していた日本刀についてご紹介します。軍師官兵衛黒田官兵衛が主人公の大河ドラマ「軍師官兵衛」についてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。
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「黒田長政」(くろだながまさ)は、「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)という偉大な父を持ち、父と同様に武勇を轟かせた武将です。父親の黒田官兵衛は、「黒田孝高」(くろだよしたか)や「黒田如水」(くろだじょすい)という別名がありましたが、黒田長政も同様に「吉兵衛」(きちべえ)という別名がありました。
黒田長政は、戦国三英傑である「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」に仕えた人物です。幼少時には有岡城の一件で織田信長に命を奪われそうになったり、家督を継いだあとは豊臣秀吉の命のもと朝鮮出兵したり、天下分け目の「関ヶ原の戦い」では東軍の徳川家康を勝利に導いたりと波乱万丈の時代を生き抜き、ついには52万石の領土を持つ初代福岡藩主になりました。そんな「黒田長政」について、生涯や名言などをご紹介します。
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「小西行長」(こにしゆきなが)は、生まれは商人ながらも若いときから武将として活躍した人物。その才能を見込まれて、「織田信長」や「豊臣秀吉」へ仕えます。豊臣秀吉の家臣だったころは水軍を率いて活躍したことから、「海の司令官」との通り名もありました。肥後(現在の熊本県)の大名となり、長年豊臣秀吉から厚い信頼を得ていましたが、最期は関ヶ原の戦いで西軍につき処刑。キリシタン大名・小西行長の生涯に迫ります。
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戦国時代、中国地方の知将として名を馳せた「毛利元就」(もうりもとなり)の三男「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)は、父と同様に物事を熟考して決断する、知略に優れた武将でした。「豊臣秀吉」の臣下となってからは、絶対的な信頼を得て、西国制覇の急先鋒として活躍したのです。乱世の中で毛利家の屋台骨を支え続けた、小早川隆景の生涯と数々の戦歴を辿っていきます。
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「小早川秀秋」(こばやかわひであき)は、「関ヶ原の戦い」で西軍敗北の原因のひとつを作った武将です。小早川秀秋の裏切りで形勢が徳川家康が率いる東軍に傾いたことは間違いありません。しかし、小早川秀秋ほど、運命に縛られた武将はいないと言えます。そこで、小早川秀秋の生涯や人物像をご紹介します。
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「斎藤道三」(さいとうどうさん)と言えば、戦国時代に美濃国(現在の岐阜県南部)を乗っ取った、成り上がり武将として有名です。権謀術数(けんぼうじゅっすう:他人を巧みに欺く策略)に長け、親の腹を食い破って生まれるとの迷信がある「マムシ」のようだと恐れられましたが、皮肉にも息子「斎藤義龍」(さいとうよしたつ)と対立し、討死します。「下剋上大名」と呼ばれた斎藤道三は、どのような生涯を送ったのでしょうか。
国盗り物語斎藤道三が主人公の大河ドラマ「国盗り物語」についてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。
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「酒井忠次」(さかいただつぐ)は、徳川四天王のひとりに数えられる名将です。徳川家康の父親「松平広忠」(まつだいらひろただ)の時代から徳川家の家臣として仕えていた人物で、のちの「徳川家康」となる幼い頃の「竹千代」が、今川家の人質になる際にも同行しました。
徳川家康からの信頼が厚く、最後まで徳川家に仕えた忠義の人としても知られる、酒井忠次の生涯とエピソードに迫ります。
酒井忠次の武将年表戦国武将「酒井忠次」の出生から最期までを年表でご紹介します。
トップインタビューサイト「リーダーナビ」に掲載された日本美術刀剣保存協会 酒井忠久会長のインタビュー記事がご覧いただけます。
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「榊原康政」(さかきばらやすまさ)は、「徳川家康」に見出され、陪臣(ばいしん:家臣の家臣)の身分から小姓となり、「徳川四天王」のひとりと呼ばれる重臣にまでに大出世した人物です。学問と武勇に長け、徳川家康から「康」の一字を賜ったほどでした。ところが、1592年(文禄元年)から徳川家康の3男「徳川秀忠」付となり、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」に遅刻するという大失態を起こしてしまうのです。ここでは、波乱万丈な榊原康政の一生をご紹介します。
榊原康政の武将年表戦国武将「榊原康政」の出生から最期までを年表でご紹介します。
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「佐久間信盛」(さくまのぶもり)は、織田家の家中でも名門佐久間宗家の嫡男。2020年(令和2年)のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で「金子ノブアキ」さんが演じたことでも知られています。佐久間信盛は「織田信長」を幼いころからサポートし、戦いにおいても高い信頼を得ていました。しかしあることがきっかけで織田信長の怒りを買い、非業の最期を遂げます。この佐久間信盛の生涯や最期についてご紹介します。
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徳川家康に「律義者」(りちぎもの)と評された「佐竹義宣」(さたけよしのぶ)。
豊臣秀吉のもとでは、常陸国(ひたちのくに:現在の茨城県)に545,000石余を領し、「豊臣政権の六大将」と呼ばれた戦国大名です。「関ヶ原の戦い」においては、徳川家康に味方しなかったため、のちに出羽国久保田(現在の秋田県秋田市)へ国替えとなりますが、地元豪族の勢力を排除し、久保田藩(秋田藩)の礎を築きました。
佐竹義宣の人となりに焦点をあて、ゆかりの刀剣や家紋、興味深い逸話について触れながら、その生涯に迫っていきます。
黒漆塗紺糸威最上胴丸具足・佐竹家伝来 YouTube動画
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10代の頃から「織田信長」に仕え、持ち前の武勇を発揮し、頭角を現した「佐々成政」(さっさなりまさ)は、「黒母衣衆」(くろほろしゅう:織田信長の親衛隊)の筆頭として数々の戦場で戦功を挙げた人物です。特に鉄砲への造詣は深く、「織田家」の鉄砲部隊は、佐々成政によって鍛え上げられたと言っても過言ではありません。
やがて重臣「柴田勝家」の与力(よりき:侍大将や足軽大将に付属した騎馬の武士)となり、越中国(現在の富山県)の大名にまで出世を果たしますが、「本能寺の変」をきっかけに状況が暗転。「豊臣秀吉」と敵対し、やがて領地のほとんどを没収されてしまうのです。戦いに明け暮れた佐々成政の生涯について、数々の逸話や伝説と共に振り返り、剛胆かつ実直な人物像をご紹介します。
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戦国時代に活躍した真田家の武将では「真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら[さなだのぶしげ])が有名です。NHK大河ドラマ「真田丸」で取り上げられ、多くの現代人がその生きざまを知ることとなりました。ここでは、その真田幸村(真田信繁)の父親で、同じく大河ドラマにも登場した「真田昌幸」(さなだまさゆき)についてピックアップ。真田幸村(真田信繁)という有名な戦国武将を育てた真田昌幸が、どのようにして真田家を導いていったのか必見です。
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「真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した武将です。その勇敢な活躍と華々しい最期が、のちの史料において「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と評されたことから、英雄として庶民の間に浸透し、高い人気を誇っています。真田幸村(真田信繁)は、一体どのような生涯を送ったのか、出生から最期まで見ていきましょう。
真田丸真田幸村(真田信繁)が主人公の大河ドラマ「真田丸」についてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。
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「柴田勝家」(しばたかついえ)と言えば、「織田信長」の筆頭家老。戦上手で勇猛果敢、情に厚いが武骨なためか59歳まで独身でした。ところが60歳のときに、織田信長の妹「お市の方」(おいちのかた)の再婚相手に選ばれます。天下人「豊臣秀吉」の好敵手と目された男の「人生の分岐点」とは? その生涯に迫ります。
柴田勝家の武将年表戦国武将「柴田勝家」の出生から最期までを年表でご紹介します。
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「島左近/嶋左近」(しまさこん)は、「石田三成」(いしだみつなり)の右腕として活躍した武将です。「三成に過ぎたるものが2つあり 島の左近と佐和山の城」と言われるほど、優れた武将として有名でした。ここでは、島左近の生涯、家紋、名言をご紹介します。
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「島津義久」(しまづよしひさ)は、古くから薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県西部)を治めた島津氏の第16代当主として、3人の弟と共に近隣国を次々と制圧した九州最強の戦国武将です。その勢いを警戒した「豊臣秀吉」から干渉を受けたり、「関ヶ原の戦い」では「徳川家康」に敗れたりしましたが、島津義久は武力と知略で九州地方の支配権を守り抜きました。島津義久の生涯や、固い絆で結ばれた島津4兄弟のエピソード、また島津義久の名言と遺品などを紹介します。
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「島津義弘」(しまづよしひろ)は、武勇において名を轟かせた武将です。
1572年(元亀3年)の「木崎原の戦い」では、「釣り野伏せ戦法」で3,000にも及ぶ敵の大軍をわずか300の兵で打ち破り、1592年(文禄元年)の朝鮮出兵では、敵から「鬼石曼子」(グイシーマンズ)と恐れられるほど勇敢に戦いました。また、「関ヶ原の戦い」での撤退の際、正面突破を決行した戦いぶりは、のちに「島津の退き口」として語り継がれています。
そんな戦国大名として活躍していた島津義弘の戦歴や人物像だけでなく、島津義弘が残した名言や家紋、愛用していた刀について解説します。
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戦国時代後期、怒濤の勢いで九州を席巻した島津氏。その勢力拡大を牽引したのが、無類の戦上手として知られた「島津家久」(しまづいえひさ)と、その嫡男「島津豊久」(しまづとよひさ)の親子です。
島津豊久は父の死後、若くして「佐土原城」(さどわらじょう:現在の宮崎県宮崎市)の城主となり、「文禄・慶長の役」(ぶんろく・けいちょうのえき)などで奮戦。そして「関ヶ原の戦い」では、伯父である「島津義弘」(しまづよしひろ)と共に「石田三成」を中心とした「西軍」へ加勢。戦局が東軍にとって優位になると、西軍に属していた武将達が「徳川家康」率いる「東軍」に次々と寝返ります。
しかし島津豊久は、戦後の困難を乗り切るためには、島津義弘の存在が不可欠であるとして戦場からの脱出を促し、自身は敵陣突破を図ることを目的に、のちに「島津の退き口」(しまづののきぐち)と称される捨て身の作戦を敢行。これにより島津豊久は、壮絶な戦死を遂げることになりましたが、その勇名は全国にとどろき、島津氏の面目を施したのです。
ここでは、そんな島津豊久の人となりが分かる逸話や、武功を立てた歴戦の数々を辿りながら、その生涯をご紹介します。
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「豊臣秀吉」の家臣団のうち、最古参の武将として知られる「仙石秀久」(せんごくひでひさ)は、自らの腕と勇敢さを武器に、大名へと上り詰めた人物。戦場では危険を顧みず突進し、主君のためなら死も厭わない覚悟で数々の修羅場をくぐり抜け、やがて一国一城の主にまで昇進したのです。そんな波瀾万丈な仙石秀久の生涯を、数々の逸話や戦歴と共に振り返りながら、その人物像に迫っていきます。
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「高山右近」(たかやまうこん)は、人生のほぼすべてを、キリスト教に捧げた戦国武将です。「キリシタン大名」と呼ばれた人物は数多くいますが、家や領地を犠牲にしてまで信仰を貫いた大名は、高山右近ただひとり。その強烈な信仰心と影響力から、「伴天連の大旦那」(ばてれんのおおだんな)と呼ばれ、当時の日本におけるキリシタンの中で、中心的役割を担っていました。キリシタンの第一人者として、自身の勢力を拡大することよりも、信仰の道を選んだ高山右近の生涯を、逸話や戦いの数々を交えてご紹介します。
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「織田四天王」のひとりに数えられた「織田信長」の重臣、「滝川一益」(たきがわいちます/かずます)。前半生に関しては記録が乏しく、甲賀(現在の滋賀県甲賀市)の出身であることから、一説には忍者だったとも言われている人物です。調略が得意で、鉄砲の名手。水陸どちらの戦いにも高い能力を発揮した滝川一益は、織田軍が遠征したあらゆる戦地で重用され、目覚ましい活躍を見せました。ところが「本能寺の変」をきっかけに、滝川一益の立場は一変。不遇の晩年を強いられて、ひっそりと生涯を閉じることになるのです。
優れた才覚を駆使して織田信長の快進撃に貢献した、滝川一益の謎めいた生涯と人物像に迫ります。
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「武田信玄」(たけだしんげん)は、甲斐(現在の山梨県)の戦国大名です。「甲斐の虎」と呼ばれた彼の率いる武田軍は当時最強と言われ、その武勇はのちの天下人「織田信長」の耳にも届き、恐れさせるほどでした。天下を目指していた武田信玄が、上洛を前に病に倒れることがなければ、日本の歴史は変わっていたかもしれないとも評されています。
武田信玄の武将年表戦国武将「武田信玄」の出生から最期までを年表でご紹介します。
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武田勝頼(たけだかつより)は、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名で、戦国時代から安土桃山時代を駆け抜けるように生きた人物です。武田信玄を父に持ち、諏訪領主の娘・諏訪御料人を母に持つ、武田勝頼。諏訪氏と武田氏両方の名跡を継いだのち、長篠の戦いで織田軍や徳川軍と戦い、仲間に裏切られて最後を迎えました。
そんな「武田勝頼」は、織田信長より強い武将であったと言われていますが、名将、愚将どちらの説もあります。実際のところ、武田勝頼はどんな性格で、どんな人物だったのでしょうか?ここでは、歴史的資料「新府城の歴史学」や「三河物語」、「大日本古文書」をもとに武田勝頼の生涯や武将としての評価、家紋、逸話について詳しく解説します。
武田勝頼の武将年表戦国武将「武田勝頼」の出生から最期までを年表でご紹介します。
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「竹中半兵衛」(たけなかはんべえ)と言えば、主君や将軍の戦略・戦術の指揮を補佐する役割を担った戦国時代を代表する「名軍師」。最終的に「豊臣秀吉」に仕えた竹中半兵衛は、「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)と共に、豊臣秀吉が天下人になるまで支えて活躍します。竹中半兵衛の生涯、そして軍師とは何かを見ていきましょう。
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立花宗茂(たちばなむねしげ)は、九州勢の中で非常に活躍した戦国武将のひとりです。
「九州征伐」で武勲を立てた立花宗茂は、豊臣秀吉より所領を授かり大名に出世。一介の家臣だった者が大名に出世することは、当時では異例の出来事でした。その後も、朝鮮出兵に参加するなど、豊臣秀吉が亡くなるまで、活躍を見せています。
豊臣秀吉が生前、「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と評していたことから、徳川家康も立花宗茂を警戒していたようです。立花宗茂は、豊臣秀吉が亡くなったあとも、豊臣秀吉に対する恩義を重んじる人物でした。
そんな立花宗茂の生い立ちや立花宗茂が残した名言など、立花宗茂の人となりが分かるエピソードを交えてご紹介します。
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「伊達政宗」は、「独眼竜政宗」の異名で知られる出羽国(でわのくに:現在の山形県と秋田県)出身の戦国武将。17歳で奥州伊達氏の家督を継ぐと、19歳で南奥州を支配し、仙台藩初代藩主となって東北の繁栄を築きました。あと10年、20年生まれるのが早ければ天下人となっていたかもしれないと言われる伊達政宗は、謝罪と処世術の達人でした。独眼竜政宗伊達政宗が主人公の大河ドラマ「独眼竜政宗」についてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。
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「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)は、戦国時代の武将。土佐国(現在の高知県)の豪族だった長宗我部氏を戦国大名にまで成長させ、四国を制覇したことから「土佐の出来人」と呼ばれていました。
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「長宗我部盛親」(ちょうそかべもりちか)は「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)の四男。本来であれば当主になるはずではなかった人物ですが、父親である長宗我部元親の意向により跡を継ぎます。しかし「関ヶ原の戦い」に勝利することができず、長宗我部氏最後の当主となりました。歴史上の人物としては父親である長宗我部元親の方が知名度が高いのですが、長宗我部盛親も跡継ぎ問題における主要人物となり、波乱万丈の人生を送ったのです。長宗我部盛親の生涯や最期についてご紹介します。
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「藤堂高虎」(とうどうたかとら)は、戦国時代から江戸時代初期に活躍した戦国武将。藤堂高虎と言えば、「加藤清正」(かとうきよまさ)や「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)と並ぶ築城の名人であることと、主君を次々に変えたことで有名です。
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「土岐頼芸」(ときよりのり)は、美濃国(現在の岐阜県)に栄えた土岐家の次男として生まれ、実兄「土岐頼武」(ときよりたけ)との熾烈な家督争いに打ち勝ち、美濃国守護(しゅご:鎌倉・室町幕府が置いた地方官)に上り詰めた戦国武将です。しかし、時は下剋上の時代。自身が守護代に任命した「斎藤道三」(さいとうどうさん)に裏切られ、美濃国を追われることとなります。土岐頼芸は、天下人「織田信長」の父で、「尾張の虎」と称された「織田信秀」(おだのぶひで)を頼り、斎藤道三と和睦しますが、最終的には11代続いた美濃国守護の地位を手放し、流浪の人生へと転落。81歳にして美濃国へ戻りますが、直後にその生涯を終えた人物です。激動の戦国時代を生きた土岐頼芸についてご紹介します。
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偉大な天下人「徳川家康」の実父である「松平広忠」(まつだいらひろただ)が、どのような戦国武将であったかご存知でしょうか。戦国時代に西三河の岡崎城(愛知県岡崎市)を拠点に勢力を伸ばし、東の今川氏・西の織田氏からの侵攻を受けるなかで領土を守るため奮闘していた武将です。徳川家康と言えば、幼少期から父母と離れ離れで生活していましたが、なぜ松平広忠は正室の「於大の方」(おだいのかた)と離縁し、6歳の徳川家康を人質に差し出すという選択をしたのでしょうか。戦乱の世に生き残るため家族と離れ、若くして命を落としてしまった松平広忠について見ていきます。
これまで放送された大河ドラマ、及び今後放送予定の大河ドラマを一覧で見ることができます。
どうする家康は徳川家康の人生を描いたNHK大河ドラマ。キャストや登場する歴史人物、合戦などをご紹介します。
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戦国乱世に終止符を打ち、江戸幕府を開いた「徳川家康」。天下人として名高い家康ですが、幼い頃は「織田家」と「今川家」の人質として扱われ、家臣共々不遇な生活を送っていました。しかし、そののちは三河平定、そして天下分け目の「関ヶ原の戦い」を経て征夷大将軍となったのです。その生涯と共に、「徳川紋」と言われる徳川家の家紋、そして徳川家康が残した名言をご紹介します。
徳川家康の武将年表戦国武将「徳川家康」の出生から最期までを年表でご紹介します。
徳川家康の源流「松平家」について、歴史や関連人物を詳しくご紹介します。
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江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)と言えば、「関ヶ原の戦い」に遅参したことで有名な人物。初代将軍「徳川家康」、3代将軍「徳川家光」に比べると地味なイメージがあるでしょうが、徳川秀忠は決して凡庸な人物ではありませんでした。今回は、知られざる徳川秀忠の生涯や、後世に繫がる幕府の支配体制を確立させた徳川秀忠の大きな功績についてご紹介していきます。
徳川秀忠の武将年表戦国武将「徳川秀忠」の出生から最期までを年表でご紹介します。
葵 徳川三代徳川秀忠が主人公の大河ドラマ「葵 徳川三代」ついてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。
江戸時代を語る上で欠かせない徳川十五代将軍の姿を紐解きます。
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「松平信康」(まつだいらのぶやす)は、江戸幕府初代将軍「徳川家康」の長男で、第2代将軍「徳川秀忠」の異母兄にあたる人物です。徳川家康が今川氏の人質であった時代に誕生し、正室との間に生まれた跡継ぎでした。後継者として期待されていた松平信康ですが、謀叛(むほん)の疑いを掛けられたことで母とともに非業の死を遂げることに。勇将でありながら若くして亡くなった松平信康の生涯を振り返りながら、徳川家康にとって悲劇的な事件となった松平信康の死因について解説します。
これまで放送された大河ドラマ、及び今後放送予定の大河ドラマを一覧で見ることができます。
どうする家康は徳川家康の人生を描いたNHK大河ドラマ。キャストや登場する歴史人物、合戦などをご紹介します。
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江戸幕府3代将軍「徳川家光」と言えば、祖父である初代将軍「徳川家康」を崇拝し、江戸幕府の体制や将軍家の基盤を固めた人物。そんな徳川家光には「松平忠長」(まつだいらただなが)と言う弟がいます。徳川家光にとって、唯一の兄弟であった松平忠長ですが、徳川将軍家を悩ませる存在でもありました。一時は将軍後継として期待されるも、改易処分を下されてしまった松平忠長とは一体どのような人物だったのでしょうか。将軍の弟でありながら問題行動を連発した松平忠長の人生を見ていきます。
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「豊臣秀吉」は、「織田信長」や「徳川家康」と並び戦国三英傑の1人に数えられている戦国武将です。豊臣秀吉は農民の出身でしたが、数々の武功を挙げた上に本能寺で織田信長を暗殺した「明智光秀」を討ち取ります。その後、清洲会議で対立した「柴田勝家」に勝利すると、「毛利輝元」(もうりてるもと)や「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)らを取り込み勢力をさらに拡大し、ついには天下人・関白まで上り詰めました。「墨俣一夜城」(すのまたいちやじょう)や「金ヶ崎の退き口」(かねがさきののきくち)など様々な逸話を残した豊臣秀吉の生涯をご紹介します。
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安土桃山時代から江戸時代前期を生きた戦国武将「豊臣秀頼」(とよとみひでより)。大河ドラマでも、どの俳優が豊臣秀頼を演じるか注目を集める人物です。
豊臣秀頼の父は、天下人「豊臣秀吉」。母は織田信長の姪にあたる「淀殿」 (よどどの) 、「茶々」(ちゃちゃ)です。「豊臣秀次」の自刃により、豊臣秀吉の後継者となりましたが、4歳のときに父・豊臣秀吉が病没。そのため、「五大老」や「五奉行」の権力闘争に翻弄される数奇な運命を辿りました。
サラブレッドでカリスマ性もあったという豊臣秀頼の、幼名「拾丸」の頃から、大坂夏の陣で徳川家康に追い詰められて滅亡する最後まで、波乱に満ちた人生をご紹介します。また、豊臣秀頼の刀についてもぜひご覧下さい。
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豊臣秀吉の死後、豊臣家は晩年に生まれた実子の「豊臣秀頼」(とよとみひでより)が当主となっていましたが、もともとは、別の人物が後継者候補となっていたことをご存知でしょうか。実子に恵まれなかった豊臣秀吉には7人の養子がおり、そのなかで「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)という人物が2代目関白となり、豊臣家を相続していました。しかし、実子の豊臣秀頼が生まれたことで、豊臣家を継いだ豊臣秀次の運命は大きく変わってしまうのです。今回は、豊臣政権崩壊のきっかけとなった「秀次事件」でも知られる豊臣秀次について紹介します。
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農民から天下人へと昇りつめた「豊臣秀吉」には、陰で出世を支えた「豊臣秀長」(とよとみひでなが)という右腕的存在がいました。豊臣秀長は豊臣秀吉の3歳下の弟で、政務や軍事面で兄を補佐し、豊臣家の天下統一に大きく貢献した人物です。天下を目指して武力でひたすら突き進む兄の傍で、豊臣秀長は領地を守り、諸大名との間合いを取り持つなど、細やかで献身的なサポートに徹しました。豊臣秀吉にとって必要不可欠な存在だった豊臣秀長の人生を振り返り、天下人を支えた弟がどのような武将だったのか見ていきます。
天下統一という偉業を成し遂げた豊臣兄弟の奇跡を豊臣秀長の目線で描いたNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」についてご紹介します。
これまで放送された大河ドラマ、及び今後放送予定の大河ドラマを一覧で見ることができます。
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兜に「愛」の文字を掲げた武将「直江兼続」(なおえかねつぐ)は、幼少の頃から仕えた「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)と共に、上杉家を導いていきます。その能力の高さは、「豊臣秀吉」から米沢30万石を与えられたほど。ここでは、「義」(ぎ:公共のために尽くすこと)に生きた直江兼続の生涯や、彼にまつわる名言をご紹介します。天地人直江兼続が主人公の大河ドラマ「天地人」についてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。
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戦国時代に活躍した「長束正家」(なつかまさいえ)は、「豊臣秀吉」に重用された五奉行のひとりです。同時期に活躍した武将達が、武力、知略、統率力など、合戦で活かす能力を武器にして生きた中で、長束正家は「算術」の能力を武器にして立身出世を果たした武将でした。官僚タイプの長束正家は、戦国の風雲急を告げる時代にあって、合戦の能力に頼らなかった一風変わった武将なのかもしれません。
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鎌倉幕府の「御家人」(ごけにん)として、同幕府初代将軍「源頼朝」に仕えていた「那須与一」(なすのよいち)。いわゆる「源平合戦」における一連の戦いのひとつである「屋島の戦い」(やしまのたたかい)にて、「扇の的」に矢を見事命中させたほどの「弓の名手」として知られています。しかし、その逸話と那須与一の名前は、軍記物の「平家物語」などに登場するのみであるため、それらの真偽のほどは謎に包まれた部分が多いのです。平家物語や「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)などに伝わるところから、那須与一の生涯について紐解きつつ、人物像にも迫っていきます。
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青年期から「織田家」に仕え、宿老「柴田勝家」(しばたかついえ)と並ぶ双璧として、「織田信長」の天下統一事業を支えた「丹羽長秀」(にわながひで)。戦いでは勇猛果敢な活躍を見せる一方、造船や築城などの行政面にも優れた手腕を発揮し、文武両道を実践して、主君の厚い信頼を獲得しました。また、血気盛んな武将が揃う織田家の家臣団の中にあって、温厚な性格だったことでも有名です。
今回は、派手な武勲こそ少ないものの、誠実な人柄と多彩な才覚で天下人の腹心となった丹羽長秀の生涯と、その人物像についてご紹介します。
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「服部半蔵」(はっとりはんぞう)とは何者か?と問われたとき、皆さんはどのように答えるでしょうか。多くの人は「忍者」と答えるかもしれませんが、それは半分正解で半分不正解。服部半蔵とは、服部家の当主が代々世襲する名前なのです。
初代は忍者だった服部半蔵ですが、世襲し徳川家に仕えた武士でもあります。忍者として実在したとされる服部半蔵や伊賀流の同心達にストライキを起こされたとされる服部半蔵など、有名な服部半蔵は数多くいますが、そんな歴代の服部半蔵の中でも大きな功績を残しているのが、2代目「服部正成」(はっとりまさしげ)です。
こちらのページでは、徳川家に仕え、武士としても活躍していた2代目服部半蔵の戦歴や人物像だけでなく、服部半蔵が残した名言や家紋、愛用していた刀についてご紹介します。
服部半蔵の武将年表戦国武将「服部半蔵」の出生から最期までを年表でご紹介します。
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「福島正則」(ふくしままさのり)と言えば、豊臣秀吉の家臣で勇猛果敢な「武断派」の武将。賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)・小田原の役・朝鮮出兵・関ヶ原の戦いで武功を挙げ、51万石の大名に。「武勇に長けるが、大酒吞みで智謀に乏しい猪武者」とも呼ばれる、福島正則の生涯に迫ります。
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伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)の「北条氏」一門に属した「北条義時」(ほうじょうよしとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武士です。「鎌倉幕府」の初代執権「北条時政」(ほうじょうときまさ)の次男であり、「北条政子」(ほうじょうまさこ)の弟でもあった北条義時は、父の跡を継いで「北条得宗家」2代当主の座に就きました。そのあと、鎌倉幕府を開いた「源頼朝」(みなもとのよりとも)直系の「源氏将軍」が3代で断絶すると、北条義時は幕府の実質的な指導者となり、「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が討幕を企てて挙兵した「承久の乱」を鎮圧して、後鳥羽上皇を流刑に処したのです。この北条義時の生涯を辿りつつ、北条氏による執権政治を完成させた経緯についてもご説明します。
これまで放送された大河ドラマ、及び今後放送予定の大河ドラマを一覧で見ることができます。
源頼朝の死後、源頼家の独裁を抑えるために作られた「13人の合議制」のメンバーについてご紹介します。
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「北条早雲」(ほうじょうそううん)は、戦国時代に相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)を統一した人物。小田原城の城主で、鎌倉幕府の執権・北条氏とは全く関係はありません。鎌倉時代に活躍した北条氏と分けるため、「後北条氏」や「小田原北条氏」と呼ばれます。なかでも北条早雲は、「戦国時代は北条早雲の下剋上から始まった」と言われるほどの戦国武将です。一介の浪人から戦国大名へと成り上がったと描かれることも多い、北条早雲の生涯を見てみましょう。
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「北条氏政」(ほうじょううじまさ)は、相模国小田原(現在の神奈川県小田原市)を本拠として発展した戦国大名、「後北条氏」(ごほうじょうし)の4代当主です。同氏の勢力を拡大させることに尽力した北条氏政は、関東地方において、歴代当主の中で最も大きい版図を築き上げました。しかし、「豊臣秀吉」の「小田原の役」(おだわらのえき:別称[小田原征伐])により、北条氏政の代で後北条氏を滅亡させてしまうことに。そのため「愚将」と揶揄される一方で、領民に対して善政を敷いていたことから、「名君」とも評されています。北条氏政が本当はどんな人物であったのかが分かる逸話を交えつつ、その生涯についてご説明します。
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若くして「織田信長」に仕え、数々の武功で名を上げた「細川忠興」(ほそかわただおき)は、「豊臣秀吉」や「徳川家康」などの天下人にも重用された人物でした。
「本能寺の変」では、妻が「明智光秀」の娘である「明智玉子」(あけちたまこ:のちの細川ガラシャ)だったことで、明智光秀との内通を疑われる可能性もありましたが、主君・織田信長への追悼の意を表すなど、巧みな処世術によって見事切り抜け、やがて39万9,000石の大大名へと出世します。一方で、茶の湯に精通する文化人でもあり、「千利休」の高弟「利休七哲」(りきゅうしちてつ)にも数えられる茶人武将でもありました。
ここでは、細川忠興が参加した合戦の数々や語り継がれている逸話、そしてゆかりの刀剣などをふまえつつ、その生涯に迫っていきます。
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「本多忠勝」(ほんだただかつ)は、生涯をかけて「徳川家康」に奉公し徳川幕府250年の天下の基礎を築いた戦国武将です。
「徳川四天王」「徳川三傑」「徳川十六神将」のひとりであり、徳川家臣最強の武将であったと語り継がれています。「日本三名槍」のひとつである「蜻蛉切」(とんぼきり)を愛刀としていた武将も本多忠勝です。
単騎で朝倉軍に正面から突入した「姉川の戦い」や武田軍から徳川家を守った「一言坂の戦い」などで武功を上げた本多忠勝の強さはまさに別格。生涯で57回もの戦闘に参加したにもかかわらず、傷ひとつ負わなかったという逸話があります。
こちらのページでは、戦国大名としても活躍していた本多忠勝の戦歴や人物像だけではなく、本多忠勝が残した名言や家紋、愛用していた槍「蜻蛉切」についてご紹介します。
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「本多忠政」(ほんだただまさ)は、三河国(現在の愛知県東部)の譜代大名「本多忠勝」(ほんだただかつ)の嫡男です。戦上手の偉大な父・本多忠勝の影に隠れがちですが、才智に優れて勇猛で、江戸幕府第2代将軍「徳川秀忠」からの信頼も厚かった人物。桑名藩(現在の三重県)10万石、姫路藩(現在の兵庫県)15万石の藩主を務め、後世に評価される良政を行いました。本多忠政の生涯や愛刀など、本多忠政の歴史について詳しくご紹介します。
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「前田慶次」(別名:前田慶次郎・前田利益)は「関ヶ原の戦い」のあと、「私の主は上杉景勝ただひとりだ」と言い放ったほど、主君に対して最後まで律儀であった戦国武将です。
小説や漫画にも取り上げられる「前田慶次」とは、どのような人物だったのでしょうか。
前田利家の弟の息子と言われる「前田慶次」ですが、彼の詳しい出生や功績を示す資料は少なく、「慶次」という名も、実は本名ではありません。
今なお謎が多い「前田慶次」ですが、前田利家を騙して水風呂へ入れた隙に、前田家を出奔したり、愛馬である「松風」を贅沢に装飾したりするなど、破天荒な逸話が多数あります。
ここでは様々な逸話から「傾奇者」(かぶきもの)と称されてきた、「前田慶次」にまつわる名言や逸話、家紋などをまとめました。
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戦国時代の英傑である「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」の3人すべてに仕えた武将は多くありません。しかし、3人に器量を認められ、重用された人物のひとりに「前田玄以」(まえだげんい)がいます。英傑らは、それぞれまったく異なる性格ですが、共通して人物の器量を見抜く眼力は、優れていたに違いありません。そんな前田玄以は、豊臣秀吉に仕えた五奉行として、「石田三成」らと共に名を連ねていたことが有名です。
ここでは、朝廷にも人脈を形成し、外交や内政で活躍した前田玄以についてご紹介します。
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「加賀百万石」の初代の大名として北陸を治めた「前田利家」(まえだとしいえ)。「そろばん好きの堅実な大名」、「愛妻家の武将」として有名ですが、大名としての成功を果たすまでには、どんな決断と苦悩があったのでしょうか。
ここでは、前田利家の生い立ちから、「織田信長」、「豊臣秀吉」との関係、そして加賀百万石に至るまでの功績について詳しく解説していきます。
前田利家の武将年表戦国武将「前田利家」の出生から最期までを年表でご紹介します。
利家とまつ前田利家が主人公の大河ドラマ「利家とまつ~加賀百万石物語~」についてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。
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「前田利常」(まえだとしつね)は、圧倒的な知名度を誇る戦国武将「前田利家」の四男で、加賀百万石の地盤を固めた名君です。「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほど加賀藩第2代藩主として善政を敷き、「徳川家康」からの勢力を警戒しながらも加賀藩を大きく繁栄させました。江戸幕府第2代将軍「徳川秀忠」の娘を娶り、松平姓も与えられていた前田利常ですが、わざと鼻毛を伸ばして「うつけ」を演じるなど、奇異な行動歴を多く持つ人物でもあります。前田利常の生涯を振り返るとともに、妻の死に直面した際の前田利常の恐ろしい行動をご紹介します。
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「豊臣秀吉」が死の直前、嫡男である「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を託した五奉行と言えば、内政や外交で能力を発揮する文官のイメージが強いと思います。「増田長盛」(ましたながもり)についても、甲冑を身に付けて戦場を駆け回る軍務を担当するのではなく、政務に突出している人物です。
ここでは、「石田三成」と並ぶ存在だった、五奉行のひとりである増田長盛をご紹介します。
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一時は畿内のほぼ全域を掌握し、「三好政権」と呼ばれる独裁政権を樹立した「三好長慶」(みよしながよし)は、下克上の代名詞とも言える戦国武将です。若くして頭角を現し、室町幕府の管領(かんれい:将軍を補佐して政治を統括していた役職)を務めていた「細川晴元」(ほそかわはるもと)のもとで勢力を拡大。やがて主家をしのぐ力を付けて反旗を翻すと、近隣諸国を次々と支配していきます。しかし晩年は、家中の権力争いや敵対勢力の反発により優秀な弟達や嫡男を失い、徐々に衰退。三好長慶も失意の中、病没してしまうのです。そんな三好長慶の栄枯盛衰をたどりながら、その人物像を掘り下げていきます。
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うつけ、婆娑羅(ばさら)、傾き者(かぶきもの)。戦国の世には、個性豊かな武将や大名が数多く登場します。「織田信長」しかり、「佐々木道誉」(ささきどうよ)しかり、「前田慶次」(まえだけいじ)しかり。魅力的な武将をたくさん挙げることはできますが、「水野勝成」(みずのかつなり)ほど「型破り」の言葉が似合う人物はなかなかいません。
藩主の息子に生まれながら、腕一本を頼りに諸国を放浪し戦いに明け暮れ、「徳川家康」の側近となっても、なお先頭で戦い続けた武将です。そのどこを切ってもエネルギーに満ちあふれた水野勝成の生涯を追い、数多く残る逸話から、戦国自由人・水野勝成の魅力を探っていきます。
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「毛利元就」(もうりもとなり)は、安芸国(あきのくに:現在の広島県西部)の国人領主から、中国地方全域を統一した戦国時代の豪傑。幼少期に両親を失い、19歳で兄を失い、さらに甥までをも亡くしたことで、次男にして毛利家の家督を相続します。権謀術に長け、稀代の策略家としても有名な武将です。一代で中国地方統一を成し遂げた、毛利元就の生涯を見ていきましょう。
毛利元就の武将年表戦国武将「毛利元就」の出生から最期までを年表でご紹介します。毛利元就毛利元就が主人公の大河ドラマ「毛利元就」についてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。
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「毛利輝元」(もうりてるもと)は、偉大な祖父「毛利元就」(もうりもとなり)を持つ名門武将です。「織田信長」とは敵対したものの、「本能寺の変」後は「豊臣秀吉」と和解し、「豊臣五大老」のひとりとして大活躍しました。
しかし、豊臣秀吉が亡くなったことで、運命の歯車が狂い始めるのです。「関ヶ原の戦い」で西軍の総大将に担がれた、名門・毛利家に育った毛利輝元の一生についてご紹介します。
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「最上義光」(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県・秋田県)の小さな勢力であった「最上家」を、東北有数の大大名へと押し上げた武将です。父や弟との骨肉の争いに始まり、調略を駆使して領土を拡大しましたが、一方で合戦の際には、勇猛果敢な戦いぶりを見せ、「虎将」とも称されました。そんな最上義光の戦いの軌跡や、逸話から見える人物像に注目。ほぼ一代で、東北の大大名へとのし上がった、その生涯に迫っていきます。
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「森長可」(もりながよし)は、幼くして戦で命を落とした父に代わり、わずか13歳で家督を継ぎ「織田信長」に仕えた武将です。槍術に優れ、武勇にも秀でていたことから「鬼武蔵」と称されていました。織田信長のもとで、「甲州征伐」や「越後侵攻」など数々の戦で華々しい功績を挙げましたが、わずか27歳で生涯を終わらせます。今回は、森長可の歴史や親族、逸話について見ていきましょう。
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「森蘭丸」(もりらんまる)は、「織田信長」の側近として最期まで献身的に仕えた小姓(こしょう:武将などに仕えた世話役)です。ゲームや時代劇、映画には、「美少年」として描かれている有名な人物。織田信長のお気に入りとして多くの逸話が残されている森蘭丸の生涯を、逸話・名言・家紋と共にご紹介します。
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「山内一豊」(やまうちかずとよ)と言えば、「司馬遼太郎」(しばりょうたろう)の名著「功名が辻」(こうみょうがつじ)の主人公としても知られる戦国武将です。妻の「千代」(ちよ)による内助の功などにより大出世を果たし、やがて土佐国(現在の高知県)202,600石の大名へと出世を遂げました。伝記によれば、山内一豊は口数の少ない穏和な性格で、華々しい武勲もそれほど多くなかった戦国武将でしたが、その反面、「織田信長」や「豊臣秀吉」、「徳川家康」という天下人達から厚い信頼を得ていたのです。
そんな山内一豊の生涯を追いながら、妻と共に果たした立身出世の道のりを辿っていきます。功名が辻山内一豊が主人公の大河ドラマ「功名が辻」についてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。
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戦国時代に活躍した「山中鹿之助」(やまなかしかのすけ)とは、「山中幸盛」(やまなかゆきもり)の通称です。尼子家(あまごけ:山陰地方で活躍した戦国大名)再興のために尽力し、「毛利元就」(もうりもとなり)の山陰地方侵略に対して、勇猛に対抗しました。しかしその願いがかなわぬまま、悲劇の最期を遂げてしまったのです。忠誠心が強い山中鹿之助の生涯は、江戸時代から明治時代にかけて、講釈場(こうしゃくば:講談や軍談の解釈をする寄席)で人気を博していました。山中鹿之助の生涯や逸話などについてご紹介します。
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「山本勘助」(やまもとかんすけ)は戦国時代の武将で、「武田信玄」の伝説的軍師として広く知られています。「架空の人物」説が長く定説とされており、実在が確認されてもなお、その実像はいまだ謎に包まれた存在です。風林火山山本勘助が主人公の大河ドラマ「風林火山」についてあらすじやキャスト、ゆかりの地などをご紹介。
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「結城秀康」(ゆうきひでやす)は「徳川家康」の子でありながら、数奇な運命を背負った戦国武将です。元服前には「豊臣秀吉」の養子に出されただけでなく、豊臣秀吉が甥の「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)を後継者に定めると、下総国(しもうさのくに:現在の千葉県北部、茨城県南西部)の「結城晴朝」(ゆうきはるとも)の養子となり、豊臣家の中枢から遠ざけられました。天下人の家に生まれながら不遇な目に遭い、それでも道を切り開いた結城秀康にまつわる数々の逸話をご紹介すると共に、その生涯を辿っていきます。
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