戦国武将一覧
竹中半兵衛
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竹中半兵衛

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「竹中半兵衛」(たけなかはんべえ)と言えば、戦国時代を代表する「名軍師」。「軍師」とは、君主や将軍の戦略・戦術の指揮を補佐する役割を担う人のこと。黒田官兵衛とともに、豊臣秀吉が天下人になるまでサポートし、活躍します。竹中半兵衛の生涯、そして軍師とは何かを見ていきましょう。

実は美男子!文武両道!

竹中半兵衛

竹中半兵衛

竹中半兵衛は、1544年(天文13年)の美濃国(現在の岐阜県)に、国主・斎藤道三(さいとうどうさん)の家臣・竹中重元の子として生まれます。

「その容貌、婦人の如し」と資料に残る程、線が細い美男子で、大人しい性格に思われていましたが、武術に優れ、特に剣術は皆伝の腕前。

また、中国の張良(漢王朝を興した高祖劉邦の軍師)や諸葛孔明(しょかつこうめい:三国時代の蜀国の軍師)などの兵法書を読破するなど、学問にも長けていました。

1560年(永禄3年)、半兵衛が17歳のときに父・重元が死去。家督を継いで岩手城城主となり、斎藤道三の孫の龍興(たつおき)に仕えるようになるのです。

竹中半兵衛の戦法とは?

半兵衛が仕え始めたとき、斉藤龍興もまた父・義龍(よしたつ)を亡くし14歳で家督を継いだばかりでした。美濃国は、義龍の時代から隣の尾張国(現在の愛知県)の織田信長に領地を狙われていました。若い龍興が城主ならば落城はたやすいと、すぐに信長の侵攻を受けることに。そこで半兵衛は、まず織田信長を追い払う戦法を練るのです。

それは、「十面埋伏陣」(じゅうめんまいふくのじん)という独特の戦法。これは、敵の伏兵を全員一端通り過ぎさせ、背を向けたところを全方位から攻めるという方法でした。これが功を奏して、龍興が勝利。危機を免れます。しかし龍興はこの勝利に驕(おご)り、酒色におぼれ暴政を行なうようになったのです。そこで半兵衛は龍興を稲葉山城(のちの岐阜城)から追い出し、城を乗っ取るという手段に出ます。これを聞いた信長は半兵衛に一目置き、稲葉山城を譲渡するよう交渉しますが、半兵衛は拒否。半年立て籠もったあとで、「これは龍興様をいさめるためだった」と城を返して、浪人となるのです。

浪人から秀吉の軍師に

龍興の戻った稲葉山城ですが、結局信長が攻め落とします。信長は、浪人になった半兵衛をぜひ家来にしたいと思うように。

そこで、豊臣秀吉に勧誘を命令。秀吉は学問に長けていた半兵衛に、三国志に出てくる「三顧の礼」(さんこのれい:目上の人が格下の者の許に三度出向いてお願いをすること)と称して、三度も出向きます。半兵衛はこれに感激。信長のことは嫌いだったので信長に直接仕えることは拒絶しますが、秀吉の天性の才能を見抜き、秀吉の与力(よりき)になることを了承するのです。

そして秀吉の与力になった半兵衛は、軍師としてその力を次々と発揮します。1570年(永禄13年)の「姉川の戦い」では、得意の誘降(ゆうこう:説得により降伏をうながすこと)で敵を寝返らせる戦法を採り成功。1575年(天正3年)の「長篠の戦い」では、敵の戦略を見抜き制圧。1578年(天正6年)の「中国攻め」では、「三木城兵糧攻め」を考案し、無血開城を行なうのです。

誰よりも軍師に憧れ、実現した人

黒田官兵衛

黒田官兵衛

「戦国乱世を終わらせるために、戦う。」半兵衛は、信長・秀吉に言われたその言葉を信じ、軍師として忠実に、真っ直ぐに生きた男だったと言えます。1579年(天正7年)の中国攻め攻略中に肺炎の病に倒れ、6月13日、35歳の若さでこの世を去ります。半兵衛は「武士ならば戦場で死にたい」と最期まで軍師としての仕事を全うするのです。

また、朋友・黒田官兵衛を最期まで信じたエピソードも外せません。

1578年(天正6年)、官兵衛は毛利側に寝返った荒木村重を説得するため、単身で有岡城へと向かいますが、幽閉されてしまいます。連絡が取れなくなった官兵衛を裏切り者と見なした信長は、秀吉に「松寿丸(官兵衛の息子)を殺せ」と命じますが、半兵衛は信長に背き松寿丸をかくまうのです。この時代、ボスである信長に背くことはありえません。そんなことが知れたら、自分だけではなく、家族や家臣まで皆殺しになってしまいかねません。

半兵衛死後の1579年(天正7年)10月、有岡城が開城。官兵衛が救出され、裏切っていなかったことが分かります。信長も秀吉も松寿丸を殺したことを悔やみますが、半兵衛のおかげで生きていたことを知り、胸をなでおろすのです。

命を賭けて、同志・黒田官兵衛を信じぬく強さ。君主の過ちをも救う聡明さ。竹中半兵衛は、憧れの軍師・張良、孔明にも劣らない、まさに「軍師の中の軍師」なのです。

竹中半兵衛

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