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明智光秀

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「明智光秀」は、三英傑のひとり「織田信長」から絶大な信頼を得て、低い身分から一国一城の主へと出世した戦国武将。織田信長に忠誠を誓っていたはずの明智光秀は、「本能寺の変」で織田信長を自害に追い込み、わずか10日余りの天下を取りました。忠義に厚い有力武将である一方で、謀反により天下人を葬った明智光秀の生涯は、謎に包まれています。

明智光秀ゆかりの地と共に、明智光秀の誕生から最後までを年表にしてまとめました。

出生から朝倉家家臣になるまで

明智光秀はどこの国で生まれた?

明智光秀

明智光秀

明智光秀の出自は、美濃国土岐(現在の岐阜県南部)の庶流であったと考えられますが、明智光秀が生まれた時点では文献に登場するほどの家柄ではなかったためか、明確になっていないのが現状です。

「明智光秀」という人物が歴史上に登場するのも、朝倉氏に仕えた時点からであり、朝倉氏に仕える以前のことに関して、決定打となる史料はありません。

通説では、明智光秀は1528年(享禄元年)に出生しており、父は「斎藤道三」に仕えていた美濃土岐・明智城主「明智光綱」(あけちみつつな)。母は若狭国守護「武田義統」(たけだよしむね)の妹「お牧の方」であると言われています。

明智家と斎藤家の関わりを示す史料「明智氏一族宮城家相伝系図書」では、明智光秀の叔母にあたる女性が斎藤道三に嫁いだという記述がありますが、本書がどこまで事実に即した物かは分かっていません。

ただ、この家系図に従うのであれば、明智光秀の叔母と斎藤道三との間に生まれた娘は「濃姫」(のうひめ:織田信長の正室)であり、明智光秀と濃姫はいとこ同士であった可能性があるのです。

明智光綱は、明智光秀が幼いころに没しており、代わりに伯父の「明智光安」(あけちみつやす)が明智家の家督を継ぎました。しかし、斎藤道三と「斎藤義龍」(さいとうよしたつ:斎藤道三の長男)の内紛により明智光安は命を落とし、1556年(弘治2年)に明智城は陥落。三十路手前の明智光秀は国を追われ、流浪の身となってしまうのです。

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国を失い諸国を流浪。越前国・朝倉義景へ仕官!

朝倉義景

朝倉義景

明智光秀は、明智城が落城してから越前国(現在の福井県嶺北地方)「朝倉義景」(あさくらよしかげ)に仕えることになりますが、落城後すぐに仕官した訳ではありません。

約2年の空白期間を経て朝倉氏のもとへ渡っており、この空白期間については諸説ありますが、流浪の身として諸国を放浪し、鉄砲の使い方や戦術など、戦国の世において必要とされる素養を身に付け、室町幕府将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)に仕官したという説が有力と言われています。明智氏は土岐氏一族の出自であり、さらに一族からは幕府の奉公衆となっている者も多くいたことが、この説の理由です。

明智光秀は、一族の伝手(つて)を頼って足利義輝に仕官します。しかし、間もなくして足利義輝は「三好長慶」(みよしながよし:室町時代の武家政権[細川政権]を終わらせて[三好政権]を樹立した戦国武将)の重臣「三好長逸」(みよしながやす)、「三好宗渭」(みよしそうい)、「岩成友通」(いわなりともみち)から成る「三好三人衆」と、「三好義継」(みよしよしつぐ:三好長慶の甥)により自害に追い込まれました。

この事件は「永禄の政変」と呼ばれています。三好三人衆は、幕府の首長として将軍家を掌握しようとしており、一方で足利義輝は、将軍家による直接統治にこだわっていたため、三好義継らにとって足利義輝は邪魔な存在だったのです。なお、足利義輝の最期に関しては討ち取られたという説もあります。

主君がいなくなった明智光秀は再び浪人となりますが、美濃国は依然として斎藤家が治める地であったことから帰ることができず、岐阜に近い越前に行き着いたと考えられるのです。そして、越前を治めていた朝倉義景に能力を認められたことから、朝倉義景に仕官するようになりました。

明智光秀、将軍・足利義昭の側近として幕府再興に奔走!

室町幕府復興を画策。足利義昭の側近に

足利義昭

足利義昭

放浪の身から脱することができた明智光秀は、「足利義昭」(あしかがよしあき)の上洛に向けて奔走することになります。

足利義輝が自害に追い込まれたのち、奈良に出家していた足利義輝の弟・足利義昭は「自分こそが将軍にふさわしい」と考え、近江に逃れて仏門から還俗(げんぞく:僧が俗人に戻ること)し、上洛にあたって後ろ盾を得ようと周辺の有力武将を頼ることにしたのです。

そして、足利義昭は越前の朝倉義景へ接近。足利義昭の側近には「細川藤孝」(ほそかわふじたか)がおり、明智光秀は細川藤孝と共に足利義昭の近習として室町幕府再興を目指すことになります。

足利義昭が頼った諸大名の中には、当時急速に力を付けてきた織田信長と、織田信長の妹「お市の方」の婿「浅井長政」(あざいながまさ)がいました。なお、足利義昭に命じられて織田信長へ協力を要請しに行ったのが明智光秀であり、このとき明智光秀は初めて織田信長と接触し、朝倉義景の家臣でありながら織田信長の家臣も兼任するようになったと考えられています。

1568年(永禄11年)、足利義昭は、織田信長や浅井長政に擁されながら無事に上洛を果たしました。しかし、翌年の1569年(永禄12年)に義兄・足利義輝を自害に追い込んだ三好三人衆に襲われます。

この事件は京都「本圀寺」(ほんこくじ)で襲撃されたため「本圀寺の変」(ほんこくじのへん)と呼ばれており、窮地に陥った足利義昭の危機を救ったのが明智光秀でした。明智光秀は、細川藤孝や織田信長の家臣「池田勝正」(いけだかつまさ)達と協力して三好三人衆を退き、その後京都奉行の職務を任されることになります。

織田信長のもとで大出世!一国一城の主へ

金ヶ崎退き口での奮闘

浅井長政

浅井長政

1570年(元亀元年)、織田信長が越後の朝倉氏へ侵攻した折、同盟を組んでいた浅井長政が謀反を起こしました。前には朝倉軍、後ろからは浅井軍が迫る挟撃の形となり、織田軍は撤退を余儀なくされます。

このとき明知光秀は「木下藤吉郎秀吉」(きのしたとうきちろうひでよし:のちの[豊臣秀吉])と共に、越後国敦賀郡金ヶ崎において殿(しんがり:部隊の最後尾で敵の追撃を阻むこと)を務めました。

「金ヶ崎の退き口」(かねがさきののきくち)と呼ばれるこの撤退戦で、明智光秀は朝倉軍による追撃を食い止め、織田軍の被害を最小限に抑えることに成功。この働きを織田信長から評価されて、宇佐山城(滋賀県大津市にあった城)を任されることになりました。

その後、明智光秀は比叡山延暦寺焼き討ちで実行部隊の中心として活躍。功績を認められたことから、近江国滋賀郡約50,000石を与えられて坂本城を築城し、この時点で正式に織田信長の家臣になったと言われています。

明智光秀は「長篠の戦い」、「天王寺の戦い」、「有岡の戦い」など数々の戦に参戦。出自も定かではないほどの低い身分であったと見られる明智光秀は、こうして織田信長の重臣として戦国の世に名を馳せていったのです。

明智光秀最大の謎・本能寺の変

なぜ明智光秀は謀反を起こした?

織田信長

織田信長

織田信長から重用され、明智光秀自身も織田信長に忠誠を誓っていたにもかかわらず、謀反を起こした理由とは果たして何か。

戦国時代最大の謎とも言われる「本能寺の変」については、現在50以上の説が存在。

その中でも有力と言われる説と共に、真相を裏付ける最新の有力説についてご紹介します。

織田信長非道阻止説

明智光秀が織田信長に反旗を翻した理由は、織田信長の非道を止めるためだったという説。織田信長は、比叡山延暦寺の焼き討ちをはじめ、天下を取るために多くの命を奪ってきました。

明智光秀は、織田信長の残虐非道な行いに堪えかねて織田信長を討つことにしたのではないか、というのが本説の根拠となっています。

織田信長への怨恨説

かねてより明智光秀は、無茶な要求をしてくる織田信長に振り回されていたため、織田信長に対して怨みを抱いていたという説。織田信長の無茶な要求の例として、本能寺の変の直前に起こった明智光秀の領地召し上げが挙げられます。

本能寺の変の直前に織田信長は明智光秀に対して、豊臣秀吉の指揮下に入って難航している中国攻めの手助けをするように命じました。さらにこのとき、明智光秀が治めていた近江志賀郡と丹波国の領地を召し上げ(取り上げ)、代わりにこれから攻めにいく出雲国と石見国(両国とも現在の島根県)を治めさせると言い放ったのです。

一国一郡から二国を治めることは大名として栄転と言えますが、それまで政治・文化の中心地である京都で華々しく奉行として活動し、また近畿を中心に動いていた明智光秀にとって、山陰の地へ転封されることは耐えられないことでした。しかも、指揮下に付くのが好敵手とも言える豊臣秀吉。かつて明智光秀は、豊臣秀吉を抜いて一国一郡の城主になった輝かしい栄光もありました。

織田信長は、明智光秀を鼓舞しようとして命じた可能性はありますが、明智光秀には左遷されたと勘違いされてもおかしくない状況だったのです。

朝廷陰謀説

明智光秀は、朝廷と繋がりを持っており、朝廷の意向により本能寺の変が起こったという説。明智光秀は京都奉行を勤め、京都の事情に通じていました。そのため、公家や朝廷の者と繋がりを持っていることは十分に考えられます。

明智光秀は、朝廷の意向を受けて織田信長暗殺に及んだのではないかというのがこの説です。

幕府再興説

明智光秀は、自ら幕府を開く、もしくは足利氏による室町幕府を再興しようとしていたのではないかという説。

明智光秀の出生に関して謎が多いことは前出しましたが、明智光秀の父・明智光綱は「清和源氏」の流れを汲む土岐氏であると推測されているため、平氏の末裔を称する織田信長が将軍になることを阻止し、清和源氏の流れを汲む明智光秀が将軍に就くことは自然なことだと言えます。

後者であれば、足利義昭は京都を追放されたものの依然として将軍の職を解かれていなかったことから、再び足利義昭を擁立して新たな幕府を開かせようという道筋になるのです。

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最新の研究で明らかになりつつある真相

これまで決定的な史料がなかったために推論の域を出なかった明智光秀謀反の真相ですが、2014年(平成26年)と2017年(平成29年)に発見された史料により、明智光秀が織田信長を討つに至った動機として最有力となったのが「室町幕府再興」説。

林原美術館

林原美術館

2014年(平成26年)6月、岡山県岡山市の「林原美術館」で、「石谷家文書」(いしがやけもんじょ)と言われる1535年(天文4年)~1587年(天正15年)までの記録を記した歴史的文書の再調査をしていた折に、四国の覇者「長宗我部元親」から明智光秀の重臣「斎藤利三」(さいとうとしみつ)へ宛てた書状をはじめとした、本能寺の変の発端と見られる出来事を裏付ける書状が複数発見されたのです。

文書を記した「石谷家」は、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えた奉公衆の一族。明智光秀の重臣・斎藤利三の兄「石谷頼辰」(いしがいよりとき)は、足利義輝暗殺後に長宗我部元親のもとへ身を寄せていた「石谷光政」(いしがいみつまさ)の養子であり、長宗我部元親とは義理の兄弟という関係にあります。

明智光秀と長宗我部元親の関係は、斎藤利三を介してではありますが、四国の支配に関しての交渉役。織田信長の決定は、明智光秀、そして斎藤利三を通して長宗我部元親へと伝えられていたのです。長宗我部元親が四国一帯の統一を目前にした矢先、「土佐国・阿波国の南半のみを領有せよ」と織田信長から命じられたときの伝達役を行なったのも斎藤利三でした。

織田信長の意向に従うことを拒絶した長宗我部元親を説得するために、斎藤利三が「空然」(くうねん:出家した石谷光政の法名)へ宛てて書いた書状が「空然宛 斎藤利三書状」(石谷家文書・第2巻所収)。本書状は、1582年(天正10年)1月に書かれており、斎藤利三が長宗我部元親に対して「織田信長へ恭順を示したほうが身のためである」と助言を記した書状です。

1582年(天正10年)5月21日、長宗我部元親は織田信長に恭順する意向を示した書状を送ります。「斎藤利三宛 長宗我部元親書状」(石谷家文書・第2巻所収)は、本能寺の変が起きる直前にしたためられた書状であり、長宗我部元親が織田信長との戦闘を回避しようとしていたことを示す貴重な史料です。

しかし、織田信長は長宗我部元親の恭順の態度にも構わず四国へと侵攻を開始。明智光秀は焦り、織田信長を止めるために本能寺の変を起こしたのではないかと見られています。

明智光秀の謀反の理由に迫るもうひとつの書状

そして、2017年(平成29年)9月に発見された書状は、室町幕府再興説を後押しする書状です。

土橋重治宛光秀書状

土橋重治宛光秀書状

岐阜県の「美濃加茂市民ミュージアム」が所蔵する「土橋重治宛光秀書状」(つちばししげはるあてみつひでしょじょう)は、明智光秀が足利義昭を奉じて室町幕府を復興させるため、入洛(じゅらく)にあたり各地の諸将へ協力を求めた内容の書状となっており、これまでは本状の写しが「東京大学史料編纂所」にあったものの、原本は確認できていなかったために、決定的な史料としては認められていませんでした。

土橋重治宛光秀書状は、1582年(天正10年)6月12日、本能寺の変が起きた10日後に明智光秀が「土橋重治」(つちばししげはる:反織田信長派、紀伊国・雑賀衆の武将)に宛てて書いた書状です。

内容は「雑賀衆が味方につきありがたい」、「味方をしてくれる者には然るべき恩賞を与え、友好関係を築いていくように要相談する」と続き、「将軍が入洛するにあたり奔走するべきだが、詳細に関しては将軍から指示が下るため、私からは申し上げられない」と書かれています。

新たに見つかったこれらの書状は、室町幕府復興説を思わせる物ではありますが、明智光秀が将軍・足利義昭からの勅命で織田信長を討つに至ったとする史料としては不十分であるとして、有識者の間ではさらに議論が白熱しました。

「裏切り」の代名詞 明智光秀の家紋

桔梗紋

桔梗紋

桔梗紋

明智家の家紋は、水色の桔梗をあしらった「水色桔梗」(みずいろききょう)。この家紋は、特定の色が付いている非常に珍しい家紋。

桔梗は、秋の七草のひとつに数えられる花であり、もともとは「吉凶を占う」花でした。また、桔梗はその漢字に「更に吉」という縁起の良い文字が組み合わされていることから、明智家以外でも家紋に用いる武将は多く存在し、代表的な人物では「加藤清正」(かとうきよまさ)がいます。

桔梗紋は、清和源氏土岐氏の代表的な家紋としても有名です。土岐一族は、戦国時代以前に「桔梗一揆」と称して団結し、水色の旗を掲げて勢力を拡大していました。明智光秀の水色桔梗紋はそのときの名残であり、源氏嫡流の白に遠慮して、幕に水色を付けたとも言われています。

本能寺の変により裏切りの家紋に

1582年(天正10年)、明智光秀はこの水色桔梗の旗を掲げて本能寺に宿泊していた織田信長を襲撃し、自害に追い込みました。その後明智光秀は、主君を謀る裏切り者としての烙印を押され、家紋である桔梗紋も裏切りの象徴としてみなされるようになったのです。

桔梗紋を使っていた武士の中には、別の家紋に変える者も現れました。また、現代も子孫が脈々と続く織田家では、桔梗紋は不吉であるとして飾ることは禁止されています。

明智光秀の名言

「自分は他の誰でもない、煕子殿を妻にと決めている」

髪を切る煕子

髪を切る煕子

愛妻家としても知られる明智光秀が残した名言のひとつです。

明智光秀の正室である「煕子」(ひろこ)は、明智光秀のもとへ嫁ぐ直前に疱瘡(ほうそう:天然痘の俗称)にかかり、顔にはその痕が残っていました。それを見た煕子の父は破談になることを恐れて、密かに煕子の妹と入れ替えて結婚させようとします。

しかし明智光秀はそれを断り、煕子を娶ると宣言し、夫婦になりました。外見の美醜にかかわりなく、煕子を娶ると言った明智光秀の男気溢れる態度に煕子は感銘を受けて、明智光秀を献身的に支えるようになります。それを示す逸話で有名なのは、美濃から越後へ移り住んだのち、明智光秀が連歌会を主宰することになったときの話です。

当時、生活が苦しかった明智光秀は、その接待費をどうするか悩んでいました。そんな折に、煕子は自身の黒髪を切り落としてそれを売り、接待費として捻出したのです。煕子の計らいのお陰で連歌会は無事に成功。明智光秀は、煕子の行動に深く感謝して、妾や側室を一人も娶ることはなかったと言います。

「心しらぬ 人は何とも 言はばいへ 身をも惜まじ 名をも惜まじ」

本能寺の変を起こす直前に明智光秀が詠んだと言われる句です。

「私の本心を知らない人から何と言われようと構わない。この命も名誉もすべて惜しくはない」という意味の句であり、明智光秀が織田信長に謀反した理由を明らかにしていないことを示唆するような言葉でもあります。

いかなる理由にせよ織田信長を討ち取ることは、計り知れないほどの危険を伴う行為と明智光秀は知っていたのです。織田信長に忠を誓う家臣は多数いる上に、いずれも武勇に優れた名将揃い。天下人となった織田信長を討つという計画が漏れれば、有力な武将が明智光秀の企みを阻止するために駆け付けることは明白でした。だからこそ明智光秀は、誰にもその真意や計画を読み取らせないようにして本能寺へ赴き、織田信長を討ち取ったのです。

自らの意志を貫いて織田信長を討ち取った明智光秀の行動力と信念、そして決断力は、裏切りという点を除けば、現代においても見習うことができる姿勢であると言えます。

明智光秀

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源義経

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