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大友宗麟

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「大友宗麟」(おおともそうりん)は、鎌倉時代から続く名族「大友氏」の最盛期を築いた戦国大名です。海外貿易によって得た経済力を背景に、巧みな外交や家臣団の奮戦により近隣諸国を席巻。一時は、北九州6ヵ国を支配下に治めるほど勢力を拡大しました。
しかし、キリスト教への帰依や薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県)に本拠を構える「島津氏」の台頭などがきっかけとなり、勢力は急激に縮小。晩年は、滅亡の危機に瀕するほど衰退してしまいました。
大友宗麟の栄枯盛衰の歴史に注目しつつ、その人物像やユニークな逸話、ゆかりの刀剣などをご紹介します。

お家騒動の末に家督を相続

幼少期の大友宗麟

大友宗麟のイラスト

大友宗麟

大友宗麟は、1530年(享禄3年)、豊後国(ぶんごのくに:現在の大分県)の守護大名「大友義鑑」(おおともよしあき)の嫡男として生まれました。

大友氏は、鎌倉時代から豊後国と筑後国(ちくごのくに:現在の福岡県南部)の守護職に任じられていただけでなく、「鎮西奉行」(ちんぜいぶぎょう:九州全土の武士に対して統括権を持つ、鎌倉幕府の出先機関)をかねていた家柄です。

大友氏の家紋は「抱き杏葉」(だきぎょうよう)で、古代中国から伝来した馬の装飾具がモチーフ。後年、佐賀藩祖の「鍋島直茂」(なべしまなおしげ)が、大友氏からこの家紋を奪い、自らの家紋に定めています。大友氏の家紋に用いられていた抱き杏葉の意匠は、九州では、憧れの家紋のひとつでした。

そんな名家に育った大友宗麟ですが、幼少期は非常に気性の荒い問題児だったと伝えられています。日々武術や合戦遊びに熱中し、学問は二の次。父・大友義鑑も手を焼き、その器量に疑念を抱くほどだったのです。

しかし、大友宗麟が10歳の頃、大器の片鱗を覗かせる出来事が起こります。乳母やお供の者達と領内の「柞原八幡宮」(ゆすはらはちまんぐう:大分県大分市)へ参拝に出かけたとき、乳母が手を合わせているのを見た大友宗麟は、ふと何を祈っているのかを尋ねました。

すると、乳母から返ってきたのは、「若様が九州の主になられますように」との答え。それを聞いた大友宗麟は、「せっかくなら、なぜ日本全土の主になれるよう祈ってくれなかったのだ」と言い放ったのです。お供の者達は、若殿の志の高さに感嘆したと伝えられています。

父の猜疑心が生んだお家騒動

1540年(天文9年)、大友宗麟は元服を迎え、室町幕府12代将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)から、「義」の字の偏諱(へんき:貴人などの名前2字のうちの1字)を賜り、「大友義鎮」(おおともよししげ)と名乗ります。なお「宗麟」の名は、1559年(永禄2年)に出家した際の法名です。

元服しても気性が荒く、人望も乏しかった大友宗麟を見て、次第に父の大友義鑑は、廃嫡(はいちゃく:嫡子の家督相続の権利を失わせること)を考えるようになります。大友宗麟の傅役(ふやく/もりやく:教育係のこと)を務めていた「入田親誠」(にゅうた/いりたちかざね)らと協力し、大友宗麟の異母兄弟にあたる「塩市丸」(しおいちまる)を、大友義鑑の後継ぎにしようと画策し始めたのです。

そうして大友氏の家中では、徐々に宗麟派と塩市丸派に二分し、1550年(天文19年)に、両派が衝突。「二階崩れの変」(にかいくずれのへん)と称されるお家騒動が勃発したのでした。

立花道雪

立花道雪

その発端は、大友義鑑が大友宗麟を湯治へ向かわせ、その隙に宗麟派を一掃しようと目論んだこと。しかし、異変を察知した宗麟派の家臣達が、逆に主君の大友義鑑と塩市丸らを襲撃。

これにより塩市丸とその生母は討たれ、大友義鑑も大ケガを負って、数日後に亡くなったのです。

なお、二階崩れの変と呼ばれているのは、大友氏の居館である「大友氏館」(おおともしやかた)の2階で起こった惨事であることにちなんでいます。

湯治先の別府において、この変事を知った大友宗麟は、この事態にすばやく対処します。自身の重臣「立花道雪」(たちばなどうせつ)らに、二階崩れの変の首謀者である入田親誠の討伐を命令。そして、1550年(天文19年)の「津賀牟礼城の戦い」(つがむれじょうのたたかい)で勝利を収め、家中の反対派を押さえ込むことに成功。大友宗麟は、大友氏の家督を継ぐことになったのです。

近隣諸国を平定し勢力を拡大

家督相続と共に、豊後国の守護に就任した大友宗麟でしたが、近隣諸国や反宗麟派の家臣達は、次々と反旗を翻します。

まずは、肥後国(ひごのくに:現在の熊本県)の守護を務めていた叔父「菊地義武」(きくちよしたけ)が挙兵したことを受けて、1550年(天文19年)の「隈本城の戦い」(くまもとじょうのたたかい)で討伐。

1553年(天文22年)には、謀反を企てていた家臣「一万田鑑相」(いちまだあきすけ)や「宗像鑑久」(むなからあきひさ)らを攻め、わずか1日でその一族すべてを討ったのです。

さらに1556年(弘治2年)、重臣「小原鑑元」(おばらあきもと)が謀反を起こすと、肥後国での「藟岳城の戦い」(つづらだけじょうのたたかい)で破り鎮圧。こうして大友宗麟は、家督相続後の数年間、内乱に悩まされながらも勝利を重ね、少しずつ勢力基盤を固めていったのです。

大友宗麟は、内乱を鎮めていた一方で、外交面においても巧みな手腕を発揮します。周防国(すおうのくに:現在の山口県南東部)を本拠とした西日本屈指の大名「大内義隆」(おおうちよしたか)が、重臣の「陶晴賢」(すえはるかた)に討たれて下克上が起こると、大友宗麟は、自らの弟を大内家の新当主に送り込んでいます。

これに加えて大友宗麟は、北九州で大内氏に従属していた国人衆(南北朝、及び室町時代の地方豪族)の多くを味方に引き入れた上で、反抗勢力だった筑前国(ちくぜんのくに:現在の福岡県西部)の「秋月文種」(あきづきふみたね)や、「宗像大社」(むなかたたいしゃ:福岡県宗像市)大宮司の「宗像氏貞」(むなかたうじさだ)らを次々と撃破します。

こうした一連の攻防により、筑前国の博多港を支配下に治めた大友宗麟は、海外貿易により、莫大な富を得ることになるのです。

北九州6ヵ国を治める大大名へ

毛利元就

毛利元就

1559年(永禄2年)、大友宗麟は、豊後国や肥後国、そして肥前国(ひぜんのくに:現在の佐賀県長崎県)に加え、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)から、豊前国(ぶぜんのくに:現在の福岡県東部)と筑前国、筑後国(ちくごのくに:福岡県南部)の守護に任じられ、北九州の6ヵ国を治めることになったのです。

さらには、大友宗麟が陶晴賢を破ったことで、九州へ食指を動かしていた「毛利元就」との攻防が始まります。1568年(永禄11年)に筑前国で起こった「立花城の戦い」(たちばなじょうのたたかい)や、1569年(永禄12年)の「多々良浜の戦い」(たたらはまのたたかい)を経て、毛利氏の勢力を九州から一掃。大友氏の最盛期を築いたのです。

大友宗麟は、戦場で陣頭指揮を執るタイプの大名ではありませんでした。実際の合戦において辣腕(らつわん)を振るっていたのは、大友氏の重臣達。

特に大友氏の三宿老のひとりに数えられる立花道雪の働きはすさまじく、主要な合戦の多くにその姿があったのです。大友宗麟の覇業は、こうした重臣達の活躍によって支えられていたと言えます。

しかし、相次ぐ謀反や外敵との攻防によって、大友宗麟の心境に変化が芽生え始めます。大友宗麟が44歳の頃、嫡男の「大友義統」(おおともよしむね)に家督を譲ると、家中の実権は握りつつも、次第に政治から距離を置くようになったのです。

1578年(天正6年)には、以前より傾倒していたキリスト教に改宗して、「ドン・フランシスコ」の洗礼名を拝受。その信仰心は極めて強く、イエズス会の「ルイス・フロイス」は、著書「日本史」の中で、「彼ほど心からデウスの教えを愛し、司祭やポルトガル人達に多大な愛情を示した者はいなかった」と称賛しています。

キリシタン大名としての大友宗麟

入信のきっかけは青年期にあり

イエズス会による布教活動

イエズス会による布教活動

大友宗麟がキリスト教へ入信した理由を紐解いていくと、青年期の出来事にその影響を見ることができます。

大友宗麟が16歳のとき、豊後国の港に中国のジャンク船(木造帆船)が入港したことがありました。船には中国人の他に、6~7人のポルトガル商人も同乗しており、ある中国人航海士が大友義鑑に、「彼らを殺して財産を奪いましょう」と提案。大友義鑑は、まんざらではない態度を示します。

しかし大友宗麟は、貿易のために遠路はるばる訪れた彼らを殺すなんてとんでもないことであり、むしろ保護すべきであると主張。大友宗麟は、この襲撃計画を未然に防いだのです。

のちに大友宗麟は、「このときの善行のおかげで、デウスからキリシタンになる恩恵を与えられた」と回顧しています。

また、1551年(天文20年)の宣教師「フランシスコ・ザビエル」との出会いも、大友宗麟の信仰心に大きな影響を与えました。大友宗麟は家督を継いだあと、府内(現在の大分市)にフランシスコ・ザビエル一行を招待。

約500人の槍隊と共に出迎えただけでなく、宴席ではザビエルの皿に、自ら料理を取り分けるほど、手厚くもてなしたと伝えられているのです。さらに大友宗麟は、ザビエルと仏教僧と共に、公開討論などを開催。キリスト教の教義を深く知ると、ますますキリスト教に心を奪われ、別れ際にはザビエルに、自身の家臣を同行させて見送りました。

その後、大友氏領内では、キリスト教の布教活動が正式に許可され、豊後国には多くの教会が建つように。そして、領内のキリスト教信者が爆発的に増えていったのです。

キリスト教が生んだ家中の溝

キリシタンとなった大友宗麟は、家族や家臣にまで広く入信を勧めるようになります。次男の「大友親家」(おおともちかいえ)が入信した際は、追随して多くの家臣がキリスト教徒となり、大友氏の家中にもキリシタンが急増。

しかし、大友宗麟の正室「奈多夫人」(なたふじん)は、この状況を快く思っていませんでした。その理由は、奈多夫人が「奈多宮」(大分県杵築市)の大宮司の娘であったことにあります。

そのため奈多夫人は、キリスト教の布教を目的に来日した宣教師達から、キリスト教の迫害者として有名である、古代イスラエル王妃の名である「イザベル」と呼ばれていたのです。

そんな奈多夫人がもっとも激怒したのは、自身の兄であり、大友氏の重臣「田原親賢」(たわら/たはらちかかた)の養子であった「田原親虎」(たわら/たはらちかとら)が、洗礼を受けたことでした。奈多夫人と田原親賢は、田原親虎に対し、「棄教しなければ、教会に火を放って宣教師を殺す」とまで言い放ちます。

大友宗麟が間に入り、形だけの棄教を求めるなど和解を促しましたが、この交渉は難航。結局、田原親虎は廃嫡となり、キリスト教における大友宗麟と奈多夫人の対立は、深まるばかりだったのです。

しかし、奈多夫人との亀裂が決定的となった大友宗麟は、問題を解決するどころか、離縁して奈多夫人の侍女を妻に迎え、洗礼まで受けさせてしまいます。

こうして大友氏は、宗教問題や一族の問題など、様々な火種を孕んだ(はらんだ)まま、九州地方南部に勢力を拡大しつつある「島津氏」との対決を迎えることになったのです。

大友氏の衰退と島津氏の隆盛

キリスト教徒の理想郷を夢見て

薩摩国の「島津義久」(しまづよしひさ)が、日向国(ひゅうがのくに:現在の宮崎県)へと侵攻してくると、日向国を治める「伊東義祐」(いとうよしすけ)から、大友宗麟のもとに救援依頼が届きます。

すると大友宗麟は、1578年(天正6年)、これに応じて自ら出陣。しかし、この頃の大友宗麟は、合戦については重要視していませんでした。大友宗麟が伊東義祐の依頼に応じた本当の目的は、日向国にキリスト教徒の理想郷を建設することにあったのです。そのため大友宗麟はこの時、ポルトガル人宣教師を帯同させ、領内の寺社仏閣を破壊しながら、大友軍は南下を続けました。

この合戦の中で、日向国北部の無鹿(むしか:現在の宮崎県延岡市)に到着した大友宗麟は、この地に教会の建設を命じます。島津氏と伊東氏が争っているのは、はるか南。しかし大友宗麟は、同地において、理想郷の建設と礼拝に励む日々を過ごし始めたのです。

大友軍は、約1ヵ月ここに留まり続けたあと、主君である大友宗麟を無鹿に残したまま再び南下を開始。主君が不在となった大友軍は、もはや戦う意義が見えず、士気は低下する一方だったと伝えられています。

そしてようやく、「高城」(たかじょう:現在の宮崎県木城町)に辿り着いた大友軍約60,000人は、島津軍約43,000人の軍勢と激突。島津軍は「釣り野伏」(つりのぶせ)と呼ばれるおとり作戦を駆使して大友軍を撃破し、九州最大級の野戦「耳川の戦い」(みみかわのたたかい)は、島津軍の大勝利でその幕を閉じたのです。

大友軍の死者は約20,000人にも及び、大友宗麟も理想郷を捨て、命からがら豊後国に逃げ帰る他ありませんでした。

没落していく大友氏

耳川の戦いをきっかけに、大友氏と島津氏との力関係が逆転すると、大友氏に従っていた家臣が、次々と反乱を起こします。

1578年(天正6年)に肥後国の「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)、豊前国の「秋月種実」(あきづきたねざね)、筑後国の「筑紫広門」(つくしひろかど)らが離反しますが、耳川の戦いで多くの死傷者を出した大友軍は、これらを為す術なく傍観することしかできなかったのです。

さらに1579年(天正7年)には、豊後国で「田原親貫の乱」(たばるちかつらのらん)が勃発。辛うじて反乱を収めることには成功したものの、この機に乗じて、大友氏と対立していた「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)が躍進。筑前国や筑後国などを奪われてしまったのです。これにより、島津氏と龍造寺氏の勢力圏が接し、以後は、その両者の対立に、九州の覇権争いが移行することになりました。

しかし、1584年(天正12年)の「沖田畷の戦い」(おきたなわてのたたかい)で島津氏が龍造寺氏を屈服させると、いよいよ島津氏による大攻勢が再開されます。

もうすでに大友氏には島津氏に抗う戦力は残っておらず、1586年(天正14年)、ついに大友宗麟は「豊臣秀吉」に救援を求め、豊臣氏の臣下になることを決意。戦国大名としての大友氏は、ここに潰えて(ついえて)しまったのでした。

臼杵城跡

臼杵城跡

大友宗麟が、迫り来る島津軍に対して最後の抵抗を見せた「丹生島城」(にうじまじょう:現在の大分県臼杵市臼杵城の前身)における攻防戦では、大友氏は、南蛮渡来の新兵器「国崩し」と称される大砲を用いて戦い、何とか滅亡を免れることができたのです。

大友宗麟が仕えることになった豊臣秀吉は、その後、九州全土を統一。そして大友宗麟に対して、日向国を与えることを提案します。しかし大友宗麟は、「私が日向国に行けば、また戦が起こる」とこの申し出を固辞。

1587年(天正15年)、病床に伏した大友宗麟は、自身の領国などについては一切語らず、神に祈りを捧げ続けて息を引き取りました。大友宗麟は、戦国大名としてではなく、キリスト教徒としての死を選んだのです。

数奇な運命を辿った名刀 骨喰藤四郎

大友宗麟は、南蛮渡来の品物から茶道具、武具に至るまで、名品を収集していた人物としても知られています。なかでも、名工「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)の手による「骨喰藤四郎」(ほねはみとうしろう)は、特に大友宗麟が執着した名刀でした。

室町時代初期に、大友氏6代当主「大友貞宗」(おおともさだむね)が足利将軍家への忠誠の証しとして奉納した太刀ですが、戦国時代には、「戦国三大梟雄」(せんごくさんだいきょうゆう)のひとり「松永久秀」(まつながひさひで)が入手。このことを知った大友宗麟は、約3,000両の謝礼金を払って買い戻したと伝えられています。

その後も、大友宗麟の嫡男であった大友義統が豊臣秀吉に献上し、さらには、徳川将軍家へと受け継がれていくことに。骨喰藤四郎は現在、国の重要文化財に指定され、京都の「豊国神社」(とよくにじんじゃ)に奉納されているのです。

その切れ味はすさまじく、切る真似をしただけで骨まで砕くほど。刃文小乱(こみだれ)の直刃調で、地景(ちけい)よく入り、鍛えも冴えています。

骨喰藤四郎
骨喰藤四郎
無銘
鑑定区分
重要文化財
刃長
58.8
所蔵・伝来
源頼朝 →
足利尊氏 →
豊臣秀吉 →
徳川家康→
豊国神社

大友宗麟

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