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北条義時

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日本史上初めての武家政権として、1185年(元暦2年/文治元年)に開かれた鎌倉幕府。その開府まで、同幕府初代将軍となる「源頼朝」(みなもとのよりとも)を陰になり日向になり支えたのは、伊豆国(現在の静岡県伊豆半島)を拠点とした地方豪族の「北条氏」でした。源頼朝の没後、徐々に勢力を拡大した北条氏のなかで「北条時政」(ほうじょうときまさ)が、鎌倉幕府において実質的な権力を握る「執権」(しっけん)の座に就きましたが、その地位を確固たるものにしたのは、2代執権となった「北条義時」(ほうじょうよしとき)です。2022年(令和4年)放送のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(かまくらどのの13にん)の主役にも選ばれた北条義時について、その生涯を辿りながら、北条氏による執権政治を完成させた経緯についてもご説明します。

青年期の北条義時と源頼朝からの評価

北条義時の誕生と時代背景

北条義時のイラスト

北条義時

「北条義時」(ほうじょうよしとき)は1163年(応保3年/長寛元年)、「北条時政」(ほうじょうときまさ)の次男として生まれました。

実母は伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)の豪族「伊東祐親」(いとうすけちか)の娘と伝わっていますが、真偽のほどは定かではありません。

この当時は、「平氏」と「源氏」が対立した「平治の乱」(へいじのらん)で源氏が大敗を喫し、平氏政権が誕生しようとしていた時代。

同乱において、源氏側の中心的存在であった「源義朝」(みなもとよしとも)は、敗走中に尾張国(現在の愛知県西部)で殺害され、その三男「源頼朝」(みなもとのよりとも)は伊豆への流刑を科されます。

その詳細な場所は諸説ありますが、「平家物語」によると、「蛭ヶ小島」(ひるがこじま:静岡県伊豆の国市)が源頼朝の流刑地であったと伝えられているのです。

北条氏はこのとき、平氏より源頼朝を監視する役目を任されました。

そして北条義時が15~16歳頃に、姉の「北条政子」(ほうじょうまさこ)が源頼朝と結婚。これにより北条氏は源氏と深くかかわるようになり、源頼朝は20年以上もの間、伊豆で流刑の身のまま過ごしたのです。

北条義時、「源平合戦」で源頼朝に従う

1180年(治承4年)8月17日に源頼朝は、77代天皇「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)の第3皇子「以仁王」(もちひとおう)の命により、「平氏追討」を掲げて東国での挙兵を決意。そのために集められたのは、相模国(現在の神奈川県)や武蔵国(現在の埼玉県東京都23区、及び神奈川県の一部)、そして北条義時のいた伊豆国の武士達です。

この挙兵に北条義時は、父の北条時政と兄の「北条宗時」(ほうじょうむねとき)と共に従軍。「石橋山の戦い」と呼ばれるこの戦いをきっかけに、いわゆる「源平合戦」と称される一連の戦い「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん)が繰り広げられていきました。

石橋山の戦いでは源氏軍が敗れ、兄・北条宗時が戦死してしまいましたが、そののち、北条義時は駿河国(現在の静岡県中部、及び北東部)へ侵攻。「鉢田の戦い」(はちたのたたかい)や「富士川の戦い」に、源氏軍として父と共に参戦したのです。両合戦において北条義時は、源氏軍の勝利に大きく貢献しました。

さらに北条義時は、1185年(寿永4年/元暦2年)、源頼朝の異母弟である「源範頼」(みなもとののりより)を指揮官に据えた平氏追討軍に付き従って西国にも侵攻。筑前国(現在の福岡県西部)で行われた「葦屋浦の戦い」(あしやのうらのたたかい)でも、大きな武功を挙げたのです。

治承・寿永の乱での活躍が高く評価され、北条義時は1181年(養和元年)4月、源頼朝の寝所(しんじょ)を警護する11名のひとりに選ばれました。いつ敵に襲われるか分からない状況にあった武士にとって寝所は、戦場などでの緊張感から解放される唯一の場所。そんなプライベートな場所の警護を任されたのは、北条義時が篤い信頼を得ていたからにほかなりません。

寝所の警護役を始めとした源頼朝の側近は「家子」(いえのこ)と称され、鎌倉幕府での事件などを記した歴史書「吾妻鏡」(あづまかがみ/あずまかがみ)には、北条義時は「家子の専一」(家子のなかで最も優れている)であったという記述があります。このようなことからも北条義時は、源頼朝の家臣として、その仕事ぶりを買われていたことが窺えるのです。

北条義時が別称「江間小四郎」を用いていた理由

北条義時は、「江間小四郎」(えましょうしろう)、あるいは「江間四郎」(えましろう)という別称を用いていましたが、その期間がいつからいつまでであったのかは分かっていません。しかし吾妻鏡には、北条義時が源頼朝の寝所における警護役に選ばれたできごとについて、江間四郎の名で記されており、その頃までには江間四郎、または江間小四郎の名を北条義時が用いていたと推測できます。

また当時の武家では、その当主と家督を継ぐ嫡男のみが名字を名乗れるとする慣例があったため、北条義時は、本家の「北条」ではなく分家となった「江間」の名字を使用しており、この江間家の初代当主であったとも考えられています。

なお、江間とは北条義時が現在の静岡県伊豆の国市にあった「江間荘/江間庄」の領主を務めていたことが由来。北条義時の屋敷跡と伝わる場所には「江間公園」(えまこうえん)が造られており、公園内には、「北條義時[江間小四郎義時]屋敷跡」と刻まれた石碑が建てられています。

鎌倉幕府における北条義時の活躍ぶりとは

1185年(寿永4年/元暦2年)、治承・寿永の乱における最後の戦いとなった「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)で平氏を滅亡させた源頼朝は、朝廷から自身の家臣達を諸国の守護や地頭職に任命する勅許を得ます。これにより源頼朝は、実質的に鎌倉幕府を成立させることになったのです。

そんななか北条義時は、1189年(文治5年)、「奥州藤原氏」(おうしゅうふじわらし)と鎌倉政権の間で勃発した「奥州合戦」に従軍。同合戦では鎌倉政権が勝利し、奥州藤原氏が領していた陸奥国と出羽国(現在の東北地方)を鎌倉幕府の配下に収めました。こうして源頼朝は、日本全国を完全に制覇したのです。

そして1190年(文治6年/建久元年)、源頼朝は遂に上洛を果たします。このとき北条義時は、源頼朝が右近衛大将(うこんえのだいしょう:宮中の警固などを取り仕切る右近衛府の長官)の拝賀に随行する7人の兵のひとりに選ばれていました。

また、この上洛の際に源頼朝は、後白河上皇に謁見できましたが、朝廷から武家政権の首長であることを認められた証しとなる「征夷大将軍」の地位に任じられることは叶わなかったのです。しかし、1192年(建久3年)に後白河上皇が崩御されると、源頼朝は朝廷より、念願の征夷大将軍に任命されます。これにより源頼朝は、鎌倉幕府初代将軍として、名実共に天下の覇者となったのです。

同年に北条義時は源頼朝の仲介により、有力御家人であり、鎌倉幕府成立の際に中心的存在となっていた「比企朝宗」(ひきともむね)の娘、「姫の前」(ひめのまえ)を正室として迎え入れています。その翌年には、姫の前と間に嫡男「北条朝時」(ほうじょうともとき)が誕生しました。

このように北条義時は、上洛の際にたった7人の随兵のひとりとして従ったり、「幕府女房」と称されていた姫の前との婚姻の手筈を整えて貰ったりとしていたことからも、家臣として源頼朝にその才能を認められていたことが窺えるのです。

北条義時、「13人の合議制」の一員となる

13人の合議制とは

北条義時は、源頼朝が鎌倉幕府の初代将軍に就任してからも、変わることなく懸命に源頼朝を支えていました。ところが、1199年(建久10年/正治元年)1月13日に源頼朝が急逝し、幕府内で御家人達による権力争いが激しくなってくると、北条義時は徐々に頭角を現します。

源頼家

源頼家

同年1月26日、源頼朝の跡を継いで2代将軍となったのは、源頼朝と北条政子の嫡男であった「源頼家」(みなもとのよりいえ)。当時まだ18歳の青年でした。

そこで源氏の家臣達は、若年でありながら幕政を司らなければならない源頼家を補佐したり、その専制を抑えたりすることを目的に、13人の有力御家人による指導体制、いわゆる「13人の合議制」を発足させます。

これに北条義時は、父・北条時政と共に参加。その他のメンバーは、「和田義盛」(わだよしもり)や「比企能員」(ひきよしかず)など、北条時政・北条義時父子と同じように源頼朝の時代から源氏に仕えていた者や、源頼家を盛り立てながらも自らが幕政をリードしていこうと目論んでいた「大江広元」(おおえのひろもと)や「梶原景時」(かじわらかげとき)らで構成されていました。

源頼家が2代将軍に就任した鎌倉幕府は将軍のみならず、13人の有力御家人との合議によって幕政の方向性を決定していくことになったのです。

「13人の合議制」構成メンバーと役職
No. 人名(よみがな) 鎌倉幕府での役職
1 北条時政(ほうじょうときまさ) 伊豆・遠江(現在の静岡県西部)・駿河守護政所別当
2 北条義時(ほうじょうよしとき) 寝所警護衆(家子)
3 三浦義澄(みうらよしずみ) 相模守護
4 八田知家(はったともいえ) 常陸(現在の茨城県)守護
5 和田義盛(わだよしもり) 侍所別当(さむらいどころべっとう)
6 比企能員(ひきよしかず) 信濃(現在の長野県)・上野(現在の群馬県)守護
7 安達盛長(あだちもりなが) 三河(現在の愛知県東部)守護
8 足立遠元(あだちとおもと) 公文所寄人(くもんじょよりゅうど)
9 梶原景時(かじわらかげとき) 侍所別当
播磨(現在の兵庫県南西部)・美作(現在の岡山県東北部)守護
10 大江広元(おおえのひろもと) 政所別当(まんどころべっとう)
11 中原親能(なかはらのちかよし)
※大江広元の兄
政所公事奉行人
京都守護
12 三善康信(みよしのやすのぶ) 問注所執事(もんちゅうじょしつじ)
13 二階堂行政(にかいどうゆきまさ) 政所執事

父・北条時政と共に有力御家人達を排除する

源頼家が将軍の座に就いた約3ヵ月後、この13人の有力御家人達は、源頼家が直接、訴訟の裁断を行うことを停止させます。これが、13人の合議制を構成するメンバーで初めて実施された合議であったと伝えられています。

この13人の有力御家人達が全員同じ考えを持ち、協力し合っていたのかどうかに関しては、必ずしもそうであったとは言い切れません。例えば比企能員は、北条氏が台頭してきていることをあまり快く思っていませんでした。それは比企能員が、自身の娘を2代将軍・源頼家に嫁がせており、将軍家と姻戚関係を結んでいたことが理由のひとつ。そのため比企能員は、北条時政と北条義時を始めとする13人の合議制のもとでは、将軍家の外戚として強めていた権勢が、削られてしまうと危惧していたのです。

1203年(建仁3年)7月に源頼家が病に伏すと、源頼家がそれまで領していた土地をその子ども達に分配することが、13人の合議によって源頼家の承諾を得ずに決められます。この知らせを受けて激怒した源頼家は、義父である比企能員に対して、北条時政を討伐するように命じたのです。

ところが北条時政は、比企能員が攻めてくることを察知すると、比企氏一族を討つためにすぐさま動き始めます。そして同年9月2日に北条時政は、比企能員を自宅に招き入れて殺害。源頼家の嫡男であった「一幡」(いちまん)の屋敷に軍勢を向かわせ、比企氏一族を滅亡させました。これが世に言う「比企能員の変」(ひきよしかずのへん)です。

修善寺

修善寺

そして北条時政は、源頼家の将軍職を廃止。さらには源頼家を「修善寺」(しゅぜんじ:静岡県伊豆市)へと追放し、北条氏が有力御家人のなかで実権を握れるように行動します。

北条時政は源頼家の弟であり、北条義時の同母姉妹「阿波局」(あわのつぼね)が乳母を務めた「源実朝」(みなもとのさねとも)を鎌倉幕府3代将軍に擁立。北条時政は、大江広元と共に政所別当に就任します。

政所とは、鎌倉幕府において一般的な政務や財政を司っていた統治機構。北条時政はその長官となり、初代執権(しっけん)の座にも就いて実権を握るようになったのです。

鎌倉時代前期の史論書「愚管抄」(ぐかんしょ)によれば、比企能員の変での襲撃から落ち延びていた一幡を、北条義時が引き連れていた軍勢が捕らえて殺害したとされています。

そののち、「相模守」(さがみのかみ)に任じられた北条義時は、修善寺に幽閉されていた源頼家のもとへ、自身の軍勢を送り込んで暗殺させたのです。

父・北条時政との対立と2代執権就任

対立のきっかけとなった内乱とは

比企能員の変を皮切りに、父・北条時政と共に有力御家人の排除を着々と進めていた北条義時。しかし2人は、次第に対立するようになります。

そのきっかけのひとつになったと言われているのが、1205年(元久2年)に武蔵国の有力御家人「畠山重忠」(はたけやましげただ)と、北条義時率いる鎌倉御家人軍の間で勃発した「畠山重忠の乱」(はたけやましげただのらん)です。

この内乱は、北条時政と北条義時が行っていた、一連の有力御家人排除のひとつとして起こりました。この畠山重忠の乱に至る背景は、北条時政が後妻である「牧の方」(まきのかた)よりある訴えを聞いたことから始まります。

畠山重忠像(畠山重忠公史跡公園)

畠山重忠像(畠山重忠公史跡公園)

同乱の小さな火種となったのは、1204年(建仁4年/元久元年)4月、牧の方の娘婿であり、京都守護を務めていた「平賀朝雅」(ひらがともまさ)の屋敷で行われた酒宴でのこと。

その席において、畠山重忠の嫡子であった「畠山重保」(はたけやましげやす)と平賀朝雅の間で、激しい口論が起こりました。

その翌年6月21日に平賀朝雅は、畠山重保から誹謗中傷を受けたと牧の方に讒言(ざんげん:事実を曲げるなどして、その人のことを別の目上の人に悪く言うこと)します。

そして牧の方は、これを畠山重忠・畠山重保父子に謀反の恐れがある証拠だと夫の北条時政に訴えたのです。

畠山重忠は源頼朝の時代より源氏に仕え、鎌倉幕府の成立にも大きく貢献した人物。そして同幕府の忠実な御家人としての働きぶりは、周囲にも認められていました。また、北条義時と畠山重忠は、義兄弟の関係にあっただけでなく、親しい友人でもあったのです。

そのため、「畠山氏」の討伐を目的とした挙兵を実行すべきか否か、父・北条時政から相談を受けた北条義時は、「畠山重忠が謀反を企てるはずがない」と反対。ところが牧の方の兄より、「お前にとって牧の方は継母であるため、何か恨みでもあるのだろう」と詰め寄られた北条義時は、仕方なく畠山氏討伐に賛同したのです。

同年6月22日、畠山氏と同じ「秩父氏」(ちちぶし)の一族であった「稲毛重成」(いなげしげなり)からの招きにより、由比ヶ浜(ゆいがはま)へ到着した畠山重保は、北条時政の命を受けた有力御家人「三浦義村」(みうらよしむら)率いる武士団の手によって殺害されました。

一方で畠山重忠は、稲毛重成から「鎌倉で騒ぎが起こっている」との知らせを受け、現在の埼玉県比企郡にあった「菅谷館」(すがややかた)より、約150名の兵士と共に鎌倉へと出発。しかし、その道中にある二俣川(ふたまたがわ)には、北条時政から畠山重忠の誅殺を命じられた北条義時、そして鎌倉御家人の軍勢が待ち伏せていたのです。

二俣川にて北条義時が率いる討伐軍に遭遇した畠山重忠は、そのときに初めて息子の畠山重保が謀反人と見なされて殺害されたこと、さらに目の前にいる軍勢が自身を討伐するために派遣されたことを知ります。

北条氏・鎌倉御家人軍の人数は定かにはなっていませんが、畠山軍の比ではないほどの大軍でした。畠山軍の大敗は目に見えていましたが、畠山重忠は退かずに覚悟を決め、北条氏・鎌倉御家人軍を迎え撃つことを決意。約4時間に亘る激戦の末、畠山重忠は討死したのです。なお愚管抄には、畠山重忠は自害して亡くなったとの記述があります。

この「二俣川の戦い」の翌日、自身の軍勢と共に鎌倉へ戻った北条義時は、畠山重忠の軍勢が150名ほどしかいなかったことから、謀反を目論んでいた事実はなかったと父・北条時政に報告。「首実検[くびじっけん:敵将の首級を挙げた兵士が、総大将のもとへその首を持ち込み、誰の首であるかを見定める作業のこと]で畠山重忠の顔を見た際には、涙をこらえることができなかった」という北条義時の言葉を聞いた北条時政は、何も言えずに引き下がったと伝えられているのです。

父・北条時政が畠山重忠を討った理由

源実朝

源実朝

北条時政が畠山重忠の乱を起こした背景には、鎌倉幕府3代将軍である源実朝を失脚させて、平賀朝雅を次期将軍に擁することで、将軍による独裁を復活させたいという考えがあったと推測されています。

しかしこの頃の北条時政は、自らが源実朝を将軍に推挙したことで、すでに実権を握っていました。

さらに北条時政は、源実朝による専制政治を防ぐために、13人の合議制のメンバーに加わっており、平賀朝雅の将軍へ擁立することが、畠山重忠の乱を起こした大きな動機とするのは少し不自然です。

そこでもうひとつの説として伝えられているのが、畠山重忠と北条時政の間で、武蔵国の支配権を巡る対立があったこと。武蔵国は、鎌倉を防衛するための要地であったことから、鎌倉幕府の将軍によって国司(こくし:諸国の政務などを司った地方官のこと。中央政権より派遣された)が選ばれる「関東御分国」(かんとうごぶんこく)でした。

関東御分国とは、同幕府の将軍家が直接支配した知行国を意味します。つまり武蔵国は、鎌倉幕府から重要視されていた一国であり、その国司になることは、実権を握る立場となるための近道でもあったと考えられているのです。

もともと武蔵国では、秩父氏が同国に多数存在した武士団を代々継承しており、同氏の一族であった畠山重忠は、その武士団を統率する職務を担っていました。そんな畠山重忠は、主君・源頼朝が亡くなる際に、その子孫達を守るようにとの遺言したほど高い評価を受けていた有力御家人でもあったのです。

この当時、武蔵国の国司を務めていたのが平賀朝雅でした。ところが平賀朝雅は、前述した比企能員の乱が勃発した翌月に、京都守護の職務に就くために上洛します。これを受けて時の将軍であった源実朝は、北条時政を武蔵国の国司に任命。北条時政が同国の行政権を握ることになりました。

これが発端となり、北条時政と畠山重忠が対立するようになったとも推測されています。

北条時政を追放、世代交代へ

牧の方

牧の方

ここまでご説明した通り、北条時政が畠山重忠の乱を起こして平賀朝雅を将軍に擁立しようとしたのは、一貫性のない行動だと思われても仕方のないことでした。

このとき北条義時は、北条時政がそのような行動に至ったのは、北条時政の後妻、つまり北条義時にとっては継母に当たる牧の方が、父をそそのかしたことが理由ではないかと考えたのです。

そのため北条義時は、畠山重忠の次に邪魔者扱いされ、最終的に失脚させられてしまうのは、父・北条時政とその前妻の子である自分ではないかと危惧していました。そこで北条義時は、姉の北条政子と共に北条時政の追放へと乗り出したのです。

まず北条義時は、畠山氏討伐軍の一員であった稲毛重成父子などを、畠山重忠を計略にかけた首謀者として三浦義村らに殺害させました。さらには、まだ若年であった将軍・源実朝に代わって北条政子が、畠山重忠を討った武士達に武功を挙げた褒美として、畠山氏の所領を分け与えることを命じます。

北条時政と牧の方の間では、平賀朝雅を将軍の座に就けるという最大の目的を果たすために、畠山氏の討伐のみならず、当時の将軍であった源実朝を殺害する計画も上がっていました。それを伝え聞いた北条義時と北条政子は、北条時政の追放を実行に移す前に、北条時政の屋敷にいた源実朝を北条義時邸に迎え入れて、北条時政から引き離しています。なお、このときに遣わされたのは、幕府の有力御家人であった三浦義村や「結城朝光」(ゆうきともみつ)らでした。

妻の牧の方にそそのかされたとは言え、有能な鎌倉御家人であった畠山重忠を討伐するなどの強引な行動に出ていたことにより、このときにはすでに周囲からの人望を失っていた北条時政。そのため、それまで北条時政側に付いていた御家人達の多くは、北条義時と北条政子の味方になっていました。

このような経緯によって北条時政と牧の方は、鎌倉幕府内において孤立無援の状況に陥って出家します。その翌日に北条義時は、母方の従兄弟でもあった三浦義村の協力を得て、北条時政と牧の方を伊豆国へ追放。同国において北条義時は、この2人を幽閉したのです。

これには、北条時政と牧の方の策略に乗ってしまい、無実であった畠山重忠を討伐した北条義時へ向けられた鎌倉御家人達による憎しみの矛先を、北条時政と牧の方へ方向転換させる狙いがあったとも言われています。また、その6日後には鎌倉幕府の命により、京都守護であった平賀朝雅が殺害されました。

そして北条義時は、畠山重忠と平賀朝雅がいなくなったことにより、異母弟の「北条時房」(ほうじょうときふさ)を武蔵国の守護、及び国司に任命。これに加えて北条義時は、父・北条時政が就いていた政所別当の地位を受け継いでいます。こうして北条義時は、父からの世代交代を自ら行って2代執権となり、その地位を確固たるものにしたのです。

承久の乱がもたらした北条氏への影響

北条義時が行った執権政治のスタイルとは

2代執権の座に就いた北条義時は、姉の北条政子と源実朝を表に立たせつつも、その裏では自身と同じく政所別当であった大江広元や、源頼朝が流刑の身であった頃から源氏に仕えていた「安達景盛」(あだちかげもり)らと協力し、鎌倉幕府の実質的な最高責任者として政務にあたっていました。

そのなかで北条義時は、初代執権であった父・北条時政が権力を独占したことで、多くの御家人達から反発を招いていたことを踏まえ、彼らの要望には柔軟に対応する姿勢を見せています。そのうちのひとつが、「下知状」(げじじょう)と呼ばれる武家様文書(ぶけようもんじょ)の一時的な廃止。

下知状とは主に武家において、下の者に対して命令を伝える際に用いられた文書様式の一種であり、北条時政が執権を務めていた頃には、北条時政ひとりの署名のみで発行されていた文書でした。つまり下知状は、北条時政が持っていた独占権力の証しであったと言えます。

さらに北条義時は、大きな罪を犯した場合以外、源頼朝の時代以降に賜った所領は原則として没収しないことを約束。こうすることで北条義時は、御家人達による自身への忠誠心を高めたのです。

和田義盛

和田義盛

このように北条義時は、父の独占権力を反面教師にしていた一方で、北条氏の執権体制をより強固なものにするため、北条時政が実行していた有力御家人の排除を継続していました。

北条義時の手により排除されたのは、北条時政の娘婿に当たる下野国(現在の栃木県)の「宇都宮頼綱」(うつのみやよりつな)などが挙げられますが、そのなかで最も知られているのが、治承・寿永の乱など源頼朝の挙兵に付き従っていた和田義盛。前述した比企能員の変や畠山重忠の乱では北条氏側に付き、鎌倉御家人を統制する役所の長官・侍所別当の地位に就いていた人物です。

1213年(建暦3年/建保元年)5月に和田義盛は、北条義時から挑発を受けたことで、北条氏打倒を掲げて同族の三浦義村などと徒党を組み、「和田合戦」と称される反乱を起こしました。

ところが三浦義村が、土壇場になって北条氏側に寝返り、和田氏の軍勢は兵力不足に陥ります。しかし和田義盛率いる和田一族は、そのまま鎌倉の地へ乗り込み、鎌倉将軍の邸宅である「将軍御所」を襲撃。奮戦するも、圧倒的な兵力の差を前にしてなす術もなく、大敗の結果に終わったのです。そしてこの反乱により、和田一族は滅亡してしまいました。

そののち北条義時は、和田義盛が務めていた侍所別当に就任。以前からの政所別当の役職と侍所別当を兼任することになった北条義時は、政治面と軍事面の両方において要職を独占することとなり、執権の地位を不動のものにしたのです。

承久の乱に至るまでの経緯

1219年(建保7年/承久元年)正月27日に、「鶴岡八幡宮」(神奈川県鎌倉市)で行われた右大臣の任官式において、将軍・源実朝が源頼家の遺児であった「公暁」(くぎょう/こうきょう)に暗殺される事件が起こります。この事件により、3代に亘って27年間続いた源氏の嫡流は、断絶することになったのです。

その要因には、将軍家の専制体制を強化しようとしていた源実朝のことを良く思っていなかった北条義時と、三浦義村を始めとする鎌倉御家人達が共謀したとする説や、鎌倉幕府を転覆させて朝廷の権力回復を強く望んだ82代天皇「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が黒幕となっていたとする説など、様々な説が伝えられており、真相は明らかになっていません。

この事件のあとに浮上したのが、実子のいなかった源実朝の後継者として、鎌倉幕府の将軍の座に就く人物の選定問題です。

実は源実朝暗殺事件の前年から、後鳥羽上皇の親王を東下(とうか:京都から東の地方へ向かうこと)させて将軍に擁する案が検討されていました。同事件によって生じた混乱を鎮め、鎌倉幕府と北条氏による執権体制の安定化を図るためには、皇族のような高貴な血筋の人物を将軍に擁立することが不可欠だったのです。

この話を進めようと北条政子が上洛し、後鳥羽上皇の乳母であった「藤原兼子」(ふじわらのけんし)別称「卿二位」(きょうのにい)に相談して具体的な計画を練っていました。

ところが、源実朝の没後に鎌倉幕府が、計画通りに親王の東下を朝廷に申入れると、後鳥羽上皇により拒否されてしまいます。結局鎌倉幕府は、皇族より将軍を出して貰うことを諦め、源頼朝と遠戚関係にあった摂関家(せっかんけ)出身の「藤原頼経」(ふじわらのよりつね)を、鎌倉幕府4代将軍に迎え入れたのです。

しかし当時の藤原頼経は、わずか1歳の乳児。将軍としての職務を果たせるはずもなく、「尼将軍」となった北条政子がその後見を務めました。このときに北条義時は、実務面で姉の北条政子を補佐しています。そして北条義時は、将軍の座が源実朝から藤原頼経に代替わりしてからも鎌倉幕府内における実権を握り、北条氏の執権政治を継続させることに成功したのです。

朝廷側か?幕府側か?武士達に迫られた決断

約半年に亘った将軍後継者問題により、後鳥羽上皇と鎌倉幕府の覇権争いが急速に過激さを増すようになりました。

一説によれば、この頃の北条義時は、前述した源頼朝のようにいろいろな罪人の流刑地である伊豆国にいたこと、さらには、同国から京都へ通じる東海道が近く、朝廷などの情報を入手しやすかったことから、後鳥羽上皇を始めとする皇族や朝廷による倒幕の気運が高まっていることを察知していたと言われています。

そして1221年(承久3年)5月14日に後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を倒幕するため、遂に挙兵し、「承久の乱」が勃発したのです。その翌日に後鳥羽上皇は、全国の武士達に向けて、北条義時討伐の宣旨(せんじ:天皇などの命令を伝える公文書)を発布。後鳥羽上皇のもとへすぐに見参するようにとの命令を下しました。

しかし、これを受けた武士達は動揺を隠せずにいたのです。それは、この後鳥羽上皇からの命に背き、そのまま鎌倉幕府に付き従うことを選べば、武士達は「朝敵」(ちょうてき:朝廷に歯向かう敵)と見なされてしまうことが理由にありました。彼らは鎌倉幕府に仕える身ではありましたが、天皇や朝廷が示す権威にも、鎌倉時代以前と変わらずに恐れていたのです。そのため鎌倉幕府の御家人の多くが、後鳥羽上皇側に付く可能性も大いにありました。そうなってしまえば、北条氏が握っていた実権が後鳥羽上皇によって奪回されてしまうことは目に見えています。

北条義時にとって一世一代のピンチとなった局面でしたが、尼将軍・北条政子が「源頼朝公以来、将軍家から受けた御恩を忘れてはならない。今こそ一致団結すべき」と演説したことによって、武士達のほとんどが幕府のもとへ集結したと伝えられているのです。

承久の乱の戦況とその結果

北条義時を含む鎌倉幕府の首脳陣は、後鳥羽上皇の挙兵を受けて軍議を開きますが、当初は慎重論も出ていました。しかし、「防御に徹底してしまえば、東国武士達の動揺を再度招くことになる」という大江広元の助言により、短期決戦に持ち込むことを決定します。

幕府軍が通ったルート

幕府軍が通ったルート

そして北条義時は、嫡男である「北条泰時」(ほうじょうやすとき)を鎌倉幕府軍の総大将に、さらには弟の北条時房を副将に据えて、東海道と東山道、そして北陸道という3街道から、後鳥羽上皇のいる京都へ向けて進軍させたのです。

鎌倉幕府の軍勢は、合計190,000人もの武士達によって構成された大軍でした。朝廷軍は、現在の長野県から岐阜県、愛知県、三重県を流れて伊勢湾に注ぐ木曽川(きそがわ)や、宇治(現在の京都府宇治市)や瀬田(現在の滋賀県大津市)の地で待ち構えていましたが、幕府軍との兵力差は歴然。わずか1ヵ月で決着が付き、承久の乱は幕府軍の圧勝でその幕を閉じたのです。

朝廷軍の処罰と執権政治の完成

北条義時は承久の乱のあとも、北条泰時と北条時房を京都に留まらせました。これは2人に、同乱の戦後処理を行わせるためであったのです。

まず北条義時と北条時房は、承久の乱の首謀者であった後鳥羽上皇の嫡孫「仲恭天皇」(ちゅうきょうてんのう)を廃位し、後鳥羽上皇の兄の子であり、幕府に歯向かう態度を示していなかった「後堀河天皇」(ごほりかわてんのう)を即位させます。これは、後鳥羽上皇の血縁関係にあり、倒幕派であった人物達を、徹底的に中央政権から離れさせることが目的でした。

そのうえで北条泰時らは、後鳥羽上皇を隠岐島(おきのしま:現在の島根県隠岐郡)へ、84代天皇「順徳天皇」(じゅんとくてんのう)を佐渡島(さどがしま/さどしま:現在の新潟県佐渡市)への流刑に処します。また、倒幕計画に反対の意を示していた83代天皇「土御門天皇」(つちみかどてんのう)は、自らの希望で土佐国(現在の高知県)に配流されたのです。

このように天皇が武士の手で処罰されることは、前代未聞のできごと。そのため人々はこれに驚き、天皇と朝廷の威信は急速に失墜することになりました。北条義時は、例え相手が皇族であっても、怯むことなく厳しい処罰を徹底的に科すことで、鎌倉幕府と朝廷の立場が完全に逆転したことを世の人々に知らしめたのです。

そののち北条義時は、これまでの京都守護に代わって朝廷を監視する出先機関「六波羅探題」(ろくはらたんだい)を設置。さらには、約3,000ヵ所にも及ぶ公家や西国武士の所領を没収し、幕府側に付いていた御家人達に分け与えました。そしてその御家人達は、それぞれの所領を管理する「新補地頭」(しんぽじとう)に補任されたのです。

ここまで説明した戦後処理によって北条義時は、全国的な支配権を握ることとなり、北条氏の執権政治を盤石にし、本格的に展開させる礎を築きました。しかし北条義時は、承久の乱を鎮圧したおよそ3年後、衝心性脚気(しょうしんせいかっき)により62歳で急死したのです。

なお北条義時の墓は、現在の静岡県伊豆の国市に鎮座する「北條寺/北条寺」(ほうじょうじ)の境内にあります。これは北条義時の没後に、北条政子の命によって3代執権の座に就いた北条泰時が建てたと伝えられているのです。

北条義時の年譜

西暦(和暦) 年齢 出来事
1163年(応保3年/
長寛元年)
1 北条時政の次男として誕生。

1180年(治承4年) 18 源頼朝の挙兵に、父・北条時政らと共に従軍。石橋山の戦いにて、兄・北条宗時が戦死する。

1181年(養和元年) 19 源頼朝の寝所を警護する11名のひとりに選ばれる。

1185年(寿永4年/
元暦2年)
23 平氏追討のための葦屋浦の戦いにて武功を挙げる。
壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡したことにより、鎌倉幕府が開かれる。

1189年(文治5年) 27 奥州合戦に参戦。翌年、源頼朝が上洛する際、随兵のひとりとしてお供する。

1192年(建久3年) 30 比企朝宗の娘・姫の前を正室として迎え入れる。翌年、嫡男である北条朝時が生まれる。

1199年(建久10年/
正治元年)
37 源頼朝が亡くなる。その跡を継いで2代将軍となった源頼家を補佐するため、13人の合議制を確立。北条義時もその一員として参加。

1203年(建仁3年) 41 父・北条時政が病に倒れた源頼家を追放。源頼家の弟・源実朝を3代将軍に擁立する。

1204年(建仁4年/
元久元年)
42 官位「相模守」(さがみのかみ)に任じられる。

1205年(元久2年) 43 畠山重忠の乱をきっかけに、父・北条時政と対立。伊豆へ北条時政を追放する。

1213年(建暦3年/
建保元年)
51 ライバルであり、侍所別当であった和田義盛を和田合戦にて討つ。これにより和田一族は滅亡する。

1219年(建保7年/
承久元年)
57 3代将軍・源実朝が暗殺される。

1221年(承久3年) 59 北条義時を討伐するため、後鳥羽上皇が挙兵して承久の乱が勃発。幕府軍が勝利を収める。

1224年(貞応3年/
元仁元年)
62 衝心性脚気のために亡くなる。

北条義時

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那須与一

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