「井伊直政」は、「徳川家康」に仕え「徳川四天王」のひとりとして名を馳せた戦国時代の武将です。井伊直政が生まれた頃の井伊家は、駿河国今川家の支配下にあり、お家断絶の危機に晒されていました。井伊家の再興のため、そして徳川家康の恩義に報いるために信念を貫いた井伊直政の生涯をご紹介します。
徳川家康
1572年(元亀3年)、井伊直政の母「おひよ」は「徳川家康」の臣下「松下清景」(まつしたきよかげ)と再婚。井伊直政は「松下虎松」(まつしたとらまつ)として松下家の養子となり、浜松へと移住しました。
1575年(天正3年)、井伊直政にとって大きな転機が訪れます。徳川家康が「初鷹野」(はつたかの:年が明けてから最初の鷹狩り)を行なったときのことでした。
井伊直政は、「四神旗」(ししんき:中国の四霊獣・青龍、朱雀、白虎、玄武を描いた旗)を持ち、直虎と母・おひよがあつらえた着物を着て徳川家康の前へと現れます。徳川家康の家臣となるには、まずその目に留まるようにしなければならなかったのが、その理由。
そして井伊直政の狙い通り、徳川家康は井伊直政に興味を抱きました。井伊直政は徳川家康に「自分は井伊家の人間であるため徳川家に仕えたい」と伝えます。徳川家康は、かつて「桶狭間の戦い」で先鋒を務めた井伊直盛の親類である井伊直政に対して「召し抱える以外にない」と言い、井伊直政を小姓として迎え入れました。
さらに300石と16人の同心衆(どうしんしゅう:軍役を負わされた百姓のこと)を与えられ、この時に名を「松下虎松」から「井伊万千代」と変え、井伊家の再興を果たしたのです。
本能寺の変
1582年(天正10年)6月、「本能寺の変」により「織田信長」が「明智光秀」に討たれた時、徳川家康は摂津国堺(せっつのくにさかい:現在の大阪府堺市)で茶会を開いていました。
この時、徳川家康が供廻りとして連れていた家臣は僅か34名。徳川家康は織田信長の死に対してはじめ、自分も自害すると言っていましたが、本多忠勝らの説得により三河国(現在の愛知県東半部)へ帰国することを決意。「神君伊賀越え」として有名な出来事ですが、この時井伊直政も随行しており、江戸時代に作られた「名将言行録」には以下のような逸話が書かれています。
伊賀越えの途中、徳川家康一行は空腹に耐えかねて神社にお供えされていた赤飯を拝借しました。唯一口にしなかった井伊直政に対して徳川家康が「遠慮はいらんから食べるが良い」と勧めたところ、井伊直政は毅然とした態度でこう言いました。
「敵が迫ってきたらそのときは、自分がここに踏みとどまって討ち死にする覚悟です。討ち死にしたあとに腹の中から赤飯が出たら、飢えのあまりに供え物に手を出したことを知られてしまう。そうなれば武士の名折れです」
井伊直政の心意気に居合わせた者は感心し、その後無事に三河へと帰国した折には、徳川家康から孔雀の羽で折られた陣羽織「孔雀尾具足陣羽織」を贈られたと言います。
徳川家康は天正壬午の乱で味方に引き入れた武田家の遺臣74名と、名だたる坂東武者43名を、井伊直政の直属に入れました。同時に徳川家康は井伊直政に、武田家の兵法「武田の赤備え」を継承するように命じます。
「赤備え」とは、「武田信玄」が考案した精鋭部隊の俗称。部隊の兵が全員、軍旗・武具・甲冑(鎧兜)を赤一色で揃えることです。皆一様に同じ色の具足を着用することで団結力が増す他、赤は戦場で一際目立つ色であることから、赤備えの部隊は武勇に秀でた部隊の象徴とも言われていました。
結果、井伊直政率いる部隊は「井伊の赤備え」と呼ばれ、諸将を恐れさせたと言います。
井伊の赤備え
武田軍を引き入れて結成された井伊の赤備えが活躍するのは、1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」です。
織田信長の後継者を巡り「豊臣秀吉」と織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)が対立するようになり、徳川家康は織田信雄の援軍として参戦していました。
小牧において豊臣秀吉軍を退けた徳川家康は、長久手でも豊臣秀吉軍をさらに追撃。両軍ほぼ互角の勢いを見せていましたが、井伊直政の配置した鉄砲300挺が豊臣秀吉軍の意表を突き、総崩れします。
この時、井伊直政は赤色の兜に鬼の角のような飾りを付けており、先陣を切って長槍で敵を蹴散らしていきました。勇猛果敢な姿を見た人々は井伊直政のことを「井伊の赤鬼」と呼び、一躍全国にその名が知れ渡ったのです。
小牧・長久手の戦いのあと、1590年(天正18年)に行なわれた「小田原征伐」ののちに徳川家康の国替えが実施されると、徳川家康は関東一円に領地を持つことになります。この中で最大の領地を拝領したのが井伊直政で、12万石と上野国(現在の群馬県)箕輪への入封を果たし、徳川四天王の中でも最大の恩賞を得ました。
そして井伊直政は、1598年(慶長3年)に箕輪城を廃城して、中山道と三国街道の要衝にあたる高崎にあった和田城を改築して高崎城を築城します。
一方で井伊直政は、自分のみならず周囲へ対する厳しさにより家臣から恐れられていました。井伊直政は旧武田家の遺臣を預かったあと、徳川家康の期待に応えるためにより一層家臣に対して厳しくなります。井伊の赤備えと呼ばれた家臣らに対しての仕打ちは特に厳しく、どれほど些細な失敗であっても決して許さずに手討ちにすることもありました。
井伊直政の厳格な気質に対して付いた異名が「人斬り兵部」。「兵部」(ひょうぶ)とは、当時の井伊直政の官職「兵部少輔」(ひょうぶしょうゆう)のことで、厳しさに耐えかねて逃げ出す家臣も少なくありませんでした。
1600年(慶長5年)、豊臣秀吉が没してから僅か2年後に起きた天下分け目の「関ヶ原の戦い」。この時、井伊直政は徳川家康率いる東軍として参戦し、「黒田長政」を通して西軍の諸大名を東軍へと引き入れる政治的手腕を発揮します。
そして本戦では、「福島正則」が先陣を切る決まりであったことを無視して抜け駆けし、一番槍として戦いの火蓋を切って落としました。なお、この抜け駆け問題は霧の中で偶然出会い頭に戦闘が始まってしまっただけではないかとも言われています。
島津義弘
戦闘は最初こそ西軍が優勢でしたが、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)の寝返りにより状況は逆転。西軍諸将が次々と敗走する中、孤立していた西軍「島津義弘」(しまづよしひろ)は敵を切り抜けて退却するという行動に出ます。
島津軍は精鋭であり、死を前にしての迫力に東軍も追撃を躊躇しました。僅か数百の島津軍は奮闘し、大軍で構成されている東軍を正面から突破しようとします。
島津軍は徳川家康がいる本陣の近くへと迫りますが、転進して伊勢街道を南下。井伊直政は本多忠勝や「松平忠吉」と共に追撃します。
この時、井伊直政は島津軍「柏木源藤」(かしわぎげんとう)が撃った銃弾にあたり落馬してしまい、その隙をついて島津義弘は本国へと逃げおおせました。約6時間の戦闘の末、東軍は圧勝。ここに徳川家康の天下統一の準備が整ったのです。
戦後、井伊直政は戦いの最中に受けた銃弾の傷を癒やす間もなく、戦後処理に従事します。西軍総大将「毛利輝元」との講和交渉役を担って毛利氏の改易を回避。また、敗戦の将となった「石田三成」が捕縛された折には、石田三成を手厚く保護する他、西軍「真田昌幸」と昌幸の次男「真田幸村(真田信繁)」の助命にも尽力するなど、身を粉にして働いた結果、1601年(慶長6年)に石田三成の旧領・近江国佐和山(現在の滋賀県彦根市)18万石を与えられます。
そして、関ヶ原の戦いから2年後の1602年(慶長7年)、井伊直政は佐和山城でこの世を去りました。享年42歳。死因については主に2つの説があります。ひとつは、関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷による破傷風や鉛中毒が原因であるという説。
もうひとつは、大怪我を押してまで働き詰めていたことが原因の過労死説。文武に優れ、礼儀作法も完璧にこなし、毛利家家臣「小早川隆景」などから「本気を出せば天下を取れる逸材」とまで言われた知将・井伊直政の評価は高く、江戸幕府編修の系譜集「徳川実紀」(とくがわじっき)や「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)にも、「徳川家康が江戸幕府を開くにあたり、最大の功労者は井伊直政だった」と記されています。
歴史上の人物が活躍した合戦をご紹介!
彦根橘
「橘」(たちばな)は、柑橘類の樹木の一種。季節を問わず緑色の葉が茂っていることから「永遠」を象徴する存在であり、その果実は「非時香果」(ときじくのかぐのこのみ)とも呼ばれ、「日本書紀」や「古事記」には「不老不死」の霊薬のもとになる果実と記載される縁起の良い樹木です。
井伊家が橘を家紋として使用し始めた理由は諸説あります。ひとつは、初代井伊家の「井伊共保」(いいともやす)が井戸から生まれた時、傍に生えていたのが橘だったため家紋として用いるようになったという説。
もうひとつは、赤子の井伊共保が井戸の傍で捨てられていた時、その手に持っていたのが橘だったという説。細かな部分にこそ違いはありますが、初代当主・井伊共保の出自が橘紋を使用し始めた理由として挙げられます。
なお、「彦根橘」と非常に良く似た「丸に橘」という家紋も存在。彦根橘との違いは、幹の部分の形状と、花の模様が違う点です。
井桁紋
井伊家が使用していたもうひとつの家紋が「井桁紋」(いげたもん)。文字通り「井伊」の「井」の字を使用した紋ですが、由来についてはもうひとつ説があります。
井伊家初代当主の井伊共保が生まれた場所(発見された場所)が井戸であったから、という説です。
もともと「井桁」とは、井戸の地上部の縁に設置された井の形をした木枠部分のことであり、井伊共保にゆえんがある井戸にちなんで家紋として井桁を使用し始めたのではないかと言われています。
仏語(禅宗)の言葉です。「生きるか死ぬかは重大なことであり、人として生きる今でなければ悟りを開くことはできない。過去や未来ではなく、人として生きている今が最も大切だ」という意味になります。
井伊直政は、幼少期に寺院などを転々としていました。その時に受けた説法が、のちの井伊直政の生き方や性情に大きな影響を与えていたのです。それは、自他共に認める厳格な人柄。あまりの厳しさに家臣から恐れられた一方で、徳川家康家臣団の他の武将からはその優遇ぶりに対して嫉妬されていました。井伊直政が自分にも家臣にも厳しくしていた理由は、大きく分けて2つあると言われています。
ひとつ目の理由は、「他の家臣団を納得させるため」。武功を挙げるたびに他の武将達よりも多くの報酬を賜っていた理由が、容姿の良さや井伊直盛の親類だからという贔屓(ひいき)ではなく、文武に秀でていたから当然の待遇を受けたということを示したかったのです。
そしてもうひとつの理由が、「期待に応えるため」。育ててくれた直虎や母・おひよ、そして徳川家康の恩義に報いるために、常に先陣切って手柄を立てました。先鋒を務めることは、武士にとって最大の花形である一方で、討ち死にをする危険性が最も高い役割です。
井伊直政は、「伊賀越え」のときもただひとり赤飯に口を付けませんでしたが、それも徳川家康や他の家臣達を逃がすための決意の表れからでした。幾度もの合戦をくぐり抜け、危険を顧みずに多くの手柄を立てた井伊直政は、誰よりも死と隣り合わせの位置にいたからこそ、「今」を懸命に生きることを最も重んじていたのです。
井伊直政が家臣に対して述べた言葉。「(捕虜として捕まえた相手を解放したとき)こちらに不利をもたらさないと見なした相手であれば、それは敵とは言わない(命を奪う必要はない)」という意味です。
井伊直政は、関ヶ原の戦いの折に西軍総大将・毛利輝元や、捕縛された石田三成に対して手厚い対応をしたという逸話以外に、戦後の西軍・島津氏と徳川家康の和平交渉の仲立ちをする他、関ヶ原の戦い開戦前に豊臣秀吉方の諸大名と交渉をして見事に味方に付けるなど、交渉術にも長けていました。「敵だから」というだけで、相手の事情や目的も聞かずに斬り捨てることは意味がないことで、むしろ共闘できるならば共に戦うべきだと知っていたのです。
井伊直政は寡黙で多くを語らず、人の言葉を黙って聞くことが多かったと言います。その一方で、相手が間違ったことを言ったときは、相手に恥をかかせないために誰もいないところで的確な助言を述べることから、徳川家康の相談相手でもありました。
また、箕輪城主であった頃は城下の民衆から慕われていたと言います。井伊直政は、家臣に対しては厳しく、また井伊の赤備えとして戦場では容赦のない戦いぶりを見せていましたが、たとえ敵であったとしても礼儀を忘れずに接することができる、義に厚い武将でした。
徳川家康の期待に応えるために誰よりも強くあり続け、生涯を捧げた井伊直政の生き方を真似することは難しいかもしれません。しかし、状況に応じて適切な判断を下せる柔軟な思考力や、誰が相手であっても礼儀を尽くす心がけや気配りは、現代でも必要な素養であり人間関係を円滑にするための基本と言えます。