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佐竹義宣

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徳川家康に「律義者」(りちぎもの)と評された「佐竹義宣」(さたけよしのぶ)。 豊臣秀吉のもとでは、常陸国(ひたちのくに:現在の茨城県)に54万5,000石余を領し、「豊臣政権の六大将」と呼ばれた戦国大名です。「関ヶ原の戦い」においては、徳川家康に味方しなかったため、のちに出羽国久保田(現在の秋田県秋田市)へ国替えとなりますが、地元豪族の勢力を排除し、久保田藩(秋田藩)の礎を築きました。
ここでは、佐竹義宣の人となりに焦点をあて、ゆかりの刀剣や家紋、興味深い逸話について触れながら、その生涯に迫っていきます。

生まれは清和源氏の流れをくむ名門

佐竹義宣

佐竹義宣

佐竹義宣は、1570年(元亀元年)7月16日に常陸国「太田城」(現在の茨城県常陸太田市)にて、「佐竹義重」(さたけよししげ)の嫡男として誕生。

母は「伊達晴宗」(だてはるむね)の娘で、戦国大名「伊達政宗」は母方の従兄にあたります。

佐竹氏は、「清和源氏」(せいわげんじ)の一家系である「河内源氏」(かわちげんじ)の流れをくむ「常陸源氏」の嫡流(ちゃくりゅう:本家の家筋)です。

武田信玄」で知られる武田氏の「甲斐源氏」とは同族になります。

佐竹義宣が3歳のとき、父・佐竹義重は敵対していた下野国那須郡(現在の栃木県北東部)の那須氏と和睦。

この和睦は、那須氏当主「那須資胤」(なすすけたね)の娘を佐竹義宣の妻とすることが条件とされていました。

のちに、那須資胤の娘「正洞院」(しょうとういん)は、佐竹義宣の正室となっています。

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豊臣政権で54万5,000石余を領有

転機となった小田原征伐への参陣

豊臣秀吉

豊臣秀吉

1586年(天正14年)、父・佐竹義重の隠居により、佐竹義宣は家督を相続。

当時佐竹氏は、仙台藩(現在の宮城県仙台市)の藩祖・伊達政宗、「小田原城」(神奈川県小田原市)の後北条氏(ごほうじょうし)と対立していました。

「後北条氏」とは、鎌倉幕府の執権を務めた北条氏の直系ではなく傍系にあたる関東の大名氏族です。区別するために、後北条氏と呼ばれます。

一方、佐竹氏は、豊臣秀吉と誼(よしみ:親しい交わり)を通じ、さらに「石田三成」(いしだみつなり)や「上杉景勝」(うえすぎかけかつ)とも親交を結んでいたのです。

このような背景があるなか、1589年(天正17年)に佐竹義宣は、豊臣秀吉から「北条氏政」(ほうじょううじまさ)・「北条氏直」(ほうじょううじなお)父子を攻めるための「小田原征伐」への参陣を命じられます。小田原征伐は、豊臣秀吉による天下統一へ向け、最後の仕上げとなる戦いでした。

小田原征伐への出陣命令を受けたとき、佐竹義宣は伊達政宗と戦の最中でしたが、これを切り上げ、父・佐竹義重や、下野国(現在の栃木県)の戦国大名「宇都宮国綱」(うつのみやくにつな)ら与力大名(大大名の指揮下に入っている大名)を含むおよそ10,000の軍勢を率いて小田原へ馳せ参じます。

豊臣秀吉に謁見して臣下の礼を取った佐竹義宣は、1590年(天正18年)6月、石田三成の指揮下に入り、後北条氏に臣従する成田氏の居城「忍城」(おしじょう:現在の埼玉県行田市)攻略に参戦。守りが堅く容易に落ちない忍城に対して、石田三成軍は水攻めを実行しました。佐竹義宣は、このとき堤防構築を担ったと伝えられています。

しかし、忍城は落城に至らず、先に小田原城が落ち、後北条氏が滅亡したため、忍城は開城されることとなりました。

忍城の戦い」での功績から、佐竹義宣は南奥羽(現在の宮城県、福島県山形県)について、豊臣秀吉から知行(領地を直接支配すること。またその土地)として認められます。南奥羽は、かねてより伊達政宗と支配権を巡り争っていた土地でした。

さらに、常陸国と下野国の一部も豊臣秀吉に安堵(以前の知行地をそのまま賜ること)され、これにより佐竹氏は、徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで、「豊臣政権の六大将」と呼ばれるようになったのです。

佐竹義宣は、豊臣秀吉の後ろ盾を得て、反対勢力を討伐。常陸国統一へ向けて足場を固めていきました。居城も太田城から「水戸城」(茨城県水戸市)へと移します。

1594年(文禄3年)に全国で行なわれた太閤検地(豊臣秀吉による田畑の測量と収穫量調査)の結果、佐竹氏の領国には54万5,000石余という石高が新たに設けられました。

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恩義ある石田三成の命を救う

石田三成

石田三成

1597年(慶長2年)10月、佐竹義宣の従兄弟であり、与力大名である宇都宮国綱が突然改易(かいえき:身分を剥奪し、領地、家禄、屋敷を没収すること)されてしまいます。

その理由は、跡継ぎのなかった宇都宮国綱の養子にまつわる争いがあったためなど諸説ありますが、これに伴い、佐竹氏にも処分が下るはずでした。

しかし、このとき石田三成の取り成しによって、佐竹氏は処分を免れたと言われています。

その後、1598年(慶長3年)8月に豊臣秀吉が没すると、石田三成を中心とする文治派と、「加藤清正」(かとうきよまさ)、「福島正則」(ふくしままさのり)ら武断派との対立が深刻化。

翌1599年(慶長4年)3月に「前田利家」(まえだとしいえ)が死去したことをきっかけとして、加藤清正、福島正則ら武断派の七将によって、石田三成の屋敷が襲撃されるという事件が起こります。

急報を受けた佐竹義宣は、石田三成を女輿に乗せて敵の目を欺くと、屋敷から脱出させることに成功。一度は「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)の屋敷へ逃れますが、それでも安心できず、京都伏見にある徳川家康の屋敷に保護を求めました。この事件は、徳川家康が仲裁に入って収めたと伝えられています。

恩義ある石田三成を救った佐竹義宣は、「治部(じぶ:石田三成の官職)が死んでは生き甲斐がなくなる」と述べたということです。

関ヶ原の戦いへの対応により転封

徳川家康に従うか否か、苦慮した佐竹義宣

徳川家康

徳川家康

1600年(慶長5年)、徳川家康は、恭順の意を示さない上杉景勝を討つため「会津征伐」へと乗り出します。会津征伐を皮切りとして、「関ヶ原の戦い」が始まったのです。

佐竹義宣には、徳川家康から上杉景勝討伐の命が下されました。

この事態に、佐竹氏内部でも意見が分かれます。佐竹義宣は、上杉景勝との間で上杉方に与するという密約を交わしていたとされ、さらには石田三成との親交もあり、徳川家康からの命令に進んで従うことはできなかったのです。

しかし、父の佐竹義重は時流を読み、佐竹氏の安泰を図るためにも徳川家康方に付くべきだと考えます。隠居したとは言え、佐竹義重が家内外に及ぼす影響力はいまだ強く、父子は対立しました。

結果として、佐竹義宣は上杉景勝征伐には向かわず、本拠地の水戸城へ自軍を引き上げてしまいます。この行動を釈明するため、徳川家康へ使者を送る一方、「上田城」(長野県上田市)の「真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)を攻撃していた「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に対しては、支援する名目で約300騎を送ったのです。

佐竹義宣の選択は、どっち付かずと言える対応となってしまいました。

関ヶ原の戦いは、徳川家康方の東軍が勝利を収めて終結します。佐竹義宣は、徳川家康に会って謝罪すると共に、佐竹氏の存続を懇願しました。

徳川家康は、謝罪に訪れた佐竹義宣について、「今の世に佐竹義宣ほどの律義者は見たことがない」と評した上で、石田三成や上杉景勝への義理を通す余り東軍に味方しなかったことを指して「しかし、あまり律儀すぎても困る」と述べています。

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石高を半減されて秋田へ

関ヶ原の戦いから2年後の1602年(慶長7年)、佐竹義宣は徳川家康から国替えの命を受けました。転封先は、出羽国秋田郡(現在の秋田県)。54万5,000石余から20万石へ減らされての転封(てんぽう:領地を別の土地へ移すこと。国替え)です。

この減転封に関しては、会津征伐でも、関ヶ原の戦いでも傷付かず、大きな兵力を温存している佐竹氏を江戸から遠ざけようとする徳川家康の狙いがあったと言われています。

佐竹義宣は、「久保田城」(現在の秋田県秋田市)を本拠地と定めて内政に尽力。家柄や従来の慣例にとらわれず、能力本位で若い「渋江政光」(しぶえまさみつ)らの家臣を登用し、領地内の開墾(かいこん)を積極的に進め、佐竹氏家中の立て直しを図ります。

この尽力がのちに功を奏し、江戸時代中期には、佐竹氏が治める久保田藩(秋田藩)の実質的な石高は45万石になりました。

しかし、もとは浪人であった若い渋江政光を重用する佐竹義宣の手法に、代々佐竹氏に仕える老臣が反発。家老の「川井忠遠」(かわいただとお)らによる佐竹義宣の暗殺も企てられますが、これは佐竹義宣が、暗殺謀議に加担した家臣らを粛正して未遂に終わります。

江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

大坂冬の陣で武勲を挙げる

大坂城(大阪城)

大坂城(大阪城)

1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」で、佐竹義宣は徳川方として参陣。

「大坂城」(現在の大阪城)の玉造口(たまつくりぐち)にて、豊臣方の「木村重成」(きむらしげなり)、「後藤基次」(ごとうもとつぐ)が率いる軍勢と戦います。

佐竹義宣は、重用した渋江政光を失うなど苦戦しますが、上杉景勝らの援軍を得て、豊臣軍を撤退させました。

この功績により、徳川幕府における佐竹義宣軍への評価が見直されることに。大坂冬の陣で武勲を挙げて徳川幕府から感状を受けた12名のうち、5名が佐竹氏の者であったことからも、高く評価されたことが分かります。

佐竹義宣の跡を継いだのは他藩の藩主

佐竹義宣は、実子の男子ふたりを早くに亡くすなど、世継ぎに恵まれませんでした。そこで、佐竹氏の分家である佐竹北家の当主であり、佐竹義宣の末弟にあたる「佐竹義直」(さたけよしなお)を迎え、継嗣(けいし:跡継ぎ)とします。

ところが佐竹義直は、「江戸城」(現在の東京都千代田区)で行なわれた猿楽(さるがく:物まねや曲芸など主とする伝統芸能)の見物中に居眠りをするという失態を演じてしまったのです。そのとき、長年の敵であった伊達政宗から注意を受けた佐竹義宣は、佐竹義直を廃嫡(はいちゃく:跡継ぎとしての権利を廃すること)。その後、佐竹義直は出家しました。

再び跡継ぎの問題に直面した佐竹義宣は、亀田藩(現在の秋田県由利本荘市)藩主で、甥の「岩城吉隆」(いわきよしたか:のちに佐竹義隆[さたけよしたか]を名乗る)を新たな継嗣として迎えます。

親族とは言え、他藩の藩主を継嗣とするのは異例の大事ですが、大御所(おおごしょ:隠居した前将軍)の徳川秀忠から許可を得ることができました。これは徳川秀忠が、佐竹義宣に全幅の信頼を寄せていたからだとされています。

佐竹義宣は、64歳であった1633年(寛永10年)、江戸神田の屋敷で生涯に幕を閉じました。

源頼朝から賜った扇が家紋の由来

五本骨扇に月丸

五本骨扇に月丸

佐竹氏の家紋は、「佐竹扇」(さたけおうぎ)とも呼ばれる「五本骨扇に月丸」(ごほんほねおうぎにつきまる)です。

鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」(あづまかがみ)には、その由来が記されています。

佐竹氏が「源頼朝」(みなもとのよりとも)のもとへ馳せ参じた際、何も描かれていない白旗を掲げていたところ、源頼朝が自らの旗と同じであると咎めました。

源頼朝は、佐竹氏に扇を賜り、これを旗に付けて区別するように命じます。この旗に付けた扇がもととなり、月を配して、佐竹氏の家紋が誕生したということです。

古代、扇には神霊が宿ると信じられていました。扇で風を送るのは「神霊を仰ぎ寄せる」とされ、戦場で扇をあおげば神霊の威光によって身が守られ、戦に勝利すると考えられたのです。

また、扇は「末広」(すえひろ)とも言い、末に向かって広がってゆく、つまり次第に栄えていくという縁起の良い意味もあります。

佐竹義宣の名言・逸話

三成は公命にそむいたこともないのに、諸将は私情で三成を討とうとする。自分はかつて三成に恩を受けた。今かれの危急をみて、命にかけて救っただけである。このことを家康に謝すのがよいとすれば、御辺よきにはかられよ。

これは、石田三成の屋敷が襲撃されたのちのこと。佐竹義宣が師事する茶の湯の師匠「古田織部」(ふるたおりべ)が訪ねてきて、石田三成を救った佐竹義宣自身の行動について、徳川家康に釈明するよう忠告します。それに応えたのがこの名言です。

この言葉を受けた古田織部は、佐竹義宣と徳川家康の間に入るとりなしを、茶の湯仲間である「細川忠興」(ほそかわただおき)に依頼。細川忠興から話を聞いた徳川家康は、「義宣身命にかけて旧恩に報いたのは、義というべきである。自分には異存はない」と答えました。

徳川家康が「律義者」と評した佐竹義宣らしい名言と言えます。

魚に慕われた佐竹義宣

佐竹義宣が秋田へ移ったとき、付いて行ったのは家臣達だけではありませんでした。

焼き魚や煮魚、干物、味噌漬けにしてもおいしい「ハタハタ」という魚がいます。秋田の名物として知られていますが、もともとは常陸国の大洗沖でよく獲れる魚だったとのこと。

ところが、関ヶ原の戦いのあと、佐竹義宣が常陸国から秋田へ転封になると、ハタハタは佐竹義宣を追って勝手に秋田まで行ってしまいました。以来、常陸国では獲れなくなったと言われています。

また、金銀銅などの鉱物資源も佐竹義宣に付いて行ったとされました。佐竹義宣が秋田へ移ってから、久保田藩内で「院内銀山」(いんないぎんざん)や「阿仁銅山」(あにどうざん)が発見され、逆に常陸国では採掘量が減ったことから、「常陸の金銀銅は地下を通って秋田へ行ってしまった」と伝えられています。

これらの逸話が生まれたのは、佐竹義宣が漁法の発達と流通の整備に力を入れ、さらに鉱山の開発を行なった結果であると言えるのです。領地内の発展に力を尽くした佐竹義宣の功績をよく表している逸話です。

戦国武将・佐竹義宣にふさわしい刀 無銘 来国光

佐竹義宣が佩刀したとされる本刀は、刀身の鍔(つば)に近い部分の幅が約3.3cmと広く、厚さもたっぷりとした平肉(ひらにく)が付く「蛤刃」(はまぐりば)と呼ばれる形状で、重厚感のある堂々とした姿をしています。戦国の乱世を生き抜いた佐竹義宣にふさわしいと言える豪刀です。

制作者の「来国光」(らいくにみつ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した刀工で、「来国俊」(らいくにとし)の子、または門人であったとされます。

来国光が属した「来一門」は、鎌倉時代中期以降に山城国(現在の京都府南部)で栄えた刀工集団です。なかでも来国光は、現存する作品の多くが国宝重要文化財に指定されるなど、名工として名を残しています。

刀 無銘 来国光(佐竹義宣佩刀)
刀 無銘 来国光(佐竹義宣佩刀)
無銘
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
71.8
所蔵・伝来
佐竹義宣 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

佐竹義宣

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