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高山右近

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「高山右近」(たかやまうこん)は、人生のほぼすべてを、キリスト教に捧げた戦国武将です。「キリシタン大名」と呼ばれた人物は数多くいますが、家や領地を犠牲にしてまで信仰を貫いた大名は、高山右近ただひとり。その強烈な信仰心と影響力から、「伴天連の大旦那」(ばてれんのおおだんな)と呼ばれ、当時の日本におけるキリシタンの中で、中心的役割を担っていました。キリシタンの第一人者として、自身の勢力を拡大することよりも、信仰の道を選んだ高山右近の生涯を、逸話や戦いの数々を交えてご紹介します。

高山右近が生まれ育った環境

高山氏のゆかり

高山右近のイラスト

高山右近

「高山右近」は1552年(天文21年)、摂津国(現在の大阪府北中部・兵庫県南東部)の一部を治めていた「高山友照」(たかやまともてる)の嫡男として生まれました。

「高山家」はもともと、平安時代の59代天皇「宇多天皇」(うだてんのう)の皇子、「敦実親王」(あつみしんのう)の子孫でした。代々、摂津国高山(現在の大阪府豊能町)の地頭を務めていた家柄です。

高山友照の代に、近畿地方で勢力を拡大していた「三好家」(みよしけ)の重臣「松永久秀」(まつながひさひで)に従い、その後、室町幕府の幕臣であり、摂津国守護のひとり「和田惟政」(わだこれまさ)に仕えることになりました。

高山氏の家紋

七曜紋

七曜紋

高山家の家紋に用いられていたのは、「七曜」(しちよう)と称される意匠です。

月や星を図案化した月星紋のひとつで、起源は古代中国の天文学。中央の円を6つの円が囲むように配置されており、「武神」を意味していることから武家の間で、広く採用されていた家紋でした。

幼少期に洗礼を受ける

高山右近がキリスト教に入信したのは、1564年(永禄7年)の12歳の頃。父・高山友照が、イエズス会の修道士「ロレンソ了斎」(ロレンソりょうさい)と仏僧の討論会を聞いたのが発端でした。そのとき、ロレンソ了斎は、仏僧による疑問を整然と論破。深く感銘を受けた高山友照は即座に洗礼を受けたと言います。

さらに居城へロレンソ了斎を招くと、妻子や家臣にも洗礼を勧め、高山一族は、キリシタン一家となったのです。この際、計53名が洗礼名を受けたと伝えられています。

なお、高山右近の洗礼名「ドン・ジュスト」は「正義の人」という意味。父は「ダリヨ」、母は「マリア」という洗礼名を授かりました。

しかし高山右近は、キリスト教を学ぶにつれ、「汝殺すなかれ」などの宗門の教えと、殺生を避けられない武門の宿命との狭間で、苦悩していくことになるのです。

戦国の世の習いと信仰心の構築

和田家からの独立

室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)の命により、「高槻城」(たかつきじょう:現在の大阪府高槻市)に和田惟政が派遣されると、高山友照・高山右近親子は、和田家に仕えることになります。

ところが1571年(元亀2年)に、「白井河原の戦い」(しらいかわらのたたかい)で、和田惟政が池田家の重臣「荒木村重」(あらきむらしげ)に討たれると、状況が一変。嫡男の「和田惟長」(わだこれなが)が跡を継ぎますが、家中で人望を集めていた高山親子を危険視するようになり、暗殺計画を立て始めたのです。

これを知った高山友照は、池田家を乗っ取り、摂津国随一の勢力を持つようになった荒木村重に相談。すると荒木村重は、「殺される前に殺すべきである。兵の援助は惜しまない」と言い、高山家に対して20,000石の所領を保障。これにより、高山親子は返り討ちを決行します。

高槻城での会議の席上で、主君・和田惟長を襲撃して致命傷を負わせ、高槻城から追い出したのです。このような経緯を経て高槻城は、事実上高山家の居城となりました。

なお、この襲撃時、高山右近も乱戦の中で負傷。一説では、首を半分切断されるほど深い傷だったとか。高山右近は、約2ヵ月間生死の境をさまよった末、奇跡的に回復を遂げます。そしてこの臨死体験が、高山右近に深い信仰心を植え付けたと言われているのです。以降高山右近は、精力的に領内でのキリスト教の布教に励むようになりました。

荒木村重による反乱の顛末

織田信長

織田信長

高山右近は、父の隠居に伴い、高槻城主となりました。そして、「織田信長」から摂津国の領有権を約束されていた荒木村重に従い、行動を共にするようになります。

ところが1578年(天正6年)、突如として主君・荒木村重が「織田家」から離反。高山右近は再考を促すため、妹や息子を人質に差し出して説得を試みました。

しかし、荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断したのです。この際、宣教師の「オルガンティーノ神父」にも相談しており、「織田信長に降る(くだる)のが正義だが、よく祈って決断するように」と助言を受けています。

一度は織田家との敵対を表明した荒木村重でしたが、その後、織田信長から「母を人質に差し出し、「安土城」(あづちじょう:現在の滋賀県近江八幡市)へ弁明に来れば許す」と寛大な条件が出されたのを機に、織田家と対抗することに尻込みするようになりました。

そんななか、重臣の「中川清秀」(なかがわきよひで)が、荒木村重に対して、籠城を強硬に進言。高山右近も、その意見に押され、同調せざるを得なかったのです。このとき、隠居していた高山友照も、織田家からの離反を支持していました。

結局、居城の「有岡城」(ありおかじょう:現在の兵庫県伊丹市)での籠城を決めた荒木村重軍は、「有岡城の戦い」(ありおかじょうのたたかい)へと突入。高山右近は、高槻城で織田軍と対峙することになりました。すると織田信長から、「ただちに開城しなければ、修道士達を高槻城の前で磔(はりつけ)にする」という、苛烈な脅しが届いたのです。

城内では、開城と抗戦とで意見が割れ、収拾がつかない状況に陥りました。さらに隠居した父が、「もし織田信長に寝返るなら切腹する」と言い出したことで、高山右近の悩みは、極限状態に達していったのです。

そこで高山右近が出した答えは、「すべてを捨てる」ということでした。どちらにも加担せずに領地も家族も捨て、単身で織田信長のもとへ投降。高山右近は、頭を丸め、紙衣(かみこ:和紙で作った着物)のみを身に着けた姿で、織田信長のところへ現れたのです。

この潔さに感じ入った織田信長は、人質の救出と領地の倍増を約束し、出家を止めるように、高山右近を説得します。この手厚い申し出に対して断り切れなかった高山右近は、結局武将として、織田信長に仕えることになったのです。

なお高山友照は、荒木村重に加勢して最後まで抵抗を続けたあと、助命されて越前国(現在の福井県北東部)へ流され、キリシタンとして生きることを選びました。

キリスト教を広めるために尽力

伴天連の大旦那と呼ばれる

黒田官兵衛

黒田官兵衛

信仰と家(領土)の両立が難しいことを悟った高山右近は、キリスト教にますます傾倒し、信仰に殉じていきます。

高槻城周辺に住む貧しいキリシタンが亡くなったときには、農村に巨大な十字架を建てて自ら棺を担ぎ、800人規模の集団洗礼を実施。高槻一帯は、キリシタンの数が飛躍的に増えたと伝えられているのです。

さらには、京都に南蛮寺(教会堂)を建てるため尽力したり、安土城下に、西洋の学問を教える学校「セミナリヨ」の建設について、許可が得られるように織田信長と交渉したりと、日本におけるキリスト教の発展に貢献しました。

また、多くの戦国武将にも、キリスト教の素晴らしさを訓導。「蒲生氏郷」(がもううじさと)や「黒田官兵衛」(くろだかんべえ:本名「黒田孝高」[くろだよしたか])、「牧村政治」(まきむらまさはる)など、そうそうたる武将達も洗礼を受けました。こうした幅広い布教活動から、高山右近は、「伴天連の大旦那」と呼ばれるようになります。

1581年(天正9年)には、ローマから派遣された巡察師「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」を迎え、盛大な復活祭を開催。セミナリヨの生徒達によるオルガンの音色や聖歌に包まれて、15,000人以上の人々が、聖画や提灯を掲げる大パレードで練り歩きます。その様子を目の当たりにしたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、「まるでローマにいるようだ」と感嘆したと伝えられているのです。

大名としての高山右近

高山右近は、布教活動に邁進する傍ら、武将としての評価も高めていきました。損得に左右されない善良な人格が重宝されたのです。

特に、織田信長の覇業を引き継いだ「豊臣秀吉」のもとでは、主要な戦いに次々と参陣。1582年(天正10年)の「山崎の戦い」(やまざきのたたかい)において、先鋒を務めて「明智光秀」軍を破ったのを皮切りに、「柴田勝家」との「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)や、「徳川家康」との「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)にも加勢し、勝利に貢献します。

歴戦の戦功が豊臣秀吉に認められ、1585年(天正13年)には、播磨国明石(現在の兵庫県明石市)の「船上城」(ふなげじょう)を拝領。高山右近は、60,000石の大名となったのです。

権力者達の禁教令

豊臣秀吉のバテレン追放令

豊臣秀吉による「九州征伐」に従軍した高山右近は、1587年(天正15年)6月のある日、筑前国(現在の福岡県西部)で突如、「バテレン追放令」が施行されることを知りました。

多くのキリシタン大名は、棄教まではせず、表立ったキリシタン活動を避けることで折り合いを付けましたが、高山右近は頑として、己の信仰を曲げなかったのです。

豊臣秀吉に呼び出され「キリシタンと領土、どちらを取るか」と迫られた高山右近でしたが、躊躇なく領土の返上を申し出たと言われています。

  • 豊臣秀吉

    豊臣秀吉

  • 小西行長

    小西行長

しかし、かつての僚友(仕事仲間のこと)が、高山右近に温情をかけます。キリシタン仲間の「小西行長」(こにしゆきなが)にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らしたあと、最終的には加賀国(現在の石川県南部)の「前田利家」に預けられることになったのです。

対外的には、「前田家」での謹慎という名目でしたが、実際は客将として、自由な生活が確保されていました。密かに布教活動を続けながらも、前田利家より禄高15,000石を受け、政治面や軍事面の相談役として、働いていたのです。

なお、高山右近は「関ヶ原の戦い」では東軍に属して加賀国松任(現在の石川県白山市)の「丹羽長重」(にわながしげ)を「浅井畷の戦い」(あさいなわてのたたかい)で撃退。江戸時代に入ってからは、「高岡城」(たかおかじょう:現在の富山県高岡市)の縄張設計を担当し、随所で武将としての手腕も発揮しました。

徳川家康のキリシタン国外追放令

徳川家康

徳川家康

1614年(慶長19年)、さらにキリシタンへの弾圧が過酷さを増します。徳川家康がキリスト教の禁教令を発布し、キリシタンに対し、国外追放の命令が下されたのです。

高山右近は、これに抵抗することなく、この命令に従いました。正室の「高山ジュスタ」を始め、一族を引き連れて加賀国をあとにすると、長崎へと向かったのです。

高山右近一族を含む総勢350名の行き先が、フィリピン・ルソン島のマニラに決まると、高山右近らは、「伊王島」(いおうじま:現在の長崎市伊王島町)沖に停泊していたエステバン・デ・アコスタ号へ乗り込みます。そこには加賀国において、共に布教活動に取り組んだキリシタン武将「内藤如安」(ないとうじょあん)の姿もありました。そして一行は、故郷・日本に永遠の別れを告げて、異国の地へ旅立ったのです。

ルソン島で国賓として迎えられる

約1ヵ月にも及ぶ船旅を経て、ようやくルソン島に到着すると、沿岸にはマニラの総督が儀仗兵(ぎじょうへい:儀礼や警護のために配置される将兵)を伴って、高山右近一行を出迎えていました。礼砲が鳴り響き、歓呼の声に包まれながら上陸した高山右近は、そのまま総督の官邸へ。そこでは長旅を労われ、スペイン国王の名において敬意を捧げられるなど、国賓に値する待遇が待っていたのです。

実はマニラの総督は、「ルイス・デ・グスマン」が記した「ゼズス会東洋伝道録」によって、高山右近の日本での布教活動について、すべて把握していたのです。

しかし、上陸からわずか40日後、高山右近は熱病に冒され、64歳で息を引き取ります。装束は妻の手により、純白の鎧直垂(よろいひたたれ)に折烏帽子(おりえぼし)の武将姿に整えられ、枕元には刀剣と兜、胸元には十字架が置かれていました。その後、葬儀は聖アンナ教会において、10日間に亘って執り行なわれ、マニラ全市を挙げて、祈りが捧げられたのです。

高山右近の信仰にまつわる逸話

織田信長の焼香を断固拒否

本能寺の変」で織田信長が横死すると、その菩提寺であった「大徳寺」(だいとくじ:現在の京都府京都市)にて葬儀が行なわれます。このとき高山右近は、人知れず信仰の岐路に立たされていました。法要を取り仕切ったのは、天下人としての後継者の地位を確立していた豊臣秀吉。その眼前で、焼香をしなければならなかったのです。

キリスト教では偶像崇拝が禁じられているため、焼香をすれば神の教えに背くことになります。しかし、拒否すれば豊臣秀吉の面目を潰し、下手をすれば殺される恐れもありました。高山右近は、決死の覚悟で葬儀に臨み、最後まで焼香を上げないという決断を下すのです。

単に豊臣秀吉が気付かなかったのか、あるいはキリスト教の教義を知った上で見逃したのかは定かではありませんが、何事もなく葬儀は終了。神の計らいが働いたと感じた高山右近は、さらに神への忠誠を誓ったと言います。

「利休七哲」に数えられる茶人

千利休

千利休

キリシタンとして知られる高山右近ですが、実は茶人としても高名でした。茶聖「千利休」の高弟「利休七哲」にも数えられ、「ジョアン・ロドリゲス」が記した「日本教会史」の中でも、日本における茶道の第一人者であることが書かれています。

しかし、当代きっての茶人であり、織田信長の末弟でもある「織田長益」(おだながます:号「織田有楽斎」[おだうらくさい])によれば、高山右近の茶道は「潔癖すぎる」とのこと。これは、高山右近が一流だと認められていたからこそ、生じた批判とも言えるのです。

金沢城下のクリスマスパーティー

加賀国の前田利家が亡くなったあと、その跡を継いだ「前田利長」(まえだとしなが)は高山右近を深く尊敬し、陰ながら布教活動を支援しました。高山右近悲願の南蛮寺の建立を実現したのも前田利長です。

1608年(慶長13年)に高山右近は、完成したばかりの南蛮寺でクリスマスのミサを計画します。自ら筆を執って招待状を送り、当日は厳かな儀式のあとに、晩餐会も開催。高山右近自ら客人達をもてなし、武将から市民まで、多くの人々が分け隔てなく聖夜を楽しみました。加賀国におけるキリシタン信仰が頂点に達したのは、この頃であったと言われています。

高山右近

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