「黒田長政」(くろだながまさ)は、「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)という偉大な父を持ち、父と同様に武勇を轟かせた武将です。父親の黒田官兵衛は、「黒田孝高」(くろだよしたか)や「黒田如水」(くろだじょすい)という別名がありましたが、黒田長政も同様に「喜兵衛」(きへえ)という別名がありました。
黒田長政は、戦国三英傑である「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」に仕えた人物です。幼少時には有岡城の一件で織田信長に命を奪われそうになったり、家督を継いだあとは豊臣秀吉の命のもと朝鮮出兵したり、天下分け目の「関ヶ原の戦い」では東軍の徳川家康を勝利に導いたりと波乱万丈の時代を生き抜き、ついには52万石の領土を持つ初代福岡藩主になりました。そんな「黒田長政」について、生涯や名言などをご紹介します。
黒田長政
「黒田長政」は、1568年(永禄11年)に誕生しました。父は、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」でもお馴染みの「黒田官兵衛(黒田孝高)」(くろだかんべえ[くろだよしたか])で、母は小寺氏と従属関係にあった「櫛橋伊定」(くしはしこれさだ)の娘です。
幼名は「松寿」(しょうじゅ)で、通称は「喜兵衛」(きへえ)。
当初、黒田家は小寺氏に仕えていましたが、1577年(天5年)から父・黒田官兵衛(黒田孝高)と共に、「織田信長」に仕えています。
父・黒田官兵衛(黒田孝高)は、「豊臣秀吉」の軍師として活躍するようになったことから、黒田長政は人質として豊臣秀吉に預けられます。
黒田官兵衛
人質として扱われていた黒田長政でしたが、豊臣秀吉と正室のねね/北政所(きたのまんどころ)との関係は良好で、2人に可愛がられて成長しました。このように人質の立場でありながら充実した人生を送っていた黒田長政でしたが、1578年(天正6年)10月、生涯最大のピンチに襲われます。
「荒木村重」(あらきむらしげ)が織田信長を裏切り、「有岡城の戦い」を起こすのです。荒木村重は、敵対していた毛利方に付くことを表明し、有岡城に立てこもります。この事態に直面した豊臣秀吉は、荒木村重と旧知の仲だった黒田官兵衛(黒田孝高)に、荒木村重を説得するよう命じました。
しかし、説得に向かった黒田官兵衛(黒田孝高)は、逆に荒木村重に捕縛され、居城に監禁されてしまいます。こうして黒田官兵衛(黒田孝高)は捕らえられましたが、織田信長にはその理由が伝わっていませんでした。そのため織田信長は、黒田官兵衛(黒田孝高)が自分を裏切り寝返ったのだと激高し、豊臣秀吉に息子・黒田長政を処刑するように命じます。こうして、黒田長政は自身の与り知らぬところで、人生最大の危機的状況に陥ったのです。
竹中半兵衛
黒田長政の処刑を命じられた豊臣秀吉ですが、実行をためらっていました。しかしながら、主命に逆らう訳にもいきません。そんなとき、豊臣秀吉に仕えていた「竹中半兵衛」(たけなかはんべえ)が、黒田長政の処刑役を申し出ます。
実は竹中半兵衛は、黒田長政の処刑を避けようと機転を利かせたのです。黒田長政を自身の領地へと引き取って家臣の屋敷に匿い、別人の首を豊臣秀吉、織田信長に差し出しました。
その後、1579年(天正7年)10月、荒木村重のもとから父・黒田官兵衛(黒田孝高)が救出され、事情が明るみになり、黒田官兵衛(黒田孝高)は謀反の罪を晴らすことができたのです。そこで黒田長政も生きていると報告されて、許されます。生涯で数多くの合戦に参加した黒田長政でしたが、このときが最も死に近かったと言えるかもしれません。
1582年(天正10年)に起こった「本能寺の変」で、織田信長が命を落として以降、黒田父子は豊臣秀吉に仕えて、織田信長の後継者争いを支えることに。「賤ヶ岳の戦い」で武功を挙げて450石を獲得し、さらに「小牧・長久手の戦い」でも功を重ねて2,000石の加増を受けるなど、若くから頭角を現しました。黒田父子が豊臣秀吉の配下として共に奮戦したことも影響し、織田信長の後継者争いは、豊臣秀吉の勝利で幕を閉じます。その後は、豊臣秀吉の天下統一事業に従事していくことになりました。
また、黒田父子は「九州平定」の際にも武功を挙げ、豊臣秀吉より黒田官兵衛(黒田孝高)に12万5,000石が与えられます。またこの時期、黒田父子はキリスト教の洗礼を授かり、「ダミアン」という洗礼名を名乗っていました。なお、1587年(天正15年)豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出したことにより、キリスト教を棄教しています。
徳川家康
かねてより五奉行の筆頭「石田三成」とは折り合いが悪かった黒田長政でしたが、豊臣秀吉の死後、対立は決定的になっていきます。そこで、黒田長政は同じく石田三成と対立していた「徳川家康」に急接近するのです。
まず、黒田長政はすでに迎え入れていた妻と離縁し、新たに徳川家康の養女「栄姫」(えいひめ)を継室として迎え入れました。こうして姻戚(いんせき)関係を結び、徳川家康との繫がりを強化したのです。
また、同じく石田三成と対立していた「加藤清正」(かとうきよまさ)らと共に、石田三成を襲撃するなど「関ヶ原の戦い」以前から武力行動に出ていました。この襲撃自体は失敗に終わりますが、黒田長政の石田三成に対する激しい敵意が見て取れます。
関ヶ原の戦い
黒田長政は、関ヶ原の戦いの開戦に備えて「東軍」(徳川家康軍)の調略を担当していました。
関ヶ原の戦い直前の勢力図はかなり混沌としており、諸大名も東軍(徳川家康軍)と西軍(石田三成軍)のどちらに味方するかを相当慎重に判断していた形跡が確認できます。
この理由は、東軍(徳川家康軍)も西軍(石田三成軍)も、もとは豊臣秀吉の家臣で、どちらの勢力にも有力大名が味方していたため。豊臣秀吉の後継者を決める天下分け目の戦になることは明らかであったため、選択を間違えれば家が滅びる可能性が高かったことなどが挙げられます。
そこで、東軍・西軍共に「第三勢力」を自陣営に引き入れることを重視。判断を迷っている大名を自陣営に引き入れ、かつ自陣営に属する大名の寝返りを防ぐことが戦の勝利に直結することを十分に理解していたのです。
東軍に味方することを決意していた黒田長政は、様々な調略を用いて、自陣営に勢力を引き入れていました。1600年(慶長5年)に入り、徳川家康が諸大名の寝返りを懸念したことから、黒田長政の行動はスタートします。
徳川家康が特に寝返りを警戒したのが、石田三成の急先鋒と目されていた「福島正則」(ふくしままさのり)でした。福島正則は大大名であり、仮に彼が離反すれば多くの武将が同様の行動に出ることが予想されたからです。さらに、福島正則に近しい「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)が西軍に付くことを表明しており、福島正則が影響されることもあり得ると考えていました。
しかし、福島正則と特に親しかった黒田長政は、彼が石田三成に味方することはないと徳川家康に断言します。黒田長政はその友情から、福島正則がどれほど石田三成を嫌っているかを見通していたのです。この言葉は徳川家康を大いに安心させました。そして、実際に福島正則は東軍の一員として関ヶ原の戦いを迎えることになります。ここで黒田長政の判断が正しかったことが証明されました。
次に黒田長政は、西軍への味方を表明していた毛利家の出身である「毛利両川」(もうりりょうせん:毛利元就の次男・吉川元春の子孫である吉川広家[きっかわひろいえ]と、毛利元就の3男・小早川隆景の子孫である小早川秀秋[こばやかわひであき])の懐柔(かいじゅう:うまく手懐けること)に乗り出しました。彼らの本家である「毛利輝元」は、西軍の中心的存在でしたが、毛利両川はどちらに味方するかを決めかねていたのです。
そこで、黒田長政は、吉川広家と積極的な書状のやり取りを繰り広げ、吉川家の「日和見」(ひよりみ:物事の成り行きを見て有利な方に付くこと)を約束させます。吉川家を完全に味方に引き入れることまでは叶いませんでしたが、大きな勢力を誇っていた吉川家が戦に本腰を入れないという約束はとても価値があり、同時に西軍にとっては大きな痛手でした。
さらに、もうひとりの小早川秀秋のもとにも頻繁に家臣を通わせ、内応を仄(ほの)めかしました。もともと黒田家と小早川家には深い繫がりがあり、黒田長政は小早川秀秋に合戦当日の内応を約束させることに成功したのです。
こうした黒田長政の働きかけで、東軍は万全の態勢で合戦当日を迎えることができました。一方の西軍は、味方だと思い込んでいた手勢の中に内通者がいる状態で、合戦当日を迎えることとなります。
いよいよ関ヶ原の戦い合戦当日。黒田長政が働きかけた毛利両川(吉川広家、小早川秀秋)が、事前の約束通り西軍を裏切ったため、西軍は総崩れ。戦そのものは、驚くべき早さで東軍勝利で収束していくことになります。
黒田長政は、戦場でも活躍。石田三成を支えた剛の者「島左近」(しまさこん)を討ち取るなど、調略だけでなく武勇も存分に発揮しました。これにより、西軍の敗退は決定的なものに。
合戦における黒田長政の働きは、徳川家康によって最上の評価を受け、彼の所領12万石は4倍以上の52万石へと加増、筑紫(ちくし:現在の福岡県)一国を与えられました。こうして、黒田長政は一気に大大名へと成長したのです。
歴史上の人物が活躍した合戦をご紹介!
関ヶ原の戦いで東軍が大勝し、天下が徳川家康の手中に収められた14年後、豊臣家の残党を滅ぼすべく「大坂冬の陣」が開戦しました。黒田長政はこの戦で江戸の留守役を任されたため直接戦闘には参加しませんでしたが、戦そのものは徳川方の勝利に終わっています。
そして翌年開戦された「大坂夏の陣」では留守役ではなく実際に戦場へと赴き、「徳川秀忠」(とくがわひでただ)隊に所属することに。この際は盟友でもあった「加藤嘉明」(かとうよしあきら/よしあき)らと共に陣を張り、見事に徳川方の勝利と豊臣家の滅亡に貢献しました。
戦に協力する一方で、この時期の黒田長政は領内の統治を推進。1604年(慶長9年)、隠居後は「如水」(じょすい)と名乗っていた父・黒田官兵衛(黒田孝高)が亡くなったため、葬儀を執り行なっています。
1623年(元和9年)、徳川秀忠に先立って上洛していますが、この頃になると黒田長政は体調を崩しがちに。そして病が深刻化し、現地で56歳の生涯を閉じました。
なお、黒田長政の後継は長男である「黒田忠之」(くろだただゆき)が継ぎますが、彼は息子の素質を疑問視しており、跡を継がせないことも検討したと伝わっています。この黒田長政の懸念は現実のものとなり、黒田忠之は後年お家騒動を引き起こし、藩の存亡にかかわる局面を迎えることとなりました。
黒田家の家紋は、場面や時代によって使い分けられているという特徴があります。まず、黒田官兵衛(黒田孝高)や黒田長政、さらに黒田家が江戸時代を通して使用していたのが三つ藤巴/黒田藤巴紋と白餅紋でした。
三つ藤巴/黒田藤巴紋
「三つ藤巴/黒田藤巴紋」(みつふじどもえ/くろだふじどもえもん)は、現代でもよく黒田家の家紋として紹介される有名な家紋で、3つの藤房が渦を巻くようにデザインされています。
また、三つ藤巴/黒田藤巴紋に関しては、黒田官兵衛(黒田孝高)が荒木村重によって捕らえられた際のエピソードが有名です。
黒田官兵衛(黒田孝高)は先の見えない監禁生活を送っていましたが、外に見える藤の花を見て、生きる望みを託していたとされています。
これを史実と断言することはできませんが、これが黒田家の紋様として藤の花が採用されたきっかけと言われているのです。
白餅紋
「白餅紋」(しろもちもん)は、江戸時代の出版物にしばしば登場する黒田家の家紋です。白餅紋は白地に黒一色の球形を描くだけの単純なデザイン。
この家紋は、黒田長政の肖像画でもその存在を確認できるように、三つ藤巴/黒田藤巴紋と併用していたと考えられています。
この両家紋がどのように使い分けられていたかについて、ハッキリしたことは分かっていません。ただ、白餅紋が表紋(正式な紋)で、三つ藤巴/黒田藤巴紋が裏紋(公式行事以外で使用される紋)として使用していたという説が有力です。
江戸時代には、表紋として用いられていた白餅紋ですが、明治時代以降は使用されなくなりました。黒田家11代藩主の「黒田長溥」(くろだながひろ)も明治に入ってからは、三つ藤巴/黒田藤巴紋を使用。その他、黒田家関連の組織・団体の名前にも「藤」の文字や三つ藤巴/黒田藤巴紋が使用されるようになります。
また、黒田官兵衛(黒田孝高)のエピソードが、「吉川英治」や「司馬遼太郎」の手によって著名になっていくと、家外でも「黒田家の家紋=三つ藤巴/黒田藤巴紋」と見なされるようになったのです。このように、明治時代以前と以降では、家紋の地位が逆転したと言えるのです。
黒田長政は、黒田官兵衛(黒田孝高)と共に親子で活躍した武将であり、同時に黒田長政は黒田官兵衛(黒田孝高)を深く敬愛し誇りに感じていました。それを象徴する名言として、黒田長政が死の直前に語った遺言書の言葉を紹介します。
「官兵衛が西軍に味方すれば、彼に付き従う武将は多く西軍の軍勢は10万程増加する。そうなれば、家康は簡単につぶされてしまうだろう。」
これは関ヶ原で黒田官兵衛(黒田孝高)が西軍に付いていれば、徳川家康は敗れたと黒田長政が考えていたことを示しています。ここから、黒田長政は父の実力を認めていただけでなく、天下を取れる力を持ちながら徳川家康に尽くした「孝行の将」であると認識していたのだと言えるのです。
黒田長政は、感情の高ぶりが激しい人物で、しばしば激情家だったと指摘されます。この性格を象徴しているエピソードに、黒田官兵衛(黒田孝高)が長年重用してきた猛将の「後藤基次/又兵衛」(ごとうもとつぐ/またべえ)を、父の死後、家から追放し他家への仕官さえも許さないという厳しい処分を下したことが挙げられます。この処分は極めて重いものであり、通常であればまず課されることはありませんでした。
しかしながら、黒田長政も自身が激情家であることを認識していたようで、晩年には家老や忠義に篤い家臣数名を集めて「異見会」なるものを実施していました。この会は別名「腹立たずの会」とも呼称されており、家臣達と腹を割って交流していた様子が確認できます。
腹立たずの会では、黒田長政が怒っている様子を見せると、家臣達が「これは一体どうしたことでしょうか。殿がお怒りのように見えますよ」と指摘していました。これに対し、黒田長政は「いやいや、私の心中に怒りの気持ちは全くないよ」と返し、表情を和らげたとされています。
このように黒田長政は、怒りやすい一面を見せることも少なくなかったのですが、一国の主となってからは自身の悪癖を認識し、接しやすい君主であろうと務めていた様子が確認できます。