戦国武将一覧

福島正則

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「福島正則」(ふくしままさのり)と言えば、豊臣秀吉の家臣で勇猛果敢な「武断派」の武将。賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)・小田原の役・朝鮮出兵・関ヶ原の戦いで武功を挙げ、51万石の大名に。「武勇に長けるが、大酒吞みで智謀に乏しい猪武者」とも呼ばれる、福島正則の生涯に迫ります。

幼少から豊臣秀吉の小姓に

福島正則

福島正則

福島正則は、1561年(永禄4年)、尾張国海東郡(現在の愛知県あま市)に生まれます。幼名は「市松」。

父「福島正信」(ふくしままさのぶ)は、もとは桶屋を営んでおり、母が「豊臣秀吉」の叔母「松雲院」。

母が豊臣秀吉の叔母であったことから召し出されて、父・福島正信は豊臣秀吉に家臣として仕えました。

福島正則と豊臣秀吉は従兄弟の関係で、年齢差が24歳もありました。なかなか子宝に恵まれなかった子ども好きの豊臣秀吉と「ねね」によって、同じく豊臣秀吉の親戚であった「加藤清正」(かとうきよまさ)と共に、かわいがられて育ちます。

豊臣秀吉にとっては、血縁で結ばれている福島正則と加藤清正は、安心・信頼できるかけがえのない存在。

やがて、福島正則と加藤清正の2人は豊臣秀吉の身の回りの雑用を行なう「小姓」となり、無二の親友となるのです。

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豊臣秀吉自慢の精鋭武将

三木城跡

三木城跡

福島正則の初陣は、1578年(天正6年)、「三木城の合戦」です。これは、豊臣秀吉が「別所長治」(べっしょながはる)に対して行なった、2年に亘る兵糧攻めの戦い。

このとき福島正則は、勇猛果敢にも兜首(かぶとくび:身分のある武将の首)2つを上げる武功を収め、禄高200石を得ます。

1582年(天正10年)6月2日、「本能寺の変」で「織田信長」が死去すると、6月13日、豊臣秀吉と共に「明智光秀」(あけちみつひで)を滅ぼす「山崎の戦い」に参戦し、300石増加の500石に。

1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」では、「賤ヶ岳七本槍」(福島正則・加藤清正・脇坂安治・平野長泰・加藤嘉明・片桐且元[かたぎりかつもと]・糟屋武則[かすやたけのり])のひとりに抜擢され、一番槍として、敵将「拝郷家嘉」(はいごういえよし)を討ち取り、5,000石を得ます。

さらに、1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」、1585年(天正13年)の「四国征伐」で連勝し、「伊予今治」(いよいまばり:現在の愛媛県今治市)10万石の大名に。

また1587年(天正15年)の「九州征伐」や、1590年(天正18年)の「小田原征伐」、1592年(文禄元年)の「朝鮮出兵/文禄の役」でも大連勝。

1595年(文禄4年)に尾張「清洲城」に移り、24万石を領します。1597年(慶長2年)の「慶長の役」には参加せず、1599年(慶長4年)に大将として再び朝鮮へ出兵する予定でしたが、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が病死したことで中止となり、日本軍は朝鮮半島から全軍撤退するのです。

関ヶ原の戦いのキーマンに

徳川家康

徳川家康

1599年(慶長4年)、朝鮮出兵における意見の対立によって、「文治派」(ぶんちは:武力を用いないで、法令・教化などで政治を行なう立場の人々)の「石田三成」と「武断派」(ぶだんは:武力をもって政治を行なおうとする立場の人々)の福島正則や加藤清正、「黒田長政」(くろだながまさ)は険悪な関係に。

武断派メンバーは石田三成を暗殺しようとしますが、「徳川家康」に諭されて中止するという出来事が起こりました。このときから、福島正則は徳川家康に心を開くのです。

1600年(慶長5年)、徳川家康が石田三成に対して「関ヶ原の戦い」を起こします。このキーマンこそが福島正則でした。豊臣家側の武将達を引き連れて、徳川家康に味方します。結果、徳川家康側の大勝。

福島正則は、「広島城」と安芸国(現在の広島県)、備後国(現在の広島県)の2ヵ国49万8,000石を賜り、大大名となるのです。

1603年(慶長8年)、徳川家康は朝廷から征夷大将軍を賜り、江戸幕府を開きます。これに驚いたのは、福島正則です。天下は豊臣秀吉の息子「豊臣秀頼」(とよとみひでより)に取らせたかったのに、徳川家康の天下取りの企みを見抜くことができず、関ヶ原の戦いが豊臣家における武将の筆頭は徳川家康になってしまったことが、ようやく分かりました。

1605年(慶長10年)、徳川家康は早々に将軍職を3男「徳川秀忠」(とくがわひでただ)に譲り、世襲(せしゅう:身分・財産・職業などを子孫が受け継いでいくこと。世襲制度)することを宣言。豊臣秀頼に将軍・徳川秀忠と対面するように要求しますが、豊臣秀頼は拒否。

しかし、1611年(慶長16年)に再度徳川家康が豊臣秀頼に会見を要求すると、福島正則は加藤清正、黒田長政と共に「淀殿」(よどどの)を説得。会見が実現します。

この会見後、奇妙な出来事が起こったのです。加藤清正、黒田長政、池田輝政(いけだてるまさ)などの豊臣家恩顧の大名が次々と死亡。病気とも毒殺とも言われています。これを受けてか福島正則は、1612年(慶長17年)、病気を理由に隠居します。

1615年(元和元年)に起こった徳川家康が豊臣家を滅ぼす「大坂冬の陣・夏の陣」では、福島正則は豊臣秀頼に加勢を求められますが、これを拒絶。徳川家康は、福島正則を江戸に留め置きます。そして、豊臣家は滅亡。

1619年(元和5年)徳川家康死後、台風で壊れた広島城を福島正則が修築したところ、居城の改修を無断で行なった「武家諸法度」(ぶけしょはっと:武家を統制するために江戸幕府が制定した基本法)違反と咎められ、改易(かいえき:領地・家屋敷などを没収する刑)。

家督を次男の「福島忠勝」(ふくしまただかつ)に譲り隠居しますが、1620年(元和6年)福島忠勝が早世したため、2万5,000石を返上しました。そして、1624年(寛永元年)、福島正則は病死。享年64歳でした。

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裏表がなく真っ直ぐな武将

黒田官兵衛

黒田官兵衛

福島正則は酒癖が悪く、いくつかの失態エピソードを持っています。1番有名なのが、「黒田節」に歌われている事件。

黒田官兵衛」(くろだかんべえ)、黒田長政の家臣「母里太兵衛」(もりたへえ)に、「この酒を飲み干せたならば、好きな褒美を取らす」と酔った勢いで酒を勧めて、家宝の槍「日本号」を取られてしまうのです。

また、酔った勢いで家臣に切腹を命じても覚えがなく、翌日家臣の死を知って号泣したという話も。しかし、悪酔い以外は人情深くて裏表がなく、真っ直ぐな性格だったため、多くの家臣に慕われていました。

福島正則は、1619年(元和5年)徳川家康が死ぬ前にお見舞いに行っています。そのとき、徳川家康に「徳川家に不満があれば、遠慮なく兵を挙げよ」と冷たく言われ、「徳川家のために勤めてきたのに、あのような言われ方は情けない」と人目をはばからず、泣きました。これを見て徳川家康は、福島正則の本心が聞きたくて言ったのだと慰めています。

豊臣の人間でありながら、徳川に仕え、騙(だま)された男。「武勇に長けるが智謀に弱い」、「猪突猛進武将」などと悪く言われることもありますが、実は単に、豊臣秀吉に憧れ徳川家康に惚れてしまった、真っ直ぐで純粋な武将だったのです。

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猛将を支えた武器

猪突猛進の猛将として名を馳せた福島正則。ここでは、福島正則が使用していたと伝えられている武具をご紹介。

「太刀 長船兼光」(名物 福島兼光)、日本号(呑取りの槍)の他、「黒漆塗桃形大水牛脇立兜」と「銀箔押一の谷形兜」に関する福島正則と黒田長政のエピソードについても簡単に解説していきます。

太刀 長船兼光(名物 福島兼光)

刀工「備前長船景光」(びぜんおさふねかげみつ)の嫡男、備前長船兼光(びぜんおさふねかねみつ)が制作した太刀

規則的な小さな互の目(ぐのめ)と乱れ刃の一種である丁子(ちょうじ)を交えた刃文(はもん)、南北朝時代に多く見られる大振りで豪壮(ごうそう)な姿が特徴です。

福島正則が手にしたのは、1599年(慶長4年)の39歳のとき。広島城主だった福島正則が統治下の「日蓮宗本覚寺」から没収し佩刀(はいとう:帯刀)し始めたと言われています。

福島兼光

太刀 長船兼光(名物 福島兼光)

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
備州長船住兼光
観応□年八月日
南北朝時代 初期 国宝 徳川秀忠→
徳川家光→
山内忠義→
東京国立博物館

日本号(呑取りの槍)

日本号(にほんごう/ひのもとごう)は、黒田節の母里太兵衛の逸話のもととなった大身槍。「呑取りの槍」(のみとりのやり)とも呼ばれる、正三位の位を持つ伝説の槍です。

徳川四天王のひとり「本多忠勝」(ほんだただかつ)の愛槍「蜻蛉切」(とんぼきり)と、下総国(しもうさのくに:現在の千葉県北部と茨城県の一部)の大名である「結城晴朝」(ゆうきはるとも)が刀工「五条義助」(ごじょうよしすけ)に命じて制作させた大身槍「御手杵」(おてぎね)に並んで、日本の「天下三名槍」(てんかさんめいそう)のひとつに数えられています。

制作者は不明、刀長は1尺(約30.3㎝)以上あり、2.8kgの重量を誇る大身槍。刀身には、不動明王の化身である「倶利伽羅龍王」(くりからりゅうおう)の浮彫が施されており、武器であることを忘れてしまうほどの美しさを秘めている槍です。

福島正則自身、日本号をとても大切にしていたようですが、別名呑取りの槍と言われている通り、母里太兵衛と酒の席で、賭けの対象にしてしまいました。福島正則の「飲み干せたならば好きな褒美を取らす」、「黒田の者は酔うと役に立たぬほど酒に弱いのか」という挑発に乗った母里太兵衛が酒をすべて飲み干し賭けに勝つ形で、福島正則は日本号を手放すことになります。

まさか、賭けに負けるとは微塵も考えていなかった福島正則は、豊臣秀吉から褒美として拝領した日本号を手放すことに躊躇(ちゅうちょ)し、褒美を別の物に変更することを提案しました。しかし、母里太兵衛の「正則公は武士にもかかわらず二言を申すのですか」という言葉を受け、後悔しながらもしぶしぶ日本号を差し出したのです。

このエピソードは、福島正則の宴席での有名な失敗談として現代に伝えられており、「酒は呑め呑め、呑むならば日の本一のこの槍を呑み取るほどに、呑むならばこれぞ真の黒田武士」という文言で始まる民謡、黒田節として謡われています。

日本号

日本号(呑取りの槍)

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
室町時代 後期 国宝 足利義昭→
織田信長→
豊臣秀吉→
福島正則→
母里友信→
福岡市博物館
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黒漆塗桃形大水牛脇立兜と一の谷形兜

銀箔押一の谷形兜

銀箔押一の谷形兜

福島正則が身に付けていたとして挙げられるのが、黒漆塗桃形大水牛脇立兜(くろうるしぬりももなりだいすいぎゅうわきだてかぶと)と銀箔押一の谷形兜(ぎんぱくおしいちのたになりかぶと)の2つです。

福島正則と言えば、インパクトのある大きな水牛の角をあしらった飾りが特徴的な、黒漆塗桃形大水牛脇立兜ですが、元々は銀箔押一の谷形兜を使用していました。

非常に奇抜な形の銀箔押一の谷形兜は、長方形を横に長くしたような見た目をしており、背面には檜(ひのき)の板に銀箔を張り付けた物が衝立のように装飾されています。

最初に使い始めたのは「竹中半兵衛」(たけなかはんべい)であると考えられており、源平合戦「一ノ谷の戦い」で「源義経」(みなもとのよしつね)が披露した「鵯越の逆落とし」(ひよどりごえのさかおとし:一ノ谷の戦いで使った源義経の奇策戦法)に由来。近年の調査においては、銀箔ではなく、一面に金箔が使われていたことが判明しました。

福島正則が黒漆塗桃形大水牛脇立兜を装備し始めたのは、「文禄・慶長の役」以降であると考えられており、朝鮮出兵に対する見解の違いから不仲になった黒田長政と和解するために、お互いの兜を交換し合ったことがきっかけであると伝承されています。

1600年(慶長5年)に起こった関ヶ原の戦いにおいても、福島正則が黒漆塗桃形大水牛脇立兜、黒田長政は銀箔押一の谷形兜をそれぞれが装備し、合戦に臨んでいました。

福島正則の家紋

福島沢瀉

福島沢瀉

福島正則は、主に「福島沢瀉」(ふくしまおもだか)を家紋として使用していました。

「沢瀉」(おもだか)とは、池や沢に自生している水草の一種で、別名を「勝軍草」(かちいくさぐさ)。尖った葉の形がまるで槍の先端のように見えることから、「勝ち戦」にこだわる多くの武将達が家紋に取り入れていたと言われています。

豊臣秀吉が自身の家臣達に授けた家紋であり、「木下藤吉郎」(きのしたとうきちろう)時代の豊臣秀吉も、沢瀉紋を使っていたと言われています。また、沢瀉紋は元々、豊臣秀吉の正室である「ねね」の実家で使用されていました。

豊臣秀吉の家臣達の中でも、最後まで沢瀉紋を使い続けていたのは福島正則であり、これは武将として自分を育ててくれた豊臣秀吉に対する恩義の表れであると推測されます。そのため、福島の名を取り、沢瀉紋は総称して福島沢瀉と呼ばれるようになりました。

福島正則は、渦を巻く水や勾玉(まがたま)を意味する「三頭右巴」(さんとうみぎどもえ)や、皇室専用の高貴な家紋として知られる「五七桐」(ごしちぎり)などを使用していた時期もあります。この2つについても、豊臣秀吉から授かった家紋であり、豊臣秀吉自身も使用していた物です。

また沢瀉は、「鷹の羽紋」(たかのはもん)、「片喰紋」(かたばみもん)、「木瓜紋」(もっこうもん)、「藤紋」(ふじもん)、「桐紋」(きりもん)、「蔦紋」(つたもん)、「茗荷紋」(みょうがもん)、「橘紋」(たちばなもん)、「柏紋」(かしわもん)と並び、日本10大家紋のひとつに挙げられています。

沢瀉紋としての種類も豊富で、福島沢瀉以外にも「立ち沢瀉」、「変わり五つ沢瀉」、「井桁に立ち沢瀉」など、その数は30種類以上。

中国地方を統一し、「三本の矢の教え」でも有名な「毛利元就」(もうりもとなり)も戦場でオモダカの葉に止まる蜻蛉(とんぼ)を見付けて勝利を確信し、その後、沢瀉紋を使用するようになったと伝えられています。

福島正則の名言

福島正則は、感情を偽ったり飾ったりしない人物として語られることが多い武将ですが、いくつかの名言も残されています。

ここでは、福島正則の性格が垣間見えるような言葉をご紹介。それぞれの意味についても説明していきます。

酒船一艘失ったとて大したことではないが、 指図を受ける手立てのないとき、汝の一存で秀家公に酒一樽を贈ったとは、よく計らってくれた。もし汝が、われを憚って秀家公の所望する酒を惜しんでいれば、われは吝嗇(りんしょく:ケチなこと)の汚名を残したであろう

福島正則が自身の家臣に対して発言したとされている言葉で、近年では、ビジネスの場でも用いられることもあります。

福島正則は、江戸に居住していた際、大坂から酒を取り寄せていたのですが、ある日、その酒を積んだ船が暴風雨に見舞われ、八丈島への一時避難を余儀なくされます。そのような状況下で、あるひとりの島の男が船に近付き、福島正則の家臣に声を掛けてきました。

「無理を承知でお願いしたい。その酒を一杯飲ませてもらえないか」

そう言って声を掛けてきたのは、備前・岡山城主で豊臣五大老のひとり「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)でした。宇喜多秀家は関ヶ原の戦いにおいて福島正則とは敵同士。関ヶ原の戦いに敗れた宇喜多秀家は、福島正則の酒船が避難した島で流刑の身として過ごしていたのです。

福島正則の紋章を付けた船ということを承知で、声を掛けた宇喜多秀家。そんな宇喜多秀家に頼み込まれた福島正則の家臣は、酒を一樽(いっそん)進呈します。酒を受け取った宇喜多秀家は大変感謝し、福島正則の家臣に何度も礼を述べました。

そして、福島正則に対する感謝の証しに詩を一首したため、言伝を託したのです。その後、この話を聞いた福島正則は宇喜多秀家とやり取りを行なった家臣を呼び付け、この名言を言い称賛したと言われています。

何事も仕事を進めるにあたって、上司の指示や命令を遵守するのは当たり前のことですが、状況によっては自分自身で判断しなければならない場合も訪れます。例え、そういった状況に陥ったとしても、しっかりと周囲を把握した上で、相手の気持ちを考えて行動することの大切さを物語っているのです。

大悪日だから出陣するのだ。われの本意は、2度とここに帰らないことにある

占いで大悪日(だいあくび:凶日。陰陽道において物事を進めるのに悪い日)と示された福島正則が、出陣日に述べた名言です。

福島正則の主君であった豊臣秀吉が悪日に出陣し、山崎の戦いで勝利を収めたように、悪日だからと言って何も行動を起こさないのではなく、考え方をその都度変化させながら柔軟に対応することが大切である、ということを意味しています。

仕事しかり学業しかり、失敗や目標不達成はつきものです。しかし、その自分にとって不都合なことであってもプラスと考えるかマイナスと考えるかで、その後の進捗や成長は異なります。

福島正則の家臣が「悪日」と言って出陣をためらったように、仕事や学業においても固執した考えを持つことが進捗や成長の妨げにつながりかねません。そのため状況に応じて、何事も臨機応変に対応できる柔軟性が求められるのです。

時すでに3年早く、3年遅かった。こうなってはあとの祭りである

徳川家康が豊臣家を滅亡させた大坂冬の陣・夏の陣。豊臣側から味方になるように打診されましたが、福島正則は断ってしまいます。

その際に、福島正則がこの名言を残したと言われ、単細胞で戦馬鹿と伝えられています。仁義だけを貫き、行動する直情的な男ではなかったということなのです。

それはいけない。俺はいつ死ぬか分からない。 あの足軽に申し渡す前に俺が死んだら、彼は一生士分になれないではないか。こういうことは、思いついたらすぐに実行しなければならないのだ

何事も思い立ったらすぐに行動するべきである、という格言。

福島正則が風呂に入っているとき、控えていた従者にある足軽を呼ぶように命じ、なぜ呼んだのかを訪ねると、福島正則はその足軽を昇進させると言いました。

「それは、風呂を出てからでも良かったのではないのか」と言う従者に対して、福島正則が「思いついたらすぐに実行しなければならない」と言っているのです。

弓を見てみよ。敵があるときはこのうえなく重宝な物だが、国が治まっているときは袋に入れて土蔵に入れておく。わしはつまり弓である

領地を津軽(現在の青森県)に変更させられたときに残した言葉で、例え猛将と言われようが平和な世になってみると用済み扱いされるものである、ということを皮肉ったひとことです。

福島正則

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源義経

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