甲冑は、基本的に頭にかぶる「兜(かぶと)」と、体を守る「鎧(よろい)」の二つを総称して「甲冑」と言います。鑑賞として楽しむものだけでなく、時代によって形状や呼び方が異なり、様々な歴史があるのも面白さのひとつです。 ここでは、代表的な甲冑のご紹介をはじめ、甲冑(鎧兜)の分類、甲冑(鎧兜)の歴史など、様々なカテゴリ(テーマ)に分けて、初めての方でも一から学べる甲冑(鎧兜)の教科書のようになっています。正しい甲冑の基礎知識を身につけましょう!
「甲冑」(かっちゅう)と聞くと、何かとっつきにくそうなんて感じてしまう人もいるのではないでしょうか?その原因のひとつは、甲冑(鎧兜)の名前にあると考えられます。例えば「徳川家康」が所用した甲冑(鎧兜)として知られている「伊予札黒糸縅胴丸具足」(いよざねくろいとおどしどうまるぐそく)という名前を聞いたとき、初心者の方はこう思うでしょう。「漢字ばかりで、何だか難しそうだな」。しかし、そうではありません。むしろ逆。名前のルールが分かってしまえば、その甲冑(鎧兜)を鑑賞するためのヒントが詰まっているのです。今回は、甲冑(鎧兜)を楽しむための準備運動として、甲冑(鎧兜)について大まかにご紹介します。
甲冑(鎧兜)を鑑賞する上で、知っておくべきこと。それは、各部の名称です。甲冑(鎧兜)は、合戦における戦い方の変化に伴って進化していきました。そのため、同じ名称であっても、形状などが異なっており、それも見どころのひとつであると言えます。「日本式甲冑(鎧兜)」には、「大鎧」(おおよろい)と「当世具足」(とうせいぐそく)という2つの大きな転換点がありました。すなわち、大鎧は平安時代に登場した日本式甲冑(鎧兜)のはしりであり、室町時代後期あたりに登場したと言われている当世具足は、日本式甲冑(鎧兜)の完成形という位置付けです。ここでは、各時代における甲冑(鎧兜)の違いについて、各部の名称を中心に、基本的な内容をご紹介します。
日本式甲冑は、着用者の身体・生命を守る防具として登場しましたが、今日では国内外において、その技巧や芸術性が高く評価されている美術工芸品でもあるのです。ここでは、そんな日本式甲冑のみどころをご説明したあと、国宝に指定されている18領の甲冑と、それらが収蔵・展示されている神社・仏閣、及び博物館をご紹介します。
古くから戦に用いられてきた甲冑・武具には、独自の言葉が多く存在します。ここでは、甲冑・武具に関する用語について、解説します。
日本における甲冑の歴史は、弥生時代から始まりました。当初は「短甲」(たんこう)や「挂甲」(けいこう)が制作されていましたが、時代を経るにつれて、日本独自の進化が見て取れるように。平安時代になると「大鎧」(おおよろい)が登場し、ここから「日本式甲冑」が発展していったのです。今回は、日本における甲冑制作の黎明期において制作されていた古代の甲冑(短甲・挂甲)についてご紹介します。
日本式の「甲冑」と言えば戦国時代が有名ですが、その起源は古く、一般的に良く知られている形となるまでには長い歳月を経ています。時代ごとに意匠を変えながら、その機能を向上させてきた甲冑。甲冑の歴史は実に興味深く、様々な遺跡の中からも、のちに素晴らしい美術品へと昇華する甲冑の原型が見付かっているのです。日本式甲冑のルーツをたどり、古墳時代から平安時代の初期についてご紹介します。
平安時代から鎌倉時代にかけては、貴族から武士へと支配力が移行していった時期です。武家の権力が増すにつれて、戦闘力の証である甲冑には改良が重ねられ、より進化を遂げていきました。日本における甲冑の歴史の中で、大きな転換期となった「大鎧」(おおよろい)や「胴丸」(どうまる)が成立。やがて、さらなる動きやすさを追求した甲冑が普及します。 騎馬戦が主流であった平安時代から、戦略規模が拡大する鎌倉時代へと、戦法に合わせて変化していった甲冑の様式についてご紹介しましょう。
鎌倉幕府が滅亡したあとに訪れた南北朝時代は、その名の通り、朝廷が北朝・南朝に分かれた状態で、絶えず戦争が続く時代。そんな中、鎌倉時代後期に完成した「腹巻」(はらまき)などは、南北朝時代を超え、室町時代まで甲冑の主流として活躍し続けました。南北朝時代から室町時代にかけて、どのような甲冑が使われていたのか、また、甲冑の様式に影響を与えた時代背景などを説明していきます。
室町時代後期から安土桃山時代を経て江戸時代初期まで、戦が繰り返される戦国の世が続きました。戦国時代と呼ばれるこの時代の中心は、天下人となった「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」の「三英傑」と呼ばれる3人。また、この三英傑を支えた多くの名武将がいたことが伝わっています。戦国時代は、西洋から鉄砲や甲冑、顔料が伝来し、日本の甲冑は大きく変化しました。世に名を馳せた有名武将達の甲冑は、それぞれに意匠が凝らされ、兜の前立などに特徴を持つようになります。
乱世であった戦国時代のあと、太平の世が長く続いた江戸時代が終焉を迎えると、日本は一気に近代化へと進んでいきます。西欧から次々と文明の賜物が押し寄せる中、甲冑にはどのような変化が起きていくのでしょうか。「武士」と言う身分が失われると、甲冑のあり方もそれまでとは変わらざるを得なくなっていきました。 ここでは、江戸時代末期から明治時代、そして現代へと繋がる甲冑の歴史についてご紹介します。
平安時代に入ると「短甲」(たんこう)、「挂甲」(けいこう)に代わって「大鎧」(おおよろい)が登場します。その理由は、戦い方の変化。騎馬武者が戦いやすいよう改良が加えられた結果、鎧は日本独自の進化を遂げていきました。平安時代前期から江戸時代までの大鎧についてご紹介します。
「大鎧」は、平安時代に登場した「日本式甲冑」。その最大の特徴は、「騎射戦」(きしゃせん)での防御力に優れていることです。大鎧の造りは頑丈で、大きめの箱の中に身体を入れる感じで着用されていました。もっとも、どれだけ頑丈な造りであっても、完全無欠という訳ではなく、隙ができてしまっていたのも、また事実。ここでは、いかにして大鎧の防御力を確保したのかについて、その付属品の機能を通して考察します。
愛媛県にある「大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ)には、「大鎧」(おおよろい)と「胴丸」(どうまる)の折衷型のような鎧が所蔵されています。それが国宝「赤糸威胴丸鎧」(あかいとおどしどうまるよろい)。「胴丸鎧」(どうまるよろい)の存在については、「平治物語絵巻」などの合戦絵巻のなかで描かれていることで知られていますが、現存しているのは大山祇神社所蔵の赤糸威胴丸鎧1領のみ。ここでは、幻の鎧とでも言うべき胴丸鎧についてご紹介します。
平安時代初期まで、武装して甲冑を着る人は「高級武官」が中心でした。ところが、平安時代中期に「武士」が誕生すると、社会体制が変化。武士は武士団を結成し、互いに闘争をはじめます。朝廷は、武士団の実力を認め反乱を抑えようと、宮中や地方などの警護・警備を任せ、治安維持に当たらせるようになるのです。さらに武士は「上級武士」、「一般武士」、「下級武士」へと細分化。ここでは、上級武士が着用した「大鎧」に代替する甲冑として注目された「胴丸」、「腹当」、「腹巻」について詳しくご紹介します。
平安時代に登場した「大鎧」(おおよろい)から始まった「日本式甲冑」の系譜は、室町時代末期に大きな転換期を迎えました。それが「当世具足」(とうせいぐそく)の登場です。今の世の中を意味する「当世」と、十分備わっていることを意味する「具足」を呼称としているこの甲冑は、構造、意匠、素材などにおいて多種多様であり、定まった物がないという風変わりな物。日本式甲冑とは一線を画した新様式の甲冑である当世具足について紹介します。
「当世具足」(とうせいぐそく)は、室町時代末期に戦の変化に合わせて生まれた甲冑です。「当世具足」と一口に言っても、種類は様々。鉄板などの堅固な板を素材にした「板物胴」や、鉄や革などで作られた「伊予札製の胴」、この他「本小札製の胴」「段替胴」「畳具足」など、素材や作り方によって呼び方が異なります。こちらでは当世具足について種類別に解説しましょう。
戦国時代に戦いの装備品として必須であった甲冑は、戦いのない平和な時代には不要です。しかし、戦乱が少なくなった江戸時代にも、甲冑は作られ続けていました。それは、「復古調」(ふっこちょう)と呼ばれる、戦国時代に最も好まれた「当世具足」(とうせいぐそく)から変化した様式です。復古調の甲冑が発生した背景や、江戸時代に大流行した理由などについてご紹介します。
甲冑(鎧兜)における胴は、胸から腹の下までの前面と側面、背中をカバーする防具です。その中でも、特に人の胴体を保護するのが、甲冑(鎧兜)の胴。人の胴体には多くの内臓があり、頭や首と同様、優先的に守る必要のある部位です。胴もそれに合わせて、大きく丈夫に作られています。甲冑(鎧兜)の胴の種類や、その姿が時代と共に、どのように変化していったのかをご説明します。
古墳時代に出現した甲冑(鎧兜)は、時代を追うごとに進化し、平安時代から用いられた「大鎧」(おおよろい)でほぼ基本的な部分の完成が見られます。主な部位としては、頭を守る「兜」(かぶと)、身体の中心を守る「胴」、足回りを守る「草摺」(くさずり)、そして戦闘力の要として、腕部分を守る「袖」(そで)です。大鎧には、「小札」(こざね)で作られた「大袖」(おおそで)があり、敵の矢や刃による攻撃に対し、肩から上腕部を保護しました。このように、甲冑(鎧兜)の部位のひとつひとつには、古人の工夫が込められているのです。甲冑(鎧兜)の袖について、その役割や種類、進化の過程を追っていきます。
人体の最重要部分が頭部であると認識されていることは、古今東西を問いません。「兜」(かぶと)とは、頭部を守る現在のヘルメットと同様の役割を果たす防具です。日本において、兜が出現したのは古墳時代。当初は防具としての役割を担っていましたが、時代の変遷と共に、武将達の威厳を表現したり、個性を主張したりする役割をも担うように。特に戦国時代以降の時代においては、兜は武将の宗教観・人生観を如実に反映すると同時に、機能面においても改良が続けられ、防具としても進化していました。ここでは、兜とその付属品(立物、面具)、及びその機能を通して、兜の役割についてご紹介します。
甲冑において、頭部を守るための防具が「兜」です。頭部は言わずと知れた人体の最重要部。そのため、兜は鉄板などの素材を用いて頑強に作られていました。その歴史は古く、日本式甲冑が登場する前からすでに存在。そののち、日本式甲冑と共に独自の進化を遂げていきました。頭部を守る兜の本体である「兜鉢」(かぶとのはち)についてご説明します。
室町時代末期になると、戦での戦い方が大きく変化しました。騎馬武者同士による一騎打ちが影を潜め、集団での白兵戦(はくへいせん:近接した距離で行なわれる戦闘)に移行。各武将は農民などを最前線で戦う兵士として招集するようになったのです。「足軽」(あしがる)と呼ばれた彼らの頭部を守っていたのは、兜よりも安価で大量生産が可能な「陣笠」(じんがさ)でした。今回は、足軽の象徴である陣笠についてご紹介します。
中世においては、初期の兜である「星兜」(ほしかぶと)に改良を加えた「小星兜」(こぼしかぶと)や「筋兜」(すじかぶと)、「頭形兜」(ずなりかぶと)が出現しました。そして、室町時代末期から江戸時代にかけては、鉄板を打ち出したり、紙や革で様々な物を形作ったりした「形兜」(なりかぶと)や、「張懸兜」(はりかけかぶと)など、従来の兜の概念に収まりきらない兜も登場。武将達は、自らの思想・信条を兜に込めた「変わり兜」を身にまとって戦場に立ったのです。ここでは、数多くの個性豊かな作品が作られた当世具足に付属していた、変わり兜について考察します。
面頬(めんぽお/めんぼお)は、甲冑(鎧兜)に付属した顔面を守るための防具で、最初に登場したのは平安時代後期。そののち、室町時代末期から安土・桃山時代にかけて広く普及したと言われています。 この時代には、機動性と堅固さをかね備えた「当世具足」(とうせいぐそく)が登場。各戦国武将が趣向を凝らし、百花繚乱の様相を呈した当世具足と同様、面頬(面具)も様々な作品が登場しました。 ここでは、面頬(面具)の基本的な事項についてご説明します。
面頬(めんぽお/めんぼお)は、日本式甲冑とともに進化・発展を遂げてきました。平安時代になると、それまで用いられていた「短甲」(たんこう)や「挂甲」(けいこう)から「大鎧」(おおよろい)へと進化。これに伴い、小具足のひとつとして、面頬(面具)が誕生したのです。西洋においても顔面を防御する、いわゆる「兜面」(かぶとめん)がありますが、これとは一線を画する日本独自の発展を遂げた防具。ここでは、日本における面頬(面具)の歴史についてご紹介します。
面頬(めんぽお/めんぼお)に取り外し可能な鼻が付属するようになると、様々な表情が作出されるようになりました。表情のある面頬(面具)は、着用した武者達にとって、仮面の役割も果たし、ときに怒り、ときには笑みを浮かべます。美女や老婆、翁さらには動物、鬼霊、神仏まで。様々な表情の面頬(面具)が制作されるようになりました。こうした表情は、敵を当惑させ、不気味さを感じさせるなど、精神的な揺さぶりをかける役割も果たしていたのです。面頬(面具)に表現された表情についてご説明します。
平安時代に誕生したと言われている日本式甲冑は、時代を経るにしたがって防御の範囲が広がっていきました。頭部を守る「兜」、肩を守る「袖」、胴部分を守る「鎧」や「草摺」(くさずり)を装備していたものの、隙間が多かった「大鎧」は進化。「当世具足」が登場する時代になると、防御力は格段に向上します。もっとも当世具足も完全無欠ではなく、防御しきれない箇所もありました。 それを補っていたのが「喉輪」(のどわ)、「脇当」(わきあて)、「満智羅」(まんちら)などの小具足です。目立たないながらも人体の急所を覆い、命を守るために欠かせない存在だった喉輪・脇当・満智羅についてご紹介します。
戦闘が大規模化・集団化するにつれ、兵の生命・身体を守る甲冑(鎧兜)も進化していきました。そこで注目されたのが下半身です。室町時代になると歩兵同士による戦闘「歩立戦」(かちだちせん)が一般的になります。機動性を高めるため、甲冑(鎧兜)においても下半身の可動域を広げる試みと同時に、下半身の防御力を高める試みがなされたのです。
甲冑を制作する上で最も重要で基本的な要素が「小札」(こざね:または札)です。そのため、小札の質の良し悪しが甲冑の品質に直結していました。甲冑を評価する「札よき鎧」という言葉が、これを表しています。すなわち、強靭な小札を用いて仕立てられた甲冑は、着用者の生命・身体を守る堅牢な防具として高く評価されていたのです。甲冑の最重要パーツである小札と、これをつなぎ合わせていく「縅」(おどし)の方法についてご説明します。
日本式甲冑は、膨大な数の部品で構成されていますが、それらのパーツをつなぎ合わせているのが「縅毛」(おどしげ)です。縅毛の種類や色、さらには縅毛によって作り出される模様などについてご紹介します。
甲冑には主に鉄と革が用いられています。そのなかでも革が用いられている部分は「革所」(かわどころ)と総称されました。革所の範囲は甲冑のほぼ全身に及び、その用途は様々です。小札(こざね)や金具廻(かなぐまわり)と並ぶ甲冑の主要な構成要素である革所についてご説明します。
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日本には、5月5日(端午の節句)に甲冑を飾るという習慣があります。これは、武家社会の慣習を、江戸庶民がまねたものです。甲冑に寄せた武家の思いを今に残す文化のひとつと言えるでしょう。兜は、頭部を守るための防具ですが、それ以上に重視されたのが、戦場で自らの威厳や地位を誇示し、矜持を表す武具としての意味合いでした。兜のなかでも、武将の信念や矜持を示すために用いられたのが「前立」(まえだて)をはじめとする「立物」(たてもの)です。立物の魅力を探ると共に、有名武将が立物に込めた思いを紐解きます。
戦闘中、頭を守るためにある「兜」には、「兜鉢」(かぶとのはち)を1周するように付けられた、主に後頭部から首を守るための「錣」(しころ:𩊱・錏とも)という部位が存在。兜を鑑賞する際には、一際目を引く「前立」(まえだて)などに注目してしまいがちですが、錣にも様々な種類があり、時代によって形状などに違いが見られるのです。錣の特徴や種類、その役割などについて説明します。
「徳川家康」率いる「東軍」が勝利を収めたのは、徳川家康が見事な采配を振るったのはもちろんのこと、「武官派」としてその名を轟かせた家臣団が付き従っていたことが、その大きな要因でした。ここでは、徳川家康をはじめ、「本多忠勝」、「井伊直政」、「榊原康政」などの家臣団や、「黒田長政」、「福島正則」、「加藤清正」、「細川忠興」、「伊達政宗」、「藤堂高虎」、「加藤嘉明」といった東軍の武将の強さについて、甲冑を通して見ていきます。
甲冑とは、胴体を守る鎧と頭部を守る兜からなる防具のことで、古くは弥生時代から用いられたとされています。そして時代の流れと共に甲冑の形状は変わり、戦国時代では、武将の威厳や地位の高さを誇示する物としても活躍しました。名だたる戦国武将の中から、「武田信玄」、「森可成」、「明智光春」、「前田利家」、「立花宗茂」が愛用した甲冑と特徴について詳しくご紹介します。
兜は頭部を守る防具としての役割の他、武将の威厳や地位を表す物として使用されました。特に個性的で目立つ兜を「変わり兜」と言い、数多くの戦国武将が自らの宗教観や人生観を反映させたと言われています。歴史に名を残す戦国武将から「上杉謙信」、「山中幸盛」、「豊臣秀吉」、「蒲生氏郷」、「黒田官兵衛」、「佐竹義重」が愛用した兜について、人物像と共にご紹介しましょう。
「織田信長」は、宣教師「ルイス・フロイス」によってもたらされた地球儀など、新しい物に興味を示したり、城下町において「楽市楽座」政策を実施したりするなど、既成概念にとらわれず、新しい施策を積極的に取り入れていった人物です。したがって、開化的・進歩的というイメージが定着しています。 また、戦いにおいては「長篠の戦い」(ながしののたたかい)で組織的な鉄砲部隊を組成するなど、革新的な戦法を編み出したとも言われる人物です(異説あり)。 今回は、織田信長と甲冑にまつわる話をご紹介します。
派手好きというイメージが定着している「豊臣秀吉」。豊臣秀吉所用と伝わる甲冑についても、その多くに派手なデザインと色使いが用いられています。 安土・桃山時代は、意匠を凝らした甲冑(当世具足:とうせいぐそく)が多数制作された時代でしたが、中でも豊臣秀吉所用とされている甲冑は際立つ存在です。 今回は、豊臣秀吉と甲冑にまつわる話をご紹介します。
全国の大名の運命を左右した「天下分け目」の合戦である「関ヶ原の戦い」。「毛利輝元」(もうりてるもと)を総大将とし、「石田三成」(いしだみつなり)を中心に結成された西軍は、軍全体の結束力不足や、幾人もの武将による裏切りなどが要因となり、「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍に敗れる結果となりました。そんな中でも最後まで豊臣家に忠義を誓い、戦い抜いた武将、石田三成。ここでは、石田三成という武将の人となりを、彼が愛用していた甲冑を通して見ていきます。
「徳川家康」は、戦国時代における最後の勝者と言っても良いでしょう。戦国時代という激動の時代を生き抜いた徳川家康にとって、自らの身を守る甲冑は切っても切れない物でした。 若かりし頃から権力をその手に握ったときまで、戦場において徳川家康が運命を共にした甲冑を通してそのときの徳川家康に迫ります。また、徳川家康の兜について、イラストでご紹介しております。
江戸幕府と豊臣家の間で行なわれた合戦である大坂の陣は、「大坂夏の陣」と「大坂冬の陣」から成ります。その大坂夏の陣において、豊臣側の武将として「徳川家康」(とくがわいえやす)の本陣まで攻め込む活躍を見せた「真田幸村」(さなだゆきむら)。ここでは、真田幸村という武将の人となりを、彼が愛用していた甲冑を通して見ていきます。
「直江兼続」(なおえかねつぐ)と言えば、大河ドラマの主役にもなった有名な武将。その直江兼続の代名詞とも言えるのが、前立に大きな「愛」の文字をあしらった兜です。 安土・桃山時代以降において、兜所用者の哲学や思想を託したとされる立物の中でも、一際目を引く斬新なデザイン。その由来には、大きく分けて3つの説がありました。今回は愛の立物に秘められた直江兼続の「想い」を探ります。
米沢藩の初代藩主である上杉景勝を支えた武将「直江兼続」。「関ヶ原の戦い」の敗戦後、米沢城下の整備を徹底的に推進し、現在の城下町米沢の基盤を築きました。ここでは、直江兼続という武将の人となりを、彼が愛用していた甲冑を通して見ていきます。
「板倉勝重」は戦場での目立った活躍はありませんでしたが「内政」で力を発揮した優秀な武将。例え戦場に行かなくても、出世を果たし、立派な甲冑を所有していたのです。 ここでは、名奉行と言われた板倉勝重の人となりを、彼が愛用していた甲冑を通して見ていきます。
江戸時代、現在の福岡県久留米市近辺にあたる久留米藩の基礎を築いた「有馬忠頼」(ありまただより)。その有馬忠頼が身に付けたと伝わるのは、通称「大熊」と呼ばれる甲冑「熊毛植五枚胴具足」(くまげうえごまいどうぐそく)です。ここでは、有馬忠頼という人物を甲冑を通して見ていきます。
天海は天台宗の僧で、「南光坊天海」(なんこうぼうてんかい)や「知楽院」(ちらくいん)とも呼ばれています。僧侶であるにもかかわらず、ひときわ存在感のある甲冑を身に付けていた天海。ここでは、徳川家から信頼を得ていた天海という人物を甲冑を通して見ていきます。
「甲斐の虎」と呼ばれた「武田信玄」は、戦国時代屈指の強さを誇った武将として知られています。 武田軍の代名詞となっていたのが、ひとつの部隊全員が甲冑など武具の色を赤色に統一した「赤備え」。戦場で縦横無尽に相手を打ち破る、精鋭揃いの赤い軍団の噂は瞬く間に広がり、各武将から大いに恐れられたのです。 ここでは、甲冑を通して武田信玄という武将を見ていきます。
「上杉謙信」は「越後の虎」や「軍神」などと称され、無類の強さを誇っていました。また、甲冑を着用した状態で埋葬されたと伝えられるほど、上杉謙信と甲冑は切っても切れない関係だったようです。ここでは、甲冑を通して上杉謙信という武将を見ていきます。
「伊達政宗」は、隻眼(せきがん)の戦国武将として知られ、戦国時代末期には東北地方において一大勢力を誇っていました。その後は「豊臣秀吉」、徳川家康に仕え、江戸幕府開府後は、初代仙台藩主として領国の開発に尽力。戦国時代末期から江戸時代を駆け抜け、後世において「独眼竜」と称されていました。 そんな伊達政宗の甲冑で特徴的なのが、黒塗りであることと、巨大な三日月の前立が施された兜です。ここでは、この黒甲冑を通して伊達政宗という武将を見ていきます。
「甲冑」(鎧兜)などの武具を、同じ色で統一した部隊を「備え」と呼びます。なかでも「赤備え」とは、武具を赤色や朱色を主体とした色彩で整えた精鋭部隊のことです。今回は、「武田の赤備え」と同様に有名な「井伊の赤備え」、及び「真田の赤備え」についてご紹介します。また、甲冑(鎧兜)を使用していたのは、武将だけではありません。「村上水軍」と呼ばれる海賊衆が使用していた甲冑(鎧兜)も、あわせてご説明します。
平安時代に制作が始まった「日本式甲冑」は、膨大な数の部品によって構成されており、日本固有の工芸品として、世界的な知名度・人気を誇っています。現代においては、武具(防具)としての存在意義は失っていますが、美術品としてだけではなく、歴史的な遺品としての価値をも有する物。そのため、歴史の継承という要請から、保存においても細心の注意を払わなければなりません。ここでは、甲冑(鎧兜)制作の過程と共に、その保存についてご紹介します。
「刀剣」を愛する女性を表す「刀剣女子」という言葉はすっかり定着し、現在では、その甲冑版とも言うべき「甲冑女子」という言葉も生まれているほど、甲冑も身近になりました。甲冑の一般的なイメージは、屈強な武将が戦場で身にまとっている戦闘服といったところでしょうか。つまり男性の物というイメージ。 しかし、愛媛県にある「大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ)の宝物殿には、女性用の甲冑だと伝えられている1領が収蔵・展示されています。それが、国指定重要文化財の「紺糸裾素懸威胴丸」(こんいとすそすがけおどしどうまる)。 ここでは、甲冑と女性にまつわる話をご紹介します。
甲冑(鎧兜)は刀剣と同じように、制作された時代や戦闘様式の移り変わりによって、その形式が変化を遂げた武具のひとつ。その変遷は、時代ごとに著された歴史書や絵巻物、屏風図など、様々な資料から窺うことが可能です。そのような文献をいくつかご紹介すると共に、時代を経るごとに異なる甲冑(鎧兜)の特徴などについても解説します。
「甲冑(鎧兜)」(かっちゅう)とは、武士の命を守る戦闘用具。平安時代中期から江戸時代末期まで、身分や戦闘方法の変化に応じて著しい進化を遂げてきました。防御としての実用面はもちろん、見目麗しい美術面においても。ここでは、「大鎧」、「胴丸」、「腹巻」、「当背具足」の種類や変遷、その違いや見分け方について、詳しくご説明します。
「甲冑」と言えば、「甲」(よろい)と「冑」(かぶと)を合わせた名称。そのため、どうしても鎧(甲)と兜(冑)の2つに注目が集まりがちです。もっとも、甲冑の魅力はそれだけではありません。甲冑の模型(型紙)であり、設計図の役割も果たしている「鎧雛形」(よろいひながた)や、胴以外の腕や足を防御する「籠手」(こて)、「佩楯」(はいだて)、「臑当」(すねあて)の「小具足」(こぐそく)。これらの様々な関連品も甲冑の魅力を構成する一部。今回は、そんな甲冑の周辺にある物についてご紹介します。
戦場における甲冑(鎧兜)は、敵の攻撃から生命・身体を守るという防具としての役割はもちろん、着用している武将の権威誇示という役割も担っていました。もっとも、戦(いくさ)においては、守っているだけでは勝つことはできません。攻撃するためには甲冑(鎧兜)を着用していても、体が滑らかに動くことができる必要がありましたが、甲冑(鎧兜)の各部分をつなぎ合わせる技術と工夫がそれを可能にしました。甲冑(鎧兜)は、日本刀と共に武士が武士たることを示す物で、そこには様々な作法が存在します。ここでは、甲冑(鎧兜)着用時における所作について考察します。
「甲冑」は、「日本刀」と並び称される日本の代表的な美術品です。もっとも、その鑑賞方法は対照的。日本刀鑑賞では作られた場所や時代、作者の作風(特徴)を勉強し、目の前の作品でそれが実現していることを確かめる楽しみ方があるのに対し、甲冑では、形式の違いによって、作られた時代に着目することを除き、ほとんどそれがありません。その理由として甲冑は、日本刀とは異なり銘がないことが多く、作者が明らかな作品がほとんどないからです。ここでは、「甲冑師」(流派)と甲冑等の古美術品を収録した江戸時代の図録集、「集古十種」についてご紹介します。
「甲冑」(鎧兜)は、「日本刀」と並び称される日本の代表的な美術品です。もっとも、その鑑賞方法は対照的。日本刀鑑賞では、作られた場所や時代、作者の作風(特徴)を勉強し、目の前の作品でそれが実現していることを確かめるという楽しみ方があるのに対し、甲冑(鎧兜)では形式の違いや、用いられている素材、縅の方法などから、作られた時代に着目して楽しむことが一般的。甲冑については、銘がないことが多く、作者が明らかな作品が多くないためです。こうした経緯もあり、「甲冑師」は、「刀匠」と比べて一般的に知られている存在であるとは言えません。そんな甲冑師(流派)をご説明したあと、江戸時代に発刊された甲冑(鎧兜)などの古美術品の図録集「集古十種」についてご紹介します。
甲冑(鎧兜)とは、弓や刀槍、銃などの武器による攻撃に対して、防御のために身に着ける武具で、胴体に着ける物を鎧(甲)、頭を守る物を兜(冑)と言います。平安時代中期には、日本独自の甲冑(鎧兜)が生まれ、時代が下るにつれ、戦法の変化に伴い甲冑(鎧兜)も進化、身分による違いも顕著になっていきます。そんな武士が誕生した平安時代から江戸時代にかけての、身分による甲冑(鎧兜)の違いをご紹介します。
皆さんのなかには、所有している甲冑(鎧兜)や武具を、審査や評価してみたいと思っている方もいるのではないでしょうか。「一般社団法人日本甲冑武具研究保存会」が開催している「甲冑武具審査会」では、お手持ちの甲冑(鎧兜)や武具を専門家に審査・評価して頂くことができます。一般社団法人日本甲冑武具研究保存会の会員でなくても、審査の申込みが可能という点も魅力。この「甲冑武具審査会」と「審査認定基準」について、詳しくご紹介します。
平安時代に制作が始まったと言われている「日本式甲冑」(以後、甲冑)は、時代を経るにつれて独自の進化を遂げていきました。技巧を凝らした数多くの作品が制作され、美術品としての側面が強調されるようになった江戸時代においても、当初は着用者の生命・身体を守るための防具という位置付け。そして、明治維新に伴う近代化の流れのなかで、防具としての意義が消失し、日本を代表する美術工芸品となったのです。現代における甲冑を取り巻く状況についてご説明します。
甲冑に興味を持って頂いている皆さんは、今、こう思っているかもしれません。「もっと色々な甲冑の話を知りたい!」。興味を持った世界のことを知れば知るほど、もっと知りたくなるのは、どの世界でも同じ。ここでは、甲冑にまつわる「あんな話」や「こんな話」をご紹介します。肩の力を抜いて読んで頂ければ幸いです。
「子どもの日」と聞くと、空にたなびく鯉のぼりや床の間に飾られた兜を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。日本では、3月3日は桃の節句「ひな祭り」として女の子の成長を、5月5日は端午(たんご)の節句「子どもの日」として、男の子の成長を祈り、祝う日として定着しています。しかし、いつ、どのように、この風習が発生したのでしょうか。男の子に贈られ飾られる「五月人形」について、起源や種類、有名な武将を模した人形など、様々な角度からご紹介します。
刀剣・日本刀に秘められた幾多の魅力を皆様にお届けする、刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」。こちらのページは「甲冑(鎧兜)の基礎知識」のトップページです。一口に甲冑(鎧兜)と言っても、実は歴史が長い甲冑(鎧兜)。初めての方でも一から学べる教科書のように、甲冑(鎧兜)に関する様々な知識を解りやすく解説しています。また、刀剣ワールドでは、他にも甲冑(鎧兜)に関するコンテンツをご用意しております。刀剣ワールドをご覧頂き、甲冑(鎧兜)についての新しい知識を学んで下さい!