江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)と言えば、「関ヶ原の戦い」に遅参したことで有名な人物。初代将軍「徳川家康」、3代将軍「徳川家光」に比べると地味なイメージがあるでしょうが、徳川秀忠は決して凡庸な人物ではありませんでした。今回は、知られざる徳川秀忠の生涯や、後世に繫がる幕府の支配体制を確立させた徳川秀忠の大きな功績についてご紹介していきます。
徳川秀忠
1579年(天正7年)、「徳川秀忠」(とくがわひでただ)は遠江国(現在の静岡県)の浜松城で誕生しました。幼名は長松、または長丸、竹千代。
父は江戸幕府の初代将軍「徳川家康」で、母は側室「於愛の方」(おあいのかた:宝台院)です。
徳川秀忠は3男で、本来家督継承権を得るのは長男という慣例がある当時、出生時点では家督を継ぐことは想定されていませんでした。
しかし、徳川秀忠が生まれた年、徳川家に大きな騒動が巻き起こり、彼の生涯は大きく変化します。
徳川家康の正室「築山殿」(つきやまどの)と長男「徳川信康」(とくがわのぶやす)が、「織田信長」によって武田氏通謀の疑いをかけられ、処刑されたのです。
この事件に関しては詳細が判然としておりませんが、いずれにしても徳川秀忠にとっては、人生を変えるほどの出来事となりました。つまり、徳川家康の次男「徳川秀康」(とくがわひでやす)に次ぐ、2番目の家督継承権をもつことに至ったのです。
その後、徳川秀康は「豊臣秀吉」の養子となったことから、徳川秀忠のもとに家督継承権が転がり込むことに。
なお、徳川秀康はさらに「結城晴朝」の養子に出され、「結城秀康」(ゆうきひでやす)を名乗り大名として活躍しています。
1590年(天正18年)、徳川秀忠は、11歳にして人質として聚楽第(じゅらくてい)へと上洛し、豊臣秀吉と面会します。その際に、豊臣秀吉から「秀」の1字を貰い受け、幼名の長松から徳川秀忠へ改名。また、徳川秀忠は聚楽第で元服も済ませています。
さらに、徳川秀忠は豊臣秀吉から、織田信長の娘で豊臣秀吉の養女という立場にあった「小姫」との婚姻を勧められ、婚約を取り付けています。
このように、徳川秀忠は人質という立場ながら、豊臣秀吉からはかなりの厚遇を受けました。
しかし、この婚約については、小姫の実父であった「織田信雄」(おだのぶかつ)と豊臣秀吉の間に不和が生じたことで婚姻には至らず、小姫はまもなく病死したと伝わっているのです。
豊臣秀吉が亡くなると、豊臣秀吉の後継者の座をめぐって徳川家康と「石田三成」(いしだみつなり)が激しく対立し、戦の機運が高まります。
やがて、徳川家康が豊臣家に無断で諸大名との婚姻政策を推し進めるようになり、天下を二分する戦はもはや避けられないものになるのです。
徳川秀忠も徳川家康の嫡男として、当然ながらこの戦に深く関与し、徳川家康の組織した「東軍」で重要な役割を期待されるようになります。
真田幸村(真田信繁)
ついに、1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」が勃発。戦いそのものは関ヶ原(現在の岐阜県関ケ原町)で旧暦9月15日に開戦されましたが、徳川秀忠は、関ヶ原に至るまで東海道から進軍する徳川家康の本陣とは別に、中山道から進軍することを命じられます。
そこで徳川秀忠は進軍の途中、信濃国(現在の長野県)で西軍に味方した真田軍と対峙。真田軍は上田城に軍を構えていたため、徳川秀忠は別動隊の大将として「上田城攻め」を実行しました。
しかし、秀忠軍はここで思わぬ苦戦を強いられることに。
戦力では、秀忠軍の方が勝っていたものの、「真田昌幸」(さなだまさゆき)、「真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)親子の奮戦や、当時信濃を襲っていた悪天候が苦戦の理由だと考えられています。最終的に秀忠軍は上田城攻略を放棄し、関ヶ原へと向かわざるを得ませんでした。
こうして上田城攻略を諦めて駆け付けた徳川秀忠でしたが、関ヶ原にたどり着いたころにはすでに戦が終結。関ヶ原の戦いは、名実共に天下分け目の大合戦だったのですが、西軍に裏切りが続出したことで総崩れとなり、戦そのものはかなり早く、一説には6時間で勝敗を決していたのです。
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この徳川秀忠の失態に対し、徳川家康は相当腹を立てたと言われています。あまりの怒りで徳川家康は、徳川秀忠との面会を拒絶。結局、数日後に徳川家康の家臣の説得もあり、ようやく徳川秀忠は徳川家康と面会の機会を得ることとなります。
また、この失態は徳川家康の機嫌を悪化させただけでなく、徳川秀忠にとって既定路線であった将軍後継者としての地位までも失う可能性を生み出してしまったのです。
最終的に徳川家康の怒りが収まったのは、江戸幕府成立後の1603年(慶長8年)。
徳川家康は徳川秀忠を右近衛大将に任命するよう朝廷に依頼します。この依頼は朝廷に受け入れられ、徳川秀忠は徳川家康の後継者であることを示す、右近衛大将の地位に就任することができました。
さらに、1605年(慶長10年)には、徳川家康から将軍職を譲られる形で江戸幕府2代将軍となり、朝廷からも征夷大将軍に任命されました。ここから、徳川秀忠の将軍生活がスタートします。
1614年(慶長19年)、徳川家康は、方広寺に存在した鐘に刻まれた文字に謀反を起こす意図が確認されたとの理由で、豊臣方に宣戦布告。ここに「大坂冬の陣」が開戦、徳川秀忠も徳川家康と共に軍を率いました。
しかし、関ヶ原の戦いの前轍を踏むのを避けるべく、ハードスケジュールで軍を動かした結果、将兵が疲労困憊の状態となり戦に向かえる状況ではなくなってしまいました。
これにより、またもや徳川家康を激怒させますが、戦そのものは徳川方の勝利に終わっています。
次いで1615年(慶長20年)には、豊臣方との間に「大坂夏の陣」が開戦。これに勝利したことで豊臣家は滅亡しました。
ここでも徳川秀忠は、目立った活躍をすることはできませんでしたが、戦に勝利したことで政権の運営に集中できるようになるのです。
江戸城
1616年(元和2年)、一代で江戸幕府を成立させた徳川家康もついに亡くなってしまいました。
その後は、これまでの大御所時代と異なり、徳川秀忠自身が江戸幕府のトップとしてリーダーシップを発揮。様々な政策を実行しています。
徳川秀忠の時代に考え出された政策や方針には、その後幕府体制の基礎となっていくものが数多く存在。まず、徳川秀忠は「武家諸法度」の実行を徹底しました。
これにより、多数の大名が改易や処罰の憂き目に遭ったのです。この中には、「福島正則」や「本多正純」(ほんだまさずみ)などの大物大名や、幕府に近しい大名も含まれていました。
それ以外にも、江戸城や大坂城の整備、工事を大々的に実行して、世間に将軍の威光を知らしめ、キリシタン弾圧や紫衣事件によって宗教・朝廷にもその力を及ばせています。
まず徳川秀忠の功績として挙げられるのは、徳川家康亡きあとも彼の遺志を引き継ぎ、幕府の体制を確立させた点。
徳川秀忠は、武家諸法度や「禁中並公家諸法度」の徹底により、徳川家以外の武家や公家との立場を明確なものにしました。合わせて、制度を守れない人物達は処罰されることになり、幕府に歯向かう勢力を一掃することにも成功します。
こうした徳川秀忠の政権運営方針は、のちの将軍にも引き継がれていきました。その結果、武家政権として最長の、約270年という期間を江戸幕府が支配できたのです。
他にも、江戸城や大坂城の大規模工事に着手。その際、徳川家康の方針により他大名の力を削ぐという目的で、諸藩の大名に普請(ふしん:建築工事)役を負担させています。また、大規模な工事は幕府の威光を国中に示すことになり、中央集権化に大きく貢献しました。
さらに徳川秀忠は、キリシタンの弾圧や「奉書船制度」の導入により、宗教・貿易面の統制も図っています。これらはどれも徳川家康の方針を引き継いだものでしたが、実行役としてこうした政策を無難に成し遂げた徳川秀忠の手腕は、評価に値するでしょう。
このように、幕府体制の確立に徳川秀忠が果たした役割は非常に大きいものがあります。世間において徳川秀忠の手腕が評価されることは決して多くないですが、堅実に徳川家康の意思を受け継いで政策を実行した律儀さと実行力は、評価されるべき点です。
徳川秀忠は、政治面での功績が大きい武将でしたが、戦においては生涯を通じて武勇を示すことが叶いませんでした。徳川秀忠が関与した戦は、上田城攻めと大坂冬の陣・夏の陣だけですが、徳川家康を激怒させる失態を犯すなど、活躍をみせることはできませんでした。
ただ、徳川秀忠の生涯で直面した戦はその3つだけであり、戦の経験値が少なかったことは事実です。また、徳川秀忠が成長したころには徳川家康がすでに大きな力を得ており、戦で武勇を示すというよりは、後継者として政権を運営することを期待されていました。
そのため、少なくとも戦で大きな戦果を挙げなかったのは事実ですが、それが徳川秀忠の評価を大きく下げる要因にはなり得ないでしょう。
また、徳川秀忠の遺体からは銃創の跡が数多く発見されており、戦果こそ伝わっていないものの、前線で奮闘していたことも確認されています。
徳川葵
葵紋は、徳川秀忠の家紋というだけでなく、徳川将軍家の象徴として江戸時代を通じて威光を放っていました。
そのため、葵紋には「葵の御門」という敬称が与えられ、テレビドラマ【水戸黄門】で描かれていたように、絶対的な家紋として畏怖されていました。
この葵紋は、もともと徳川家康の祖先である「松平家」が代々使用していた家紋です。松平氏が具体的にいつごろから家紋を使用していたかについて詳しいことは分かっていませんが、江戸時代までは三河(現在の愛知県)地方の武士達が多く家紋として使用していました。
しかし、徳川家康が大きな権力をもつようになると、家紋に描かれている三つ葉葵は特別な象徴としてみなされるようになります。有名な逸話に、もともと三つ葉葵を使用していた家にその使用をやめさせたなどの言い伝えがあるほどです。
こうして徳川家、つまり江戸幕府を象徴する存在となった葵紋は、彼らの権力が絶対のものであった江戸時代末期に至るまで神聖視されるようになります。
徳川家の象徴として用いられた葵紋ですが、その細部は徳川御三家によって差が存在し、使用されていた年代によっても描かれ方に相違があります。
徳川秀忠が使用した葵紋は、徳川家康のデザインを踏襲したものです。
なお、時代における葵紋の変化ですが、具体的には葵に描かれる葉脈の数が新しくなればなるほど減っていきます。
また、葉脈の数が減ったことに応じて葉脈1本1本が太くなっており、デザインによってその家紋が使用されていた時期を特定することが可能です。
徳川秀忠は、諸大名を相次いで改易し、公家に圧力をかけ、さらにはキリシタンを弾圧するなど、生涯の功績には圧制者としての側面が強く反映されています。
しかし、これはあくまで徳川家康の方針を引き継いだもの。幕府の体制を一刻も早く盤石なものにするためにはやむを得ない措置でした。
一方で人柄としては、律儀さを象徴する逸話が数多く存在し、部下に対しても我慢強く寛容な一面をみせています。
徳川秀忠は、「人を用うるに、過失を以てこれを棄つることなかれ。よろしくその自新を許すべし」と言い残しているのです。これを現代語訳すると、「部下を使うのに、一度の失敗でその部下を見捨ててはいけない。部下が反省し、新しく出直すことを許すべきである」という意味。
徳川秀忠の寛容な人柄を表している他、自分自身が関ヶ原の戦いで失敗してしまったのち、徳川家康に許され将軍を務めることができたという、彼の生涯を象徴しているような名言です。
増上寺
徳川将軍の葬儀は、盛大に執り行なわれることがほとんど。これは徳川秀忠の父・徳川家康と息子・徳川家光の葬儀にもあてはまり、両者は特に盛大な葬儀によって弔われています。
しかし徳川秀忠の葬儀は、将軍としては異例なほど質素なものとなりました。葬儀そのものがしめやかに行なわれ、遺体を増上寺へと運ぶ際には、わずかに近臣10人が付き添ったのみ。僧侶は誰ひとり、同席しなかったと伝わっています。
このように葬儀が質素なものになったのは、徳川秀忠の遺言による指示があったため。徳川秀忠は自身の埋葬について、「葬儀・法会とも倹約を旨とし、霊牌の他新しく作るべからず」と命じていたのです。
まさに、徳川秀忠という人物の謙虚さを象徴している名言と言えます。ただ、徳川秀忠がこうした謙遜を美徳と考えていたために、彼の功績が後世で過小評価されてしまうという結果に繫がってしまったのです。