戦国武将一覧
足利義輝
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足利義輝

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「剣豪将軍」と呼ばれた、室町幕府の第13代将軍「足利義藤(義輝)」(あしかがよしふじ[よしてる])は、壮絶な人生を送ります。足利義藤(義輝)が誕生した当時の室町幕府は権力も、将軍の権威も停滞していました。そのような情勢の中、足利義藤(義輝)は生き抜き、さらに幕府の政治を復活させたのです。ここでは、歴史的資料である「フロイス日本史」や「信長公記」、「日本歴史」をもとに、足利義藤(義輝)の誕生から壮絶な最期までを詳しく解説しました。また、いかにして足利義藤(義輝)は弱まっていた幕府の力を復活させたのか、具体的にエピソードを交え、お伝えします。

足利義藤(義輝)の幼少期と生まれた時代の室町幕府

足利義藤(義輝)が生まれた時代の室町幕府

足利義輝

足利義輝

足利義藤(義輝)は、1536年(天文5年)に第12代将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)の嫡男として「東南禅寺」で誕生。

母は、「近衛尚通」(このえひさみち)の娘である御台所「慶寿院」で、幼名は「菊童丸」です。生まれてすぐに外祖父である近衛尚通の猶子(ゆうし:兄弟の子を自分の子とすること)となりました。

足利家にとって将軍と御台所の間に男子が生まれたことは、「足利義尚」(あしかがよしひさ)以来だったため大変喜ばれます。

また、君主に代わり政治を摂る摂政関白の家柄出身の母を持ち、将軍家の男子となるのも菊童丸(義輝)が初めてでした。

一方で足利義藤(義輝)が誕生した当時は、室町幕府と将軍の権威が地に落ちていた時。

1467年(応仁元年)に起きた「応仁の乱」の影響が、長きに渡り尾を引いていました。第8代将軍だった足利義政以降、将軍の権威は停滞し、代わって実権を握っていた人物が管領の「細川晴元」(ほそかわはるもと)です。管領は幕府において将軍の次に高い役職とされ、将軍を補佐して幕政を統括する役割を担う役職でした。

また幕臣の筆頭として足利将軍における、元服・就任・任官などの重要な儀式に参列し、行事も執行。幕政の実権を握られていた足利義藤(義輝)の父・足利義晴は、将軍の権威を復活させるため、細川晴元と争います。

しかし、足利義晴は戦をするたびに敗れ、近江国坂本(現在の滋賀県大津市)に逃れました。足利義藤(義輝)も戦いに従っており、足利義晴と共に京への復帰と坂本、朽木(現在の滋賀県)への脱出を何度も繰り返します。

なお代々将軍家の嫡男は、政所頭人であった伊勢氏の邸宅で育てられる習わしがありましたが、このような状況であったため、足利義藤(義輝)は両親の元で育ちました。

足利義藤(義輝)、11歳にして将軍となる

1546年(天文15年)、足利義藤(義輝)はわずか11歳で父から幕府の将軍職を譲られ、朝廷からも認められます。父の足利義晴も11歳で元服、将軍宣下を行なっていました。また、足利義晴には自身が健在であるうちに、実子である足利義藤(義輝)へ将軍の地位を譲り後見したい考えがあったため、足利義藤(義輝)は若くして家督を継ぐこととなります。

足利義藤(義輝)の将軍任命式は、亡命先である近江坂本の日吉神社(現:日吉大社)祠官「樹下成保」によって行なわれました。幼名「菊童丸」から改め「義藤」と名乗ります。

1547年(天文16年)、足利義藤(義輝)は後奈良天皇(ごならてんのう)に拝謁。父の足利義晴は細川晴元と互いに権威争いで対立し、戦をするたびに近江国坂本に逃れていましたが、1548年(天文17年)、ついに足利義晴は細川晴元と和睦。京に戻り、足利義藤(義輝)が将軍職へ就任することを、細川晴元も承諾していました。

長きにわたる足利家と三好長慶との戦い

三好長慶

三好長慶

足利義晴と細川晴元との和睦で、幕府は安泰と思われた矢先のことです。細川晴元の家臣で畿内に一大勢力を築きつつあった「三好長慶」(みよしながよし)が、細川晴元を裏切り、「細川氏綱」(ほそかわうじつな)の陣営について、事実上細川政権は崩壊して三好政権が成立。

細川晴元は、1549年(天文18年)に「江口の戦い」で三好長慶に敗れ、足利義晴と足利義藤(義輝)はまたしても京都から近江国坂本へ退避することとなりました。

そのような戦況下の中、1550年(天文19年)、父の足利義晴が亡くなります。足利義藤(義輝)は父が建設を進めていた「中尾城」で、三好長慶の軍と対峙。しかし、戦局が好転しないため、中尾城を自ら焼き払い、堅田(現在の滋賀県大津市)へ逃れます。

1551年(天文20年)には政所頭人である「伊勢貞親」(いせさだちか)が、足利義藤(義輝)を強引に京都へ連れ戻し、三好方と和睦を図るよう執り計らいますが、失敗。父の右腕的存在だった管領代「六角定頼」は、伊勢氏が失敗したことを知り、足利義藤(義輝)に三好方から逃げるよう朽木への移住を勧め、足利義藤(義輝)は朽木に移りました。六角定頼の行為に反発した「伊勢貞孝」(いせさだたか:足利義晴に仕えていた人物)は、「進士賢光」(しんじたかみつ)ら奉公衆を連れ、京都に戻り三好方へ寝返ります。

1551年(天文20年)、足利義藤(義輝)は京都の伊勢貞孝の屋敷に、三好長慶が訪問するという情報を得ました。足利義藤(義輝)は伊勢貞孝と共に帰京した、奉公衆の進士賢光を伊勢邸に潜入させ、三好長慶の暗殺を企てるも失敗。

進士賢光による暗殺は、三好長慶へ軽傷を負わせる程度で終わってしまい、のちに進士賢光は自害。重ねて親長慶派であった、河内守護代の「遊佐長教」(ゆさながのり)が暗殺された事件も、足利義藤(義輝)による犯行だったとされ、畿内に不穏な空気が漂います。

また、三好長慶に抵抗していた「三好政勝」(みよしまさかつ)や「香西元成」(こうざいもとなり)らを主力とする幕府軍が、京の奪回を図ろうと侵入しますが、戦国大名である「松永久秀」(まつながひさひで)と弟の「松永長頼」(まつながながより)によって討ち破られてしまいました。

足利義藤(義輝)、幕府と将軍の権威権力の復活を目指す

足利家と三好長慶との和睦から一転、再戦へ

1552年(天文21年)1月、足利義藤(義輝)は権威を取り戻すため、三好長慶と和睦し、京都へ戻ります。伊勢氏が三好方へ寝返った要因となった、六角定頼が急逝したことで、和解の空気が生まれたことも影響しました。

その後、細川晴元は足利義藤(義輝)と距離を置くために京都を脱出。同年2月には、三好長慶が御供衆として幕臣の一員となり、三好長慶が推した「細川氏綱」(ほそかわうじつな)が京兆家を相続。弟の「細川藤賢」(ほそかわふじかた)が分家の典厩家(てんきゅうけ)を相続することが認められました。

ところが、足利義藤(義輝)の側近である奉公衆の「上野信孝」(うえののぶたか)が台頭し、和睦条件に反発する幕臣との確執が強まります。特に足利義藤(義輝)が伊勢貞孝らの反対を押し切り、山名氏や赤松氏の守護職を奪い、尼子晴久を8ヵ国守護に任じたことで状況は一変、幕府内に動揺が広がりました。

1553年(天文22年)閏1月、足利義藤(義輝)の側近だった上野信孝ら奉公衆は、三好長慶を排除すべく細川晴元と通じます。2月には、親三好派の伊勢貞孝が、上野信孝らの追放を諌言。

上野信孝らの追放に対し、長きにわたって足利義晴や足利義藤(義輝)に従い、三好氏と戦ってきた「大舘晴光」(おおだちはるみつ)や「朽木稙綱」(くつきたねつな)も同調します。その結果、同年3月、足利義藤(義輝)自身が三好長慶との和約を破棄。

のちに東山の麓に築いた「霊山城」に入り、細川晴元と協力して三好長慶との戦いの火蓋を切ります。まず、足利義藤(義輝)は三好長慶が「芥川山城」(あくたがわやまじょう)を包囲する最中に細川晴元と連合し、入京することを目論みました。

しかし、三好長慶が芥川山城に抑えの兵を残して上洛すると、幕府軍が籠城していた霊山城が攻め落とされてしまいます。

足利義藤(義輝)は、伯父の前関白である「近衛植家」(このえたねいえ)らと共に、「織田信長」、「豊臣秀吉」に仕えた武将である「朽木元綱」(くつきもとつな)を頼り、近江朽木谷(現在の滋賀県)に逃れました。以降、近江朽木谷にて5年の時を過ごします。

足利義藤(義輝)が近江で過ごしている間、三好長慶が将軍家につく者には、知行(ちぎょう:支給した土地)を没収するという通達を出したことから、足利義藤(義輝)に付いていた者の多くが、次々と足利義藤(義輝)を見捨て帰京してしまいました。また、奉公衆でありながらも、三好氏の家臣に準じた立場として動く者も現れます。

1554年(天文23年)足利義藤は、足利義輝へ名を改めました。1558年(永禄元年)になると、足利義輝は「六角義賢」(ろっかくよしかた)に支援してもらい、細川晴元と共に坂本(現在の滋賀県)へ移ります。幕府軍は如意ヶ嶽(現在の京都、東山に存在する山)に布陣し、三好長慶の従叔父「三好長逸」(みよしながやす)らの軍と北白川にて討ちあいました。

一時は、六角義賢の支援を受けていた足利義輝側が優位に立っていましたが、三好長慶の弟である「三好実休」(みよしじっきゅう)の反撃にあいます。さらに六角義賢からの支援も打ち切りになったことから、戦況は思うように展開しませんでした。

足利義輝、5年ぶりに幕政を再開

1558年(永禄元年)11月、足利義輝は六角義賢の仲介によって、三好長慶との和議を成立させます。実に5年ぶりとなる入洛が叶い、御所で直接的な幕政を再開しました。同年12月には、叔父である近衛植家の娘を正室に迎えます。

和議を成立させた三好長慶ですが、なお権勢を高めました。幕府の御相伴衆に加えられ、修理大夫への任官を推挙されると同時に、足利義輝の臣下として幕府機構に入ることとなったのです。

三好長慶は、足利義輝の権威に取り込まれる危険性や、長年対立した足利義輝との和解が困難であることを理解していました。三好長慶の嫡男である「三好孫次郎」が、足利義輝から「義」の字を拝領し「三好義長」と名乗り、三好氏代々の官途である筑前守に任命されると、三好長慶は三好義長へ家督と芥川山城を譲ったのです。

三好氏の新たな当主となった三好義長と、足利義輝の間で新しい関係を築くことで、両氏の関係安定化を図ったとされ、三好長慶自身は足利義輝と一定の距離を保ちます。また、三好長慶が御相伴衆になると同時に、嫡男の三好義長と重臣である松永久秀が、御供衆に任命されたのです。

将軍権威の回復を図った足利義輝

足利義輝は幕府の権力と、将軍の権威復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に力を入れ、大名同士の抗争調停を頻繁に行ないました。諸大名への懐柔策として、足利義輝は「大友義鎮」(おおともよししげ)を筑前(現在の福岡県)と豊前(現在の福岡県)の守護とし、「毛利隆元」(もうりたかもと)を安芸(現在の広島県)の守護に任じます。

また、三好長慶と義長父子、松永久秀には桐紋の使用を許しました。さらに、自らの名から1字、「藤」、「輝」、「義」などを家臣や全国の諸大名に与えます。

武田信玄

武田信玄

永禄年間では、「武田信玄」と「上杉謙信」の争いを調停し、武田信玄を信濃の守護に補任。

しかし、武田信玄は「上杉景虎」(うえすぎかげとら)の信濃撤退を求めました。足利義輝は上杉景虎の信濃出兵を認め、1561年(永禄4年)に、武田信玄によって駆逐され上方へ亡命していた前信濃の守護「小笠原長時」(おがさわらながとき)の帰国支援を命じています。

また、上杉景虎の関東管領就任を許可して、御相伴衆の拡充をしました。

このように諸大名の任官斡旋に尽力しましたが、足利義輝自身は将軍就任の翌年に従四位下参議、左近衛権中将となって以降、18年間昇進しませんでした。内裏への参内もわずか5回となっています。

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ついに足利義輝の時代?三好長慶の死

1558年(永禄元年)足利義輝が帰京したのちも、三好長慶の権勢は続きました。三好氏に反発していた「畠山高政」(はたけやまたかまさ)と六角義賢らが挙兵し、三好実休が討死すると、三好氏の衰退の兆しが見え始めます。

1562年(永禄5年)、三好長慶と手を結び幕政を支配していた伊勢貞孝が、三好長慶に反目。足利義輝は三好長慶を支持して、伊勢貞孝を更迭し、新たに「摂津晴門」(せっつはるかど)を政所執事とします。激怒した伊勢貞孝は反乱を起こしますが、三好長慶の手によって討たれました。

伊勢貞孝を討ったことで、第3代将軍の足利義満以来、将軍さえ介入不可能となっていた伊勢氏による政所支配の歴史は幕を閉じます。そして、幕府将軍による政所掌握への道が開かれたのです。

1559年(永禄2年)に、足利義輝は大友義鎮を九州探題に任じ、九州の統治を委ねます。九州探題は、元から足利一族の渋川氏が世襲していましたが、少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれたことにより、お家断絶となっていたため補任としました。

1564年(永禄7年)、三好長慶が病死。足利義輝は、三好長慶の死を機に、幕府権力の復活に向け、さらに政治活動を活発化させようとしました。

足利義輝の壮絶なる最期!永禄の変

松永久秀や、三好三人衆は傀儡(かいらい:操り人形)としての将軍を擁立しようとしたため、将軍家の直接的な統治を行なおうとする足利義輝は邪魔な存在でした。

松永久秀

松永久秀

松永久秀の長男である「松永久通」(まつながひさみち)と「三好長逸」(みよしながやす)、「三好宗渭」(みよしそうい)、「岩城友通」らの三好三人衆は、「足利義植」(あしかがよしたね)の養子で足利義輝の叔父だった「足利義維」(あしかがよしつな)と手を組み、足利義維の嫡男、「足利義栄」(あしかがよしひで)を新しい将軍にと朝廷に掛け合います。しかし、朝廷は耳を貸しませんでした。

1565年(永禄8年)5月、松永久通と三好三人衆は、主君である三好義継と共に、約1万の軍勢を率いて二条御所に押し寄せます。将軍に要求があると嘘をつき、取次ぎを求めて御所へ侵入。

足利義輝は自ら薙刀を振り回し、日本刀(刀剣)を抜いて必死に応戦しましたが、敵の刀で傷付き地面に伏せたところで一斉に襲い掛かられ、亡くなります。足利義輝が亡くなった際、進士晴舎ら多くの奉公衆や、摂津晴門の嫡子である糸千代丸も共に、討死や自害。また、足利義輝の生母、慶寿院や足利義輝側室の小侍従殿も殺害されました。

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足利義輝と織田信長の関係

足利義輝と織田信長の関係

織田信長

織田信長

足利義輝が幕府の政権を握り、三好長慶と争っている頃、織田信長は織田家の当主となり尾張統一に乗り出します。

織田信長は、室町幕府後期の新たな統治者として認めてもらうべく、1559年(永禄2年)に京へ上洛し、足利義輝に謁見。足利義輝と織田信長が直接対面した、最初の出来事でした。

しかし、織田信長は単に足利義輝へ忠誠を誓うわけではなく、当時の京の情勢を確認するため上洛したとも言われています。

足利義輝の死と織田信長の上洛

足利義輝の死によって、将軍の権威が再び落ちていきました。また、足利義輝の死後、三好三人衆と三好義継、松永久秀の間で権力争いが勃発します。畿内の争いによる混乱に目を付けたのが、織田信長でした。

織田信長は、足利義輝の弟で、唯一生き残っていた足利義昭を保護したことで、上洛の大義名分を得ます。足利義昭もまた兄である足利義輝と同じく、将軍の権威復活を目指していました。

足利義輝が討死した1565年(永禄8年)から上洛をした1569年(永禄12年)の間、織田信長は足利義昭の上洛に協力し、足利義昭を第15代将軍へ就任させます。

しかし、1573年(元亀4年)に織田信長は天下を取るため、足利義昭を追放して、室町幕府は終わりを迎えました。足利義輝と織田信長との間は直接的な関係はさほどありませんでしたが、足利義輝の死によって足利義昭を保護して大義名分を得たことからすれば、足利義輝が織田信長へ与えた影響は大きかったと言われています。

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剣豪将軍、足利義輝の家紋と逸話

足利二つ引き紋(あしかがふたつひきもん)

足利二つ引き紋

足利二つ引き紋

足利将軍家の公式代表紋は、「足利二つ引き」。戦場に張る陣幕の文様がもとになったという説があります。

5本に張られる陣幕の布、2本目と4本目を黒く染め、自陣の目印としていたことから、旗に横棒を2本並べたものが家紋になったということです。

丸の内に二つ引き紋(まるのうちにふたつひきもん)

丸の内に二つ引き紋

丸の内に二つ引き紋

「丸の内に二つ引き」の家紋は、衣服の紋などに用いる際、見た目を考えてできたもの。

室町幕府を開いたのち、足利氏は「丸の内に二つ引き」の家紋を畠山氏、斯波氏、吉良氏、細川氏、織田氏などの武家に広く授けました。

五七桐紋(ごしちのきりもん)

足利氏は、後醍醐天皇から「菊の紋」と一緒に「五七桐紋」を授かっています。のちに桐の花が咲いたデザインにアレンジし、足利氏専用の「五七花桐」を作りました。

他家の桐紋と差別化し独占紋としたのです。

義輝が剣豪将軍と呼ばれるようになった由来

足利義輝は、剣聖と称された剣豪「塚原卜伝」(つかはらぼくでん)に師事し、教えを受けた直弟子のひとりです。

塚原卜伝から奥義「一之太刀」を伝授されたという説もあり、大変武術に優れた人物だったのではないかと言われています。永禄の変の際、足利義輝は自ら薙刀を振るい、日本刀(刀剣)を抜いて戦いました。

太刀/銘 基近造

鎌倉時代に備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)を活動拠点にした刀工集団「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)の「基近」が鍛えた名刀が足利義輝の愛刀「基近造」(もとちかつくる)です。

平安時代に「後鳥羽上皇」の御番鍛冶(ごばんかじ)を務めたことで知られる古備前派「則宗」(のりむね)が始祖で、備前長船(おさふね:現在の岡山県瀬戸内市)の南隣に位置する福岡庄(現在の岡山県瀬戸内市)という地域で作刀していたことから、「福岡一文字」と呼ばれるようになりました。

身幅広めで踏張り(ふんばり)が付いて腰反り高く、猪の首のように詰まった「猪首鋒/猪首切先」(いくびきっさき)が特徴と言える作風。福岡一文字派に見られる鎌倉時代中期の豪壮な太刀姿でありながら、刃文の乱れが表裏ほとんど狂いなく同一であることに驚かされます。

太刀 銘 基近造
太刀 銘 基近造
基近造
鑑定区分
重要美術品
刃長
72
所蔵・伝来
足利義輝→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

足利義輝

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