戦国武将一覧
北条早雲
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北条早雲

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「北条早雲」(ほうじょうそううん)は、戦国時代に相模国(現在の神奈川県)を統一した人物。小田原城の城主で、鎌倉幕府の執権・北条氏とは全く関係がなく「後北条氏」と呼ばれ、「戦国時代は北条早雲の下剋上から始まった」と言われる程の戦国武将です。一介の浪人から戦国大名へと成り上がった、早雲の生涯を見てみましょう。

ルーツは武家の名門・伊勢氏

北条早雲

北条早雲

北条早雲はこれまで、身分が低い一介の浪人の生まれで、己の実力だけで戦国大名に上り詰めた人物と長く言われてきました。しかし近年、ルーツは武家の名門・伊勢氏で、父は備中国・高山城城主(現在の岡山県井原市)、室町幕府の政所執事を務めた「伊勢盛定」(いせもりさだ)であることが判明しました。

室町幕府8代将軍「足利義政」(あしかがよしまさ)の弟の「義視」に仕えますが、このとき1467年(応仁元年)、「応仁の乱」が起こります。原因は、義政の後継者争い(義政の弟・義視 と義政の妻・日野富子の推す息子・義尚が対立)。

幕府の実権を握ろうと、細川勝元(東軍・義視側/24ヵ国/16万人)と山名宗全(西軍・義尚側/20ヵ国/11万人)も加勢して激化し、戦は何と10年も続くのです。京都の街は灰と化し、民衆は飢えに苦しみ、このような状況でも戦えと言い続ける義視に早雲は失望。仏門に入り、「早雲庵宗瑞」(そううんあんそうずい)と名乗ります。

ちなみに自身で北条早雲と名乗ったことはなく、嫡男「氏綱」(うじつな)が、執権・北条氏を尊敬して北条姓を名乗るようになったので、その父・早雲も北条早雲と呼ばれるようになりました。

今川家の後継者問題を解決!

ところが1481年(文明13年)、9代将軍に足利義尚が就任すると、早雲は政府の要職に復帰。「申次衆」(もうしつぎしゅう)に就任します。そんなとき、姉の嫁ぎ先で事件が起こるのです。

姉・北川殿は「今川義忠」(駿河国の守護大名)の正室で、ふたりの間には「龍王丸」(のちの今川氏親)が生まれますが、この子が3歳のときに今川義忠が事故で亡くなり、後継者争いが勃発。これを鎮圧したのが早雲でした。早雲は、対立していた「小鹿範満」(おしかのりみつ:義忠の従兄弟)を龍王丸が成人するまで家督代行とする、という和睦案を提唱します。

「和睦に反対するなら攻撃する」と両者をだまして脅し、龍王丸が15歳になったときに、小鹿範満を殺害。龍王丸は晴れて、今川家当主・今川氏親となるのです。

この功績をねぎらわれ、早雲は、駿河国の興国寺城を拝領。これをきっかけに、早雲の「成り上がり人生」が始まります。

相模国を統一

興国寺城の城主となった早雲に、また事件の知らせが届きます。それは、伊豆国にある東国支配機関である堀越公方(ほりこしくぼう)・足利政知(あしかがまさとも)の後継者争い。長男の「茶々丸」は、次男で異母兄弟の「潤童子」(じゅんどうじ)とその母を殺害します。11代将軍「義澄」(よしずみ)は、実は堀越公方の3男で潤童子とは同腹。茶々丸のことが許せません。そこで、早雲に相談。それが、1493年(明応2年)の「伊豆国討入り」となるのです。

早雲は、それまでになかった画期的な戦法で伊豆国を手に入れます。それは、敵の兵士に向けて好条件を出して裏切るように仕向けること。伊豆国領内に「味方に参じれば本領を安堵する」・「参じなければ作物を荒らして住居を破壊する」と高札を立てたのです。そして、敵の病人を看護するなど善政を施します。これを喜び、伊豆の武士や領民は早雲に寝返り、襲撃されて追い詰められた茶々丸は自害します。

さらに1495年(明応4年)に、山内上杉氏の家臣・大森氏から小田原城を奪います。早雲は、城主の大森藤頼(おおもりふじより)に進物を贈り、親しく歓談。信頼関係を築いておきながら、奇襲をしかけて城を乗っ取ったのです。まさに、詐欺!1516年(永正13年)、三浦半島の豪族・三浦氏を滅ぼし、相模国統一を果たします。

民衆が安心して暮らせる世の中に

「勝つためなら何でもするのか!」と、早雲は同じ戦国武将達からは「極悪非道人」と呼ばれます。しかし、それでも早雲にはかつて将軍に失望した苦い思いとともに、「民衆が安心して暮らせる国造りがしたい」というモットーがありました。

1507年(永正4年)、大名による最初の検地「指出検地」(さしだしけんち)を行ない、重税に困っている農民に対し、それまで「六公四民」(年貢の6割を領主に納め、4割を農民の物にすること)が当たり前でしたが、「四公六民」(年貢の4割を領主に納め、6割を農民の物にすること)の租税を定めます。領主にとって一見不利益な政策ですが、年貢を少なくすることで、取りこぼしなく確実に年貢を確保できたのです。

また、「上下万民に対し、一言半句にても虚言を申すべからず」などの家訓を書いた「早雲寺殿二十一箇条」を制定します。その結果、早雲を筆頭とする後北条氏は、5代に亘って約100年繁栄。家臣や領民から尊敬され、他の国の農民も「ここも早雲殿の国になれば良いのに」と羨んだとのこと。やがて相模国だけでなく、武蔵国(現在の東京都埼玉県神奈川県北部)へと領地を拡大するのです。早雲は1519年(永正16年)、88歳まで長生きしたと言われています。

北条早雲

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