「卍」の字が書かれた特徴的な金色の兜をかぶり、戦国時代から江戸時代を生き抜いた武将「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)。大河ドラマでも、どの俳優が演じるか注目される人物です。そんな上杉景勝の人生は、叔父にあたる上杉謙信の後継者争いで、上杉景虎をはじめ、多くの親族を失った壮絶なものでした。上杉景勝はどのような経緯で上杉家の家督を継ぎ、そして、なぜ豊臣家の「五大老」と呼ばれるまでになったのでしょうか。
ここでは、「名将言行録」(めいしょうげんこうろく)や「上杉家御年譜」、「上杉家文書」などの歴史的資料をもとに、上杉景勝の誕生から米沢城で死を迎える最後までを解説。養父である「上杉謙信」にならって寡黙だったと言われる上杉景勝の、数少ない名言や逸話についても順にご紹介し、人となりに迫ります。また、上杉家の家紋や愛用していた刀についてもぜひご覧下さい。
上杉景勝
上杉景勝は、1555年(弘治元年)に越後国魚沼郡上田庄(現在の新潟県南魚沼市)の上田長尾家当主である「長尾政景」(ながおまさかげ)の次男として誕生しました。幼名(ようみょう:元服以前の呼び名)は「長尾顕景」(ながおあきかげ)。
母の「仙洞院」(せんとういん)は、「長尾景虎」(ながおかげとら:のちの上杉謙信)の実姉で、上杉景勝は上杉謙信の甥にあたります。
上杉景勝の母方の祖母(仙洞院の母で長尾為影[ながおためかげ]の妻)は、「上条上杉弾正少弼」(じょうじょううえすぎだんじょうしょうひつ)の娘でした。
また、上杉景勝の父方の曾祖母(上田長尾房長[うえだながおふさなが]の母)も上条上杉家の娘です。
つまり上杉景勝は、母方・父方の両家から上杉氏の血脈を引いていたことになります。上杉景勝の兄「長尾義景」(ながおよしかげ)が早世したため、上杉景勝が兄に代わり上田長尾家を継ぐことになっていました。
しかし1564年(永禄7年)、父である長尾政景の死を受け、「春日山城」(新潟県上越市)へ入城し、叔父である上杉謙信の養子となります。
春日山城へ入った上杉景勝は、上杉謙信から大層可愛がられ、思想や戦術などの教育を受けて育ちました。
上杉景勝の初陣は、1566年(永禄9年)、上杉謙信によって行なわれた関東出兵です。以降、上杉景勝は上田軍を率いて、上杉謙信の政権下において重要な役割を担います。
1575年(天正3年)には、名を長尾顕景から上杉景勝に改めると同時に、上杉謙信から弾正少弼として叙任されたことから、後継者のひとりと目されるようになりました。
上杉謙信
上杉謙信は、上杉景勝の他にもうひとり、養子を迎えています。その養子は、「北条氏康」(ほうじょううじやす)の7男で、上杉謙信の幼名を譲り受けた「上杉景虎」(うえすぎかげとら)。相模の北条氏と越後の上杉謙信の間で越相同盟が結ばれたことで、上杉謙信の養子として上杉家に来ていたのでした。
1578年(天正6年)、上杉謙信が遠征の準備中に春日山城内で倒れ、4日後に亡くなります。突然の出来事であり、意識の回復も見られないまま遺言もなく急逝したため、上杉家を上杉景勝と上杉景虎のどちらが継ぐのか指名されていませんでした。そのため、上杉景勝と上杉景虎の後継者争いが始まります。
そうした状況の中で上杉家は、景勝派と景虎派に分かれ、内部紛争へ発展。上杉景勝と上杉景虎の家督争いは、「御館の乱」(おたてのらん)と言われ、のちの上杉家を大きく揺るがす大問題となります。この家督争いには、越後国の長尾家を中心とした、何世代にも渡る権力争いなども複雑に絡み合っていたのです。
上杉景勝は、春日山城の本丸と金蔵を占拠し、有利に立ちます。上杉景虎は、春日山城下の御館に立てこもりました。3ヵ月ほど争いが続いたのち、甲斐武田家当主「武田勝頼」(たけだかつより)が甲相同盟(甲斐・武田氏と相模・北条氏との軍事同盟)に基づき、上杉景勝と上杉景虎の調停に乗り出します。
武田勝頼は、北条氏との関係から上杉景虎を推しており、武田軍が信越国境まで出兵したことで、上杉景勝は一転して窮地に陥りました。
しかし上杉景勝は、上杉家の領地を割譲することや、多額の金子を渡すことを条件に、武田氏との和睦を図ります。武田氏が条件をのみ、和睦が成立したことで上杉景勝は強大な武田氏の後ろ盾を得て、上杉景虎との戦局を覆しました。
戦局を有利に運んだ上杉景勝は、1579年(天正7年)に上杉景虎へ降伏するよう勧告。しかし、上杉景虎の正室であった上杉景勝の実姉「清円院」(せいえんいん)は勧告を受け入れず自害します。
また、上杉景虎の養祖父の「上杉憲政」(うえすぎのりまさ)が、上杉景虎の嫡男「道満丸」(どうまんまる)と共に景勝方に討たれたことで、上杉景虎は窮地に立たされ自害しました。
その後、同年9月、上杉景勝は婚約していた武田勝頼の異母妹である「菊姫」(きくひめ)を正室に迎えることで甲越同盟(甲斐・武田氏と越後・上杉氏との軍事同盟)を結び、武田氏との関係をより強くします。
そして1580年(天正8年)には、越後国の豪族も追従したことで、上杉景勝は名実ともに上杉家の正式な当主となったのです。
ところが、御館の乱以降、上杉景勝は自分に味方した豪族への恩賞は低く抑える一方、上田長尾家系の家臣を取り立てました。さらに、上杉謙信と共に戦ってきた国人衆(地方の有力な武士)は、上杉景虎に与した者だけでなく景勝派の人間も粛清。家中の不満を尻目に、上田長尾家が支配する体制を築いていったのです。
織田信長
上杉氏は、上杉謙信の時代であった1576年(天正4年)に本願寺と和睦しており、織田氏とは敵対関係にありました。
また、御館の乱の混乱に続いて、1581年(天正9年)に御館の乱の恩賞問題で、北越後の「新発田重家」(しばたしげいえ)と対立します。
新発田重家が「織田信長」と通じて造反したことで、上杉景勝は、織田信長の重臣「柴田勝家」(しばたかついえ)率いる織田軍40,000の軍勢に越中国(現在の富山県)まで侵攻されてしまいました。翌年、越中国へ出陣することを約束していた武田氏が滅びたことで、上杉景勝は後ろ盾を失い、上杉氏滅亡の危機に陥ります。
織田軍からの猛攻を受け、窮地に立たされた上杉景勝でしたが、織田信長が「本能寺の変」の勃発により自害したことから、織田軍の北征は止まり、上杉氏は九死に一生を得たのです。
しかし、御館の乱と織田氏の侵攻により混乱が長期化したため、上杉氏領内の国力は著しく衰えてしまいました。
上杉氏を滅亡の危機に追いやった新発田重家とは、「放生橋」(ほうじょうばし)にて戦います。結果として、上杉景勝は味方の中でも名のある大将らを討ち取られ、上杉景勝自身もまた追い詰められる大惨敗となりました。
豊臣秀吉
上杉軍は、本能寺の変を知った織田北征軍が領国へ引き上げた隙に、「魚津城」(富山県魚津市)を回復させます。
また、信濃国(現在の長野県)の国人衆が、川中島を統治していた「森長可」(もりながよし)らに反乱を起こすと、上杉景勝はこの機を逃さず、反乱に乗じて北信濃に侵攻しました。
信濃の領有を巡っては、「北条氏直」(ほうじょううじなお)と争いますが、北条方が北信濃4郡を上杉方へ割譲し、上杉方は川中島以南へ出兵しないことを条件に講和を締結します。
上杉景勝は織田信長の死後、織田政権において台頭してきた「羽柴秀吉」こと「豊臣秀吉」に接近。親しい関係を構築しました。
1584年(天正12年)、「小牧・長久手の戦い」においても、上杉景勝は豊臣秀吉方として「佐々成政」(さっさなりまさ)の家臣「丹羽権平」(にわごんべい)から「宮崎城」(富山県)を奪い返します。以降、豊臣秀吉方に付き幾度も出陣。「真田昌幸」(さなだまさゆき)も一時的に従属下に置きました。
1586年(天正14年)に上杉景勝は豊臣秀吉と会見し、養子の「上杉義真」(うえすぎよしざね:畠山義真[はたけやまよしざね]のこと)を人質として差し出し、命脈を保てるよう働きかけます。
また会見の際に、越中国の天神山、宮崎以西と上野国(現在の群馬県)の吾妻や利根、信濃国小県郡の領有を放棄しました。代わりに下越(現在の新潟県北東部)の新発田氏を討ち取ることと、出羽国庄内地方(現在の山形県日本海沿岸地域)の切り取りを許されます。併せて、上杉景勝は「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)に拝謁し、左近衛少将に任命されました。
上杉景勝は、豊臣秀吉の協力と後ろ盾を得た結果、1587年(天正15年)、長きに亘り抗争していた新発田重家を討ち取り、改めて越後統一を果たしたのです。
翌年、上杉景勝は再び上洛し、豊臣姓と羽柴の名字を下賜されると共に、従三位、参議に昇叙されます。
1590年(天正18年)、上杉景勝は豊臣秀吉の「小田原征伐」にも出兵し、上野国、武蔵国(現在の東京都)にある北条方の諸城を攻略しました。
1592年(文禄元年)に豊臣秀吉が朝鮮出兵を始めると、上杉景勝は豊臣秀吉の名代として朝鮮に出征。朝鮮半島に城を建て、日本軍の最前線基地を築きます。これらの功績が認められた上杉景勝は、1594年(文禄3年)には中納言となり、「越後中納言」と呼ばれました。
1595年(文禄4年)、上杉景勝は豊臣秀吉から、越後国と佐渡の金山や銀山を支配するよう任されます。時を同じくして豊臣家の大老となり、「豊臣五大老」と称されるようになりました。
さらに上杉景勝は、1598年(慶長3年)に、豊臣秀吉から会津(現在の福島県西部)120万石へ加増されたため、その呼称は「会津中納言」となります。
直江兼続
1598年(慶長3年)8月に豊臣秀吉が亡くなると、上杉景勝は家老の「直江兼続」(なおえかねつぐ)が「石田三成」(いしだみつなり)と懇意であったことなどから、「徳川家康」と対立。
1600年(慶長5年)2月、上杉景勝は、家臣へ夏までに領内にある城の補修をするよう申し付けました。同時に会津盆地のほぼ中央にある神指村(こうざしむら)に、新しい城を築城するようにも命じます。
同年4月、徳川家康から、上洛して領内にある城の改修について申し開きをするように召喚命令が出されますが、上杉景勝は拒否。徳川家康の召喚命令は、上杉景勝を排するための口実だと見たためです。
上杉景勝は命令を拒否する際、直江兼続に書状を作らせました。直江兼続が徳川家康へ送った書状(直江状)は、挑発的な返答であったとされています。
この直江状が徳川家康の「会津征伐」への理由を与えたとされ、徳川家康は上杉氏を討伐するべく会津へ出陣。上杉景勝は、家臣へ「神指城」の突貫工事を命じますが、徳川家康軍の対応にあたることになります。
徳川家康が会津討伐へ出陣したタイミングで、石田三成らが挙兵。徳川家康軍は慌てて西へ引き返しますが、上杉景勝は追撃しませんでした。代わりに上杉景勝は、東軍に与した「伊達政宗」(だてまさむね)や「最上義光」(もがみよしあき)へ攻撃を仕掛けるのです。
しかし、「関ヶ原の戦い」で石田三成ら率いる西軍が敗れたため、上杉景勝は徳川家康に降伏する他ありませんでした。
徳川家康
1601年(慶長6年)、徳川家康は、自らの次男「結城秀康」(ゆうきひでやす)のとりなしもあり、上杉景勝へ上洛して陳謝するよう促します。上杉景勝は、直江兼続と共に上洛し、徳川家康へ謝罪。降伏したことで上杉氏の存続は正式に許されました。
しかし、会津と置賜(おきたま)、信夫(しのぶ)、伊達の3郡からなる出羽庄内を没収され、30万石の米沢へ移封されます。上杉家は、上杉景勝の代で北信越の数か国を支配した大大名から一転、出羽半国と陸奥2郡の国持ち大名程度へ縮小したのです。
以降、上杉景勝は米沢藩の初代藩主として尽力、領内の立て直しや藩政を確立するとともに、江戸幕府との関係も改善できるよう努めました。その後は上杉景勝の努力が実を結び、1603年(慶長8年)には幕府から江戸桜田に藩邸を与えられます。
1604年(慶長9年)に上杉景勝の正室だった菊姫が亡くなりますが、同年に側室との間で嫡男の「上杉定勝」(うえすぎさだかつ)が誕生しました。
また、1605年(慶長10年)、上杉景勝は「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の将軍宣下に参列、翌年には駿府で徳川家康と謁見、藩邸である江戸桜田邸に将軍・徳川秀忠が御成します。
1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」では、上杉景勝は直江兼続と共に出陣し、徳川家康と謁見、その後の「鴫野の戦い」(しぎののたたかい)では大きな戦功を挙げました。
以降、「大坂夏の陣」で京都警備を担当し、「大坂城」(大阪府)落城の一助を担うなど、米沢藩主として徳川家に忠義を尽くします。
1623年(元和9年)、上杉景勝は「米沢城」(山形県米沢市)で亡くなり、2代藩主は嫡男の上杉定勝が継ぎました。石高は変遷しますが、米沢藩上杉家は幕末まで続いたのです。
1582年(天正10年)、上杉景勝は織田信長の軍勢に越中国を制圧されます。上杉景勝は、魚津城の東に位置する「天神山城」(富山県魚津市)に入城して織田氏の大軍に備えますが、魚津城は陥落寸前となりました。
このとき上杉景勝は、魚津城にいる守将達へ手紙を送っています。上杉景勝は書状にて、城の守将ひとりひとりの武勲や忠義を褒め称えたのでした。しかし、魚津城は落城し、守将達は討ち取られます。
同年、上杉景勝が「佐竹義重」(さたけよししげ)に送った書状には、
「景勝のことは心配無用です。私は良き時代に生まれてきました。もはや武田は滅び、私は越後一国で日本の60余州と戦います。もし生き残ることができたなら、私は古今無双の英雄となれるでしょう。また死んでしまったとしても、歴史に名を長く残すこととなるでしょうが、本当に武家に生まれた者として至極果報なことです。」
と遺されていたことから、玉砕覚悟で織田信長との決戦に挑んでいたことが分かります。
上杉景勝は、武骨で謹厳実直、規律や権威にはとても厳格でした。感情を表に出さなかった上杉景勝は、家臣の前で笑うこともなかったと伝えられています。
しかし一度だけ、上杉景勝が家臣の前で笑ったことがあったのです。
上杉景勝は、日本猿を飼って可愛がっていました。ある日、猿は上杉景勝がいつも座る定位置に勝手に座り、上杉景勝のモノマネを始めます。
猿に真似をされた上杉景勝は、たまらず笑ってしまいました。これは、あとにも先にも唯一家臣に見せた笑顔であったと言うことです。
あるとき、豊臣秀吉が諸大名を招き、酒宴を催します。大名の中には「前田慶次」(まえだけいじ)がいました。
宴が盛り上がりを見せた頃、前田慶次は末席から立って、猿の面をかぶり手拭いで頬被りをすると、扇を振りながら大仰な身振りで踊り出したのです。ついには、列席している諸大名の膝の上に腰を下ろし、猿の真似まではじめます。大名達は楽しい酒宴の余興ということから、咎めたり怒ったりはしませんでした。
しかし前田慶次は、上杉景勝の膝にだけは座ることを避けます。前田慶次がその理由について尋ねられると、「上杉景勝は威風凛然としていて、その姿を前にすると、どうしても座ることができなかった」と語りました。
のちに前田慶次は、「天下広しと言えども、真に我が主と頼むは会津の景勝殿をおいて他にあるまい」とも語っていることから、上杉景勝への敬意を示しての行動であったと分かります。
真田幸村(真田信繁)
上杉景勝は、徳川家に領地を脅かされていた真田家から助けを求められました。真田家は上杉へ人質として、「真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)を送り込んできましたが、上杉景勝は「人質」ではなく「客将」として迎えています。
真田幸村(真田信繁)は、当時20歳に満たない若武者でしたが、上杉景勝は真田幸村(真田信繁)の才能を見抜き武将として扱ったのです。
また、上杉景勝が不在のときに、真田幸村(真田信繁)が上杉家を出され、豊臣秀吉のもとへ人質として送られたことがありました。
上杉景勝は、真田幸村(真田信繁)を上杉に返してほしいと願い出ますが、豊臣秀吉はこの懇願を拒否。豊臣秀吉もまた真田幸村(真田信繁)の武将としての才能を見抜いていたためと推察されます。
上杉景勝が豊臣五大老となり強さを誇った裏には、鋭く人の才を見抜く力があったと言えるのです。
歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!
上杉家は関ヶ原の戦いを経て、120万石から30万石に減らされ、領地も4分の1ほどの米沢へ移封となりました。当然のことながら家を存続させるには、家臣も減らさなければなりません。しかし上杉景勝は、家臣を減らしませんでした。
上杉景勝の対応により、のちの上杉家米沢藩は財政的に苦しむこととなりますが、上杉景勝は家臣を大切に思いやる大名であったとされる逸話です。
竹に二羽飛び雀
上杉家と言えば、「上杉笹」と呼ばれる「竹に二羽飛び雀」(たけににわとびすずめ)の家紋。
上杉景勝もまた上杉家より家紋を受け取り、使用しています。
竹に二羽飛び雀の家紋は、奥州の伊達氏と婚姻を結ぼうとしていた時期があった縁で、伊達氏へ譲られていました。上杉景勝や伊達政宗の先祖の間で、執り行なわれたとのことです。
のちに伊達氏は独自に家紋を発展させ、「仙台笹」と呼ばれる家紋を作り上げました。伊達家の家紋は「竹に雀」と言われています。
戦国大名の来歴をはじめ、ゆかりの武具などを紹介します。