戦国武将一覧

小早川隆景

文字サイズ

戦国時代、中国地方の知将として名を馳せた「毛利元就」(もうりもとなり)の三男「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)は、父と同様に物事を熟考して決断する、知略に優れた武将でした。「豊臣秀吉」の臣下となってからは、絶対的な信頼を得て、西国制覇の急先鋒として活躍したのです。乱世の中で毛利家の屋台骨を支え続けた、小早川隆景の生涯と数々の戦歴を辿っていきます。

小早川隆景の出自と家族環境

小早川隆景のイラスト

小早川隆景

「小早川隆景」は、1533年(天文2年)、「安芸国」(現在の広島県西部)の「吉田郡山城」(よしだこおりやまじょう:現在の広島県安芸高田市)に生まれました。

12歳のときには、現在の広島県竹原市に本拠を置く「竹原小早川家」を相続。そして18歳になると、本家にあたる「沼田小早川家」(ぬたこばやかわけ)の当主「小早川繁平」(こばやかわしげひら)が失明したことから、その家督を相続し、安芸国の有力氏族だった2つの「小早川家」を一本化させたのです。

小早川家の家紋「左三つ巴」(ひだりみつどもえ)は、渦を巻く水流を図案化した意匠。「勾玉」(まがたま)を表したとする説もあり、神社の軒瓦などに魔除けの意味で用いられることもある紋章です。

小早川隆景が両小早川家に入った頃、毛利元就の次男「吉川元春」(きっかわもとはる)が、「吉川家」の家督を継いでいます。

小早川隆景と吉川元春の2人で、本家の毛利元就と長男の毛利隆元を支える体制は、2つの家名に共通する川の字にちなみ、「毛利両川」(もうりりょうせん)と呼ばれました。

毛利家の中国平定に貢献

毛利元就

毛利元就

1551年(天文20年)、「大内家」の当主「大内義隆」(おおうちよしたか)が、家臣「陶晴賢」(すえはるかた)の謀反に合い、自害を遂げる事件が起こりました。

そして毛利元就は、安芸国「厳島」(いつくしま:現在の広島県廿日市市)で陶晴賢との戦いに挑みます。

そして、「毛利家」重臣の「桂元澄」(かつらもとずみ)に内通のふりをさせて陶晴賢に勝機を匂わせ、敵の武将を調略。重臣の「江良房栄」(えらふさひで)に内通を呼びかけつつ、その情報を主君・陶晴賢に漏らすことで内紛を誘ったのです。

これにより、敵の勢力は弱体化しましたが、陶方の20,000もの勢力を維持。しかし、毛利方はわずか4,000の軍勢しかいない状況。この圧倒的な劣勢を覆すべく、毛利元就は、島の北岸に「宮尾城」(みやおじょう)を築きます。そして、「宮尾城を攻められると困る」という嘘の情報で敵をおびき寄せ、一網打尽にしようとしたのです。

1555年(弘治元年)、陶軍の兵が城を攻囲すると、毛利方の本隊がその背後に布陣。このとき、小早川隆景は水軍を率い、正面の海上を固めていました。

挟み撃ちに合った陶晴賢の軍勢は、島の中で右往左往。そこに小早川隆景の手勢も上陸して追撃し、陶晴賢を自刃に追い込みます。

この戦勝により毛利家は、「周防国」(現在の山口県南東部)と「長門国」(現在の山口県北西部)を手中に収めたのです。

そして、毛利家が次に矛先を向けたのは、「石見銀山」(いわみぎんざん:現在の島根県大田市)を巡って争奪戦を繰り広げてきた「尼子家」(あまごけ)です。

1565年(永禄8年)、毛利家は、「尼子義久」(あまごよしひさ)の居城「月山富田城」(がっさんとだじょう:現在の島根県安来市)を総攻撃。この合戦において毛利軍は、尼子軍の善戦に屈し、撤退を余儀なくされます。そこで方針を変更し、城内の食糧が尽きるのを待つ、持久戦に持ち込むことに。

籠城兵が減ることを防ぐため、投降者を容赦なく殺害する作戦が功を奏し、約1年半後、尼子一族は降伏勧告を受諾。これにより毛利家は、中国地方全域を領する戦国大名となったのです。

毛利元就と城
毛利元就の生涯と、ゆかりのある城について紹介します。

織田信長との戦い

織田信長

織田信長

この頃、京都では「足利義昭」(あしかがよしあき)を将軍として擁した「織田信長」が、天下統一への準備を進めていました。一方の毛利元就は、焦ることなく現状維持を心がけるよう、息子達を戒めています。

しかし1571年(元亀2年)、毛利元就がこの世を去ると、中国征伐を目論む織田信長との戦いを避けることはできませんでした。

1576年(天正4年)、織田信長から京都を追放された足利義昭が、幕府再興を画策し、「備後国」(現在の広島県東部)の「鞆」(とも:現在の広島県福山市)に移住。協力を要請された小早川隆景は、考えた末に「織田家」と戦うことを決意しました。

織田信長と敵対する一大勢力「石山本願寺」(現在の大阪府大阪市)へ兵糧を輸送するため、小早川隆景率いる700~800艘の「毛利水軍」は、大阪湾の「木津川口」(現在の大阪市大正区)で「織田水軍」300艘と激突。毛利水軍はこれを撃破しましたが、その2年後、「鉄甲船」と呼ばれる新兵器を導入した織田水軍と再び木津川口で相まみえると、大敗を喫したのです。

この頃、織田信長から指揮官を任された「豊臣秀吉」は、圧倒的な兵力と調略によって毛利方の城を次々と陥落。1582年(天正10年)には、毛利配下の「清水宗治」(しみずむねはる)が守る「備中高松城」(びっちゅうたかまつじょう:岡山県岡山市)を攻囲します。

結局は、和議の交渉をすることとなり、豊臣側から厳しい講和条件を突き付けられましたが、その最中に起きたのが、1582年(天正10年)の「本能寺の変」でした。知らせを聞いた豊臣秀吉は、条件を緩めて和議を早々に切り上げ、京都へと引き返します。これが、いわゆる「中国大返し」です。

織田信長横死の事実を知った毛利方には、豊臣秀吉を追撃すべしとの声が上がります。しかし小早川隆景は、「誓紙(せいし:誓いの言葉が記された紙)の血痕いまだ乾かざるに、これを破るは武士の恥」と主張し、それを許しませんでした。

豊臣秀吉の天下統一に協力

四国と九州に領地拡大

豊臣秀吉

豊臣秀吉

豊臣秀吉が、織田家筆頭家老の「柴田勝家」を「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で破り、天下人へ名乗りを上げると、小早川隆景はその臣下となります。

1585年(天正13年)には、「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)による統一間近の四国へ出兵し、「高尾城」(現在の愛媛県西条市)など、長宗我部配下の諸城を攻略。伊予国一国を拝領しました。

また小早川隆景は、1586年(天正14年)に、九州統一を目指していた「島津家」征討のため出陣。島津配下の「小倉城」(こくらじょう:現在の福岡県北九州市)を攻略する活躍を見せます。

やがて「島津義久」(しまづよしひさ)を降伏に導くと、「筑前国」(現在の福岡県西部)や「筑後国」(現在の福岡県南部)を拝領。一旦は、領国が増え過ぎたとして辞退しますが、押し切られる形で与えられ、豊臣臣下随一の勢力を有したのです。

豊臣家との絆を深めた晩年

小早川隆景は、還暦を迎えた1592年(文禄元年)にも、「第1次朝鮮出兵」(別称:文禄の役)に10,000の軍勢を率いて参戦するなど、晩年まで豊臣政権に忠義を尽くしました。

豊臣秀吉に「日本の西は、小早川隆景に任せればすべて安泰」と言わしめるほどの信頼を得て、「徳川家康」や「毛利輝元」らと共に、「五大老」(豊臣政権の最高顧問)に任命されています。

また1594年(文禄3年)に、豊臣秀吉の甥「羽柴秀俊」(はしばひでとし:のちの小早川秀秋)を養子に迎えたことも、小早川隆景と豊臣秀吉の絆が窺えるできごとのひとつ。

この縁組は、当初毛利輝元に持ちかけられた話でしたが、毛利宗家の正統性を守るため、小早川隆景が小早川家を犠牲にして、受け入れることを申し出たのです。

小早川隆景の名言・逸話

毛利家の逸話としてよく知られているのが、「三矢の教え」(さんしのおしえ)。死を間近にした毛利元就が、毛利隆元と吉川元春、小早川隆景の兄弟を病床に呼び出し、弓矢を手に取ってこう言い聞かせます。

「1本の矢では簡単に折れるが、3本をまとめれば容易に折れることはない。同じように3人で結束して、毛利家を守ってもらいたい」

しかしこの逸話は、毛利隆元が父・毛利元就よりも8年早く他界していることから、架空の話だと考えられているのです。

この話のもとになったとされているのが、1557年(弘治3年)に、毛利元就が書き残した「三子教訓状」(さんしきょうくんじょう)です。この書状には、「毛利の二文字を疎かにしないこと」や「3人の間柄に分け隔たりを作らないこと」など、毛利家存続のために兄弟が守るべき訓戒が14条に亘って記されています。

小早川隆景は、このように心配する父に対して、「争いは欲より起こるもの、欲を捨て義を守るなら、不和などは起こりませぬ」という言葉を返したのです。そして小早川隆景は、兄の毛利隆元の没後、その嫡男であった毛利輝元を支援するなど、父の教えを守り通しました。

小早川隆景

小早川隆景をSNSでシェアする

「戦国武将一覧」の記事を読む


那須与一

那須与一
鎌倉幕府の「御家人」(ごけにん)として、同幕府初代将軍「源頼朝」に仕えていた「那須与一」(なすのよいち)。いわゆる「源平合戦」における一連の戦いのひとつである「屋島の戦い」(やしまのたたかい)にて、「扇の的」に矢を見事命中させたほどの「弓の名手」として知られています。しかし、その逸話と那須与一の名前は、軍記物の「平家物語」などに登場するのみであるため、それらの真偽のほどは謎に包まれた部分が多いのです。平家物語や「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)などに伝わるところから、那須与一の生涯について紐解きつつ、人物像にも迫っていきます。

那須与一

土岐頼芸

土岐頼芸
「土岐頼芸」(ときよりのり)は、美濃国(現在の岐阜県)に栄えた土岐家の次男として生まれ、実兄「土岐頼武」(ときよりたけ)との熾烈な家督争いに打ち勝ち、美濃国守護(しゅご:鎌倉・室町幕府が置いた地方官)に上り詰めた戦国武将です。しかし、時は下剋上の時代。自身が守護代に任命した「斎藤道山」(さいとうどうさん)に裏切られ、美濃国を追われることとなります。土岐頼芸は、天下人「織田信長」の父で、「尾張の虎」と称された「織田信秀」(おだのぶひで)を頼り、斎藤道三と和睦しますが、最終的には11代続いた美濃国守護の地位を手放し、流浪の人生へと転落。81歳にして美濃国へ戻りますが、直後にその生涯を終えた人物です。激動の戦国時代を生きた土岐頼芸についてご紹介します。

土岐頼芸

山内一豊

山内一豊
「山内一豊」(やまうちかずとよ)と言えば、「司馬遼太郎」(しばりょうたろう)の名著「功名が辻」(こうみょうがつじ)の主人公としても知られる戦国武将です。妻の「千代」(ちよ)による内助の功などにより大出世を果たし、やがて土佐国(現在の高知県)202,600石の大名へと出世を遂げました。伝記によれば、山内一豊は口数の少ない穏和な性格で、華々しい武勲もそれほど多くなかった戦国武将でしたが、その反面、「織田信長」や「豊臣秀吉」、「徳川家康」という天下人達から厚い信頼を得ていたのです。 そんな山内一豊の生涯を追いながら、妻と共に果たした立身出世の道のりを辿っていきます。

山内一豊

蒲生氏郷

蒲生氏郷
「織田信長」や「豊臣秀吉」などの天下人に一目置かれながら、40歳の若さで生涯を閉じた「蒲生氏郷」(がもううじさと)。数々の戦場で武功を立てただけでなく、領地の経営や家臣団の統制にも長け、「世に優れたる利発人」と称された戦国武将でした。その一方で、キリシタン大名や「千利休」(せんのりきゅう)の高弟「利休七哲」(りきゅうしちてつ)のひとりとしての顔も持ち、当代きっての文化人としても知られた人物です。「六角氏」(ろっかくし)の重臣一族から「織田家」の家臣、そして、東北一の大大名へとのし上がった蒲生氏郷の生涯をたどり、その人物像に迫っていきます。

蒲生氏郷

最上義光

最上義光
「最上義光」(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県・秋田県)の小さな勢力であった「最上家」を、東北有数の大大名へと押し上げた武将です。父や弟との骨肉の争いに始まり、調略を駆使して領土を拡大しましたが、一方で合戦の際には、勇猛果敢な戦いぶりを見せ、「虎将」とも称されました。そんな最上義光の戦いの軌跡や、逸話から見える人物像に注目。ほぼ一代で、東北の大大名へとのし上がった、その生涯に迫っていきます。

最上義光

結城秀康

結城秀康
「結城秀康」(ゆうきひでやす)は「徳川家康」の子でありながら、数奇な運命を背負った戦国武将です。元服前には「豊臣秀吉」の養子に出されただけでなく、豊臣秀吉が甥の「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)を後継者に定めると、下総国(しもうさのくに:現在の千葉県北部、茨城県南西部)の「結城晴朝」(ゆうきはるとも)の養子となり、豊臣家の中枢から遠ざけられました。天下人の家に生まれながら不遇な目に遭い、それでも道を切り開いた結城秀康にまつわる数々の逸話をご紹介すると共に、その生涯を辿っていきます。

結城秀康

山本勘助

山本勘助
「山本勘助」(やまもとかんすけ)は戦国時代の武将で、「武田信玄」の伝説的軍師として広く知られています。「架空の人物」説が長く定説とされており、実在が確認されてもなお、その実像はいまだ謎に包まれた存在です。

山本勘助

森蘭丸

森蘭丸
「森蘭丸」(もりらんまる)は、「織田信長」の側近として最期まで献身的に仕えた小姓(こしょう:武将などに仕えた世話役)です。ゲームや時代劇、映画には、「美少年」として描かれている有名な人物。織田信長のお気に入りとして多くの逸話が残されている森蘭丸の生涯を、逸話・名言・家紋と共にご紹介します。

森蘭丸

毛利輝元

毛利輝元
「毛利輝元」(もうりてるもと)は、偉大な祖父「毛利元就」(もうりもとなり)を持つ名門武将です。「織田信長」とは敵対したものの、「本能寺の変」後は「豊臣秀吉」と和解し、「豊臣五大老」のひとりとして大活躍しました。 しかし、豊臣秀吉が亡くなったことで、運命の歯車が狂い始めるのです。「関ヶ原の戦い」で西軍の総大将に担がれた、名門・毛利家に育った毛利輝元の一生についてご紹介します。

毛利輝元