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荒木村重

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「荒木村重」(あらきむらしげ)は、地方豪族の家臣から立身し、織田家の重臣にまで上り詰めた武将です。しかし、突如として織田信長に反旗を翻したことで、数奇な運命をたどることになります。絶頂期からの転落や、重臣達の讒言(ざんげん:事実を曲げるなどして偽り、その人のことを目上の人に告げ口すること)と裏切りに翻弄された籠城戦、そして家族も名誉も失い、世捨て人として生きた晩年など、荒木村重の生き様には、戦国時代の不条理が凝縮されているのです。そんな荒木村重が参陣した戦いの数々や逸話などをたどり、その人物像を紐解いていきます。

荒木村重の生い立ち

怪力自慢の幼少期

荒木村重

荒木村重

1535年(天文4年)に荒木村重は、摂津国(現在の大阪府北中部・兵庫県南東部)の豪族「池田勝正」(いけだかつまさ)に仕える、「荒木義村」(あらきよしむら)の嫡男として生まれました。

荒木村重は、子宝に恵まれなかった両親が、「中山寺」(現在の兵庫県宝塚市)の御本尊「十一面観音菩薩像」に、12本の灯火を立てて祈祷し、ようやく授かった子だったのです。

祈祷後、荒木村重の母親は、灯火から飛び出した火の玉がお腹に宿るという、奇妙な夢を見たと言われています。

幼少期から腕力が人一倍強かった荒木村重は、大食漢でもありました。

12歳のとき、父から食べ過ぎであることを注意された荒木村重は、「武将たるもの筋力がなくては話になりません」と反論し、近くにあった碁盤の上に父を乗せて悠々と歩き回りました。あまりの腕力に、父も「さすが観音様のご加護を受けた子だ」と感嘆したと伝えられています。

荒木家の出自と家紋

そもそも荒木家は、名の通った一族ではありませんでした。丹波国(現在の京都府中部・兵庫県北東部)の豪族「波多野家」(はたのけ)の傍流に過ぎず、祖父「荒木高村」(あらきたかむら)の代に摂津国に移り、池田家に仕官。荒木義村の代にようやく、池田家の有力家臣のひとりに数えられるようになったばかりだったのです。

荒木村重の家紋に用いられていたのは、「抱き牡丹」(だきぼたん)の意匠。唐の時代に中国から渡ってきた牡丹をあしらっており、花びらに枝葉を組み合わせています。

牡丹が「花の王」と呼ばれていたことや、平安時代から続く「五摂家」(ごせっけ:公家の頂点に立つ5つの家)のひとつ「近衛家」(このえけ)が、その車紋として使っていたことなどから、自身の家紋とする豪族が多かったと言われているのです。

織田信長に仕える

池田家の実権を掌握

荒木村重が池田家中で頭角を現したのは、池田勝正と「池田知正」(いけだともまさ)による内紛がきっかけ。池田勝正は、先代の子ではなかったものの、文武に優れていたため、池田家の跡継ぎに指名されたのです。嫡男だった池田知正はこれを妬み、両者の間には、深い溝が生まれていました。

そこで荒木村重は、池田知正の有力家臣「池田勘右衛門」(いけだかんえもん)を酒宴に誘い、自らの手で粛清。これによって荒木村重は、家中にいた池田勝正の反対派を押さえ込むことに成功。己の腕一本で荒木村重は、主君・池田勝正からの絶大な信頼を獲得したのです。

さらに1568年(永禄11年)には、「猪名寺の戦い」(いなでらのたたかい)で近隣勢力の「茨木重朝」(いばらきしげとも)・「伊丹親興」(いたみちかおき)連合軍を討ち破ると、池田家中屈指の発言力を獲得。その後、池田勝正が「織田信長」へ臣従したのを機に、国盗りの計画を進めることにしたのです。

その中で荒木村重が目を付けたのは、かつて後継者問題で敵対した池田知正。次期当主の座をちらつかせつつ、一方で畿内の実力者「三好三人衆」(「三好家」の重鎮である「三好長逸」[みよしながやす]・「三好宗渭」[みよしそうい]・「岩成友通」[いわなりともみち]の総称)から来た謀反の誘いを利用し、池田知正と共に、主君・池田勝正を追放します。そして荒木村重は、池田家の実権を掌握することになったのです。

三好家の来歴をはじめ、ゆかりの武具などを紹介します。

織田信長も驚嘆した肝っ玉

織田信長

織田信長

1571年(元亀2年)、「白井河原の戦い」(しらいかわらのたたかい)において、摂津国のライバル「和田惟政」(わだこれまさ)を討ち、さらに勢力を拡大した荒木村重は、「三好家」から「織田家」への鞍替えを画策します。

その頃、織田信長は、室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)と敵対しており、味方になる勢力を欲している状況でした。荒木村重は、まず足利義昭を支持する池田知正を追放し、家中から完全に池田一族を排除。その上で、織田信長との会見に臨みました。

しかし織田信長にしてみれば、荒木村重の印象は決して良くありません。織田家に臣従した池田勝正を追放して、池田家を乗っ取った人物だからです。そこで織田信長は、面会するなり無言で刀を抜き、剣先でまんじゅうを刺して鼻先に突き付け、荒木村重を挑発。すると荒木村重は、平然と大口を開けて、そのまんじゅうを食べ始めたのです。

その剛胆さに感心した織田信長は、すぐに荒木村重を気に入り「日本一の器量なり」と絶賛。織田家への臣従はもちろん、摂津国の支配も認めたのでした。

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織田家中屈指の猛将として転戦

石山本願寺攻めの主力部隊

織田家に属することになった荒木村重は、畿内での重要な合戦に次々と参陣し、戦功を挙げていきます。足利義昭を破り、室町幕府を滅亡へ導いた「槇島城の戦い」(まきしまじょうのたたかい)を始め、摂津国の抵抗勢力「伊丹忠親」(いたみただちか)を滅ぼした「伊丹城の戦い」(いたみじょうのたたかい)、「越前一向一揆」(えちぜんいっこういっき)の鎮圧など、休む間もなく転戦。その中でも、約10年に亘って「石山本願寺」と争った「石山合戦」(いしやまかっせん)では、主力部隊として活躍しました。

織田家中での荒木村重は、畿内のあらゆる戦線に顔を出す遊軍的立場であり、同家の重臣であった「明智光秀」と同等の役割を果たしていたのです。なお、荒木村重の嫡男「荒木村次」(あらきむらつぐ)の正室は、明智光秀の娘でした。

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織田信長に反旗を翻す

「伊丹城」を改修した「有岡城」(ありおかじょう:現在の兵庫県伊丹市)へと本拠を移し、摂津国370,000石を任されるまでになった荒木村重ですが、織田信長から「羽柴(豊臣)秀吉」への援軍を命じられた1578年(天正6年)、突如有岡城に立てこもり、反旗を翻します。その理由は諸説ありますが、明確なことは現在も分かっていません。

この知らせを受けた織田信長は、意外にも懐柔策を取ります。「母を人質に差し出し、安土城(あづちじょう:現在の滋賀県近江八幡市)へ弁明に来れば許す」と寛大な条件を出したのです。

これを受けた荒木村重は、いったん安土城へ向かいますが、その道中、自身の側近「中川清秀」(なかがわきよひで)と「高山右近」(たかやまうこん)に止められます。

とりわけ中川清秀は強硬に反対し、「織田信長公は一度疑いを抱いた者を決して許しません。毛利家(もうりけ)と結び、籠城するのが得策です」と諫言(かんげん:自分よりも目上の人に忠告すること)。荒木村重は迷ったあげく踵(きびす)を返し、有岡城での籠城を決意しました。

それでも織田信長は、再び数度に亘って使者を有岡城へ派遣し、翻意を促します。多くの敵を抱えていた織田家には、荒木村重とことを構える余力がなかったのです。しかし、たび重なる融和策をことごとく蹴られたため、ついに織田信長が激怒。「有岡城の戦い」へと突入したのです。

毛利家の来歴をはじめ、ゆかりの武具などを紹介します。

約1年にも及んだ籠城戦の顛末

籠城を勧めた重臣達の離反

織田信長は、荒木村重を孤立させるため、大坂湾の制海権を奪取し、内通工作を開始します。標的は、荒木村重の右腕であり、籠城を勧めた高山右近と中川清秀です。

織田家への寝返りを説得するため、熱心なキリスト教信者である高山右近のもとに宣教師を派遣。この宣教師は織田信長より、「説得が失敗したら破門にする」と脅されていました。荒木村重に妹や子を預けていた高山右近は、苦渋の決断を迫られますが、結局は荒木村重から離反。また中川清秀に対しては、金と加増を約束し、内応を成功させています。

なお、一説によると中川清秀は、荒木村重による織田信長への謀反の原因を作ったと言われる人物です。荒木村重の家臣であった中川清秀は、石山合戦の際、石山本願寺へ兵糧を横流しします。このことが織田信長に発覚するのを荒木村重が恐れたために、挙兵したとする説があるのです。

さらには、一度織田信長への恭順に傾いた荒木村重を、あえて説得して籠城へ導いています。そんな重要人物が裏切るなど、荒木村重にとって青天の霹靂となる出来事でした。これにより、孤立に近い状態に陥った荒木村重は、序盤から劣勢の中での戦いを強いられたのです。

武士の意地を貫くための籠城戦

重臣達に裏切られ、絶望的な状況の荒木村重でしたが、摂津国の領主たる気概を見せます。嫡男・荒木村次の正室は、その実家である「明智家」へ送り返し、高山右近の妹や子も危害を加えず解放。羽柴秀吉からの派遣により、降伏の説得へと訪れた「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)についても、その主君「小寺政職」(おでらまさもと)から殺害依頼があったにもかかわらず、幽閉に留めました。

荒木村重には、人質を取引材料にする道もありましたが、荒木村重にとっては、武家の意地を貫くことだけが、織田信長と戦う理由と化していたのです。

しかし、織田信長自ら率いた鎮圧軍は、容赦ない手法で荒木村重に迫ります。荒木村重に味方する摂津国の農民はすべてなで切りにし、村々に放火しながら、有岡城へ詰め寄ったのです。開戦から約2ヵ月後には、総勢約30,000人の兵で有岡城へ総攻撃。辛うじて猛攻に耐えた荒木村重に対し、力攻めは難しいことを悟った織田信長は兵糧攻めに変更。ここから約10ヵ月に及ぶ、包囲戦が始まります。

毛利家からの援軍だけが頼りでしたが、荒木村重のもとへ助けが来ることはありませんでした。士気も兵糧も限界に達した荒木村重は、ある夜、数名の御供を連れて有岡城を脱出。荒木村次が守る「尼崎城」(あまがさきじょう:現在の兵庫県尼崎市)へ向かったのです。そこは海路に面し、毛利家からの援軍を受けやすい城でした。

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世捨て人として生きる

一族を見殺しにしてしまった武将

有岡城が陥落すると、織田信長は、荒木村重に使いを出します。尼崎城、及び支城の「花隈城」(はなくまじょう:現在の兵庫県神戸市)を開城して降伏すれば、有岡城に残っていた妻子や一族郎党を助命するという提案を伝えに来たのです。

しかし、荒木村重はこれも拒否。人情よりも武家の意地を貫くことを選びます。この決断によって荒木村重は、「一族を見殺しにした男」として、後世まで批判を浴びることになりました。

再び顔に泥を塗られた織田信長は、「荒木一族は武道人にあらず」として、苛烈な仕置きを行ないます。荒木村重が籠もる尼崎城の近くで、重臣の家族ら計122名を処刑。さらに家臣やその家族512名を、4軒の農家に閉じ込めて焼き殺しました。

荒木村重の妻子、及び重臣36名は、市中引き回しの上、京都の六条河原で斬首。その様子は当時の書物「立入左京亮宗継入道隆佐記」(たてりさきょうのすけにゅうどうりゅうさき)によると「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也」とあり、凄惨を極めたことが分かります。

自虐を込めた「道糞」(どうふん)の異名

豊臣秀吉

豊臣秀吉

1580年(天正8年)、最後の抵抗拠点だった尼崎城と花隈城が落ちると、荒木村重は、毛利家を頼って海路で亡命。数多の非難を受けながら、隠遁(いんとん:俗世間から離れてひっそりと暮らすこと)生活に入るのです。

そんな中で荒木村重は、己の非道を誰よりも自覚しており、自ら「荒木道糞」(あらきどうふん)と名乗ったのでした。

豊臣秀吉が天下を手中に収めたある日、茶人となっていた荒木村重は、かつての戦友だった豊臣秀吉のもとへ現れます。

謀反のいきさつなどを知っていた豊臣秀吉は、「道糞」の異名を知り、「荒木道薫」(あらきどうくん)と名を改めさせ、自身の相談役として召し抱えたと伝えられているのです。

その後、豊臣秀吉のもとを去った荒木村重は、堺(さかい:現在の大阪府堺市)へ流れ着き、ひっそりと52年の生涯を閉じました。

豊臣秀吉のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

荒木村重の素顔が分かる逸話

茶人としての荒木村重

千利休

千利休

すべてを失って隠遁した荒木村重は、若い頃から嗜んでいた茶道に救いを求めます。この当時、茶会を主催するには織田信長の許可が必要でした。

その許可を得られていたのは、地位の高い家臣のみ。そんな中で荒木村重は、1576年(天正4年)に堺を代表する商人であり、茶人の「今井宗久」(いまいそうきゅう)を茶会に招いていた記録が残っており、この他にも、たびたび茶会を催していたのです。

ある茶会では、豊臣秀吉が、かつて荒木村重を裏切った高山右近について、その才能と善良さを称賛するという出来事が起こりました。それを聞いた荒木村重は、とっさに、「高山右近の善良さはうわべだけのもの」と非難。豊臣秀吉の怒りを買ってしまい、その後出家して、寺に身を隠したと言われています。

また、有岡城から逃亡する際も、荒木村重は、その背に名物「兵庫の壺」を背負っていたと伝えられており、命の次に茶器を愛していたことが分かります。

晩年の荒木村重は、茶聖「千利休」とも親交を持ち、その高弟である「利休七哲」(りきゅうしちてつ)のひとりに名を連ねました。戦国の世の習いを、身をもって体験した荒木村重だからこそ、到達できた境地があったのかもしれません。

千利休の生い立ちや人物像、実力者の実績など詳細をご紹介します。

生き延びた息子との再会

有岡城の戦いによって、荒木家の一族はことごとく処刑されましたが、当時2歳だった荒木村重の末子だけは、乳母の機転により石山本願寺に保護されました。この人物こそ、「浮世絵の祖」とも称される「岩佐又兵衛」(いわさまたべえ)です。

その作品は、人物画から風俗画まで多岐に及びますが、画風は独特。代表作の「山中常盤物語絵巻」では、笑みを浮かべながら人を刺す殺人鬼などが描かれ、狂気に満ちています。幼い頃の過酷な運命が、岩佐又兵衛を「怨念の絵師」に仕立て上げたのかもしれません。

なお荒木村重は、晩年に一度だけ、岩佐又兵衛と対面しました。このとき2人は、終始ほぼ無言だったと言います。

荒木村重の愛刀「大江」

荒木村重が織田信長へ臣従を誓った際に、賜った名刀として知られる「大江」(おおごう)。南北朝時代の名工「郷義弘」(ごうのよしひろ)による1振で、荒木村重没落後に再び織田信長のもとへ戻されます。しかし、「不吉である」と実際には使用されず、最終的には、豊臣秀吉の手に渡りました。

本刀は、郷義弘が手掛けた作品の中でも極上の出来映えであったと評されています。しかし、「大坂の陣」における大坂城の落城時に焼損。当時の資料をもとに、現代刀の名工「月山貞利」によって復元された刀身は、大阪城大阪市)天守閣に展示されています。

大江
大江
大磨上無銘
鑑定区分
未鑑定
刃長
66.15
所蔵・伝来
足利義昭→
織田信長→
荒木村重→
本阿弥光二→
豊臣秀吉→
豊臣秀頼

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