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細川忠興

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若くして「織田信長」に仕え、数々の武功で名を上げた「細川忠興」(ほそかわただおき)は、「豊臣秀吉」や「徳川家康」などの天下人にも重用された人物でした。
「本能寺の変」では、妻が「明智光秀」の娘である「明智玉子」(あけちたまこ:のちの細川ガラシャ)だったことで、明智光秀との内通を疑われる可能性もありましたが、主君・織田信長への追悼の意を表すなど、巧みな処世術によって見事切り抜け、やがて39万9,000石の大大名へと出世します。一方で、茶の湯に精通する文化人でもあり、「千利休」の高弟「利休七哲」(りきゅうしちてつ)にも数えられる茶人武将でもありました。
ここでは、細川忠興が参加した合戦の数々や語り継がれている逸話、そしてゆかりの刀剣などをふまえつつ、その生涯に迫っていきます。

生い立ちから織田信長への出仕まで

武家の名門に生まれる

細川忠興のイラスト

細川忠興

「細川忠興」(ほそかわただおき)は、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)に仕えた「細川藤孝/幽斎」(ほそかわふじたか/ゆうさい)の嫡男として、1563年(永禄6年)に生まれました。

細川家は、室町幕府の管領を担った「細川京兆家」(ほそかわけいちょうけ)の傍流です。

代々、和泉国(いずみのくに:現在の大阪府南西部)の「半国守護」(はんごくしゅご:南北朝、及び室町時代に、一国を二分したうちの半分を管轄した守護職)を務める家柄でした。

細川家の家紋は、当初「松笠菱」(まつかさひし)や、足利将軍家から拝領した「桐紋」(きりもん)や「引両紋」(ひきりょうもん)などが用いられていましたが、細川忠興の代に「九曜紋」(くようもん)となります。

織田信長の「小柄」(こづか)に施されていた九曜紋を気に入り、自ら織田信長に願い出て使用を許可された意匠の家紋です。

その後、九曜紋と区別するため、中心の円と周囲の円がやや離れている「離れ九曜」を定紋とするようになり、現在ではこの紋が、細川家の代表的な家紋「細川九曜」と呼ばれています。

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織田信長の家臣として活躍

織田信長

織田信長

1565年(永禄8年)、足利義輝が三好家(みよしけ)の軍勢に、二条御所を襲われて討死した「永禄の変」(えいろくのへん)が勃発します。

これにより室町幕府の勢力は、京都から一掃。父・細川藤孝も、近江国(現在の滋賀県)の「六角義賢」(ろっかくよしかた)や、越前国(えちぜんのくに:現在の福井県北東部)の「朝倉義景」(あさくらよしかげ)らを頼りながら、足利将軍家再興のため奔走しました。

やがて細川藤孝と細川忠興は、明智光秀の紹介で尾張国(現在の愛知県西部)の織田信長に仕官。親子共々、織田家の家臣となったのです。

細川忠興の初陣は、15歳の時に起こった「雑賀の戦い」(さいがのたたかい)。紀伊国(現在の和歌山県、及び三重県南部)に勢力を誇り、織田信長に反抗するために、「石山本願寺」(現在の大阪府大阪市)と結託していた、「雑賀衆」を討伐する合戦でした。

細川忠興は、「雑賀城」(現在の和歌山県和歌山市)攻めの際、雑賀衆を中心とした敵軍が得意とする鉄砲攻撃を防ぐため、竹を連ねて銃弾除けを作り攻撃に参加し、武功を挙げます。

さらに1577年(天正5年)には、大和国(現在の奈良県)を治めていた「松永久秀」(まつながひさひで)が、突如織田家から離反しました。のちに、その居城を攻めた「信貴山城の戦い」(しぎさんじょうのたたかい)において、細川忠興は松永家の支城「片岡城」(かたおかじょう:現在の奈良県北葛城郡)を攻め、真っ先に城内へと突入。額に傷を負いながらも松永軍を討伐し、その猛将ぶりを発揮したのです。

細川忠興と同じく織田軍に属していた明智光秀は、細川忠興の戦う様を見て、「与一郎(細川忠興)の働きに恥じぬよう、皆の衆も掛かれ」と、自軍を鼓舞したと伝えられています。

この戦いで勝利を収めた織田信長は、後日、自筆の感状(戦功を称えるために、司令官や主君が与える賞状)を細川忠興に送り、称賛を惜しみませんでした。

なお、織田信長が自らしたためた感状は極めて少なく、織田信長の自筆であることが確実に分かっているのは、この1点のみと言われています。これは、当時としても異例のことだったのです。

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明智光秀の与力として転戦を繰り返す

明智玉子との婚姻から国持大名へ

明智光秀

明智光秀

細川忠興は、1578年(天正6年)に元服すると、織田信長の仲介で明智光秀の3女・明智玉子と結婚。

これにより細川忠興は、明智光秀の与力(よりき:侍大将や足軽大将などに付き従う騎馬の武士)となり、以後、明智勢と共に各地を転戦します。

1575年(天正3年)から約6年に及んだ「丹波平定戦」での細川忠興は、明智光秀による指揮のもと、大きな活躍を見せました。そして、「亀山城」(現在の京都府亀岡市)攻めの際は、降伏しようとした敵将の「前田茂勝」(まえだしげかつ)に対し、なおも搦め手(からめて/からめで:城や砦の裏門)から押し破ろうとして明智光秀に諭されるなど、血気盛んな武者ぶりを発揮したのです。

さらに1578年(天正6年)、細川忠興は、摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)を治めていた織田家の重臣「荒木村重」(あらきむらしげ)が謀反を起こした「有岡城の戦い」(ありおかじょうのたたかい)へ出陣し、砦の守備などで勝利に貢献。

1579年(天正7年)には、丹後国(現在の京都府北部)の「一色義道」(いっしきよしみち)を「建部山城の戦い」(たてべやまじょうのたたかい)で撃破し、丹後平定を成し遂げます。これらの功により、細川藤孝・細川忠興親子は、丹後南部の領主として、国持大名(くにもちだいみょう:一国以上を領有する大名)になったのです。

細川忠興にとって明智光秀は、「舅」(しゅうと)であり、主従関係においては「寄親」(きしん:主君と家臣の関係を親子関係に例えて、その主となるほうを指す言葉)でしたが、細川忠興自身は、あくまで主君は、織田信長であると考えていた説があります。

その織田信長への細川忠興の心酔ぶりが窺える出来事のひとつが、1581年(天正9年)に行なわれた、織田信長主催の観兵式である「京都御馬揃え」での逸話です。細川忠興は、行列に参加したのはもちろんのこと、このときに織田信長が身に付けた唐錦(からにしき)の小袖(こそで)も、細川忠興が京都中を訪ね回って探し出した献上品でした。

織田信長も細川忠興を高く評価しており、丹後南部を領地として細川家に与えた際も、父の細川藤孝に対してではなく、細川忠興に与えたとも言われており、このとき細川忠興は、「心魂に徹し、忘れ給わず」と感激したことが伝えられています。

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本能寺の変直後の立ち回り

1582年(天正10年)、明智光秀が「本能寺の変」を起こして織田信長を自害に追い込むと、細川忠興は難しい立場に立たされます。細川家は明智家の与力であり、親戚でもあったため、織田方ではなく明智方に付くように、明智光秀から再三誘いを受けたのです。

ここで細川藤孝と細川忠興は、喪に服すため共に剃髪。細川藤孝は隠居し、細川家の家督を細川忠興に譲渡。明智光秀の娘・明智玉子を妻に持つ細川忠興も明智光秀に協力しないことを明確にするため、細川玉子を丹後国の味土野(みどの:現在の京都府京丹後市)に幽閉しました。

この素早い対処によって細川家は、明智光秀への内通を疑われることなく、難局を乗り切ることに成功したのです。なお、細川忠興同様、明智光秀の娘婿だった「津田信澄」(つだのぶずみ)は、明智家滅亡後も謀反の疑いをかけられ、織田信長の3男「織田信孝」(おだのぶたか)らの手によって討たれています。

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妻に対する偏愛

細川ガラシャ

細川ガラシャ

この当時、親が謀反を起こした場合、その娘は夫から離縁されるのが通例でしたが、細川忠興は、妻の細川ガラシャ(明智玉子)を2年間幽閉するまでにとどめました。

戦国時代において一二を争うほどの美人であった明智玉子を愛していたためです。ただし、その溺愛ぶりは常軌を逸していました。

例えば細川忠興は、細川ガラシャと言葉を交わしたというだけで庭師を手討ちにしたり、細川ガラシャの料理に髪の毛が入っていたのを見付けたときには、細川ガラシャがかばったにもかかわらず、料理人を打ち首にしたりと、細川忠興の妻への歪んだ愛情にまつわる逸話は、枚挙にいとまがありません。

なお、その後、豊臣秀吉に仕えた細川忠興は、九州征伐へと参陣していた際、細川ガラシャを心配するあまり、女性好きで知られる豊臣秀吉の目に留まらないように妻を遠ざけただけでなく、「豊臣秀吉にはなびかないように」という趣旨の和歌まで、細川ガラシャに書き送っています。

細川ガラシャの活躍するまでの経緯や、成し遂げた偉業などをご紹介します。

細川ガラシャ YouTube動画

細川ガラシャ

豊臣政権下での活躍と関ヶ原の戦い

豊臣家に臣従し地位を確立

豊臣秀吉

豊臣秀吉

本能寺の変のあと、豊臣秀吉が「山崎の戦い」で明智光秀を破ると、細川忠興は、「豊臣家」に臣従。すると、細川忠興はすかさず、丹波国北部を治める大名で、明智光秀に与していた(くみしていた)「一色家」(いっしきけ)に目を付けます。

細川忠興の妹の夫「一色義定」(いっしきよしさだ)を、細川忠興が居城としていた「宮津城」(みやづじょう:現在の京都府宮津市)へ呼び寄せ、誅殺(ちゅうさつ:罪を咎めて殺害すること)してしまうのです。

そして細川忠興は、そのまま混乱に乗じて「弓木城の戦い」(ゆみのきじょうのたたかい)を仕掛けて一色家の残党を討伐。細川忠興は、怒濤の勢いで丹波国の統一を果たし、そのしたたかさを示したのでした。

さらに細川忠興は、豊臣秀吉と織田家の重臣「柴田勝家」(しばたかついえ)が激突した「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)において、越前国(現在の福井県北東部)へ侵攻し、柴田軍を攪乱(かくらん)。続いて、豊臣秀吉と徳川家康が対峙した「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)にも出陣し、敵方の「織田信雄」(おだのぶかつ:織田信長の次男)軍を撃退する活躍を見せました。

これらの戦功により、細川忠興は、「従四位下・侍従」の官位と羽柴姓を豊臣秀吉より賜り、1588年(天正16年)には、豊臣姓まで下賜されます。

その後も細川忠興は、「後北条家」(ごほうじょうけ)を攻めた「小田原征伐」に従軍するなど、名だたる合戦に参加。1592年(文禄元年)の「文禄の役」(ぶんろくのえき)では、朝鮮にも渡航しました。そして、1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなるまで、細川忠興は、豊臣家に忠義を尽くしたのです。

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石田三成との禍根

石田三成

石田三成

豊臣家中には、細川忠興と馬が合わない人物も存在しました。その代表格が「石田三成」です。

その理由には諸説ありますが、1595年(文禄4年)に、関白「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)が豊臣秀吉に切腹させられた「秀次事件」の折、石田三成により、細川忠興も危うく失脚しかけたことなどが挙げられます。

実は、細川忠興が豊臣秀次に借金していたことで、謀反の容疑が掛けられていたのです。細川忠興は、徳川家康の力を借りるなどして何とかお金を工面し、豊臣秀吉にお金を返すことができましたが、謀反の容疑を裏で捏造したのは、石田三成であると考えていました。

また文禄の役でも、「文治派」(ぶんちは:豊臣政権において、主に政務を担った武将達)の石田三成が、細川忠興ら「武断派」(ぶだんは:同じく主に軍務を担った武将達)の武将にとって都合の悪い情報を豊臣秀吉に報告。その結果、細川忠興は豊臣秀吉より、身に覚えのない叱責を浴びるはめになったのです。

そして豊臣秀吉が没した直後、細川忠興を始めとする武断派の武将達の恨みが爆発します。「加藤清正」や「福島正則」(ふくしままさのり)ら武断派の武将7名は、石田三成襲撃を実行したのでした。

寸前で勘付いたため、事なきを得た石田三成でしたが、「関ヶ原の戦い」の以前から、細川忠興は石田三成を不倶戴天(ふぐたいてん:生かしておけないと思うほどに、怒りや恨みが深いこと)の敵と見なしていたのです。

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関ヶ原の戦いで東軍の勝利に貢献

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでの細川忠興は、石田三成への遺恨や徳川家康に10万石の加増を約束されたことなどから、東軍に付きます。すると石田三成は、細川忠興が関ヶ原の戦いの前哨戦である「上杉征伐」のため、陸奥国(現在の東北地方北西部)へ出陣した隙に、大坂城内にいた細川忠興の妻・細川ガラシャを人質に取る動きを見せたのです。

しかし、夫の足手まといになることを拒んだ細川ガラシャは自害。キリスト教徒であった細川ガラシャは、自殺を禁じられていたため、家臣にその胸を突かせたと伝えられています。

これを知った細川忠興は怒り狂い、関ヶ原の戦いでも奮戦。石田三成本隊と対峙し、計136もの首級を挙げました。こうした働きを受けて徳川家康は、細川忠興の所領を丹後国12万石から豊前国(ぶぜんのくに:現在の福岡県東部)39万9,000石に加増。細川忠興は、九州屈指の大大名となったのでした。

細川ガラシャが亡くなったときの細川忠興の悲しみようは凄まじく、自害の際に一緒にいながら脱出に成功した、嫡男「細川忠隆」(ほそかわただたか)の正室「細川千代」(ほそかわちよ)を糾弾。命運を共にしなかったことを責め、離縁を命令します。細川忠興は、細川忠隆がそれを拒むと廃嫡(はいちゃく:家督相続権を失わせること)にし、夫婦共々追放したのでした。

これにより、1620年(元和6年)、細川家の家督は、細川忠興の3男「細川忠利」(ほそかわただとし)が継ぎ、幕末まで続く「熊本藩」(現在の熊本県)の礎を築くことになるのです。

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細川忠興にまつわる逸話

茶人としても知られる文化人

武断派の武将として知られる細川忠興ですが、当代きっての茶人としても有名でした。千利休の7人の高弟「利休七哲」のひとりに数えられただけでなく、自らの号を冠した茶道の流派「三斎流」(さんさいりゅう)の開祖でもあります。

なお、師の千利休が豊臣秀吉に切腹を命じられた際、豊臣秀吉の勘気(主君などの怒りに触れ、咎めを受けること)を恐れず師のもとへ参じたのは、細川忠興と同じく茶人武将であった「古田重然/織部」(ふりたしげなり/おりべ)のみ。さらに細川忠興は、千利休亡きあとも形見として贈られた石灯籠を生涯大切にし、自身の死後にはその墓石に使ったと伝えられています。

細川忠興は、それほど義理堅い人物だったのです。

その他にも細川忠興は、刀剣の「肥後拵」(ひごこしらえ)を創作したり、太平洋戦争まで、成人男子の下着として使われていた「越中ふんどし」を考案したりと、多彩な才能も発揮。和歌や絵画、能楽にも精通し、教養人としての側面も持ち合わせていました。

天下一気が短い武将

千利休や細川忠興、古田織部、「小堀遠州」(こぼりえんしゅう)ら4人の茶の湯についてまとめた「茶道四祖伝書」では、細川忠興が「天下一気が短い人物」だったと書かれています。

細川忠興が癇癪を起こした逸話は多く、例えば妻がキリスト教に改宗し、細川ガラシャの洗礼名を授かったときには、妻の喉元に短刀を突き付けてまで、信仰の放棄を迫りました。さらに3男・細川忠利が洗礼を受けたときには、それを止めなかった罰として、乳母の鼻と両耳をそぎ落としたと伝えられているのです。

また細川忠興は、常に行儀の良いことで知られていましたが、ある友人がその秘訣を訪ねると、「2度までは許すが、3度目には斬ってしまうからだろう」と説明したと言い、情け容赦のない一面を持つ人物だったことが窺えます。

恐ろしい逸話が伝わる愛刀 歌仙兼定

細川忠興が佩用(体に帯びて用いること)した刀剣「濃州関住兼定」(のうしゅうせきかねさだ)は、室町時代の刀工で、関鍛冶の第一人者としても知られる「二代兼定」(にだいかねさだ)により制作された1振。

江戸時代の刀剣評価書「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)に収載された、「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)に列せられる名刀ですが、実はこの刀剣の号である「歌仙兼定」(かせんかねさだ)には、短気な細川忠興ならではの逸話が残っています。

家督を細川忠利に譲ったあとも、側近らの仕事ぶりに目を光らせていた細川忠興。働きが悪い家臣を見付けると、「不忠である」と問答無用で成敗していたのです。

細川忠興が手討ちにした家臣の数は、全部で36名。このときに使用した刀剣が歌仙兼定であり、この号は、平安時代の和歌の名手が「三十六歌仙」と呼ばれていたことにちなんで名付けられました。

なお、この歌仙兼定は、細川忠興亡きあとも細川家に代々受け継がれ、現在は、細川家伝来の美術品を保存する「永青文庫」(えいせいぶんこ:東京都文京区)が所蔵しています。

歌仙兼定
歌仙兼定
濃州関住兼定作
鑑定区分
未鑑定
刃長
59
所蔵・伝来
細川忠興

細川忠興

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