戦国武将一覧
斎藤道三
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斎藤道三

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「斎藤道三」(さいとうどうさん)と言えば、戦国時代に美濃国を乗っ取った、成り上がりとして有名です。「権謀術数」(他人を巧みに欺く策略)に長け、親の腹を食いちぎって生まれる「マムシ」のようだと恐れられましたが、皮肉にも息子「義龍」(よしたつ)と対立し、討ち死にします。「下剋上大名」と恐れられた、斎藤道三の生涯に迫ります。

僧侶→油商人→武士に

斎藤道三

斎藤道三

斎藤道三の出自については、実はよく分かっていません。父は、長井新左衛門尉(松波庄五郎)。父が何かの事情で浪人となり、京都・妙覚寺の僧侶に。子どもの道三も「法蓮房」の名を受け、僧侶となります。

油問屋の奈良屋又兵衛の娘を嫁にもらうと、油商人に転職。「漏斗(じょうご)を使わず、油を一文銭の穴に通します。油がこぼれたらお代は頂きません」と言って注ぐパフォーマンスをして、大成功します。

しかし、行商に行った先で「その力を武芸に注げば良い武士になれるのに」と言われたのをきっかけに一念発起。

道三は油商人をやめ、槍と鉄砲を学んで達人となり、念願の武士になります。

美濃国を乗っ取る

まずは、美濃国の小守護代「長井長弘」(ながいながひろ)の家臣となり、やがてその武芸と才覚で頭角を現し、美濃国主・土岐氏の次男「土岐頼芸」(ときよりのり)に一目置かれます。

1527年(大永7年)、頼芸とその兄「土岐頼武」(ときよりたけ)との間で家督争いが起こると、道三は頼芸側に付き、頼武を追放。頼芸の信頼を得ることに。その後道三は、同じく頼芸の信頼を得ていた、自分の君主・長井長弘を殺害し、「長井新九郎規秀」(ながいしんくろうのりひで)と名乗ります。しかし、より位の高い守護代「斎藤利良」(さいとうとしなが)が病死すると、「斎藤新九郎利政」(さいとうしんくろうとしまさ)と名乗り、自らの地位を高めるのです。

同年、道三は、頼芸の妾「深芳野」(みよしの)を側室に譲り受けます。その翌年の1528年(大永8年)、長男・義龍が誕生。さらに、1532年(天文元年)明智光継(あけちみつつぐ)の娘「小見の方」を正室として迎えることに。そして、1535年(天文4年)のちに織田信長の正室となる「帰蝶」(きちょう)が誕生します。

ところが突如として、1541年(天文10年)道三は頼芸の弟「頼満」(よりみつ)を毒殺。これをきっかけに、道三は頼芸に反旗を翻すのです。1542年(天文11年)頼芸の居城・大桑城を攻撃し、頼芸とその子「頼次」(よりつぐ)を尾張へ追放します。

しかし、頼芸はただ黙ってはいません。織田信秀(信長の父)と朝倉孝景の後援を得て、揖斐北方城(いびきたかたじょう)と革手城を取り戻し、由緒正しい土岐一族の国主復帰を目指します。

しかし道三は、信秀を壊滅寸前まで追い込んで和睦。1548年(天文17年)、娘の帰蝶を信秀の長男・織田信長に嫁がせます。この和睦により、1552年(天文21年)、再び頼芸を尾張へ追放。美濃国を完全に乗っ取り、国主として君臨します。

実の息子・義龍に討たれる

織田信長

織田信長

1554年(天文23年)、道三は家督を長男・義龍(よしたつ)に譲り、「道三」と号して鷺山城へ隠居します。大人しくしていれば良かったものの、道三は側室に産ませた義龍よりも、正室に産ませた「孫四郎」や「喜平次」を偏愛し、義龍の排除を考え始めるのです。

実は、義龍誕生には疑惑がありました。頼芸の妾・深芳野を側室にもらった月から義龍が生まれるまでの期間が短いのです。「義龍は頼芸の子どもではないのではないか」という噂が流れます。義龍はそれを道三に問いますが、はっきりとは答えません。やがて義龍は、「本当の父が頼芸ならば道三こそが敵ではないか」と考えるように。1555年(弘治元年)、義龍はまず弟達を殺害。そして1556年(弘治2年)「長良川の戦い」で父・道三と対決するのです。

道三の兵は2,500、義龍の兵は17,500。土岐氏家臣団で道三を味方する者は、ほとんどいませんでした。娘婿の織田信長に援軍を要請したものの間に合わず、道三は討死。道三は、ずっと義龍を無能だと思っていたが、その秀逸な采配を見て評価を間違えていたことを認め、後悔していたと言われています。他人を欺くことを得意としましたが、息子をも欺いたことで身を滅ぼすことになったのです。享年63歳。

道三亡きあと、義龍は織田信長との仲が険悪に。そんな中、1561年(永禄4年)義龍は34歳の若さで病死。その息子・龍興(たつおき)は、1567年(永禄10年)織田信長に稲葉山城を攻められ、斎藤家は滅びます。

斎藤道三

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源義経

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