安土桃山時代から江戸時代前期を生きた戦国武将「豊臣秀頼」(とよとみひでより)。大河ドラマでも、どの俳優が豊臣秀頼を演じるか注目を集める人物です。
豊臣秀頼の父は、天下人「豊臣秀吉」。母は織田信長の姪にあたる「淀殿」 (よどどの) 、「茶々」(ちゃちゃ)です。「豊臣秀次」の自刃により、豊臣秀吉の後継者となりましたが、4歳のときに父・豊臣秀吉が病没。そのため、「五大老」や「五奉行」の権力闘争に翻弄される数奇な運命を辿りました。
サラブレッドでカリスマ性もあったという豊臣秀頼の、幼名「拾丸」の頃から、大坂夏の陣で徳川家康に追い詰められて滅亡する最後まで、波乱に満ちた人生をご紹介します。また、豊臣秀頼の刀についてもぜひご覧下さい。
豊臣秀頼
天下を統一し、関白・太政大臣にまで登り詰めた「豊臣秀吉」を悩ませていた唯一の問題は、後継者のことでした。
豊臣秀吉は「織田信長」の家臣だった頃に、「石松丸」(いしまつまる)という男児に恵まれましたが、幼い頃に亡くしています。
また、天下統一目前に生まれた「捨/鶴松」(すて/つるまつ)も亡くし、同じ憂き目に遭っていたのです。
つまり、豊臣秀吉には実子がいませんでした。
失意のうちにあった豊臣秀吉は、実姉「とも/日秀尼」の第1子、「三好秀次」(みよしひでつぐ)を、正式な養嗣子(ようしし)に迎えます。
1591年(天正19年)に豊臣秀吉の跡を継いで、「豊臣秀次」は関白に就任。
豊臣秀吉は太閤となりますが、朝鮮出兵を全国の諸大名に告げるなど、実質的な権力を握り続けていました。
そんな中、1593年(文禄2年)に誕生したのが「豊臣秀頼」(とよとみひでより)です。豊臣秀吉が病没する5年前、57歳のときの出来事でした。母は織田信長の姪にあたる「淀殿」(茶々)。
豊臣秀頼は、まさにサラブレッドの血統を受け継ぐ、豊臣家と織田家を深く結び付ける存在となったのです。
幼名「拾丸」(ひろいまる)。この名には、捨てられ拾われた子は健康に育つという迷信を信じ、無事、健康に育ってほしいという願いが込められています。
豊臣秀吉にとって、目に入れても痛くない、待望の嫡男誕生だったのです。
豊臣秀吉
豊臣秀頼が誕生する前に、豊臣秀吉はすでに後継者を豊臣秀次と定めていました。二元政治とは言え、豊臣秀次は関白を務めています。
しかし、豊臣秀吉も淀殿(茶々)も、どうしても実子である豊臣秀頼に天下人になって欲しいと考えるように。
そこで生後2ヵ月の豊臣秀頼と豊臣秀次の娘を婚約させ、豊臣秀次のあとを継がせようと画策しますが、全国を震撼させる事件が発生します。
1595年(文禄4年)、豊臣秀次が豊臣秀吉への謀叛の罪で切腹を命じられたのです。本当に謀叛の罪であれば、通常切腹ではなく斬首という処分になるため、何らかの意図が働いた結果と考えられます。
恐ろしいのは、当の本人が切腹して果てたにもかかわらず、その正室や側室、幼子にいたるまで公開処刑されたということ。これは豊臣秀吉が後顧の憂いを断つために行なったことだと考えられています。
同様に、豊臣秀吉の親族で養子となっていた「豊臣秀俊」(とよとみひでとし:のちの小早川秀秋)も、豊臣秀頼が誕生したことで小早川家の養子に出されました。さらに豊臣秀次切腹に連座して、丹波亀山城を没収されています。
もちろん幼かった豊臣秀頼に罪はありません。ただし、豊臣秀吉のこのような行ないがのちに災いとなって、豊臣秀頼を孤立させる結果になってしまうのです。ここから豊臣家は、滅亡の道を進んでいくことになります。
ここで豊臣秀吉は、「徳川家康」に「豊臣秀頼の正室に徳川家康の孫娘である千姫を迎える」ことを約束します。豊臣秀頼は織田家、豊臣家、徳川家の架け橋となる貴重な存在となったのです。
そして、実際に1603年(慶長8年)、千姫は8歳にして豊臣秀頼の正室となり、大坂城に入りました。
徳川家康
豊臣秀吉は幼い我が子の将来を、親族ではなく、五大老、五奉行といった家臣に託します。
肉親同士による家督争いの弊害を取り除くことと、諸大名が牽制し合ってこれ以上の力を付けないことが目的だったのでしょうが、徳川家康だけは突出した存在でした。
織田信長との同盟を貫き通し、数多の戦を経験。さらに豊臣秀吉とも戦い、互角以上に渡りあいました。
そんな徳川家康を臣従させようと、豊臣秀吉は実妹「朝日姫」(あさひひめ)を徳川家康の正室に送り、しかも実母までも人質に出しているのです。徳川家康は、織田信長、豊臣秀吉に匹敵する器量であることは証明されています。
豊臣秀吉は、亡くなる直前に「豊臣秀頼が成人するまで政治は徳川家康に託す」と告げており、徳川家康は実質的な五大老の筆頭でした。その発言力や存在感は他を圧倒しています。
さらに、豊臣秀吉子飼いの家臣達が「文治派」と「武断派」に分かれて対立を深めており、徳川家康にはいくらでもつけ入る隙があったことも悩みのタネでした。
徳川家康を最も警戒したのは五奉行の石田三成でしたが、武断派に最も憎まれている存在でもあり、五大老の「前田利家」(まえだとしいえ)が亡くなると、すぐに襲撃を受け、徳川家康に匿ってもらうような状態だったのです。
1600年(慶長5年)、東軍・徳川家康派と西軍・石田三成派が武力衝突を起こします。これが、有名な天下分け目の「関ヶ原の戦い」です。
名目上はどちらも豊臣秀頼を掲げ、相手の専制を許さないという構えでしたが、徳川家康にとっては天下を獲るまたとない好機でした。
勝利した徳川家康は、自らの領土を250万石から400万石に加増しつつ、太閤蔵入地である220万石を東軍の諸大名に分配します。これにより、豊臣秀頼はわずか65万石の大名となってしまったのです。
関ヶ原の戦いの勝敗を決したのは、かつて豊臣秀吉の養子であった小早川秀秋の寝返りでした。豊臣秀頼が誕生したことによって不遇を強いられたことが、徳川家康に寝返る理由となったのでしょう。こうして豊臣家は、大きく力を削がれてしまったのです。
しかも1601年(慶長6年)、徳川家康は、空白になっていた関白の官位に「九条兼孝」(くじょうかねたか)を奏上、豊臣家による関白世襲を阻止します。
そして1603年(慶長8年)、徳川家康が征夷大将軍に就任。1605年(慶長10年)には嫡子である「徳川秀忠」に将軍宣下をさせて、徳川家による将軍職の世襲を公にしました。
もはや、豊臣家と徳川家の立場は逆転。豊臣秀頼は、生まれ育った大坂城から出ることもできず、母親である淀殿(茶々)の指示に従いながら「天下人は豊臣秀頼様である」と言われ続けて育つことになるのです。
歴史上の人物が活躍した合戦をご紹介!
大坂城
江戸幕府は、豊臣家を五摂家と同様に「公家」として扱うことに。しかし、大坂城には豊臣秀吉から受け継がれた莫大な資金があり、それで兵を雇い、幕府に反旗を翻すことも可能でした。
そこで徳川家康は、豊臣秀頼に寺社の再建などを勧め、資金を散財させる作戦に出ます。
そんな中、1614年(慶長19年)に徳川家と豊臣家が衝突する引き金となる「方広寺鐘銘事件」(ほうこうじしょうめいじけん)が起こるのです。
再建した方広寺の鐘銘の中に不適切な言葉があるとして、徳川家康は大仏殿の開眼供養祭を差し止めます。徳川方が指摘した言葉とは、「国家安康」、「君臣豊楽 子孫殷昌」です。徳川家康の名前を分断している点、豊臣家が君として栄えるとしている点を非難します。そして、豊臣秀頼の大坂城退城を要請したのです。
豊臣家が大坂城を去ることなど受け入れるはずもなく、徳川方は豊臣家が不当に浪人などを雇い大坂城に入れているとして宣戦布告し、20万の軍勢で大坂城を包囲しました。「大坂冬の陣」です。城内への砲撃に怯えた淀殿(茶々)が和睦を承諾するのですが、その条件として外堀を埋めるよう突き付けられます。
徳川方はこの機会に外堀だけでなく、大坂城の内堀まで埋めてしまい、完全に防衛機能を奪い去りました。豊臣方が内堀を掘り返す行動に出ると、徳川方は再び大坂城を攻め、「大坂夏の陣」が開戦します。豊臣方は籠城することもできず、果敢に出撃しますが、「真田幸村(真田信繁)」や「後藤基次」(ごとうもとつぐ)らが討ち死に。
この大坂夏の陣によって、1615年(慶長20年)、大坂城は落城し、豊臣家は滅亡しました。
家紋は家名の象徴であり、家格を示す大切な存在です。それぞれの家紋には意味があり、その価値をしっかりと認識しながら代々受け継がれていくことになります。
天皇や主君から、高位の家紋を頂戴した際には、家紋が変わることもあるのです。
五七桐
そもそも「桐紋」は、高貴な家柄しか使用を許されないものでした。
桐は鳳凰がとまる神聖な木であると考えられていたため、一時期は天皇しか使用できなかったほど。それが時代と共に、天皇が家臣に恩賞として桐紋を与えるように変わっていき、これが武家にも浸透したのです。
「五三桐」は、「後醍醐天皇」が室町幕府の初代将軍「足利尊氏」に与え、13代将軍「足利義輝」が織田信長へと与え、織田信長から豊臣秀吉に与えられたもの。
さらに桐紋には、上位、下位という序列がありました。
「羽柴秀吉」の頃は、桐の葉が左右に3枚、中央に5枚の五三桐でしたが、豊臣秀吉となったときに、「後陽成天皇」から桐紋の最上位である「五七桐」を与えられ、使用するようになっています。これは左右の桐の葉が5枚、中央が7枚という構成です。
豊臣秀頼は豊臣の姓と合わせて、この五七桐を受け継ぎました。
豊臣家は、豊臣秀頼の自害によって滅びましたが、五七桐は現代でも使用され続けています。
使用しているのは、日本政府・首相官邸です。実は内閣総理大臣が声明を発表する際のマイクを置く台に、この五七桐のプレートが貼り付けられています。
しかし、日本政府と豊臣家にかかわりはありません。桐紋は天皇家の菊紋と共に、日本を象徴する重要な紋章として、明治政府が最初に使用し、以後政府で使用し続けているのです。
他にも500円硬貨に桐紋が使用されています。桐紋は現代においても、意外と私達の身近にあるのです。
豊臣秀吉から豊臣秀頼に受け継がれた刀剣は、170振ほどありました。
1598年(慶長3年)から大坂城番に任じられた「片桐且元」(かたぎりかつもと)が記録しており、1614年(慶長19年)に大坂城を退去するまで、江戸幕府や諸大名から献上された刀剣についても記されています。これが「豊臣家御腰物帳」(とよとみけおこしものちょう)です。合計すると370振もの刀剣に対し、その名称や献上者について触れられています。
元々は4冊に分かれていましたが、現存する物は1冊に集約。こちらでは、豊臣秀吉から譲り受けた刀剣は「183振」と、当初よりもやや増えています。さすがは天下を統一した豊臣家、所持している名刀の数は膨大でした。
武器というよりも家宝としての役割を担っていた刀剣ですが、「大坂冬の陣・夏の陣」で焼失してしまった物も多数あります。
豊臣秀吉から豊臣秀頼に受け継がれた名刀の中に、「大江」(おおごう)という名物がありました。作刀したのは「郷義弘」(ごうのよしひろ)。
郷義弘とは、鎌倉時代の名工で「天下三作」のひとりとも呼ばれましたが、「郷と化け物は見かけない」と言われるほど後世に残された作品は少なく、希少価値が高いのです。
この大江は、当初は河内守護代である遊佐家が所蔵していたので、「遊佐大郷」とも呼びます。「郷」を「江」の文字で表すようになったのは江戸期に入ってから。
遊佐大郷の頃は、2尺9寸1分(約88.2cm)と伝わっていますが、織田信長に献上され、それが「荒木村重」(あらきむらしげ)に下賜された際には、磨上られて2尺4寸5分(約74.2cm)となっています。
荒木村重が反乱を起こしたあとに、売りに出されていた大江を「本阿弥光二」(ほんあみこうじ)が偶然見付け、それが豊臣秀吉に献上されることになります。織田信長は反乱を起こした荒木村重の愛刀として忌み嫌っていたようですが、豊臣秀吉はまったく気にもしていなかったようです。なお、その頃には2尺1寸7分5厘(約65.9cm)の長さでした。
豊臣家御腰物帳の一之箱にその名が記されていますが、残念ながら大坂冬の陣・夏の陣で焼失。最期の主が豊臣秀頼でした。
享年23歳。1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で幕府軍に大坂城内まで侵入された豊臣秀頼は、母親である淀殿(茶々)と共に自害して果てます。この短い生涯ですから名言を発する機会もなかったのでしょう。事実、残念ながら豊臣秀頼の名言は残されていません。
天守閣も炎上し、山里丸に追い込まれたとき、淀殿(茶々)や家臣である大野治長に何を語ったのでしょうか。辞世の句すら残されていません。無念と告げたのか、もはや後悔はなかったのか、最期の言葉を聞いた者は誰も生き残ってはいませんでした。
もちろん豊臣秀頼が暗愚であり、淀殿(茶々)の言いなりになっていたために、名言どころか家臣に指示さえ出せなかった可能性もあります。淀殿(茶々)に止められて、一度も出陣することなく豊臣家を滅ぼしたことがそのようなイメージを強くしているのでしょう。
豊臣秀頼が最も活躍したのは、二条城での徳川家康との会見。徳川家康には、二条城に豊臣秀頼を上洛させ、自分に臣従したことを世間に知らしめるという目的がありました。徳川家康は、過去には豊臣秀吉にそれを強いられていたのです。
そのことが分かっているだけに、淀殿(茶々)は豊臣秀頼の上洛を許さずにいましたが、1611年(慶長16年)に、豊臣秀頼はついに徳川家康に会うことを決心します。
豊臣秀頼は何と言って淀殿(茶々)を説得したのか記録は残されていませんが、おそらく自分の意思をはっきりと伝えたのではないでしょうか。一説には「正室である千姫の祖父に挨拶したい」という理由だったとも伝わっています。そこには、豊臣家と徳川家の親交をなんとか維持していきたいという、豊臣秀頼の気持ちがあったのかもしれません。
そんな豊臣秀頼の見た目ですが、身長6尺5寸(約197cm)、体重43貫(160kg)と伝えられています。大相撲の横綱関が、身長192cm、体重160kgくらいと言えば、イメージしやすいでしょうか。堂々としていてカリスマ性があったと言われています。
そんな豊臣秀頼を見て、「これは徳川家に臣従するような器ではない」と徳川家康が判断したとも伝わっているのです。もしかすると、豊臣家と徳川家の将来の展望について、徳川家康を唸らせるような内容を語った可能性もあります。
仮に名言を発していたとしても、豊臣家を滅ぼし、その正当性を断固主張する徳川家がそのような言葉を記録しておくとも考えられません。はたして真相はどのようなものだったのでしょうか。
豊臣秀頼が明君ではなく暗君(判断に乏しい君主)であると徳川家康が判断していれば、徳川家康は大坂冬の陣・夏の陣で豊臣家を滅ぼさなかったかもしれません。大坂城攻めは、いずれは江戸幕府最大の障害になると見抜いての、徳川家康の苦渋の選択だったことになります。
豊臣秀頼が何を語ったのか、想像するしかないのはじれったいですが、きっと将来を期待させる器量を示した物だったのではないでしょうか。