戦国武将一覧

前田慶次(前田慶次郎・前田利益)

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「前田慶次」(別名:前田慶次郎・前田利益)は「関ヶ原の戦い」のあと、「私の主は上杉景勝ただひとりだ」と言い放ったほど、主君に対して最後まで律儀であった戦国武将です。
小説や漫画にも取り上げられる「前田慶次」とは、どのような人物だったのでしょうか。
前田利家の弟の息子と言われる「前田慶次」ですが、彼の詳しい出生や功績を示す資料は少なく、「慶次」という名も、実は本名ではありません。
今なお謎が多い「前田慶次」ですが、前田利家を騙して水風呂へ入れた隙に、前田家を出奔したり、愛馬である「松風」を贅沢に装飾したりするなど、破天荒な逸話が多数あります。
ここでは様々な逸話から「傾奇者」(かぶきもの)と称されてきた、「前田慶次」にまつわる名言や逸話、家紋などをまとめました。

前田慶次が出奔に至るまで

前田慶次は誰の子か?

前田慶次

前田慶次

現在ではよく使われている前田慶次の「慶次」という名前は、実は本名ではなく、複数伝えられている通称のひとつ。

この他には、「慶次郎」(けいじろう)や「宗兵衛」(そうべえ)などの通称が知られています。

前田慶次の本名、いわゆる「諱」(いみな)についても、歴史本などには「利益」(とします)や「利貞」(としさだ)といった様々な名称の記述が見られ、定まっていません。

また、前田慶次の生誕年も、1533年(天文2年)とする説や、1532~1541年(天文元年~10年)とする説があり、そもそも、誰の子どもかさえ分かっていないのです。

前田慶次の養父となる「前田利久」(まえだとしひさ)は、1560年(永禄3年)に、前田家の家督を継ぎ、「荒子城」(あらこじょう:現在の愛知県名古屋市)に約4,000石の知行で城主となります。

その後、前田利久は滝川家から妻を迎え入れましたが、前田家の家督を継ぐ男子はいませんでした。

そこで前田利久は、弟である「前田安勝」(まえだやすかつ)の娘を自身の養女とし、その婿として、妻の弟(または甥とも)にあたる前田慶次を養子として迎えています。

前田慶次の実父は、「織田信長」の重臣「滝川一益」(たきがわかずます/いちます)の一族であったとされていますが、その詳細は、滝川一益の甥、もしくは従兄弟にあたる「滝川益氏」(たきがわますうじ)や、同じく「滝川益重」(たきがわますしげ)など諸説あり、前田慶次が滝川家出身であることは確かですが、その出自は明らかになっていないのが現状です。

前田家で家督騒動が起きる

前田利家

前田利家

幼少の頃より荒子城で過ごし、のちに「傾奇者」(かぶきもの)と評されるようになった前田慶次。その豪快な気性は、当時の前田家の主君・織田信長から影響を受けたと考えられています。

1569年(永禄12年)、前田利久は、病弱であることを理由に織田信長の命を受けて、自身の弟、すなわち前田慶次にとっての義理の叔父にあたる「前田利家」(まえだとしいえ)へと、前田家の家督を譲ることに。

もともと前田利久は、養子である前田慶次を次期当主候補とする意向を示していましたが、これにより、隠居を余儀なくされてしまいます。そのため前田利久は、前田慶次と共に荒子城を出ることになったのです。

織田信長が、前田利家に前田家の家督を継がせた本当の理由は、現代においても分かってはいません。しかし、前田利家が織田信長の側近であったことから、前田利家を前田家の当主に据えておくことで、織田信長に仕える前田家全体を支配しやすくなると考えたことも、その理由のひとつであると推測されています。のちに前田利家は、100万石を誇る加賀藩(かがはん:現在の石川県)の藩祖となったのです。

その一方で、前田慶次は、1582年(天正10年)頃、前田利家を頼って前田利久と共に加賀国金沢(現在の石川県金沢市)に入り、家臣として前田利家に仕えることに。このとき、前田利久と前田慶次は、前田利家より計7,000石(前田利久:2,000石、前田慶次:5,000石)の知行を与えられました。

1584年(天正12年)、「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)が勃発すると、前田慶次は、「徳川家康」と手を結んだ「佐々成政」(さっさなりまさ)による攻撃を受けた「末森城」(すえもりじょう:現在の石川県羽昨[はくい]郡)の救援に向かいます。のちに「末森城の戦い」と呼ばれるこの合戦に、前田慶次は主君・前田利家と共に参戦。佐々成政による猛攻を、その巧みな戦術で阻止したのです。

また前田慶次は、1590年(天正18年)に起こった、「豊臣秀吉」による「小田原の役」(おだわらのえき)の際にも前田利家に付き従い、豊臣方の北陸道軍として出陣しました。

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出奔して京都を目指す

ところがその後、前田慶次は、前田家を出奔(しゅっぽん:逃げ出して行方をくらますこと)しています。前田慶次にまつわる逸話の中で最も有名だと言えるのが、この出奔に関するもの。それは、前田利家を騙して寒中に水風呂に入れさせた前田慶次が、そのあいだに京都へ向けて出奔したという逸話です。

しかし、この出奔についても、本当の理由は定かではありません。様々な戦国武将の逸話が収録された、江戸時代の軍談書「常山紀談」(じょうざんきだん)によれば、前田慶次は、世の中に対してひねくれた考えの持ち主であり、他人には無礼な態度を取る癖があったとされています。

前田家の当主となった前田利家は、そんな前田慶次を諭そうと何度も注意していたのです。一説には、前田慶次は、このような前田利家の「おせっかい」が面倒であったために出奔したと言われています。

本来であれば、前田慶次が前田家の当主となるはずだったのに、前田利家に家督が渡ったことが前田慶次にとっては腹立たしかったのかもしれません。しかし、前田慶次の人物像は、小言にこだわらず、物事をはっきりと決断する性格であるだけでなく、実力も伴い強く勇ましかったと伝えられています。そのため、前田利家が面倒だから前田家を出ていったとは考えにくく、真相は謎のままです。

また漫画などでは、「前田利家が臆病者であった故に、前田慶次を出奔に追い込んだ」と描写されることもありますが、実際の前田利家は賢く、豊臣政権下において大名の連絡役を担当するなど、多くの武将に慕われた人物でした。

さらに前田利家は、豊臣秀吉には「律義者」と認められています。このような人柄を持つ前田利家は、言うことを聞かないからと言って、簡単に前田慶次を追い出してしまうような、浅はかな人間ではなかったと考えられるのです。

前田慶次の傾奇者ぶりが分かる逸話と名言の数々

勧善懲悪で痛快な傾奇者

出奔した前田慶次は京都に滞在。その際には、剃髪をして「穀蔵院飄戸斎」(こくぞういんひょっとさい/ひょっとこさい)というユーモアのある道号を用い、傾奇者と呼ばれるにふさわしい、型破りな人柄を貫きました。そんな前田慶次ですから、その性分が窺える逸話にはこと欠きません。

例えば、あるとき京都を訪れた前田慶次は、愛馬である「松風」(まつかぜ)を贅沢に装飾し、市中を練り歩きました。これにより前田慶次は、京都の街に自身の名を広めようとしたのです。

また、風呂屋に出向いた前田慶次は、脇差を持って入浴。その場に居合わせた入浴客の武士達は驚き、万が一に備えてそれぞれ脇差を取りに行きました。しかし、前田慶次は誰を切り付けるでもなく、その脇差で自分の足の裏に付いていた垢を削り始めたのです。

他の武士達は、仕方なく脇差を持ったまま湯に浸かったために、その脇差をダメにしてしまいます。これらは、傾奇者・前田慶次のお騒がせぶりがよく分かる逸話です。

そんな傾奇者の前田慶次ですが、1581年(天正9年)に、太刀「銘 末口」を「熱田神宮」に奉納した記録が残っており、現在は、前田慶次唯一の遺品として「熱田神宮宝物館」に収蔵されています。

前田慶次は、このように破天荒な性格である一方で、「勧善懲悪」を好む一面もありました。それが伝わる一例を挙げると、ある寺の僧侶が住民に悪さをしている噂を聞いた前田慶次は、その寺に乗り込みます。そこで僧侶と囲碁で賭け勝負を行ない、最終的に勝った前田慶次は、僧侶を殴って懲らしめたのです。

また、前田慶次に仕えていたある使用人の中に、「南無阿弥陀仏」と四六時中唱える者がいました。その声に辛抱できなくなった前田慶次でしたが、そこで「うるさい」とは言わず、「(休みなく念仏を唱えられている)仏の身にもなってみろ」と説教したと言われています。

さらにある日、商店の前を通りかかった前田慶次は、足を放り出して話し込んでいる店主を発見。そんな態度が気に食わなかったのか、前田慶次は「この足も商品か?」とその店主に聞き、彼の足を買うことにしました。そして、100貫文を支払うと刀剣を抜き、店主の足を切り落とそうとしたのです。

この出来事はその後、町役人を巻き込む騒動にまで発展。ついに店主は、心を入れ替えたと伝えられています。店主の心根を叩き直した、前田慶次の痛快ストーリーとして知られている逸話のひとつです。

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猿舞、そして傾奇者の由来となった逸話

豊臣秀吉

豊臣秀吉

前田慶次がまだ京都にいた頃、豊臣秀吉が諸国の大名を招待し、盛大な宴を開催しました。どのようないきさつであったかは分かりませんが、前田慶次は、その宴の席に紛れ込みます。

宴も佳境を迎えた頃、前田慶次は、下座から猿のお面を付け、手ぬぐいで頬被り(ほおかぶり)を作って扇を華麗に振り、面白おかしく踊り歩きました。絵に描いたような宴会の雰囲気です。

前田慶次は踊りながら、順番に大名達の膝の上に乗っていきます。ともすれば無礼者と斬り殺されそうな状況。しかし、宴会の余興の趣旨が「猿舞」(さるまい)による遊芸にもあったため、その場にいる者は誰ひとりとして、前田慶次の振る舞いを注意することはしません。

ところが、前田慶次が膝の上に座れなかった武将がひとりいました。その武将こそ、「上杉景勝」。のちに前田慶次は、「上杉景勝だけは威厳があり、乗ってはいけない雰囲気があった」と、このときのことを語っています。

この逸話との関係があるかは分かりませんが、のちに前田慶次は、噂を聞き付けた豊臣秀吉に呼ばれて面会した際、「傾奇御免状」(かぶきごめんじょう)を与えられ、「これからは傾奇者として好きなように生きなさい」との許可を得たと伝えられているのです。

これらのような様々な逸話から、前田慶次に対する傾奇者のイメージが形成されたことが窺えます。

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ただの傾奇者じゃない!文武両道で優秀な武将・前田慶次

前田慶次は、武士として生きるだけではなく、多様な文化人と交流を持っていたことで、文芸なども嗜んでいました。

公家達と和歌や漢詩、源氏物語などの古典文学を楽しむだけでなく、「連歌」については、一流の歌人「里村紹巴」(さとむらじょうは)より学んでいたと伝えられています。

さらに前田慶次は茶道も極め、「千利休」(せんのりきゅう)の高弟7人「利休七哲」(りきゅうしちてつ)のひとり「古田重然/織部」(ふるたしげなり/おりべ)に、その奥義を教わっていました。

前田慶次は、武士でありながら教養も持つ、まさしく「文武両道」な好漢だったのです。

上杉景勝に仕官!京都から戦場へと移った前田慶次の名言・逸話

京都で遊び回ったのち上杉家に仕える

上杉景勝

上杉景勝

前田慶次は、京都で自由な生活を送ったあと、1598年(慶長3年)頃、越後国(現在の佐渡島を除く新潟県)から、陸奥国会津(現在の福島県会津若松市)の上杉景勝に、浪人集団「組外集」(くみそとしゅう)のトップとして1,000石で仕えるようになりました。

これは、前田慶次が上杉景勝の「信義」を重んじる思想や人柄に惹かれていただけでなく、前田慶次に似て、文学の才能があった上杉家の重臣「直江兼続」(なおえかねつぐ)との親交があったことが、その理由であると考えられています。

その後、直江兼続の配下に入った前田慶次は、1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」と連動して勃発した「慶長出羽合戦」(けいちょうでわかっせん)に、石田三成が率いる西軍に属する上杉軍の一員として参戦。そして直江兼続らと共に、同合戦における一連の戦いのひとつである「長谷堂城の戦い」などで武勲を挙げました。

ところが関ヶ原の戦いにおいて、西軍が敗れたと知った直江兼続が自害しようとします。このとき前田慶次は、直江兼続を諫めて撤退を決意。そして前田慶次は、退却する上杉軍の殿(しんがり:軍列の最後尾に位置し、迫ってくる敵を防ぐこと)役を務め、朱塗りの長槍を振りかざし、東軍に属する最上(もがみ)・伊達連合軍に対して、獅子奮迅の大活躍をしました。

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関ヶ原の戦い後、前田慶次は米沢に向かう

関ヶ原の戦いが終わると、上杉家の重臣・本庄繁長(ほんじょうしげなが)と共に、前田慶次は講和のため、京都に向かいました。上杉景勝は徳川家康によって、会津120万石から米沢(現在の山形県米沢市)30万石に減封。

上杉家家臣が次々と離れていく中、前田慶次だけは「私の主は上杉景勝ただひとりだ」として、他藩からの高禄の申し出をも断ったと伝えられています。

また前田慶次は、「西軍に付いた大名は、東軍に降伏すると人質を渡して、自分だけ助かろうとする奴らばかりだ」と言い放ち、「しかし上杉景勝殿は、関ヶ原で味方が敗北しても隙を見せず、ペコペコと頭を下げることはなかった。最後まで戦い続けた立派な大将だ」と、主君・上杉景勝を絶賛しました。

現在「米沢図書館」では、前田慶次の貴重な「自筆本」とされる書物「前田慶次道中日記」を保存。この日記は、前田慶次が、1601年(慶長6年)10月26日に京都・伏見を出発し、11月19日に山形・米沢に到着するまでの26日間を記した内容になっており、前田慶次の26日に亘る旅路の様子や土地の逸話などと共に、前田慶次が詠んだ俳句や和歌、漢詩についても掲載。前田慶次が、文学の知識を幅広く持っていたことが窺えるのです。

前田慶次の余生はどんな暮らし?

前田慶次は米沢で平穏な余生を過ごす

その後の前田慶次にまつわる記録に関しては、加賀藩による記録と、上杉側が残した記録の2種類があり、加賀藩の記録では、関ヶ原の戦いが終わり、上杉景勝が減封となって米沢へと移る際に、前田慶次は浪人となって会津に残り、そのまま会津の地で没したとされています。

しかし現在は、上杉家の記録のほうが有力視されており、こちらの説での前田慶次は、上杉景勝が米沢へと移封になったときに付き従ったと伝えられているのです。そして前田慶次は、米沢・堂森(どうもり)地区にあった「無苦庵」と呼ばれる屋敷で余生を過ごしました。

この堂森の地には、前田慶次に関する伝承が多く残っており、実際に、前田慶次が無苦庵での生活を記した「無苦庵の記」が残されています。その一部を抜粋すると、次のような内容です。

「そもそも、私こと無苦庵には、親孝行をしなければならない親もいないし、世話を焼く子どももいない。私は墨染め衣をまとうような僧侶ではないが、整髪が面倒なので髪を剃った。手も自由に動かせる。足も達者なので駕籠や世話役も雇わない。ずっと病気にならないので、薬の世話にもなっていない」

「そうは言っても、自分の思い通りにならないこともある。しかし、山間からふわっと雲が浮んでくるように、予期していない事態もそれなりに趣があるものだ。詩歌に熱中してれば、月が満ち欠けて、花が散っていく姿も残念とは思わない。眠いなら昼まで寝て、起きたいなら夜でも起きる」

「天国で良い往生を遂げたい訳でないが、地獄に落ちるような罪も犯してはいない。寿命が尽きるまで生きたら、あとはただ死ぬだけだろうと思っている」

以上のような記述からは前田慶次の人生観がよく分かり、小言が気にならない豪快な人柄や、あっさりとした爽快な人柄が表れています。

無苦庵の跡地の面積は、約75m四方(約5,625㎡)。サッカーコート1面よりやや狭いくらいの広さがあり、現在も土塁とお堀の痕跡が残されている場所です。なお、無苦庵での飲料水には、その東側に位置する「慶次清水」(けいじしみず)の水を使用したと伝えられており、現在でも飲料水や農業用水として活用されています。

連歌を楽しんだ前田慶次

大聖寺(亀岡文殊堂)

大聖寺(亀岡文殊堂)

前田慶次は、雅号(がごう:文人などが名乗った風雅な別名)を「似生」(じせい)とし、「連歌会」を主催するなど、雅な遊びを楽しんでいました。

連歌とは、連想を必要とした和歌の様式のひとつ。次々に変化していく内容の流れに、臨機応変に対応できるかどうかが、連歌会の醍醐味。

また主題にあった句や、次の人が繋げやすい句を考えることはもちろん、情景が思い浮かぶような美しい句を詠むことがポイントになります。

この連歌は、鎌倉時代、室町時代と次第に流行が広がり、中央から地方へと浸透した文芸です。

前田慶次は米沢に移ってからも、直江兼続などと共に、頻繁に連歌会を開いています。その理由は、連歌会が歌を楽しむだけではなく、情報交換を行なって理想を語るなど、大切な意思疎通の機会であったためです。

また、1602年(慶長7年)には、現在の山形県東置賜郡にある寺院「大聖寺」(だいしょうじ:通称・亀岡文殊堂[かめおかもんじゅどう])にて、直江兼続主催の詩歌の会が設けられ、27名が参加しました。その中に前田慶次もおり、のちに「亀岡百首」と呼ばれる連歌を残しています。

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米沢・堂森には前田慶次にまつわる多くの伝説が残る

堂森地区にある「太郎兵衛屋敷跡」には、前田慶次が新築祝いに招待された際、「人生良いときも悪いときも、必ず巡ってくるのだ」という教えを、床柱を斧で切り付けながら語ったとされる伝承が残っています。前田慶次らしい豪快な逸話です。

また前田慶次は、京都で文人や能楽者などと積極的に交流し、芸や教養などを身に付けていました。これは、前田慶次が堂森で自作したと伝わる能面が残されていることからも分かります。

さらに「堂森善光寺」(どうもりぜんこうじ)内には、前田慶次が住民との力比べに用いた安山岩(あんざんがん:建築や土木用として使われる火成岩の一種)である「慶次の力石」(重さは推定50~100kg)がある他、「月見平」(つきみだいら)と呼ばれる開けた平地があります。

前田慶次は、この月見平に地域住民や友人を招待し、月見などの風流な催し物を楽しんでいたのです。堂森の地において地域の人々との交流を図り、穏やかな余生を過ごしたのかもしれません。

それに加えて堂森善光寺内には、「志駄義秀」(しだよしひで)の墓があります。志田義秀は前田慶次の友人であっただけでなく、直江兼続直属の家臣「与板衆」(よいたしゅう)の筆頭として、庄内地方の支配を担っていました。志駄義秀は、1601年(慶長6年)に起こった最上軍による庄内攻めにおいて、上杉方として奮戦した人物です。

この他にも、堂森善光寺内には前田慶次の供養塔があり、その碑文によると、前田慶次は1612年(慶長17年)、享年70前後で堂森の地において没したと伝えられています。

前田氏の家紋

加賀梅鉢紋(うめばちもん)

加賀梅鉢紋

加賀梅鉢紋

前田慶次が用いていたのは、「梅鉢紋」の中でも「加賀梅鉢紋」と呼ばれていた意匠の家紋です。

梅鉢紋は、学問や至誠(しせい:非常に誠実であること)、厄除の神として、今も崇め奉られている「菅原道真」(すがわらのみちざね)が、梅が好きだったことに由来しています。

梅鉢紋には、加賀梅鉢紋以外にも多くの種類がありますが、この加賀梅鉢紋は、前田家が独自の意匠を凝らし、使用していた家紋です。

前田慶次は、前田利久の養子となった際に、この家紋を継承した可能性があります。生涯で様々な名前を用いていた前田慶次でしたが、名を変えても「前田」の姓だけは捨てなかったため、加賀梅鉢紋を自身の家紋として、そのまま使用したと考えられているのです。

前田慶次(前田慶次郎・前田利益)

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