兜に「愛」の文字を掲げた武将「直江兼続」(なおえかねつぐ)は、幼少の頃から仕えた「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)と共に、上杉家を導いていきます。その能力の高さは、「豊臣秀吉」から米沢30万石を与えられたほど。ここでは、「義」(ぎ:公共のために尽くすこと)に生きた直江兼続の生涯や、彼にまつわる名言をご紹介します。
越中を平定した上杉謙信は、1577年(天正5年)に加賀に侵攻。そこで織田軍と「手取川」で激突し勝利するなど、圧倒的な軍事力でその名を戦国の世に轟かせました。しかし1578年(天正6年)、上杉謙信が突然死去したことで、後継者争いが勃発します。
上杉景勝
上杉謙信は、上杉景勝の他にも北条氏当主「北条氏政」(ほうじょううじまさ)の弟を「上杉景虎」(うえすぎかげとら)として養子に迎えており、この2人の間で約1年に亘る後継者争い(御館の乱)が繰り広げられます。
上杉景虎側は、兄の北条氏政、その同盟者の「武田勝頼」(たけだかつより)などが加勢して戦を有利に進めていましたが、上杉景勝側も負けてはいません。武田氏に1万両を支払うことと、東上野(ひがしこうずけ:現在の群馬県)の割譲を条件に同盟を結ぶなど、徐々に盛り返していきました。
両者は、一度は武田勝頼の仲介で和議を結んだものの、「徳川家康」の駿河(現在の静岡県)侵攻によって武田勝頼が越後(現在の新潟県)から撤退すると、和議は破綻。戦闘が再開されたのです。
再開後、上杉景勝は家中の支持を徐々に集めて有利に戦を運び、1579年(天正7年)2月、御館の総攻撃を命じました。御館が火に包まれる中、上杉景虎は脱出しましたが、逃亡途中に上杉景勝側の「堀江宗親」(ほりえむねちか)に攻められ自害。上杉謙信の後継者は上杉景勝に決まりました。もっとも、上杉景虎の死去後も残党による抵抗が続いたこともあり、乱が治まったのは、1580年(天正8年)でした。
御館の乱は、上杉家のみならず周辺国にも大きな影響を与えます。この内乱により国力が衰退し、「織田信長」をはじめとした周辺国の武将による侵攻に対する軍事力が減退。御館の乱に乗じて、織田方武将の柴田勝家は、加賀(現在の石川県南部)・能登(現在の石川県北部)・越中(現在の富山県)に侵攻し、会津(現在の福島県)の蘆名氏(あしなし)も、たびたび越後に侵攻してきました。
北条氏政の弟・上杉景虎が御館の乱で勝利し、上杉謙信の後継者になった場合、武田領は上杉と北条に囲まれることになります。そのため、武田氏にとっては上杉景勝が勝ってくれた方が好都合。こうした経緯で上杉景勝と同盟を結んだのです。
もっとも、北条氏政の弟・上杉景虎を自害に追い込んだことで、武田氏は北条氏から恨みを買った結果、甲相同盟を破棄されてしまいました。
1581年(天正9年)、御館の乱の恩賞を巡る争いがもとで、「直江信綱」(なおえのぶつな)が「毛利秀広」(もうりひでひろ)に殺害されます。直江信綱には子供がいなかったため、直江家は断絶の危機に瀕しましたが、樋口兼続と直江家の娘で直江信綱の妻が婚姻し、婿養子となったことで、直江兼続として直江家を継いだのです。
御館の乱によって上杉家内が混乱状態に陥ったことに加え、1582年(天正10年)には、同盟を結んでいた武田家が、織田・徳川・北条連合軍に滅ぼされました。外敵がいつ越後に侵攻してきてもおかしくない緊迫した状況となりましたが、「本能寺の変」で織田信長が横死したことで、事態は好転。各戦国武将がお互いにけん制し合い、こう着状態となったことで、上杉家に時間的余裕が生まれたのです。
1584年(天正12年)に、上杉家の家臣だった「狩野秀治」(かのうひではる)が死去すると、直江兼続は上杉家の外交・内政を担当するようになります。
上杉景勝と直江兼続は、幼少期から続いていた主従関係。上杉景勝が、直江兼続の人間性や能力をよく把握していたことで、重要な職務を任せることができたのです。
上杉家では、上杉景勝のことを「御屋形様」(おやかたさま)、直江兼続のことを「旦那」(だんな)と呼んでいました。上杉景勝と直江兼続の二頭体制は、直江兼続が死ぬまで続くことになります。
直江兼続と上杉景勝との二頭体制によって運営されていた上杉家でしたが、内部では不満分子がくすぶっていました。
御館の乱で上杉景勝を支持した「新発田重家」(しばたしげいえ)は、恩賞の少なさに不満を抱いていたのです。新発田重家は、上杉景虎に味方していた豪族を自分の味方に引き入れるなど、戦力を増強。新潟津(にいがたのつ:現在の新潟市)を奪って新潟城を築城し、上杉家からの独立を宣言しました。
このような状況に、上杉景勝は、新発田重家に攻撃を仕掛けますが、蘆名氏と伊達氏の支援を受けた新発田重家は、上杉景勝軍の攻撃を跳ね返します。
しかし、支援をしてくれていた蘆名氏と伊達氏が戦を始めると状況が一変。加えて、豊臣秀吉の支援を受けた上杉景勝が、大軍で新発田城を取り囲むなど、攻勢を強めたことで追い込まれた新発田重家は、自害に追い込まれたのです。こうして戦いは終わりました。
1588年(天正16年)、直江兼続は、上杉景勝に従って上洛。豊臣秀吉に謁見し、「従五位下」(じゅごいけ)、「豊臣姓」、「山城守」(やましろのかみ)を授けられます。
その後、佐渡を平定し、小田原討伐にも参加しました。豊臣秀吉が天下人になる前から従っていたことで、上杉家に対する豊臣秀吉の信頼は大きなものになっていったのです。
越後は、御館の乱から新発田重家の乱と、国内での戦乱が続いたため国自体が疲弊しており、立て直しが急務でした。そこで直江兼続が奨励したのが新田開発。さらには特産品「青苧」(あおそ:イラクサ科の多年植物から採れる繊維)の増産に力を入れます。
青苧は、この当時は衣服の素材として使用されていた貴重品。青苧を増産し他国へ輸出することで、莫大な利益を出すことに成功しました。また、豊臣秀吉から佐渡の金・銀山の管理を任されたことで、越後は上杉謙信の時代に勝るとも劣らないほど、繁栄したのです。
直江兼続は、豊臣秀吉から「伏見城」の総構堀普請や、改築のための伏見舟入奉行に命じられました。この頃、豊臣秀吉は直江兼続について「天下の政治を安心して任せられるのは、数人しかいないが、そのひとりが直江兼続だ」と高く評価。それは同時に直江兼続が重責を担っていた上杉家への高評価にもつながりました。
1598年(慶長3年)、上杉家は会津へと移封となりました。会津を治めていた「蒲生氏郷」(がもううじさと)が死去し、後継者が幼かったことから、豊臣秀吉から奥羽と関東の監視役を任されたのです。与えられた所領は合計120万石。上杉景勝は、徳川家康、「毛利輝元」(もうりてるもと)に次ぐ3番目の石高を有する大大名になりました。この時、直江兼続には米沢30万石が与えられています。
徳川家康
上杉家が会津に移封されて間もなく、豊臣秀吉が死去。後継者の「豊臣秀頼」がまだ5歳と幼かったことから、豊臣政権は、「五大老」・「五奉行」による合議制で運営されていました。
こうした政権運営は、当初こそ機能していたものの、五大老の筆頭格だった徳川家康の専横が目立つようになり、ひずみが生じ始めます。反徳川家康の急先鋒が、五奉行のひとりだった「石田三成」(いしだみつなり)でした。
当時の上杉景勝は、徳川家康と同じ五大老のひとり。専横を繰り返していた徳川家康に対する抑止力となり得る存在でした。しかし、会津に移封された直後だったため、自国内における足固めを行なっている段階。物理的にも精神的にも上方(大坂)とは距離があった状況でした。そのため、徳川家康と上杉景勝(上杉家)の間で、信頼関係を構築できていたとは言い切れず、腹の探りあいのような状態が続いていたのです。
お互いに対する不信感が表面化したのが、徳川家康による上洛要求でした。直江兼続は会津に新しく「神指城」(こうざじょう)を築城する許可を徳川家康から事前に受けていましたが、越後の領主「堀秀治」(ほりひではる)が上杉家に謀反の兆しがあると、徳川家康に報告。それを受けた徳川家康は、上杉景勝に対して、上洛して申し開きを行なうように要求したのです。上杉景勝はこれを拒否。これをきっかけに、徳川家康対上杉家の構図が鮮明になりました。
その後も徳川家康は、「臨済宗」(りんざいしゅう)の僧「西笑承兌」(さいしょうじょうたい)に、上杉景勝に上洛を促す手紙を送らせましたが、上杉景勝は拒否。そのとき、直江兼続が拒否を伝える手紙と共に送ったのが有名な「直江状」です。
直江状については、真贋論争が勃発するなど、現時点において、史料としての評価が固まっているとは言えませんが、印象的な文章をいくつかご紹介します。
「上杉が武器を集めているので逆心ありということですが、上方の武士は茶器などを集めることを趣味にしていますが、田舎武士は鉄砲や弓矢を集めることを趣味としています」
「逆心がなければ上洛しろというのは赤子同然ではありませんか。上杉家を出奔した藤田が諫言しているのは知っています。昨日まで逆心を持っていた者が上洛し褒美をもらうような世の中では敵いません。景勝と家康様のどちらが正しいかは明らかでしょう」
「道や船を造って交通をよくするのは当たり前のことです。それを騒ぎ立てているのは堀直政だけです。彼は何も分かっていません。もし心配なら使者を送って確かめてみて下さい」
「東国について色々と噂が流れていると思いますが、家康様が不審に思っているのは残念です。(豊臣秀吉と対立して自害に追い込まれた)かつての秀次様のように京と伏見の間でも噂が流れるのですから、遠方の景勝の噂が流れるのは仕方がありません。どうか不安にならないように」
一般的には、この書状が引き金となって、上杉征伐が決定されたと言われています。
石田三成
徳川家康に従った武将には、「福島正則」(ふくしままさのり)や「黒田長政」(くろだながまさ)など、豊臣秀吉恩顧の大名も多数含まれていました。
東軍が上杉討伐のために「小山」(現在の栃木県小山市)に差し掛かった時、石田三成が徳川家康討伐のために挙兵したという報告が届きます。
東軍は小山で軍議を開き、西軍と上杉軍に挟み撃ちにされると面倒なことになる、石田三成を討てばすべて解決する、などの声が上がり、石田三成を討つべく西へ引き返すことに決めました(小山評定)。
直江兼続は、西軍と共に徳川家康を挟み撃ちにする計画を練っていましたが、徳川家康と通じていた北の最上・伊達の両氏を討つべく最上領に侵攻を開始します。
直江兼続は最上氏の「長谷堂城」を包囲しましたが、最上勢の抵抗が激しく、なかなか攻め落とすことができません。それどころか「伊達政宗」(だてまさむね)の援軍が現れ、上杉軍に攻撃してくる気配をみせています。
伊達の援軍を知った「最上義光」(もがみよしあき)は、居城である「山形城」から出撃し、長谷堂城に駆け付けました。この時点で、上杉軍約25,000に対して、伊達・最上連合軍の兵力は約10,000。数のうえでは上杉軍が圧倒しています。
長谷堂城付近で、上杉軍と最上・伊達連合軍が激突する直前、直江兼続の下に関ヶ原で西軍が敗北した報告が届きました。
西軍の敗北を知った直江兼続は、上杉軍を撤退させようと自ら「殿」(しんがり:敵の追撃を食い止め、本隊を無事に撤退させる役割)を務めます。同時期に最上・伊達にも徳川家康が勝利した報告が届き、撤退する上杉軍に追い打ちをかけてきましたが、直江兼続の働きにより、上杉軍は無事撤退することができました。
この時の撤退戦における直江兼続の働きは、のちになって最上義光はもちろん、それを伝え聞いた徳川家康からも賞賛されることになります。
石田三成(西軍)に与した直江兼続の作戦は、東軍を東と西から挟み撃ちにすることでした。直江兼続ら上杉軍の役割は、最上・伊達連合軍を打ち破ること。当時、長谷堂城に籠城していた兵はわずか1,000人あまり。長谷堂城を落としたことを足がかりとして、最上氏の本拠である山形城を攻める予定でした。
「関ヶ原の戦い」は、西軍も東軍も兵力10万レベル同士の戦いです。戦国武将を二分しての戦国時代最大級の合戦だっただけに、直江兼続は、少なくとも数ヵ月は決着がつかないと考えていました。しかし、ふたを開けてみれば、西軍が敗北という形で、わずか1日で決着。直江兼続が思い描いていたすべての作戦は水の泡となります。
敗因は、西軍内の温度差にありました。西軍は総勢10万近くいましたが、ほとんどの部隊は戦う気がなく、懸命に戦ったのは石田三成、「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)、「大谷吉継」(おおたによしつぐ)、「小西行長」(こにしゆきなが)ら約30,000程度。加えて、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)をはじめとして、裏切りも続出。これでは勝てる訳がありませんでした。
歴史上の人物が活躍した合戦をご紹介!
関ヶ原の戦い後の1601年(慶長6年)、直江兼続は上杉景勝と上洛し、徳川家康に謁見して謝罪。上杉家は改易を免れ、会津120万石から米沢30万石への減移封という処分が下されました。
所領が4分の1になってしまったことで、所領に見合う数に家臣を整理した方が良い、という声が家臣内からも上がりましたが、直江兼続は家臣を整理せず、全員で米沢に行くことを決めます。
上杉家の石高が4分の1に減ってしまったことで、国力増強に向けた政策が必要になりました。そこで、直江兼続が奨励したのが新田開発。これによって、30万石だった米沢藩の石高は、実質的に50万石以上になったと言われています。
また、直江兼続は、氾濫しやすい最上川上流に巨大な堤防を建造するなど、治水事業にも力を入れました。さらには城下町の整備・鉱山開発・教育環境の整備にも取り組むなど、米沢藩の基礎を築いたのです。
直江兼続は、関ヶ原の戦い後は、幕藩体制の一員として生き抜いていくため、上杉家と徳川家との関係改善に努めます。
そこで、徳川家康の知恵袋とも呼ばれた「本多正信」(ほんだまさのぶ)の次男「本多政重」(ほんだまさしげ)を婿養子として迎え入れました。これは、徳川家との関係改善というだけではなく、徳川家康に対して、直江兼続をはじめとした上杉家が、徳川幕府による統治体制を積極的に受け入れるというアピールにもなったと言えます。
直江兼続には男子がいなかったこともあり、直江兼続の死後、直江家は断絶。前述した本多政重との養子縁組解消後に養子を取らなかったのは、上杉家の財政的な負担を少しでも軽くしたかったからとも言われています。
直江兼続が用いていた家紋については、確実な物はなく、諸説入り乱れているのが現状です。ここでは、そのうちの2つをご紹介します。
三つ盛り亀甲に三つ葉紋
肖像画の着物に描かれていることから、直江兼続が用いていたことが有力視されている家紋です。
亀甲紋は繁栄を表すとされ、他方、武運を願うという意味があるなど諸説あります。
三つ盛亀甲花菱紋
前述した「三つ盛亀甲に三つ葉紋」と共に直江兼続が用いた家紋として有力視されている紋です。
花菱紋は、甲斐源氏の武田氏、小笠原氏、南部氏などが用いたと言われています。
これは、物事を上手くいかせるためには3つの条件が必要ということです。
天の時とは「時期」、地の利とは「場所」、人の和とは「人間関係」をそれぞれ表しています。
この言葉自体は、「孟子」(もうし)の教えを上杉謙信が引用したと言われ、その薫陶を受けた直江兼続によって実践されたのです。
この言葉は、2009年(平成21年)の大河ドラマ「天地人」の由来となったことでも知られています。
国にとって一番大事なのは領民であるということを表した言葉。領民が生活しやすいような政治を行ない、国造りをしなければいけない、という意味です。
直江兼続が最初に仕えた上杉謙信は、無類の刀剣収集家としても知られていました。そのコレクションの中から、上杉景勝によって厳選された35振のリストが「上杉家御手選三十五腰」です。
「水神切兼光」(すいじんぎりかねみつ)もその中に収録されている1振。直江兼続は、この日本刀を主君・上杉景勝から拝領しました。
水神切兼光との号は、川が決壊寸前となっている様子を見た直江兼続が、この刀で水神を斬ったところ、洪水被害が収まったという伝説に由来。
平造り、丸棟の刀身には、表に素剣(そけん)と独鈷(とっこ)、裏には梵字(ぼんじ)が彫られています。
刀 銘 備州長船住兼光(水神切兼光)
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
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備州長船住兼光 | 南北朝時代 | 重要美術品 | 上杉謙信→ 上杉景勝→ 直江兼続→ 上杉家→法人 |