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本多忠勝

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「本多忠勝」(ほんだただかつ)は、生涯をかけて「徳川家康」に奉公し徳川幕府250年の天下の基礎を築いた戦国武将です。
「徳川四天王」「徳川三傑」「徳川十六神将」のひとりであり、徳川家臣最強の武将であったと語り継がれています。「日本三名槍」のひとつである「蜻蛉切」(とんぼきり)を愛刀としていた武将も本多忠勝です。
単騎で朝倉軍に正面から突入した「姉川の戦い」や武田軍から徳川家を守った「一言坂の戦い」などで武功を上げた本多忠勝の強さはまさに別格。生涯で57回もの戦闘に参加したにもかかわらず、傷ひとつ負わなかったという逸話があります。
こちらのページでは、戦国大名としても活躍していた本多忠勝の戦歴や人物像だけではなく、本多忠勝が残した名言や家紋、愛用していた槍「蜻蛉切」についてご紹介します。

東国一の強さを誇る最強の武将・本多忠勝の生涯

本多忠勝の生い立ち

本多忠勝

本多忠勝

生涯で57回もの戦闘に参加しているにもかかわらず、傷ひとつ負わなかったとされている「本多忠勝」。

1548年(天文17年)、本多忠勝は三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市西蔵前町)で、松平家(徳川本家)の譜代家臣「本多忠高」(ほんだただたか)の長男として生まれました。

しかし、父・本多忠高は、1549年(天文18年)、幼い本多忠勝を遺して「安城合戦」で戦死してしまいます。

その後、母と共に叔父「本多忠真」(ほんだただざね)に引き取られ、育てられました。

1560年(永禄3年)、本多忠勝は12歳で「桶狭間の戦い」の前哨戦と言われる「大高城兵糧入れ」で初陣を果たしています。

しかし、この初陣では敵将に討ち取られそうになったところを辛くも叔父・本田忠真に救われるという結果に終わりました。その2年後、1562年(永禄5年)の「鳥屋根攻め」にて、本多忠勝は初の首級を挙げることに成功します。

これが、のちに「最強」とも謳われた猛将・本多忠勝の最初の一歩でした。

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親族をも敵に回す本多忠勝の忠誠

徳川家康

徳川家康

1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで「今川義元」(いまがわよしもと)が討たれると、「徳川家康」は、これまで今川氏に占領されていた徳川本家の本拠地である「岡崎城」を、どさくさに紛れて奪い返すことに成功します。

しかし、今川方に付いていた徳川家の立場は危うくなり、1562年(永禄5年)、徳川家康は「織田信長」と「清洲城」で会見、同盟を結びました。

その後、本多忠勝は徳川家康と共に各地を転戦。「上ノ郷城攻め」や「牛久保城攻め」など、三河を巡った戦に参戦した本多忠勝は、武功を重ねていきます。

1563年(永禄6年)に起きた「三河一向一揆」では、一向宗(浄土真宗)であった本多忠勝の親族である本多家の大半が一揆側に付きました。しかし、本多忠勝は浄土真宗から浄土宗に改宗し、徳川家康側に付きます。この三河一向一揆での活躍は、徳川家康に「その勇ましさはずば抜けている」と評価されました。

今川家からの独立を果たした徳川家康は、三河国を統一し、1566年(永禄9年)には徳川家の軍事態勢を再編、「三備の軍制」として、「家康旗本衆」、「東三河衆」、「西三河衆」の3つに家臣団を分けます。

そのうち、本多忠勝は19歳の若さで、徳川家康直属の親衛隊である「家康旗本衆」に選ばれ、中央で54騎を統率する武将となりました。

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本多忠勝の単騎駆け 姉川の戦い

1570年(元亀元年)、「姉川の戦い」で織田・徳川連合軍は、「浅井長政」(あざいながまさ)、「朝倉義景」(あさくらよしかげ)の連合軍と激突します。

動員数では、織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍を上回っていましたが、織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍の戦術に翻弄され、本陣付近まで侵攻を許してしまうことになりました。

織田・徳川連合軍は、撤退寸前まで追い込まれます。敗戦の色が濃く絶望的な状況でしたが、本多忠勝は突破口を開くため、単騎で朝倉軍の正面から突入しました。これを見た徳川軍が、本多忠勝を討たせてはならないと奮起、徳川四天王のひとりとして知られる「榊原康政」(さかきばらやすまさ)らが側面から突撃を行ない、朝倉軍の陣形を崩すことに成功します。

こうして浅井・朝倉連合軍は崩壊。織田・徳川連合軍は、逆転勝利を果たしました。

この戦で多大な貢献を果たした本多忠勝を、織田信長はのちに「花も実もある武将だ」(外見ばかりでなく、中身も充実している)として褒めています。

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本多忠勝の名を一層轟かせた 一言坂の戦い

武田信玄

武田信玄

織田信長と同盟を結んだ徳川家康が当時懸念していたのは、甲斐の虎「武田信玄」の存在です。

武田信玄は、織田打倒のため、将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)や「本願寺顕如」(ほんがんじけんにょ)、浅井長政、朝倉義景などの反織田勢力との連携を強めていました。

武田信玄は、織田信長の包囲陣を作るために軍勢を三分し、1572年(元亀3年)、「西上作戦」を実行。それぞれ美濃国(現在の岐阜県南部)・三河国・遠江国(現在の静岡県西部)から、織田・徳川領を圧倒していきます。

武田信玄の作戦によって、徳川家康の要所である「二俣城」への侵攻が開始。徳川家康は、本多忠勝、「内藤信成」(ないとうのぶなり)を天竜川へ偵察隊として先行させますが、武田軍の先発隊と遭遇してしまいます。

二俣城へ出撃を開始していた徳川家康は退却を始めますが、一言坂(ひとことざか:現在の静岡県磐田市)で追い付かれたため、殿(しんがり)役を務めていた本多忠勝は武田軍と交戦、徳川家康率いる本隊の撤退に貢献しました。

この撤退戦での本多忠勝があまりに強かったため、敵側の「小杉左近」(こすぎさこん)は、「家康に過ぎたるものが2つあり、唐の頭に本多平八」(徳川家康にはもったいないものが2つある。ひとつは唐原産の兜、もうひとつは本多忠勝)という狂歌を詠んでいます。

その後も、徳川家康は武田信玄に苦戦を強いられましたが、本多忠勝は徳川家康を守り通し、「浜松城」まで撤退することに成功。彼の功績を主人の徳川家康は、「さすが我が松平家の良将、八幡大菩薩の再来だ」と絶賛しました。

その後、本多忠勝は「長篠の戦い」の前哨戦である「長篠城攻め」で、榊原康政らと武田軍に勝利。続く1575年(天正3年)の長篠の戦い、1581年(天正9年)の「高天神城奪還戦」でも武功を挙げます。

このような本多忠勝の武勇を称え、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」という川柳が詠まれました。

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織田信長の突然の死 伊賀越えで退却を提案

1582年(天正10年)6月、徳川家康は「安土城」へ招待された帰りに立ち寄った堺で、織田信長が「明智光秀」(あけちみつひで)の謀反により討たれたことを知ります。

明智光秀は、同盟を組んでいる徳川家康も討とうと、三河までの街道を張っていました。このとき、徳川家康は兵を連れておらず、絶体絶命の窮地に立たされ、織田信長のあとを追い自害しようとしたのです。

しかし、そのような徳川家康を本田忠勝は諫め、体制を立て直すために帰国を進言しました。徳川家康は、その進言を聞いてもなお落ち着かない状態でしたが、本多忠勝は主人を励まし続け、「服部半蔵」(はっとりはんぞう)の助けを借り、主従わずか30人程度で決死の「伊賀越え」を実行したのです。

徳川家康一行は、伊賀(現在の三重県西部)を経由して鈴鹿の山々を越え無事伊勢までたどり着き、そこから船で三河に渡ったとされています。

天下無双の東の大将と称賛された 小牧・長久手の戦い

織田信長の死後、徳川家康は織田信長の息子である「織田信雄」(おだのぶかつ)に味方し、「豊臣秀吉」と対立。1584年(天正12年)に「小牧・長久手の戦い」で衝突します。

はじめ、本多忠勝は徳川家康の留守を預かっていましたが、大軍を前に徳川軍が苦戦していることを知ると、応援に駆け付けます。同じく留守を預かっていた家臣達は引き止めましたが、本多忠勝はこの警告を無視し、わずか500騎を引き連れ出陣しました。

「寛政重修諸家譜」(かんせいちょうしゅうしょかふ)には、本多忠勝は大軍を前に立ちはだかると、単騎で乗り入れ、馬の口を川ですすいで見せたという逸話が残っています。圧倒的な兵力差がある大軍に対して、怯まずに追撃を阻止しようとする本多忠勝の姿に、豊臣秀吉は豪胆さと忠義を感じ、攻撃をしてはいけないと自軍に命令を下しました。

大多喜城

大多喜城

結果として、徳川家康は豊臣秀吉に敗れましたが、本多忠勝はこの戦の功績により、豊臣秀吉から「天下無双の東の大将」と称賛されたのです。

そうして、1586年(天正14年)、本多忠勝は主君・徳川家康と共に豊臣秀吉の配下に入り、従五位下中務大輔に叙位・任官しました。

その後、豊臣秀吉が天下統一を図ると、徳川家康は豊臣秀吉に三河国から関東への国替えを命じられます。

その際、関東に移封された徳川家康によって、本多忠勝は上総国大多喜(現在の千葉県夷隅[いすみ]地方)に10万石の領地を与えられ、「大多喜城」を本拠地としました。

戦乱の終わりと天下無双・本多忠勝の死

関ヶ原の戦いと桑名藩創設

桑名城 蟠龍櫓

桑名城 蟠龍櫓

豊臣秀吉の死から2年後、53歳になった本多忠勝は、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で東軍の最高司令官である「軍監」を務めます。作戦指揮を担当していましたが、本多忠勝は自ら手勢を率いて首級を挙げました。

この功績によって、関ヶ原の戦いの翌年1601年(慶長6年)には、上総国大多喜城から伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)10万石に移封されます。

このとき、徳川家康は本多忠勝の旧領である大多喜も同時に与えようとしていますが、本多忠勝はこれを辞退。そのため、大多喜5万石は本多忠勝の次男、「本多忠朝」(ほんだただとも)に与えられることとなりました。

本多忠勝は桑名に入封すると、藩政を確立するために、揖斐川(いびがわ)沿いに「桑名城」の築城を始めます。桑名城には、4重6階17mの天守と51基の櫓(やぐら)、46基の多聞(たもん:石垣の上に築かれた長屋造りの建物で兵器庫と防壁をかねる)が建ち並び、船着き場も作られました。

あまりに築城工事が大掛かりだったために、徳川四天王のひとりである「井伊直政」(いいなおまさ)が家臣を動員して工事を支援したという逸話があります。

また、築城と同時に城下町と東海道宿場の整備を行ない、本多忠勝は桑名の発展を支えた「桑名藩創設の名君」と呼ばれるようになりました。

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本多忠勝の最期

本多忠勝は、江戸幕府が発足されると次第に病気がちになり、1604年(慶長9年)に眼病にかかります。

この頃、本多忠勝は共に戦場をかけてきた名「蜻蛉切」(とんぼきり)の2丈余(約6m)あった柄を、3尺(約90.9cm)切りつめさせました。長い柄を振り回して、いくつもの戦場で武功を挙げてきた本多忠勝でしたが、寄る年波には勝てず、「得物は自分の身の丈に合った物が1番良い」としています。

その後、1609年(慶長14年)、本多家の家督を息子の本多忠政に譲ったのち隠居。翌1610年(慶長15年)、本多忠勝は63歳で死去しました。

本多忠勝は、生涯で57回もの戦に赴きましたが、戦闘中にかすり傷ひとつ負わなかったと言われています。死の直前に1度だけ怪我をしたとされていますが、その怪我は戦闘での負傷ではなく、所持品に小刀で名前を彫刻していたときに指を切ったというものでした。

このときに、これまで傷ひとつ負わなかった本多忠勝が死期を悟ったと言われています。

無傷で戦場を駆けた本多忠勝の甲冑

黒糸縅胴丸具足

黒糸縅胴丸具足

本多忠勝のと言えば、「鹿角脇立兜」(かづのわきだてかぶと)という、両脇から鹿の角が生えている兜が有名です。

桶狭間の戦いで今川軍が敗走した際、今川氏の支配下にあった徳川軍は、退却する途中で増水した川が道を遮断し、退路を進めなくなるトラブルに見舞われます。

徳川家康が困っていたとき、一頭の賢い鹿が現れ、川を横断できそうな浅瀬へと導いてくれました。徳川家康と共に従軍していた本多忠勝は、その鹿を戦勝の神である「八幡神」と考え、鹿角の兜を作らせて装備するようになったと言われています。

本多忠勝の甲冑は、「黒糸縅胴丸具足」(くろいとおどしどうまるぐそく)という漆黒の当世具足で、軽量なのが特徴です。甲冑が軽量であれば、戦場で機敏な動きが可能になり、重さによる負担も少なくなるため、本多忠勝は機動性を重視していたことが分かります。

また、本多忠勝は甲冑を着用するだけではなく、甲冑の上から大きな数珠を肩に提げて、戦場を駆けました。この数珠には、自分が討った敵を弔う意味があり、本多忠勝はただ敵を討つことのみを考えていた訳ではなく、死者に敬意を表することができる人物だったことが分かります。

鹿の角が生えた兜に真っ黒な甲冑を着用し、大きな数珠を肩から提げて、蜻蛉切を構えた出で立ちは、味方にとっては英雄、敵にとっては畏怖の対象でした。

本多忠勝の名言

我なんぞ人の手を借りて武功を立てんや

「武将言行録」には、このような逸話が残されています。

1562年(永禄5年)の「鳥屋根攻め」にて、初陣からおよそ2年の月日が流れても、一向に初首を挙げることができない本多忠勝に対し、叔父・本多忠真は、「この者の首を取れ」と無力化させた敵兵を指しました。

しかし、本多忠勝は「我なんぞ人の手を借りて武功を立てんや」(人の力で得た首が、どうして私の武功となりましょうか)と答えると、そのまま敵陣に突っ込み、敵の首を挙げたと言われています。

これを見た本多忠真は、「将来、必ず主君のお力になれる存在だ」と感嘆しました。

そののち、「徳川家康いるところに平八(本多忠勝)あり」と言われるほど、徳川家康と本多忠勝は信頼が厚い主従関係を築いていきます。

侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍と曰ふ

本多忠勝の遺書の一説で、「侍は首取らずとも不手柄なりとも、事の難に臨みて退かず、主君と枕を並べて討死を遂げ、忠節を守るを指して侍と曰ふ。」というものがあります。

これは、武士にとって最も大切なのは、手柄を立てたり首を挙げたりすることではなく、主君に忠節を尽くすことが1番大切なことなのだ、ということを言った物です。本多忠勝は、誰が見ても立派な剛の者でしたが、彼自身はそれを誇示することは決してなかったと言われています。

関ヶ原の戦いののち、「福島正則」(ふくしままさのり)が本多忠勝の功績を褒め称えると、本多忠勝は「私が強かったのではなく、敵が弱かったのだ」と、淡々とした答えを述べたという逸話も残されました。

本多忠勝は、文武共に優れた戦国武将。決して器用とは言えませんが、実直で、主君に決して背かない、強い忠誠心を持っていたのです。

死にともな、嗚呼死にともな、死にともな、深きご恩の君を思えば

これは、本多忠勝の辞世の句で、「死にともな」とは、「死にたくない」という意味。

これは、死を恐れているわけではなく、「死んでしまえば、主君・徳川家康の恩義にもう報いることができない」といった、徳川家康への深い忠節と愛情を表しています。

天下無双、徳川方最強と称された本多忠勝でしたが、戦乱の世が太平の世に変わり、その役割は少しずつなくなっていきました。幕政に必要なのは武力ではなく文治の能力。

本多忠勝は病のこともあり、幕府の中枢からは離れたところで天寿を全うしましたが、徳川家へ深い忠義がなくなることはありませんでした。

本多家の家紋

江戸時代に特別な意味を持った立ち葵の紋

丸に立ち葵

丸に立ち葵

本多忠勝の家紋は「丸に立ち葵」(まるにたちあおい)。

江戸幕府成立後、葵を使った家紋は、徳川家のような位の高い者だけが使用できる家紋だとして、徳川家康によって使用を禁止されます。

しかし、本多忠勝は、本多家が先祖から受け継いできた立ち葵を家紋とすることを許されていました。

一説では、徳川家の葵の御紋を考案するのに手本としたのが本多家の立ち葵だったとも言われています。

本多家は、徳川本家(松平家)に代々仕えてきた家系。本多忠勝は、徳川家康を命に代えて守り抜きましたが、徳川家康もまた、本多忠勝に絶大な信頼を寄せていたことが窺えます。

本多忠勝が愛用していた槍「蜻蛉切」

本多忠勝が使っていた蜻蛉切は、「日本号」、「御手杵」(おてぎね)と並び「天下三名槍」のひとつ。作者は、三河に移った村正一派である「三河文殊派」の刀工、「藤原正真」(ふじわらまさざね)によるものだと言われています。

笹穂の槍身で、刃の長さは1尺4寸(約43.7cm)、は1尺8寸(約55.6cm)。表は鎬造り、裏は平造りで、幅は広く、のなかには梵字と三鈷剣を、元には梵字と蓮の花を浮き彫りにしています。

蜻蛉切の特徴はその長さにあると言われていますが、それは本体ではなく柄のことを指しており、通常槍の長さが5mに満たないところ、蜻蛉切はおよそ6mもある大身槍でした。

本多忠勝の晩年には短く削られてしまい、現存していませんが、柄には青貝の螺鈿細工が施されていたとのことです。

名前の由来は、戦場で飛んでいたとんぼが槍先に止まった際、触れただけで真っ2つになってしまったことに因んでいます。

本多忠勝はこの鋭い切れ味を誇る蜻蛉切で、姉川の戦いや一言坂の戦いなどの戦を無傷で駆け抜けてきたのです。

蜻蛉切

蜻蛉切

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
藤原正真作 室町時代 静岡県
指定文化財
個人所蔵
佐野美術館へ寄託

「本多忠勝 甲冑写し」のYouTube動画

本多忠勝の甲冑の写しを
YouTube動画でご覧頂けます。

本多忠勝 甲冑写し
合戦の街 関ヶ原合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。

本多忠勝

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