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長宗我部元親

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「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)は、戦国時代の武将。土佐国(現在の高知県)の豪族だった長宗我部氏を戦国大名にまで成長させ、四国を制覇したことから「土佐の出来人」と呼ばれていました。

土佐七雄と長宗我部氏

長宗我部元親

長宗我部元親

「長宗我部元親」は、1539年(天文8年)に「長宗我部国親」(ちょうそかべくにちか)の嫡男として誕生。

長宗我部氏は、戦国時代の土佐で勢力を伸ばした「土佐七雄」(とさしちゆう:長宗我部氏、一条氏、津野氏、本山氏、安芸氏、大平氏、吉良氏、香宗我部氏)と呼ばれる有力豪族のひとつでした。

しかし、長宗我部元親が生まれる前の1508年(永正5年)、「長宗我部元親」の祖父「長宗我部兼序」(ちょうそかべかねつぐ)の代に襲撃を受けて「岡豊城」(おこうじょう)を追われ、長宗我部氏は衰退してしまいます。

そんな長宗我部氏を再び大きな勢力に盛り返したのが、長宗我部元親の父「長宗我部国親」でした。

長宗我部元親の祖父が岡豊城を追われた10年後、土佐の国司「一条房家」(いちじょうふさいえ)の助力で長宗我部国親が城主に復帰。1547年(天文16年)、土佐国長岡郡南部(現在の高知県長岡郡)を制圧します。長宗我部元親が誕生したのは、長宗我部氏が生き残りをかけて盛り返しを見せた時代だったのです。

22歳での初陣で「姫」から「鬼」へ

長宗我部元親は、色白でおとなしい子だったので「姫若子」(ひめわこ)と呼ばれていました。これは褒め言葉ではなく、本を読んでばかりで物静かだから、武将としては使い物にならないだろうという嘲笑の意味があります。

家臣からも期待をされていなかった姫若子が一転するのは、長宗我部元親の初陣「長浜の戦い」の時です。

長浜の戦いは、父・長宗我部国親が仇敵の本山氏などに娘を嫁がせ、香宗我部氏に3男「親泰」(ちかやす)を養子に出して勢力下に置くなど、勢力を拡大していく中で行なった戦いでした。

当時は15歳で初陣を飾る武将が多い中、長宗我部元親は22歳という遅い初陣になりましたが、周囲の予想に反して自らを持って突撃し大活躍します。この戦いにおいて、当時土佐(現在の高知県)で最大の勢力を誇っていた本山氏に勝利。獅子奮迅の活躍を見せた長宗我部元親は「鬼若子」(おにわこ)と称されるようになりました。

そして、長浜の戦いののち、間もなくして長宗我部国親が急死。長宗我部元親は家督を継ぎ、四国統一に向けて歩み始めます。

土佐平定

長浜の戦い以前の長宗我部氏は、土佐国長岡郡岡豊(現在の高知県南国市)を掌握しているにすぎませんでした。しかし、初陣の勢いによって形成は逆転。1568年(永禄11年)、長年土佐を巡り競ってきた本山氏を本山城にまで追い詰めて降伏させたことで、長宗我部元親は土佐中部(現在の高知県高知市本山町)を制圧することに成功したのです。

1569年(永禄12年)、長宗我部元親は土佐東部(現在の高知県安芸市)を支配していた「安芸国虎」(あきくにとら)と衝突します。「八流れの戦い」(やながれのたたかい)と言われるこの戦いで、長宗我部元親は安芸国虎を自害に追い込んで勝利。土佐平定の最後の障害は、土佐西部(現在の高知県幡多郡[はたぐん])を支配している一条氏のみとなります。

1575年(天正3年)、長宗我部元親は土佐西部に流れる四万十川で「一条兼定」(いちじょうかねさだ)と土佐の覇権をかけた戦いを繰り広げました。この「四万十川の戦い」(渡川の戦い)は、元親軍の兵力による有利と地の利を活かした戦術、そして寄せ集めで統率がうまく取れなかった一条軍の軍略的な不利が重なり、元親軍が圧勝。本戦は、わずか数刻で決着したと言われています。

四国制覇を妨害した織田信長

織田信長

織田信長

土佐統一後、「織田信長」から四国での勢力拡大を容認されたことで、織田信長と長宗我部元親は、それぞれの正室が共に斎藤家の出身であることから同盟を結びました。その後、阿波国(あわのくに:現在の徳島県)へと侵攻して有力な勢力を次々と降伏させていったのです。

そんななか、1581年(天正9年)、長宗我部元親にとって予期しない出来事が起きました。

織田信長が長宗我部元親との同盟を反故にし、「三好康長」(みよしやすなが)と同盟を結んで四国征伐を決定したのです。

織田信長が長宗我部元親を陥れる行動を取った理由は定かではありませんが、長宗我部元親が勢力を拡大してきたことで、これ以上は従わせることができないと考えたからではないかと見られています。

窮地に陥った長宗我部元親を救ったのは、翌年起きた「本能寺の変」でした。織田信長が「明智光秀」により討たれたことで、長宗我部氏存続の危機を切り抜けたのです。

なお本能寺の変に関しては、明智光秀が謀反をした理由のひとつとして、長宗我部元親がかかわっていたのではないかという説があります。当時、織田・長宗我部両家の同盟は、明智光秀が間に立っており、織田信長の四国征伐によって明智光秀は面目を潰された形になったのです。このような経緯から、本能寺の変に至る引き金に四国征伐もかかわっているのではないかと言われています。

その後、長宗我部元親は四国侵攻を継続し、1582年(天正10年)には阿波国のほとんどを掌握しました。2年後の1584年(天正12年)には、讃岐国(現在の香川県)の大部分を制覇。さらに伊予国(現在の愛媛県)にも侵攻し、四国のほとんどを手中に収めたのです。

そして1585年(天正13年)の春、長宗我部元親は四国統一を果たしました。しかし一方で、「四国統一」に関しては研究者によって「成し遂げられていなかったのではないか」など、見解が分かれています。

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長宗我部元親は四国統一を果たせなかった?

阿波の土佐泊城を制圧できていなかった

阿波の城が次々と長宗我部元親の手に落ちる中、森氏の治める「土佐泊城」(とさどまりじょう)は長宗我部元親に抵抗し続けていました。

長宗我部元親が四国統一を果たしたあとも、「豊臣秀吉」から森氏への支援が続いていたこと、のちに長宗我部元親征伐のために真っ先に豊臣秀吉の軍勢が土佐泊城に向かったことから、実際は土佐泊城を制圧できていなかったのではないかと考えられています。

讃岐の虎丸城が落ちていなかった

讃岐全土の統一は、「十河城」(そごうじょう)が陥落して「十河存保」(そごうまさやす)が敗走したことから達成されたものと思われていました。

しかし、いくつかの軍記によれば、十河存保は十河城が陥落したあとに、豊臣秀吉を頼って讃岐東部(現在の香川県東かがわ市)の「虎丸城」に落ち延びた、または虎丸城に立てこもり抵抗を続けたと言う記述が存在。

さらに、長宗我部元親は十河存保のいる虎丸城を落城させることができないまま、土佐国に撤兵しているため、讃岐の制覇は成し遂げられていないのではと考えられています。

伊予の河野氏は降伏していなかった

伊予の「河野通直」(こうのみちなお)が降状したことで、伊予全土の制圧が達成されたものと考えられていました。

しかし、「湯築城」(ゆづきじょう)からは長宗我部氏の居城・岡豊城と同じ鋳型の物とみられる瓦が出土。わざわざ服属の大名の城に自身の居城と同じ鋳型の瓦を使用するのだろうかという疑問もあり、河野氏は降伏していなかったのではないかという説があります。

土佐の出来人の最期

降伏と愛息の死

豊臣秀吉

豊臣秀吉

四国をほぼ統一した長宗我部元親にとって、次の脅威は豊臣秀吉でした。豊臣秀吉は、織田信長没後に全国統一に向けて勢力を拡大しており、四国平定も視野に入れていたのです。

1585年(天正13年)、豊臣秀吉は「豊臣秀長」を総大将とする四国討伐隊を結成。10万を超える豊臣軍が四国に攻撃を開始したのです。

讃岐、伊予、阿波などの城が次々と攻略されていき、長宗我部元親は降伏。阿波、伊予、讃岐を取り上げられて土佐一国のみを安堵されます。

1586年(天正14年)、豊臣配下になった長宗我部元親は、豊臣秀吉の命によって大友氏の救援で島津氏と戦うも敗北。この戦で、将来を期待されていた長男「長宗我部信親」(ちょうそかべのぶちか)を亡くしてしまうのです。

そして、最愛の息子・長宗我部信親の死によって、長宗我部元親の命運が大きく左右されることになります。大切な跡継ぎを失った長宗我部元親はその後、人が変わったようになりました。長宗我部元親の人柄については諸説ありますが、「律儀で情け深く、家臣の意見もよく聞き入れる度量の大きな君主であった」と言われています。

長宗我部信親の死後、長宗我部元親は次男「香川親和」(かがわちかかず)や3男「津野親忠」(つのちかただ)が存命であるにもかかわらず、溺愛していた4男「長宗我部盛親」(ちょうそかべもりちか)の家督相続を強行。反対する者は、例え一族であっても粛清するなど、非道な行ないが目立つようになりました。こういった長宗我部元親の言動が、のちの長宗我部氏の滅亡に繋がったとも言われています。

長宗我部元親自身は、その後の長宗我部氏の行く末を見届けることなく、1593年(慶長3年)に伏見邸にて死去。享年61歳。次男の香川親和は、悲嘆の中で病死。3男の津野親忠は、長宗我部盛親に殺害されてしまいます。

長宗我部盛親は、「関ヶ原の戦い」で西軍に与して「徳川家康」と敵対した結果、大名から浪人へ転落。改易された理由については、「兄殺し」を徳川家康に咎められたというのが有力な説です。

長宗我部盛親は、再び大名に返り咲こうと豊臣方に味方して「大坂冬の陣・夏の陣」に臨みますが、敗北。その後、長宗我部盛親は5人の息子もろとも斬首されて、長宗我部氏は滅亡したのです。

四国統一で活躍した一領具足

坂本龍馬

坂本龍馬

長宗我部元親の四国統一において活躍したのが「一領具足」(いちりょうぐそく)。一領具足とは、有事の際に武装して参戦する農民集団の名称で、考案者は長宗我部元親の父・長宗我部国親です。

長宗我部国親が10年ぶりに岡豊城主に復帰した頃、すでに家臣のほとんどは離散していたので、兵力確保のために領内の農民の中から兵士を編成することを思い立ちます。平時は農作業に従事しながら、ひとたび領主から指令が来ると、一領(いちりょう:一揃い)の具足(武器・鎧)を携えて馳せ参じたとから、一領具足と呼ばれたのです。

そして、長宗我部元親は一領具足として参戦した農民達をとても大切にしていました。領民も長宗我部氏を慕っており、家督を継承した長宗我部元親の4男・長宗我部盛親が関ヶ原の戦いで西軍に付いたことを理由に改易されたあとも、土佐の新領主となった「山内一豊」(やまうちかずとよ)の支配を拒み、長宗我部盛親の復活を願い出て幾度となく反乱を起こします。

一領具足の中心には、長宗我部家の家臣「竹内惣右衛門」(たけうちそうえもん)や「高石左馬助」(たかいしさまのすけ)がおり、こうした一領具足の結束力と勢いに圧された山内氏は、一領具足を「郷士」(ごうし:武士でありながら農業に従事する者や、農民でありながら軍事の際は出陣する者のこと)として取り立てることで懐柔することに成功。

なお、この郷士の子孫には幕末の土佐藩志士「坂本龍馬」などがいます。

長宗我部元親の家紋

七つ片喰

七つ片喰

七つ片喰

長宗我部家の家紋は、「七つ片喰」(ななつかたばみ)。長宗我部氏が独占した家紋と言われており、円の中央に片喰がひとつ、中心を囲むようにして6つの片喰が描かれています。

「片喰」(かたばみ)は、「酢漿草」とも表記される多年草の植物のこと。繁殖力が強く、子孫繁栄を意味する縁起の良い植物であるため、古くから武家の間で家紋として使用されていました。

長宗我部元親の名言

一芸に熟達せよ。多芸を欲ばる者は巧みならず

「その道を極めたいのであれば、多くのことに手を出すのではなく、ひとつのことに集中して取り組み、己の腕を磨くべきだ」という意味です。

戦国時代の武士は、主要武器となる弓矢や槍の扱い以外にも、馬術や水練(すいれん:泳ぐこと)の技術も必要とされていたため、武士の子供は幼い頃から厳しい特訓や稽古を行なっていました。

技術を体得するには、長い年月と努力が必要になります。そのため、欲張ってあらゆることを極めようと思うと時間が足りなくなり、結局どれも中途半端にしか身に付きません。一芸に秀でることで、より手柄を立てやすくなります。武士にとって手柄を立てることは、家名を上げて子孫を残すことに繋がるため、他人より突出した特技を身に付けることは何よりも重要だったのです。

現代においても、いわゆる「プロ」と言われる人達は、一芸を磨いてその道で活躍しています。一方で、開花した才能を活かして各方面で活躍する人もいるなど、戦国時代とは異なる生き方ができるようになりましたが、多芸に秀でる人であっても、基礎となる一芸をはじめに極めるものです。

つまり、はじめから様々なことに手を出すのではなく、まずはひとつのことを達成できるように努力して、それが実を結んだら次のことに挑戦するのが望ましいと言えます。

長宗我部元親

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