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豊臣秀吉

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「豊臣秀吉」は、「織田信長」や「徳川家康」と並び戦国三英傑の1人に数えられている戦国武将です。
豊臣秀吉は農民の出身でしたが、数々の武功を挙げた上に本能寺で織田信長を暗殺した「明智光秀」を討ち取ります。その後、清洲会議で対立した「柴田勝家」に勝利すると、「毛利輝元」(もうりてるもと)や「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)らを取り込み勢力をさらに拡大し、ついには天下人・関白まで上り詰めました。
「墨俣一夜城」(すのまたいちやじょう)や「金ヶ崎の退き口」(かねがさきののきくち)など様々な逸話を残した豊臣秀吉の生涯をご紹介します。

豊臣秀吉の生涯

出自について

豊臣秀吉

豊臣秀吉

「豊臣秀吉」は、尾張国愛知郡中村郷(現在の愛知県名古屋市中村区)にあたる場所で、足軽をしていた「木下弥右衛門」(きのしたやえもん)と妻「仲」(なか:のちの[大政所])の子として誕生。

生まれた年については定まっておらず、1537年(天文6年)ではないかと言われています。

豊臣秀吉は、15歳になった時に「侍になる」と言って生まれ故郷から離れると、遠江国長上郡(とおとうみのくにながかみぐん:現在の静岡県浜松市南区)で今川氏の陪臣(ばいしん:家臣の家臣)松下氏に仕えました。

当時豊臣秀吉は「木下藤吉郎」(きのしたとうきちろう)と名乗っており、松下氏から目をかけてもらっていましたが、のちに退転します。

なお、退転した理由については諸説あり、松下氏から優遇されていた豊臣秀吉は、他の家臣から妬まれていたため、それを不憫に思った松下氏が豊臣秀吉に金を持たせて送り出したという説や、豊臣秀吉が金を盗んで出奔した説などがありますが、いずれも真偽は不明です。

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織田信長の下で名を挙げる

織田信長

織田信長

1554年(天文23年)、豊臣秀吉はこの頃から「織田信長」の奉公人として仕えます。

1561年(永禄4年)、足軽組頭まで上り詰めた豊臣秀吉は、足軽組頭として同じ長屋に住んでいた「杉原定利」(すぎはらさだとし)の娘「ねね」と婚姻。その後、豊臣秀吉は様々な偉業を成し遂げていきます。

1566年(永禄9年)、美濃国(現在の岐阜県)斎藤家へ侵攻する際に、敵前で一夜にして「墨俣城」を築き上げたという「墨俣一夜城」。川の上流から木材を流し、下流で築城を進めるという奇策は、豊臣秀吉の存在を織田信長に示した最初の功績と言われています。

1568年(永禄11年)の「観音寺城の戦い」では、「箕作城」(みつくりじょう)に夜襲を仕掛けて落城を果たし、織田信長の天下布武の足がかりに大いに貢献しました。

さらに、1570年(元亀元年)の越前国敦賀郡(えちぜんのくにつるがぐん:現在の福井県)で起きた「金ヶ崎の戦い」では、「金ヶ崎の退き口」(かねがさきののきくち)という撤退劇を披露します。

豊臣秀吉は、「朝倉義景」と織田信長に謀反した「浅井長政」による挟撃から織田信長を逃がすために、「明智光秀」や「池田勝正」と共に、殿(しんがり:軍の最後尾で敵の追撃を食い止める役割)を任じられました。限られた人数による撤退戦でしたが、豊臣秀吉達は上手く統率を取り被害を最小限に抑えます。豊臣秀吉は戦後、この功績を称えられて黄金数十枚を賜りました。

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羽柴秀吉として織田政権下で勢力を延ばしていく

1572年(元亀3年)、豊臣秀吉は「丹羽長秀」や「柴田勝家」のような人物になると誓い、2人の名前を取って「羽柴秀吉」に改名。1575年(天正3年)の「長篠の戦い」では、「霧山城」を攻め落とす活躍を見せるなど、徐々に頭角を現していきました。

しかし、その矢先の1577年(天正5年)、豊臣秀吉の進退に大きな影響を及ぼす出来事が起きます。加賀国(現在の石川県南半部)「手取川の戦い」の際、作戦に関する意見の食い違いにより柴田勝家と揉めて、豊臣秀吉は無断で兵を撤収。その結果、柴田勝家は「上杉謙信」に敗北してしまい、このことが織田信長に知られると、豊臣秀吉は激しく叱責されてしまいました。

同年、豊臣秀吉は汚名返上をかけて「信貴山城の戦い」(しぎさんじょうのたたかい)に臨みます。そして、織田信長を2度も裏切った「松永久秀」の討伐に従軍したことで、再び信頼を回復。豊臣秀吉は褒美を授かり、これまで以上に織田信長から厚く信頼されるようになったのです。

播磨と但馬を攻略し、兵糧攻め戦法で中国地方を制圧

姫路城

姫路城

松永久秀を討った同年、豊臣秀吉は織田信長から中国地方攻略の命を受けることになりました。手始めに播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県西部)の攻略を開始します。

在地勢力を人質に取り、以前播磨守護だった赤松氏配下「赤松則房」(あかまつのりふさ)、「別所長治」(べっしょながはる)などを従軍させると、交流があった「黒田官兵衛」から姫路城を譲り受けて拠点に据えました。

豊臣秀吉は、人を従わせる才能を活かして次々に諸大名を仲間に引き入れていきます。しかし、摂津国「荒木村重」が突然謀反を起こしました。これにより中国平定は一時的に中断。さらに立て続けに裏切りが起きますが、豊臣秀吉は決して屈しませんでした。確実に相手を疲弊させて討伐させることに定評がある豊臣秀吉は、ここでも得意の「兵糧攻め」や「水攻め」などを駆使して、問題をひとつずつ解消していったのです。

戦国武将の合戦戦略戦国武将の合戦戦略
戦国の世を生き抜いた武将の合戦戦略について解説します。

本能寺の変、そして明智光秀討伐へ

明智光秀

明智光秀

豊臣秀吉に任じられた中国平定は順調に進んでいましたが、その矢先に思いがけない出来事が起きます。

1582年(天正10年)、明智光秀の謀反によって引き起こされた「本能寺の変」です。明智光秀に奇襲をかけられた織田信長が、火の手のあがる御殿で命尽きたと聞かされた豊臣秀吉は、「備中高松城の戦い」の最中だったため、織田信長の死を隠して「毛利輝元」と講和し、すぐに京都へと引き返しました。「中国大返し」と呼ばれる大軍の大移動劇です。

僅か10日で実に230kmの距離を移動し、織田信長の弔い合戦「山崎の戦い」を開始。移動途中で諸大名を味方に付けた豊臣秀吉軍の兵力は40,000、対する明智光秀軍は20,000弱と兵力差は歴然でした。

最初は持ちこたえていた明智光秀軍でしたが、次第に雑兵による逃亡が目立ちはじめます。豊臣秀吉軍は、援軍の到着などにより戦況をひっくり返し、勢いが付いた豊臣秀吉軍に押された明智光秀軍の戦線はついに崩壊。明智光秀はその後、逃げた先で落ち武者狩りに遭い討ち取られた、またはそのときに受けた傷が原因で切腹をしたと言われています。

清州会議を経て柴田勝家との対立が深まる

柴田勝家

柴田勝家

1582年(天正10年)6月27日、清洲城で織田信長の後継者決めと遺領の分配を目的にした「清洲会議」が行なわれました。明智光秀討伐の功績がある豊臣秀吉は、織田信長の甥「三法師」(さんぼうし:のちの織田秀信)を推薦し、柴田勝家らの反対意見を跳ね除けて後継者に選出。

また、遺領分割では明智光秀の領土であった丹波国(現在の京都府中部、兵庫県中東部)や山城国(現在の京都府南部)、河内国(現在の大阪府東部)の計28万石が与えられることになり、豊臣秀吉は勢力を一気に拡大することに成功したのです。しかし、その一方で豊臣秀吉は柴田勝家との間に大きな溝を作っていました。

柴田勝家は、織田信長の後継者決めの際に織田信長の3男「織田信孝」を推薦しており、清須会議では豊臣秀吉と大いに揉めていたのです。また、その後に執り行なわれた織田信長の葬儀の場には柴田勝家の姿はなく、この問題がのちに争乱を引き起こすことになります。

同年、豊臣秀吉が私的に織田家諸大名と懇意にしていたことを柴田勝家に見咎められて、より一層2人の対立が激化。そして、事態は悪い方向へと転がっていきます。

清洲会議のあと、織田信長の後継者に決まった三法師は、織田信孝によって岐阜城に留め置かれていました。豊臣秀吉は、これを織田信孝の謀反と決め付けて、柴田勝家の養子「柴田勝豊」(しばたかつとよ)が拠点にしている長浜城を包囲し、獲得に成功。豊臣秀吉は勢いづいて美濃国へ進攻すると、岐阜城にいた織田信孝を降伏させて三法師を奪還しました。

翌年の1583年(天正11年)、豊臣秀吉は近江国賤ヶ岳(おうみのくにしずがたけ:現在の滋賀県長浜市)で、柴田勝家率いる30,000の軍勢と衝突します。「賤ヶ岳の戦い」と呼ばれるこの合戦は「賤ヶ岳の七本槍」と謳われる勇将が多く活躍し、豊臣秀吉が天下人となるための足がかりとなった戦いです。

戦いは始め互角でしたが、柴田勝家側にいた「前田利家」が突然戦線離脱をしたことで、柴田勝家軍全体の士気が低下。敗戦を悟った柴田勝家軍の諸将が立て続けに退却していき、豊臣秀吉軍は手薄となった柴田勝家軍本隊へと殺到します。

耐え切れなくなった柴田勝家は、越前国「北ノ庄城」へと撤退しますが、前田利家が先鋒を務める豊臣秀吉軍に包囲されて、妻「お市の方」と共に自害。数日後には、織田信孝も切腹を命じられて自害し、織田家の実力者を討ち取った豊臣秀吉は、本拠地として「大坂本願寺」の跡地に「大坂城」を築城します。

小牧・長久手の戦い

賤ヶ岳の戦いのあと、豊臣秀吉は三法師の後見として「安土城」に入城した織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)に対して退去するように命じました。

なぜ退去するように命じたのか理由は定かになっていませんが、このあとに豊臣秀吉は織田信雄に対して「年賀の礼に来るように」と命じており、この一連の出来事がきっかけとなって、織田信雄は豊臣秀吉に対して反発の意思を見せるようになります。

織田信雄は、豊臣秀吉を討つ目的で「徳川家康」と同盟関係を結び、豊臣秀吉に懐柔された重臣「津川義冬」(つがわよしふゆ)、「岡田重孝」(おかだしげたか)、「浅井長時」(あざいながとき)を処刑。事実上の宣戦布告に対して豊臣秀吉は憤怒し、織田信雄を討つ決意を固めます。

これに対して豊臣秀吉は、美濃や伊勢の諸大名「池田恒興」(いけだつねおき)や「森長可」(もりながよし)などの有力武将を味方に付けました。一方で織田信雄は、同盟を結んだ徳川家康の呼びかけにより、土佐国(現在の高知県)の武将「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)、紀伊国(現在の和歌山県三重県南部)の「雑賀衆」(さいかしゅう:鉄砲を主に武器とした傭兵集団)を味方に引きいれ、両軍は尾張国・長久手及び小牧城周辺で激突します。

小牧・長久手の戦い」と呼ばれるこの戦いは、尾張周辺や美濃・伊勢だけに留まらず、北陸・四国・関東にも戦禍が及ぶ大規模な合戦となり、長久手で開戦してから各所での戦いが終わるまで、実に8ヵ月も続きました。このとき、豊臣秀吉軍の兵力はおよそ120,000。対して織田信雄・徳川家康連合軍の兵力は約40,000で、兵力差だけを見れば豊臣秀吉軍が圧倒的に有利でした。

しかし、徳川家康軍の奮戦により池田恒興、森長可が相次いで討ち死に。戦局は次第に豊臣秀吉軍が不利になっていきます。徳川家康が最も得意とする情報戦により、豊臣秀吉軍の奇襲がことごとく失敗したことが原因でした。兵力では豊臣秀吉軍が有利であったものの、徳川家康の戦術に苦戦を強いられた豊臣秀吉は、自ら織田信雄の本領である美濃や北伊勢の諸城を攻略。そして、織田信雄に対して単独講和を持ちかけると、織田信雄は徳川家康に断りもなく講和を結び、戦いは終結を迎えたのです。

豊臣秀吉、関白に就任し天下統一へ

豊臣秀吉は、いよいよ全国統一のために動き出します。1585年(天正13年)に紀伊を攻略したあと、「毛利輝元」や「小早川隆景」などの有力武将を組み込んだ10万の大軍を四国へと進攻させました。

その頃、朝廷では関白の座を巡り、二条昭実(にじょうあきざね)と近衛信輔(このえのぶすけ)が争っていました。
先に関白に就任していた二条昭実に対し、近衛信輔が関白の座を譲るように要求したのです。
関白は、成人した天皇を助ける形で政治を行なう役職で、公家の頂点「五摂家」(ごせっけ)と呼ばれていた一条家・二条家・九条家・近衛家・鷹司家(たかつかさけ)のみが就くことができます。
豊臣秀吉は、この関白の座を巡る争いに仲介役として介入。なんと近衛家の養子になり、自分が関白に就任したのです。

その後、豊臣秀吉は四国を統一していた長宗我部元親を降伏させると四国平定を完了させ、さらに小牧・長久手の戦いの最中に織田信雄側へ寝返った越中国(現在の富山県)「佐々成政」(さっさなりまさ)へと進軍。
織田信雄の仲介の末に佐々成政を降伏させることに成功し、豊臣秀吉は紀伊・四国・越中を平定させました。

正親町天皇

正親町天皇

1586年(天正14年)、豊臣秀吉は「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)から「豊臣」の姓を下賜され、その後「太政大臣」に就任。これにより豊臣秀吉による政権が確立します。

翌年の1587年(天正15年)、九州平定に向けて「島津義久」と交戦。激闘の末に島津義久を降伏させ、その後も抵抗を続けていた「島津義弘」などの諸将を、島津義久が説得する形で降伏させることに成功。

およそ1年をかけて九州を平定した豊臣秀吉は同年12月、全国統一の総仕上げとして「惣無事令」(そうぶじれい)を関東・奥羽地方へ向けて発令しました。

惣無事令とは、大名間の私的な戦いを禁止する法令のことで、もし違反すれば改易や処刑などの厳しい処分が下されます。豊臣秀吉の強攻策に対して多くの大名は恭順の意思を示しましたが、この矢先に豊臣秀吉の裁定を覆す事件がおきました。

北条氏の家臣「猪俣邦憲」(いのまたくにのり)が独断により、「真田昌幸」の家臣「鈴木重則」が守っていた上野国(現在の群馬県)の「名胡桃城」(なぐるみじょう)を占領したのです。「名胡桃城事件」とも呼ばれるこの出来事に豊臣秀吉は、惣無事令を違反したとして挙兵。全国の諸大名が参戦し、200,000を超える大軍が北条氏の討伐へ向かいます。

1590年(天正18年)、「小田原征伐」が開戦。小田原城へ続く道中にあった伊豆国(現在の静岡県南部)、駿河国(現在の静岡県中部)、相模国(現在の神奈川県)の城を次々と攻略。北条氏側に加担していた諸大名達の中から離反をする者も現れはじめ、ついに北条氏が降伏する形で小田原城は明け渡されます。

北条氏が有していた領土はすべて徳川家康にあてがわれ、最後まで豊臣秀吉に抵抗していた「九戸政実」(くのへまさざね)も降伏。ここに豊臣秀吉の天下統一が成し遂げられたのです。

豊臣秀吉が刀狩令を布告

天下統一を成し遂げる数年前に、豊臣秀吉は「刀狩令」を布告しています。
農民や商人などが刀剣や槍を持つことを禁止し没収したのです。全国的に行なわれた刀狩で集まった刀剣や槍の数は一万本以上とも言われています。

豊臣秀吉はなぜ刀狩を行なったのでしょうか。
刀狩令を布告する1年ほど前に、豊臣秀吉は日本各地で起こっている村同士の紛争を解決しようと「喧嘩停止令」を布告しています。
その頃の日本では多くの農民や商人が刀剣や槍などを所持していたため、争いごとが絶えませんでした。
そこで「喧嘩停止令」と「刀狩令」を布告することで、各地の紛争をなくそうとしたのです。

刀剣の没収は知的な方法で計画的に行なわれました。まず、全国の村に刀匠を派遣し「名刀を買いたい」と宣伝したのです。刀匠が刀剣の鑑定をしてくれることを知った村人たちは、自慢の刀剣の価値を知ろうと集まってきます。その村人たちの名前を刀匠が記録し、後日その記録をもとに刀剣を没収したのです。

これにより刀剣は、武士だけが所持するようになり、その価値を高めていくのでした。

天下人・豊臣秀吉の最期

1593年(文禄2年)、豊臣秀吉と側室「淀殿」の間に待望の男児「豊臣秀頼」が生まれました。この予期しない男児の誕生に焦ったのは「豊臣秀次」です。豊臣秀次は、豊臣秀頼が生まれる2年前の1591年(天正19年)に2代目関白に就任したばかりでした。

そして豊臣秀吉は、豊臣秀次を疎ましく感じたことで豊臣秀次に謀反の疑いをかけます。

豊臣秀次のみならず家臣や係累のすべてを含めて切腹を命じたのち、豊臣秀次が存在した痕跡を消すために、豊臣秀次が邸宅としていた「聚楽第」(じゅらくてい/じゅらくだい)や、居城していた近江国「八幡山城」を破壊。

1598年(慶長3年)、豊臣秀吉は京都「醍醐寺」で「醍醐の花見」と呼ばれる盛大な花見を開催。これが豊臣秀吉にとっての最後の花見となりました。同年7月、豊臣秀吉は死期が近いことを悟ると伏見城に徳川家康など諸大名を呼び寄せて、自分の死後は豊臣秀頼に忠義を誓い仕えるようにと遺言を言い渡します。

1598年(慶長3年)8月18日、豊臣秀吉はこの世を去りました。享年62歳。死因については諸説ありますが、病気が原因と言われています。

織田信長、徳川家康と並び「戦国三英傑」にも数えられている豊臣秀吉は、「人たらし」と言われるほど人の心を掴むことが上手く、低い身分から天下人にまで上り詰めました。現在も全国にある「豊国神社」では、出世の神様として多くの人々から信奉されています。

戦国三英傑戦国三英傑
「戦国三英傑」の特徴や逸話、合戦の背景。そして後世に与えた影響などをご紹介します。

豊臣秀吉の家紋

沢瀉紋

沢瀉紋

沢瀉紋

「沢瀉紋」(おもだかもん)は、豊臣秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた頃に使用していたと言われる家紋で、日本の十大家紋(じゅうだいかもん:日本で広く使用される代表的な10の家紋)のひとつです。

「沢瀉」(おもだか)とは、池などの水辺に自生する水草の一種で、葉の形状が矢の先端に付ける、突き刺さる部分の「鏃」(やじり)に似ていることから「勝戦草」(かちいくさぐさ)とも呼ばれています。

太閤桐

太閤桐

太閤桐

「太閤桐」(たいこうぎり)は、「桐紋」の一種。桐紋は、もともと天皇家が使用していた家紋です。「桐」は樹木の桐のことで、鳳凰が留まる神聖な樹木と考えられていました。もともとは古代中国が発祥で、それを日本に取り入れたと言われています。

天皇が武家に桐紋を下賜する風習があったため、織田信長が上洛を果たしたときにも桐紋が下賜されました。

そして、織田信長から豊臣秀吉へ桐紋が下賜されたことで、豊臣秀吉も使い始めたと言われています。なお、太閤桐には決まった形がありません。太閤桐は、通常の桐紋を大きく変形させた紋の総称であり、紋によって上部の花の枚数が異なるなど、その特徴も様々あります。

豊臣秀吉の名言

人はただ さし出づるこそ よかりけれ 軍(いくさ)のときも 先駆けをして

「人は普段からしゃしゃり出るのが良い。もちろん合戦のときもだ」という意味の言葉です。

豊臣秀吉は、まだ刀剣も持たせてもらえなかった小者(雑用係)だった頃から、誰よりも積極的に物事に取り組んでいました。たった数日で城を築き上げた墨俣一夜城の逸話を筆頭に、織田信長家臣団の中でも様々な功績を挙げて一世一代の大出世を果たします。そんな折に、豊臣秀吉の活躍を妬んだ同輩からこんな歌を詠まれました。

「人は皆 さし出でぬこそ よかりけれ 軍(いくさ)のときは 先駆けをして」

「人は合戦のときを除いて、しゃしゃり出ないほうが良い。謙虚こそ美徳である」という、豊臣秀吉に対する皮肉の歌です。

しかし、普段から遠慮している人が合戦のときに活躍できる訳がありません。豊臣秀吉は前出の歌の通り、普段から何事にも積極的に、誰よりも活躍したからこそ天下人にまで上り詰めました。意欲的でなければ出世などできない、という現代にも通じる名言です。

夢は大きいほど良いと言うが、わしはすぐ手の届くことを言っている

豊臣秀吉がまだ足軽身分だった頃、他の足軽達と夢について語り合っていました。ある者は「一国の主になりたい」と言い、またある者は「天下を取りたい」と言い、各々が大きな夢を語る中で豊臣秀吉だけがこのように言ったといいます。

「わしは散々苦労をして100石の身分となった。だから、今度は倍の200石取りになりたい」

豊臣秀吉の謙虚すぎる言い分に、他の足軽達が嘲笑をしますが、続けて豊臣秀吉はこう言いました。

「お主達は、叶わない夢を語っているに過ぎない。わしは叶えられることを語ったのだ。200石であれば努力次第ですぐに叶えられるゆえ、ご奉公にも身が入るというもの。つまりは自然と達成できることだ」

実際豊臣秀吉は、その後数々の戦で功績を挙げていきました。豊臣秀吉が没した1598年(慶長3年)時点で、豊臣秀吉の直轄領の石高は222万石。

小さなことからこつこつと、着実に成果を出していった豊臣秀吉の生き様とも言うべきこの言葉は、今なお多くの人の心に響く名言です。

太刀 額銘 吉光(名物 一期一振藤四郎)

「一期一振藤四郎」(いちごひとふりとうしろう)は、無類の名刀収集家で知られる豊臣秀吉が所有した愛刀の1振。

本刀は、刀匠「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)が作刀。豊臣秀吉が名刀中の名刀しか入れないという「一之箱」(いちのはこ)に納めるほど、特に大事にした太刀でした。

名称の「一期一振」は、「生涯で一度きりの太刀(傑作の出来)」という意味です。粟田口吉光は本来、短刀を中心に刀剣の作刀をしており、粟田口吉光が生涯で作刀した太刀は、名称の通り本刀1振だけでした。

なお、本刀は「大坂夏の陣」で大坂城と共に焼かれて焼身(やけみ:刀身が炎に焼かれること)になっています。その後、徳川家に渡ると江戸幕府お抱えの刀工「越前康継」(えちぜんやすつぐ)により再刃(さいば/さいは:刀身を焼き直すこと)され、歴代将軍に受け継がれました。

徳川家から天皇家に献上されたあとは、現代まで御物(ぎょぶつ:皇室の私有品)として大切に管理されています。

太刀 額銘 吉光(名物 一期一振藤四郎)

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
額銘 吉光
(名物 一期一振藤四郎)
鎌倉時代中期 御物 山里御文庫
御剣庫蔵
(宮内庁管理)

「豊臣秀吉 甲冑写し」のYouTube動画

豊臣秀吉の甲冑の写しを
YouTube動画でご覧頂けます。

豊臣秀吉 甲冑写し

豊臣秀吉

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今川義元

今川義元
「今川義元」(いまがわよしもと)について、あなたはどのようなイメージをお持ちでしょうか。「公家かぶれの戦国大名」というイメージを持っている人も少なくないと思います。今川義元は「桶狭間の戦い」で、25,000以上の大軍を擁しながら、わずか2,000の「織田信長」に敗れたからです。しかし、そんな今川義元は、実は優れた領国経営能力と家臣・太原雪斎(たいげんせっさい)の後ろ盾によって、米の生産量が多いとは言えなかった駿河・遠江・三河を豊かな国にすると共に、軍事力・外交力を用いて領地拡大に成功した手腕の持ち主。「今川義元」はその実力から、「海道一の弓取り」と呼ばれていました。ここでは、一般的なイメージとはギャップのある今川義元の実像についてご紹介します。大河ドラマでも注目される戦国大名です。

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