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藤堂高虎

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「藤堂高虎」(とうどうたかとら)は、戦国時代から江戸時代初期に活躍した戦国武将。藤堂高虎と言えば、「加藤清正」(かとうきよまさ)や「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)と並ぶ築城の名人であることと、主君を次々に変えたことで有名です。

家臣転々時代

藤堂高虎

藤堂高虎

「藤堂高虎」は、1556年(弘治2年)、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)犬上郡藤堂村で生まれました。藤堂家は地元の小領主でしたが、藤堂高虎の父の代には、ほとんど農民と変わらないまでに落ちぶれていたと言われています。

藤堂高虎は背が高く、身長190cmの大男だったというのが定説です。また、生涯戦に身を置いたため、身体中に隙間なく傷があり、手足の指も何本かちぎれ、爪のない指も数本あったことから、藤堂高虎の遺体を清めた者が驚いたという逸話があります。

そんな藤堂高虎が最初に仕えたのが、北近江の大名「浅井長政」(あざいながまさ)。浅井長政のもとでは足軽として働き、「姉川の戦い」などで武功を上げますが、1573年(天正元年)に浅井家が滅亡。

その後は旧浅井家臣の間を渡り歩き、「織田信長」の甥「織田信澄」(おだのぶずみ)にも仕えますが、気質が合わなかったのか、長続きしませんでした。

運命の出会い① 豊臣秀長

藤堂高虎が最初に腰を落ち着けて仕えた相手は、「豊臣秀吉」の異父弟「豊臣秀長」(とよとみひでなが)です。豊臣秀長に仕え始めた頃の藤堂高虎はわずか300石と、現代で言う平社員並みの待遇でした。しかし、豊臣秀長は藤堂高虎の働きぶりを良く見ており、1581年(天正9年)には10倍の3,000石となります。

さらに藤堂高虎は、紀州(現在の和歌山県三重県南部)や四国攻めの際に戦功を挙げ、ついには1万石の城持大名に出世。つまり、豊臣秀長の家臣級にまで取り上げられたのでした。さらに九州攻めで活躍し、2万石にまで加増されます。藤堂高虎にとって、自身を評価してくれる豊臣秀長は運命的な主君であり、豊臣秀長との出会いがなければ、その後の藤堂高虎の活躍はありませんでした。

藤堂高虎は、豊臣家と相性が良く、豊臣秀長の死後、後継者の「豊臣秀保」(とよとみひでやす)の後見時代も含め、20年以上もの間仕え続けます。豊臣秀保が17歳で亡くなると、藤堂高虎は出家して高野山に籠もってしまうほど豊臣秀長への忠誠心が高かったのです。主君が何回も変わったことから、不忠義者などの評価もある藤堂高虎ですが、豊臣秀長にはよく尽くした忠臣でした。

藤堂高虎は主家の断絶を機に、出家して俗世からは離れて暮らすつもりでしたが、周囲は放ってはおきません。その才を惜しんだのが豊臣秀長の兄である豊臣秀吉でした。豊臣秀吉から望まれて復帰した藤堂高虎は、伊予国板島(いよのくにいたじま:現在の愛媛県宇和島市)7万石の大名になります。

藤堂高虎は、豊臣秀吉のもとでも武功を挙げて出世しますが、豊臣秀吉の死後または生前に、「徳川家康」に接近しました。「関ヶ原の戦い」では、徳川方に付いて西軍諸将の東軍への寝返り工作を行なうなど大活躍。この戦いは、表向きは豊臣家臣同士の戦いでしたが、勝者の徳川氏はさらに力を持ち、徳川家康は武家の頭である征夷大将軍に就任するきっかけとなります。そして天下は、豊臣から徳川へと移っていくのでした。

藤堂高虎は、豊臣方との最後の戦いである「大坂冬の陣・夏の陣」でも徳川方に付きます。豊臣家と敵対したために不忠義だとの見方もありますが、藤堂高虎自身の行動から見るに、主君はあくまで豊臣秀長や豊臣秀保であり、豊臣家ではなかったのです。つまり、藤堂高虎にとって大切なのは「人」であり、「家」ではありませんでした。

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運命の出会い② 徳川家康

徳川家康

徳川家康

幾度も主君を変えた藤堂高虎にとって、終の棲家となったのが、徳川家康でした。徳川家康とは、豊臣秀長の家臣時代のこんな逸話が伝わります。

それは、関白・豊臣秀吉に謁見するために徳川家康が上洛することになったときのこと。藤堂高虎は、豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい:豊臣秀吉が京都に建てた城郭)に徳川家康の屋敷を造る責任者に任命されましたが、設計図に警備上の重大な不備を発見。考えた末に藤堂高虎は、独断で変更を加え、費用は自分持ちで工事を行なったと言うのです。

そんな藤堂高虎の心遣いを徳川家康はとても喜び、感心したと言います。藤堂高虎は、こうして強く印象付け、徳川家康に仕えたあとも、細やかな気遣いを随所で見せて、徳川家康の信頼を勝ち得ることに成功したのです。

徳川家康に重用された藤堂高虎は、外様でありながらも譜代大名のような待遇を受けます。関ヶ原の戦い後は、今治(いまばり)12万石が加増されて20万石の大名となり、1608年(慶長13年)には、江戸城改築等の功績を認められ、幕府の要所・伊勢に加増移封されて22万石(のちに32万石)となったのです。藤堂高虎の知力や築城等の能力は、徳川家康からも高く評価されていました。

さらに1616年(元和2年)、徳川家康の今際の際にも、藤堂高虎は外様の中でただひとり、立ち会うことを許されます。その際に徳川家康が「死後もそなたに会いたいが、宗派が違うから難しいな」と言うと、藤堂高虎は隣の部屋にいた「天海僧正」(てんかいそうじょう)のもとに行き改宗したのです。そんな藤堂高虎に徳川家康は「死後は天海と高虎と共に眠りたい」と言い遺し、徳川家康を奉る日光東照宮には、徳川家康、藤堂高虎、天海僧正の3人の像が奉られています。

そして、徳川家康がこの世を去ってから約15年後、1630年(寛永7年)に75歳で藤堂高虎はその濃い生涯を閉じました。徳川家康亡きあとも徳川家に忠義を尽くし、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の娘「和子」(まさこ)の天皇家入内の際も尽力したと言われています。

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藤堂高虎の遺した名城

築城家 藤堂高虎

築城家 藤堂高虎

加藤清正黒田官兵衛と共に築城名人として知られる藤堂高虎ですが、特に加藤清正とは城の造りが対照的なことから、よく比較されていました。

大坂冬の陣・夏の陣前に没した加藤清正の城は「戦のための城」であるのに対して、江戸時代以降も活躍した藤堂高虎の城は、城下町まで想定した「治めるための城」だったのです。

加藤清正の城の特徴は、一言で言うなら「複雑」。縄張りも複雑で、天守の造りも手間がかかる従来通りの「望楼型」(ぼうろうがた)と呼ばれる建物です。加藤清正の城は、忍者でも登ることが困難とされる反った石垣が美しい、通称「武者返し」を取り入れた、難攻不落の名城と言われる物が多いのですが、築城には非常に時間がかかりました。

それに対して、藤堂高虎の城はとにかく「シンプル」。単純な縄張りと藤堂高虎の編み出した「層塔型」(そうとうがた)と呼ばれる天守で、広い居住空間を確保し、規格化して工期を短縮することに成功したのです。藤堂高虎の築城した今治城は「層塔型天守」を持つ最初の城で、のちの天守の基準となり、江戸城も層塔型で造られました。

築城の名人・藤堂高虎はどうやって生まれたのか

藤堂高虎は、はじめから築城の知識があった訳でも、築城の腕が優れていた訳でもありません。前述のように、藤堂高虎は小領主の子として産まれています。初めて主君を持ったときも、一介の足軽にすぎなかったのです。

そんな藤堂高虎に転機を与えたのが、豊臣秀長でした。「安土城」から始まり、「和歌山城」、「大和郡山城」など、様々な城の築城にかかわる経験を得られたのです。また、藤堂高虎の故郷には「甲良大工」(こうらだいく)という集団があり、その甲良大工から築城技術を学ぶことで、めきめきと技術を身に付けていきました。

さらに、ここに合わせて藤堂高虎は自らも出陣する武士でしたので、どういった城が攻めやすいか、あるいは攻めにくいか、どういった技術があれば役立つか実戦からも着想を得られたのです。築城名人は、豊臣秀長に仕えた運と、藤堂高虎自身の努力の賜物でした。

生涯、数多くの築城に携わった藤堂高虎

藤堂高虎は、生涯を通して15~20近くの城の築城に携わっており、これは他の武将と比較しても多いほうです。特に、城の設計図であり、城の防御を決める重要な部分である縄張りを幾度も担当しました。

縄張りを任せられるということは、それだけ藤堂高虎の築城技術に信頼が寄せられていたということです。特に徳川氏に仕えるようになってからは、その築城の依頼も増えたと言います。また、藤堂高虎は城づくりを極めただけでなく、家康公を奉った日光東照宮の建造にも携わりました。

伊賀・伊勢22万石の国持大名の国づくり

津城

津城

藤堂高虎は、国持大名となったことで、自分の国を持つようになります。藤堂高虎は、築城名人であるだけでなく、城を中心とした国づくりにも長けていました。

国づくりにおいて藤堂高虎が取り組んだのは、城下の発展です。まず、武士を城下に集めて住まわせるのですが、これは当時としては画期的なことでした。

普段は農村に住んで、合戦のときだけ雇われるという武士も多く、藤堂高虎もこうした生まれだったことに起因するのですが、藤堂高虎は農村の武士も集めて城下を形成していったのです。

さらに、こうした武家屋敷の集合体の中に、商業的な要素も取り込んでいきます。藤堂高虎がのちに転封された津では、津城の城下町の西と南を中心とした8分の5を武家屋敷、残りを町民が暮らせる町にしました。さらに、伊勢神宮などへの道のりも整備することで、宿場町の繁栄にも貢献。こうして町のつくりを整備し、より人が住みやすい環境にすることで、町の経済的な発展にも寄与したのです。

藤堂高虎の逸話

藤堂高虎は75年の人生の中で、何度も主君を変えてきました。しかし、そのいずれも主君を裏切ったり、謀反を起こしたりといったやり方で離反した訳ではありません。特に、豊臣秀長に仕えて以降は、良き家臣として活躍していました。

だからこそ、主君であった豊臣秀長や豊臣秀吉、徳川家康などは藤堂高虎を信頼していたのです。転々と自分の身の置き場所を変えていった藤堂高虎の人となりが想像できる逸話をいくつかご紹介します。

まるもちの逸話

これは、藤堂高虎がまだ若かった頃、藤堂藩の家老の日記に記されていた逸話です。

主君のもとを飛び出し放浪していた藤堂高虎は空腹に耐えかね、餅屋で餅を平らげるも、お金がなく正直に謝ります。これに対して餅屋の主人は出世払いで良いと、藤堂高虎に追加の餅を渡して送り出しました。

藤堂高虎は、のちに主人を訪ねて相応以上のお礼をしたと言います。

2枚の設計図の逸話

徳川秀忠

徳川秀忠

これは、二条城改築を江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に命じられたときの逸話で、城の設計図を2代将軍に献上したときの話。

なぜ2枚の設計図を渡したかというと、将軍が選択できるようにすることで、あくまで二条城は将軍が改築した物だと世間に知らしめるためだったと言います。

藤堂高虎は、自分の手柄は二の次にして、将軍である徳川秀忠の顔を立てたのです。

人事についての逸話

藤堂高虎が生きた戦国時代は、主君が死去した際に、忠誠を示すために家臣が殉死することが多くあり、実際に「独眼竜」で知られる「伊達政宗」が没したときには、20人もの殉死者が出たと言います。

あるとき、藤堂高虎が「私が死したあとに殉死するつもりでいる者はこの札に姓名を書き、この箱へ投じよ」と命じると、多くの家臣が札を投じました。これを見て藤堂高虎は、「これほど忠義に厚い者達を失うのは惜しいので、殉死しないよう上意(じょうい:主君からの命令や指示)して欲しい」と徳川家康に頼んで、家臣達に殉死することを禁じたという逸話があります。

またこの他にも、藤堂高虎の人となりを窺わせる出来事として挙げられるのが、藤堂家から去ろうとする家臣に対して「もしも戻りたいと思ったときは、同じ待遇で受け入れるからいつでも戻って来るといい」と言い、実際にそれを実行したという逸話。藤堂高虎は、忠義に厚いだけではなく、家臣からも厚い信頼を置かれるほど義理堅い人物だったのです。

藤堂高虎の家紋

蔦紋

蔦紋

蔦紋

「蔦紋」(つたもん)は、数ある家紋のデザインの中でも良く使われる、ブドウ目ブドウ科の植物「蔦」(つた)を用いた家紋。

蔦は、生命力が強いことから縁起が良いと言われ、家紋として広く使用されていました。特に、武家の中でも権威のある家紋とされており、藤堂高虎以外にも将軍家に近い松平家などでも使われています。

なお、蔦紋は権威があるからと言って制限があった訳ではなく、「絡めとって離さない」という意味で女性に人気があり、輿入れのときなどにも使われていました。

藤堂家の蔦紋は、「藤堂蔦」とも言われ、一般的な蔦紋よりも横長にした、葉脈の細かい家紋になっています。

藤堂高虎の名言

寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし

「毎日、朝起きたときから今日が死ぬ日と思いながら過ごせば、迷うことも戸惑うこともしなくなるので、これを忘れずに生きなさい」という意味の藤堂高虎の遺訓です。また、津藩藤堂家家臣が座右の銘にした言葉でもあります。

命のやり取りが常だった戦国時代において、迷いや優柔不断な言動は大敵でした。曖昧な態度が原因で謀反の疑いをかけられることもあったほどです。藤堂高虎は、その生涯で7回も主君を変えていますが、いずれも迷いなく自分の判断を信じて主君に仕えました。また藤堂高虎が、一度離反した家臣に対しても誠実であったのは、家臣の選択が間違っていなかったからと判断したからです。

藤堂高虎の言葉は、現代でも通じるものがあります。何をするにもその日限りだと思えば、自然と覚悟が決まって最善の選択ができるようになり、また何をするべきか決めて懸命にそれに取り組めば、いつか努力は実を結ぶのです。自分の選択を信じて、毎日を大切に生きることが何よりも大切ということを示した藤堂高虎の遺訓は、現代でも多くの人びとの心に響く名言として知られています。

刀 金象嵌銘 備前国兼光 本阿弥(花押)(名物 大兼光)

本刀は、豊臣秀吉没後に形見分けとして藤堂高虎に渡ったのち、徳川将軍家に献上された1振。

元々は大太刀でしたが、江戸時代に「本阿弥光温」(ほんあみこうおん:日本刀[刀剣]の研磨、手入れ、鑑定の三業を家職としていた本阿弥家の11代目当主)によって磨り上げられています。刀剣の中でも、特に姿が優れた「名物」のひとつであり、1959年(昭和34年)に国の重要文化財に指定されました。

刀匠は、備前国長船派(びぜんのくにおさふねは:現在の岡山県南東部で活躍した刀工一派)兼光(かねみつ)。鎌倉時代の長船派の作風は、丁子や小互の目が多く見られていましたが、南北朝時代の延文年間(1356~1360年)頃から作風が変わりました。

本刀にも南北朝時代の特徴である、ゆったりとした波のように見える「のたれ文」という刃文が現れており、破綻なく焼かれたのたれ文から技術の高さが窺えます。

刀 金象嵌銘 備前国兼光 本阿弥(花押)(名物 大兼光)

刀 金象嵌銘 備前国兼光 本阿弥(花押)(名物 大兼光)

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
金象嵌銘
備前国兼光
本阿弥(花押)
南北朝時代 重要文化財 豊臣秀吉→
藤堂高虎→
徳川将軍家伝来
  • 藤堂高虎と城
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  • 合戦の街 関ヶ原
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