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那須与一

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鎌倉幕府の「御家人」(ごけにん)として、同幕府初代将軍「源頼朝」に仕えていた「那須与一」(なすのよいち)。いわゆる「源平合戦」における一連の戦いのひとつである「屋島の戦い」(やしまのたたかい)にて、「扇の的」に矢を見事命中させたほどの「弓の名手」として知られています。しかし、その逸話と那須与一の名前は、軍記物の「平家物語」などに登場するのみであるため、それらの真偽のほどは謎に包まれた部分が多いのです。平家物語や「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)などに伝わるところから、那須与一の生涯について紐解きつつ、人物像にも迫っていきます。

誕生から源義経に出会うまで

名前「与一」の由来と弓矢の修行

那須与一のイラスト

那須与一

平家物語などの記述によれば、「那須与一」(なすのよいち)が「那須資隆」(なすすけたか)の子として生まれたのは、現在の栃木県那須郡にあった「那須氏」の居城である「神田城」(かんだじょう)。

那須氏はもともと、「源氏」方に属していた武士の家系でしたが、那須資隆の全盛期の頃には「平氏」側寄りの立場を取っていました。

那須与一の生年には諸説ありますが、一説には、1169年(仁安4年/嘉応元年)と言われています。

現在では、那須与一の名でよく知られていますが、これはあくまでも通称であり、「与一」は「十余る一」、すなわち「十一男」であったことを示しており、父が亡くなると、那須与一は10人いた兄達を差し置いて那須氏の2代当主となっています。

初名は「那須宗隆/宗高」(なすむねたか)と名乗り、那須氏の家督を継いでからは、父の名であった那須資隆に改称したと言われているのです。

また、那須与一が人生の伴侶を得た年齢についても定かにはなっていませんが、そのお相手は、「清和源氏」(せいわげんじ)の流れを汲む新田氏の始祖「新田義重」(にったよししげ)の娘であったと伝えられています。

那須与一が「の名手」と称えられていたのは、幼い頃から弓術の優れた才能の持ち主ではありましたが、それに驕る(おごる)ことなく、誰よりも多く修練を積み重ねていたことも背景にありました。兄達の前で実際に弓を射って見せ、その様子を窺っていた父・那須資隆を非常に驚嘆させた逸話が今も残っています。

さらに那須与一は、弓術の修練をあまりにも繰り返していたため、左右の腕の長さが違っていたとも伝えられており、那須与一の努力家で真面目な性格が窺えるのです。

源義経との出会い

源義経

源義経

そんな那須与一に1180年(治承4年)、人生最大の転機となるできごとが訪れます。

それは、現在の栃木県北部に位置する「那須岳」(なすだけ)において、那須与一が弓術の稽古に励んでいたときのこと。

源氏と平氏の間で、1185年(寿永4年/元暦2年)まで繰り広げられることになる「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅうえいのらん)通称「源平合戦」を目前に控えた「源義経」(みなもとのよしつね)が、必勝祈願のために「那須温泉神社」(現在の栃木県那須郡)へ訪れました。ここで那須与一は、源義経との運命的な出会いを果たすことになったのです。

治承・寿永の乱では、9番目までの兄達が平氏方に属していましたが、この出会いにより那須与一は、十男の兄「那須為隆」(なすためたか)のちの「千本為隆」(せんぼんためたか)と共に源氏方に付き従うようになりました。

なお、源氏方に属した武将のなかには、那須与一と同じく「与一」を通称としていた人物がいました。それは、「浅利義遠」(あさりよしとお)と「佐奈田義忠」(さなだよしただ)という2人の武将。那須与一を含むこの3人は、「源氏の三与一」(げんじのさんよいち)と呼ばれています。

屋島の戦いで起こった「扇の的」の逸話

源義経と共に仕掛けた平氏軍への奇襲

屋島の戦い

屋島の戦い

1184年(寿永3年/元暦元年)、「一ノ谷の戦い」(いちのたにのたたかい)で平氏軍が大敗を喫し、源氏軍が優位な立場となりましたが、その翌年には平氏の本拠でもあった讃岐国屋島(現在の香川県高松市)において、両者が再び衝突。

屋島の戦い」(やしまのたたかい)と称されるこの合戦で那須与一は、源義経を総大将に据えた軍勢に属します。その際、那須与一は弓の名手として大きな活躍を見せており、これにより平家物語に記述がある「扇の的」の逸話が生まれることになったのです。

一ノ谷の戦い後、平氏軍が屋島まで落ち延びたことを知った源義経は、「熊野水軍」や「水野水軍」などを味方に付けて、平氏軍を背後から追い詰めました。

驚いた平氏軍は、とっさに船へ乗り込んで逃げようとしましたが、冷静になって周りを見渡してみると、源氏軍の人数が少ないことに気付きます。そこで平氏軍は船を改めて岸に寄せ、弓による攻撃を海上から開始。激しい攻防戦となり、両者一歩も譲らないまま日が暮れてきたため、一時休戦状態となりました。

ところが、このとき平氏軍は源氏軍に対し、扇の的の逸話として後世にまで語り継がれることになる行動を起こしたのです。

扇の的は貴族化していた平家の象徴!?

「扇の的」を掲げる女性

「扇の的」を掲げる女性

平氏軍は、美しい女性を乗せた小舟を源氏軍陣営のもとへ漕ぎ寄せて来ました。

するとその女性は、赤地に金箔の日の丸が施された扇を竿(さお)の先に留め、おもむろに高く掲げたのです。そして、岸にいた源氏軍に向けて手招きした女性は、「この扇の的を射落としてみせよ」と言い放ちます。これは、平氏軍からの挑発を意味していました。

いくら休戦中とは言え、この挑発に乗らないのは武士の名誉にかかわること。さらには、この挑発に応じても失敗してしまえば、兵士達の士気を下げてしまうことにもなりかねません。

そこで源義経は、自軍の中で弓術に長けていた「畠山重忠」(はたけやましげただ)や、那須与一の兄である那須為隆を指名しましたが、この合戦で負傷したことを理由に拒否。そして那須為隆の推薦により、那須与一に白羽の矢が立ったのです。

弓矢を持って愛馬に跨り(またがり)、海に入って10mほど進んだ那須与一。扇の的に向かって弓を構えると、「南無八幡大菩薩」(なむはちまんだいぼさつ)と源氏の守護神に祈りを捧げ、矢を放ちました。そして、70~80m先にあった扇の的を射落とすことに見事成功したのです。

このとき那須与一は、万が一失敗した場合、その場で切腹する覚悟で臨んでいたと伝えられています。源氏軍はもちろん、平氏軍の兵士達も、那須与一の手練れの技と勇気に感銘を受け、「敵ながら天晴れ!」(あっぱれ)と賛辞を送りました。

平清盛

平清盛

なお、平氏軍が合戦の場でありながらを交えるなど武具を用いることはせず、扇の的によって挑発を仕掛けたのは、この当時の平家が貴族化していたことに理由があります。

1159年(保元4年/平治元年)に起こった「平治の乱」(へいじのらん)において勝利を収めた「平清盛」は、「太政大臣」(だじょうだいじん)に就任。これにより平清盛は、親族を含めて政治の中核を担うようになります。

そののち、平清盛が多くの荘園を支配したり、日宋貿易を積極的に行ったりすることで、平氏は巨万の富を築き、徐々に貴族化していったのです。

そして「扇」は、貴族が笑うときに口を隠したり、親密な間柄にある下位階級の者に下賜したりするために用いていたことから、「風雅」を象徴する物でもありました。

扇の的によって実際の勝敗を決めたわけではありませんが、貴族化していた平氏の人々は、休戦中に扇の的で「戦占い」とも言える「余興」を行うことで、自分達が貴族に負けず劣らず、風雅の心得について理解していたことを示していたのです。

扇の的伝説と那須与一のその後

壇の浦古戦場址

壇の浦古戦場址

那須与一の扇の的伝説は、ここまではよく知られていますが、実は続きがあります。

那須与一が扇の的に矢を命中させたことにより、にわかに沸いた源氏軍と平氏軍。

この盛り上がりに感極まったのか、平氏軍に属していた「伊賀十郎兵衛家員」(いがじゅうろうべえいえかず)が船の上で踊り始めました。

これを見た源義経は、那須与一に対して伊賀十郎兵衛家員を射抜くように命じたのです。那須与一はこれも難なく命中させましたが、平氏軍は当然怒り心頭。合戦が再開されることになったのでした。

刀剣ワールド紹介動画

那須与一が扇の的を射るシーン(源平合戦)をCGアニメでご覧頂けます。

刀剣ワールド紹介動画

この扇の的伝説を経て勝機を掴んだ(つかんだ)源氏軍は、源平合戦のクライマックスとなった「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)において勝利を収めたのです。

源平合戦が終決したあと、那須与一は屋島の戦いや壇ノ浦の戦いで挙げた武功が認められ、主君の源頼朝より、①武蔵国(現在の埼玉県東京都23区、神奈川県の一部)、②丹波国(現在の京都府中部、及び兵庫県北東部)、③信濃国(現在の長野県)、④若狭国(現在の福井県西部)、⑤備中国(現在の岡山県西部)の5ヵ国に恩賞地として荘園を賜りました。

そして、平氏軍に付いていた9人の兄達を無罪放免とし、那須為隆を含めて領地を分け与えたのです。これにより、下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)における那須氏隆盛の基礎が築かれたと言われています。

そののち、那須与一は出家して「即成院」(そくじょういん:京都市東山区)に入り、穏やかに余生を送っていましたが、1189年(文治5年)、もしくは1190年(文治6年/建久元年)、同寺院が創建当初にあった伏見の地にて亡くなりました。その墓所は現在も即成院にあり、「願いが的に当たる」というご利益を求めて多くの人々が参拝に訪れています。

那須与一
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