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榊原康政

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「榊原康政」(さかきばらやすまさ)は、「徳川家康」に見出され、陪臣(ばいしん:家臣の家臣)の身分から小姓となり、「徳川四天王」のひとりと呼ばれる重臣にまでに大出世した人物です。学問と武勇に長け、徳川家康から「康」の一字を賜ったほどでした。ところが、1592年(文禄元年)から徳川家康の3男「徳川秀忠」付となり、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」に遅刻するという大失態を起こしてしまうのです。ここでは、波乱万丈な榊原康政の一生をご紹介します。

榊原家は松平家の家臣の家臣

榊原康政のイラスト

榊原康政

「榊原康政」(さかきばらやすまさ)が生まれた榊原家は、陪臣という家柄です。

分かりやすく言うと、松平氏(のちの徳川家)に仕えていた譜代大名の「酒井忠尚」(さかいただなお)に仕えていた家柄。

1548年(天文17年)、「榊原長政」(さかきばらながまさ)の次男として、三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)に誕生しました。

幼名は「於亀」(おかめ)、「亀丸」(かめまる)。

いつから使われたかははっきりしませんが、「小平太」(こへいた)という別名もあります。

徳川家康に見出され、小姓からの立身出世

徳川家康

徳川家康

主家である松平家はまだまだ小さな御家でした。その頃三河の地を巡って、尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)の織田信秀(おだのぶひで:織田信長の父)と、駿河国(するがのくに:現在の静岡県)の「今川義元」(いまがわよしもと)、そして「松平広忠」(まつだいらひろただ:徳川家康の父)が争っていました。

榊原康政が生まれた頃、「松平竹千代」(まつだいらたけちよ:のちの徳川家康)は、わずか7歳で今川家の人質になるはずでした。

ところが、駿府(すんぷ:現在の静岡県静岡市葵区)へ送られる道中、何と織田家の家臣により略奪され、織田家の人質となってしまいます。

その後、織田家と今川家が和睦し、改めて今川家の人質にされたのです。このときは、「松平竹千代」(徳川家康)が天下人になるなど、まだ誰も想像できなかったに違いありません。

松平竹千代(徳川家康)は、人質のまま1555年(天文24年/弘治元年)に元服して、今川氏一族の関口刑部小輔の娘「築山殿」と結婚し、「松平元信」と改名。さらに1558年(弘治4年/永禄元年)に「松平元康」と改名します。そんな中、1560年(永禄3年)、榊原康政にチャンスがやってくるのです。

この時期、家臣達の中から年の近い者達が、松平元康(徳川家康)の人質生活にお供をしていました。経緯は不明ですが、榊原康政は13歳のときに、松平元康(徳川家康)と出会い、小姓に見出されたのです。

その日から、榊原康政は松平元康(徳川家康)の家臣になりました。なお、榊原康政と同じ、「徳川四天王」と呼ばれる「本多忠勝」(ほんだただかつ)、「井伊直政」(いいなおまさ)も松平元康(徳川家康)の小姓です。

榊原康政は、頭脳も武功にも優れていたと伝えられています。譜代大名の家柄でもなく、次男という状況下で生まれた榊原康政は、いくら下剋上の時代とは言っても、相当な能力がなければ出世のチャンスはなかったと考えられます。

初陣は三河一向一揆

松平家を大いに悩ませたのが、1563年(永禄6年)~1564年(永禄7年)に起きた、一向宗による蜂起です。

戦国時代ですから、当然武将達も必死で権力や領土を奪い合いましたが、鎌倉・室町時代は寺の坊主達も権力や武力を持っており、僧兵(そうへい)と呼ばれる武闘集団も戦に参戦していました。なかでも貧しい農民や領民が入りやすかった浄土真宗本願寺の一向宗は、門徒も命懸けで抵抗したのです。

大名や武将達も、近江、越前、越中などで一揆に煩わされましたが、三河でも大規模な一向一揆がありました。松平家康(徳川家康)の3大ピンチのひとつと呼ばれるこの戦いは、本多正信(ほんだまさのぶ)などを含む、松平家家臣達の多くが門徒だったことにより、家中が分かれる戦いとなったのです。

その「三河一向一揆」(みかわいっこういっき)の鎮圧部隊として、榊原康政は松平家康(徳川家康)側に付き、初陣を果たしました。

どのような戦いぶりだったのかまでの記録はありませんが、榊原康政は、その際に徳川家康から名前の「康」の一字を授けられたと伝わっていることから、活躍して武功を賞されたことが分かります。

徳川家康と共に、動乱の時代を迎える

織田信長

織田信長

一向一揆の少し前、織田信長が「桶狭間の戦い」で、宿敵・今川義元を討ち果たしたことをきっかけに、松平元康(徳川家康)は今川家からの独立を試みます。

今川家と敵になったことで、松平元康(徳川家康)は織田信長と同盟を組み、今川家との決別の意味から元康という名を捨て、「松平家康」と改名。さらに一向一揆鎮圧のあと、松平から徳川へと姓も改名して、ようやく「徳川家康」となるのです。

榊原康政も一向一揆鎮圧を機としたのか、徳川家康が改名したときと同年、1566年(永禄9年)に元服して、名を榊原康政に改めます。まだ19歳の若さでしたが、同じ年の本多忠勝と共に、旗本先手役(はたもとせんてやく)というお役目に抜擢されました。

なおこの任務は、徳川家康の側近としてSPのような護衛もしますが、戦とあらば率先して戦場へと出向く、軍としての役目もあったのです。相当勇猛果敢な武将ではないと、務まらないお役目に、徳川家康が榊原康政を選びました。

織田信長に翻弄される徳川家康を支える榊原康政

榊原康政が元服した頃、織田信長は、今川義元を倒して勢いに乗り、美濃国(現在の岐阜県)を治めていた斎藤家との戦いや、近江にて「浅井長政」(あざいながまさ)との同盟などに動き、勢力を伸ばしている最中でした。

当然、織田信長と同盟を組んだ徳川家康も、敵となった今川家や、織田家への援軍など、戦が次々に起こる日々。榊原康政も徳川家康を守るため、数々の戦に参戦しています。

浅井長政が織田信長を裏切ったことで起きた「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)や、「長篠の戦い」(ながしののたたかい)など、あまり歴史を知らないという人でも、教科書で何となく見たことがあるくらい有名な戦いには、榊原康政は必ず出陣。徳川家康を守っていたのです。

なお、徳川家康は気が弱く、優柔不断なところがあったらしく、ピンチになるとすぐ「切腹する!」と騒ぎだしたと言われています。戦いつつも主を励ますなど、榊原康政始め、側近達は大変だったことでしょう。

豊臣秀吉を本気で激怒させ、許された男

戦乱の世に竜巻のように現れ、日ノ本中の形勢を変えた織田信長が、「明智光秀」(あけちみつひで)の謀反によって突如滅ぼされたのが、1582年(天正10年)に起きた「本能寺の変」。

このとき、徳川家康率いる徳川家臣団は、堺(現在の大阪府)見物をしていました。

本能寺の変を知った徳川家臣団は、謀反を起こした明智軍勢の攻撃を畏れ、徳川家康はまたしても自害すると騒ぎだしたところを、榊原康政などの家臣達がなだめすかして、何とか三河(現在の愛知県豊川市)へ逃げようと団結したのです。

これがのちに、「神君伊賀峠越え」(しんくんいがとうげごえ)と呼ばれた、徳川家康3大ピンチのふたつめです。

2016年(平成28年)に放映したNHK大河ドラマ「真田丸」では、「内野聖陽」さん演じる徳川家康と、「藤岡弘、」さん演じる本多忠勝達のコミカルなシーンで大爆笑を誘いましたが、実際はまさに命懸けでの逃亡劇だったのです。

わずか34名のお供だけで、そこら中にいる明智の軍勢、突如現れる一向宗や、落ち武者狩りなどと、逃走しながら戦わなければいけません。しかも、数は少なくても榊原康政を始めとする徳川家の主だった家臣が多く、全滅すれば徳川家の滅亡に繫がってしまう危機的状況でした。

同行していた家臣のひとり、「松平広忠」(まつだいらひろただ)の残した「広忠日記」の中で、「道中我々一行は、落ち武者狩りを200人ほど倒した」という武勇伝が書かれていることから、榊原康政含む徳川家臣団がどれだけ強かったかを垣間見ることができます。

あわや打ち首!豊臣秀吉を怒らせた榊原康政

豊臣秀吉

豊臣秀吉

本能寺の変のあと、天下を狙って勢いを付けてきたのは、織田信長の家臣であった「豊臣秀吉」でした。

徳川家康と豊臣秀吉の直接対決となったのが、1584年(天正12年)に起きた「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)です。

その際、榊原康政は、豊臣秀吉を挑発しようと檄文(げきぶん)を出しています。檄文とは、自分の意見を述べて、周りを扇動する文です。

「武野燭談」(ぶやしょくだん)という江戸前期に書かれた徳川家の史書では、立札となっているので、文をバラまいたのか立札を立てたかは不明ですが、とにかく豊臣秀吉を挑発する文を出しました。

どのような内容かと言えば、「豊臣秀吉は織田信長の家臣でありながら、主君の家臣達と敵対し、息子達まで倒した八逆賊の者だ!そのような豊臣秀吉に味方すれば、天罰が下るに違いないぞ」と、豊臣秀吉が織田家を乗っ取ろうとしていることを、周りに主張したのです。

これを目にした豊臣秀吉は大激怒。まんまと榊原康政の挑発に乗って、榊原康政の首に10万石を掛け、「榊原康政を殺せ!」と周囲の武将達を焚き付けたほどでした。

しかし、この戦いは互いに大きな被害を出したものの、はっきりとした決着はつかずじまい。

その後、豊臣秀吉が関白になって、徳川家康と和睦をすることになったとき、榊原康政は突如として豊臣秀吉に呼び出しを食らいます。殺される覚悟で榊原康政は豊臣秀吉と会うのですが、予想に反して豊臣秀吉は榊原康政を赦免。それどころか、和睦のための徳川家康と妹の結納係に、榊原康政を指名しました。

さらに、妹の結納係が無冠ではいけないと、榊原康政に「従五位下・式部大輔」という官位を授け、豊臣の姓(かばね)も授けるなど、豊臣秀吉は器の大きさを見せたのです。

榊原康政の人柄を象徴する名言

若造が調子に乗りおって、刺し違えてくれるわ!

井伊直政

井伊直政

榊原康政と同じ、徳川四天王と呼ばれるひとりに、井伊直政がいます。

彼は井伊家の跡取りでしたが、縁あって徳川家康の小姓に取り立てられ、一気に出世してきました。

榊原康政よりもひと回りほど年下の井伊直政に、榊原康政ははじめ憤っていたと言われています。そのとき、発したのが、この言葉。これを聞いた同じく徳川四天王の先輩「酒井忠次」に、大分叱られたという逸話が残っています。

しかし井伊直政の優れた働きぶりを見て、榊原康政は嫉妬したことを反省し、その後2人はとても仲良くなったと言われています。

のちに榊原康政は、「大御所(徳川家康)の心が分かるのは、自分と井伊直政だけ」という言葉を残すほど、信頼し合う仲だったようです。

子孫のための戦なのに、子に会わないで傷付けるとは御家の衰退に繫がる

徳川家康の息子である徳川秀忠に付いていた榊原康政は、「関ヶ原の戦い」に大遅刻してしまいました。

これには理由があり、徳川秀忠と榊原康政は、上杉討伐のために、徳川家康とは別ルートで進軍。途中寝返った「真田昌幸」と戦うことになったり、大雨で川が増水したりと、想定外の事態に追い込まれていたからなのです。

関ヶ原の戦いの戦場にたどり着いたのは、なんと終戦4~5日後。怒った徳川家康は、弁明のために面会を求める徳川秀忠を頑なに拒否し続け、何日も会いませんでした。

そのとき榊原康政は、主である徳川家康に陳謝するのと共に、「仕方がなかったのに、反省したい息子に会わないとはどういうことだ!」と、詰め寄ったという逸話が残されています。

榊原康政の旗印と家紋

榊原源氏車(さかきばらげんじぐるま)

榊原源氏車

榊原源氏車

榊原源氏車は、貴族の牛車(ぎっしゃ)の車輪部分を表した家紋です。

源氏車は佐藤氏が主に使用した家紋。佐藤氏は平安時代の貴族「藤原秀郷」(ふじわらひでさと)の子孫で、左衛門尉(さえもんのじょう)という役職に付き、佐野という土地に住んだことから、佐藤と名乗ったと言われています。

その後、伊勢国の榊原に移り住んだ一族が、榊原と名を改め、榊原氏となりました。

これが榊原康政の先祖とも伝わっていますが、本人は、清和源氏(せいわげんじ)の流れを名乗っており、どちらも信憑性は薄いです。

このことから、源氏車紋は佐藤や榊原の苗字を持つ人が使うことが多いのですが、榊原康政が使っている家紋は、「榊原源氏」と呼ばれています。

なお、源氏車も線が6本、8本あるものなど種類がありますが、榊原源氏車紋は12本です。

何故「無」?ある意味目立つ榊原康政の旗印

戦場で誰が敵か、相手はどこの御家の者かと判別するために、武将達それぞれが個性あふれる旗印(はたじるし)を作っていました。

家紋や、何かを模した絵や漢文などある中で、榊原康政の旗印は「無」の一文字です。

徳川家康のために「無欲・無心で君主のために働く」、「無名の一武将として戦いたい」のような意味だと伝わっていますが、榊原康政がなぜこの旗印にしたのか、理由ははっきりとはしていません。

館林城で静かにこの世を去る

館林城

館林城

幼い頃から波乱の生涯を送るハメになり、君主・徳川家康と少年時代から常に行動を共にした榊原康政は、徳川家康が豊臣秀吉によって関東に国替えをさせられたとき、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)の館林城(たてばやしじょう)の城主となりました。

徳川家臣と言えば三河国のイメージが大きいですが、徳川家康が関東に移動した直後は豊臣秀吉の天下でしたし、豊臣秀吉が亡くなってから徳川家康が天下を取るまでは、まだ敵も多かったのです。

そのため徳川家康は、江戸を守るべく、譜代の家臣達を街道の要所に付けるなどして備えたため、榊原康政も江戸から離されていました。このことに、榊原康政はじめ徳川四天王達は不満を覚えたという逸話も聞きますが、信憑性はありません。

榊原康政は、このあと老中となり、関ヶ原の戦いから6年後の1606年(慶長11年)、江戸から離れた館林城で、静かに息を引き取りました。享年59歳。

榊原康政が病に倒れてからは、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠が医者を手配し、薬や見舞いの品などを榊原康政に送っています。徳川家康にとっても徳川秀忠にとっても、榊原康政は、人望が厚い男だったという人柄が見えてくるのです。

刀 無銘(名物 式部正宗)

名物「式部正宗」(しきぶまさむね)は、はじめは駿河国(現在の静岡県中部)の府中城主「中村式部大輔一氏」が所持していた日本刀ですが、中村式部大輔一氏が関ヶ原の戦いのときに発病して死亡。御家が断絶したため、この日本刀は榊原康政の物となりました。

地鉄(じがね)は大板目で地沸(じにえ)がつき、刃文は小乱れで表裏共に、富士山に似た格好の打ちのけが入って秀逸。

「享保名物帳」にも所載され、1712年(正徳2年)には2,729両(現在価値にして約2億467万円)で取り引きされた記録が残っており、1935年(昭和10年)には重要美術品に指定されています。

しかし、1945年(昭和20年)の「東京大空襲」で、残念ながら焼失してしまいました。

榊原康政

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