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島左近

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「島左近」(しまさこん)は、「石田三成」(いしだみつなり)の右腕として活躍した武将です。「三成に過ぎたるものが2つあり 島の左近と佐和山の城」と言われるほど、優れた武将として有名でした。ここでは、島左近の生涯、家紋、名言をご紹介します。

筒井家家臣時代

筒井順慶家臣時代

島左近のイラスト

島左近

島左近は1540年(天文9年)、大和国(やまとのくに:現在の奈良県)に生まれました。

いつから「筒井順慶」(つついじゅんけい)に仕えていたか定かではありませんが、少なくとも1570年(元亀元年)頃には仕えていたと言われています。

島左近は、筒井家の猛将として、大和国を巡って「松永久秀」(まつながひさひで)と激闘を繰り広げました。

1577年(天正5年)、「信貴山城の戦い」(しぎさんじょうのたたかい)で松永久秀を倒し、筒井順慶は大和を平定。

その後、島左近は「羽柴秀吉」(のちの豊臣秀吉)の援軍として、播磨(現在の兵庫県)攻めに参戦。毛利軍に包囲され、「山中鹿介」(やまなかしかのすけ)が籠城する「上月城」への救援に参加しています。

1579年(天正7年)には、謀反を起こした「荒木村重」(あらきむらしげ)が籠城する「有岡城」攻めに参加。

本能寺の変」後、筒井順慶は、豊臣秀吉に対する態度をはっきりさせなかったことを理由に苦しい立場に立たされましたが、大和一国は安堵されました。

1583年(天正11年)、島左近は筒井順慶に従い、滝川一益(たきがわかずます)を攻めるために伊勢(現在の三重県)に出陣。その後、「柴田勝家」軍と戦うために近江(現在の滋賀県)へ。敗れた柴田勝家は、「北ノ庄城」で自刃しました。

1584年(天正12年)頃、島左近は椿井城主となります。また同年、小牧・長久手で豊臣秀吉と「徳川家康」が交戦中に、筒井順慶が死去。養子「筒井定次」(つついさだつぐ)が跡を継ぎました。

翌年、豊臣秀吉は畿内を羽柴一門で固めるため、大規模な国替えを敢行。筒井家は大和から伊賀(現在の三重県)へ移封されます。

筒井家との決別

伊賀における島左近についての記録は、ほとんど残っていませんが、筒井家が伊賀へ移封されてから数年のうちに筒井家を去ったという説が有力です。

その理由としては、2つの有力な説が唱えられています。筒井定次の水不足に対する裁定への不服と、筒井定次への絶望です。

水不足対策裁定への不服

発端は、夏の水不足でした。「中坊飛騨」(なかのぼうひだ)が用水路をせき止め、自分の領地内の田に水が回るようにしてしまったことで、島左近の領地の田には水が回ってきません。困った領民達は、島左近のもとに対応の陳情に訪れました。

島左近はまず、中坊飛騨に用水路のせき止めをやめるよう依頼。中坊飛騨が断ったため、新しい用水路を作って自分の領地の田に水が流れるようにしました。その結果、自分の領地の田に水が回ってこなくなった中坊飛騨は、主君・筒井定次に直訴。対処を求めたのです。

筒井定次と中坊飛騨は、昵懇(じっこん:打ち解けて付き合う仲であること)の間柄でした。そのため、訴えを聞いた筒井定次は、今回の一件について、島左近に非があると裁定。新しく作った用水路を壊すよう命令します。水不足自体は、その後の降雨によって解消されましたが、島左近にとって決別を決めるのには十分な出来事だったと言えるのです。

筒井定次への絶望

筒井順慶の跡を継いだ筒井定次は、色欲に溺れていたと言われています。島左近は、そんな筒井定次を諫めていました。

しかし、筒井定次もその取り巻きも耳を貸すことはなく、そんな状況に愛想を尽かし、島左近は筒井家を去ったと言われています。

島左近が筒井家を去った大きな理由として伝わっているのはこの2つ。いずれにしても、島左近は筒井定次が主君として仕えるべき人物であるのかということに疑問を感じ、筒井家を去ったことに違いありません。

筒井家との決別後

筒井家を去ったあとの島左近の消息は、はっきりしていないのが実情です。伊勢の「蒲生氏郷」(がもううじさと)に仕えたという資料もありますが、「羽柴秀長」(はしばひでなが)に仕えたという資料も存在。

また、筒井家を去ったあとすぐに「石田三成」に仕えたという資料もあります。このあと、島左近が次に歴史の表舞台に登場するのは、小田原征伐のときです。

石田三成に仕える

破格の条件

石田三成

石田三成

島左近が石田三成の家臣になった時期については諸説あり、はっきりしたことは分かっていません。

一説には、石田三成が水口(現在の滋賀県)4万石の知行をもらっているときに、島左近をその半分にあたる2万石の知行で召し抱えたという話が伝えられています。

また、石田三成が1595年(文禄4年)近江・佐和山(現在の)19万石の大名になったときに、島左近に2万石与えたとの説も存在。石田三成の知行が増えた場合には、それに応じて俸禄を増やすという提案に対し、島左近は「このままでけっこうでございます」と答えました。このやり取りを聞いた周囲は「この主君にしてこの家臣あり」だと感心したと言われています。

石田三成の補佐役

島左近については、武人としてのイメージが強いことは確かです。しかし、石田三成が事務方の奉行を務めていた関係から、島左近も槍働きばかりではなく、奉行の仕事を補佐することが多かったと言われています。

こうした働きについては証明できるだけの史料が残っていませんが、大和の検地奉行や、佐和山城下の整備などの手伝いをしていたという説が有力です。

波乱含みの晩年

豊臣秀吉の死

徳川家康

徳川家康

1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が死去。絶対的な権力者だった天下人の死によって、戦国大名が勢力拡大に向けてうごめくなど、国内は不穏な空気に包まれます。

豊臣秀吉の忘れ形見、「豊臣秀頼」を補佐する「五大老」の筆頭格に指名されていた徳川家康もそのひとり。

徳川家康は、石田三成ら「文治派」と「福島正則」(ふくしままさのり)、「加藤清正」(かとうきよまさ)ら「武断派」の対立に目を付け、武断派の武将に接近するなど、動き始めました。

まず、豊臣秀吉が禁止していた大名間の婚姻を無断で敢行。伊達氏、福島氏らの武将と姻戚関係を結びました。この規則違反に対し、石田三成らが五大老のひとりだった「前田利家」(まえだとしいえ)に報告。これを受けた前田利家の指摘に対し、徳川家康は謝罪したと言われています。豊臣秀吉とは幼馴染で、側近中の側近でもあった前田利家の存在は、徳川家康にとっても、無視できないものでした。

1599年(慶長4年)前田利家が死去すると、徳川家康の天下人への「野心」が表面化し始めます。その象徴とも言えたのが、「五奉行」のひとりである石田三成を政権から「追放」した出来事でした。

石田三成と対立を深めていた武断派の七将が、石田三成の館を襲撃します。石田三成は、徳川家康の館に逃げ込み、仲裁を依頼。徳川家康は、仲裁する条件として石田三成の佐和山への蟄居(ちっきょ:閉門して、屋敷の部屋から出ないこと)を挙げました。この条件を受け入れたことで、石田三成は政権から離れることとなったのです。

徳川家康殺害を進言

島左近は石田三成に対し、複数回に亘って徳川家康殺害を進言したことが伝えられています。武断派七将による襲撃をきっかけとして、石田三成が佐和山に蟄居する際、島左近は、徳川家康を殺害するなら今しかないと進言。しかし、石田三成の同意を得られなかったことで、徳川家康殺害計画は実現しませんでした。

徳川家康殺害が実行に移されたものの、「未遂」に終わったことも。「常山紀談」、「東照宮御実紀」によると、徳川家康が会津征伐に向かう際に、「長束正家」(なつかまさいえ)が城主を務める「水口城」に立ち寄ります。

これを聞きつけた島左近は、夜襲による徳川家康殺害を石田三成に進言。数度の説得の末、石田三成の許可を取り付け、水口城に向かいます。しかし、島左近らが到着したとき、徳川家康の姿はありませんでした。

こうして、徳川家康殺害が遂行されないうちに、石田三成を巡る状況は大きく変化。のちの日本を二分した、天下分け目の「関ヶ原の戦い」へとつながっていくのです。

石田三成挙兵

直江兼続

直江兼続

会津征伐が行なわれるきっかけとなったのは、1通の書状だったと言われています。それは「直江兼続」(なおえかねつぐ)が作成したと言われる「直江状」です。

上杉家に謀反の気配があるという噂が広まる中、徳川家康は上杉景勝に上洛して申し開きをするよう促しましたが、拒否されます。

その後、使者を介して再度上洛を促した徳川家康に対する返信と共に届けられたのがこの書状です。この内容に激怒した徳川家康は、会津征伐を決意しました。

大谷吉継」(おおたによしつぐ)も、徳川家康による会津征伐に参加するため、領国・敦賀(現在の福井県)から軍勢を率いて東国に出発。途中で石田三成のいる佐和山に寄りました。そのとき、石田三成は徳川家康に対する挙兵の意思を大谷吉継に伝えます。

これに対し、大谷吉継はやめるように何度も説得しましたが、石田三成の意思は変わりません。一緒に挙兵して欲しいと依頼された大谷吉継は、「西軍」の総大将を「毛利輝元」(もうりてるもと)にすることを条件に受諾したと言われています。

大谷吉継の承諾を取り付けた石田三成は大坂へ赴き、徳川家康の罪状を記した檄文(内府ちがひの条々)を作成。徳川家康に対して反旗を翻したのです。

関ヶ原前哨戦

小山評定

石田三成が挙兵したとの知らせを聞いた徳川家康は、滞在していた下野国小山(しもつけのくにおやま:現在の栃木県小山市)で軍議を開き、上杉討伐を中止し、西へ引き返して石田三成を討つことに決めました(小山評定)。このとき、上杉の備えとして子「結城秀康」(ゆうきひでやす)を残し、東軍の諸将は「清洲城」で待機しておくように命じます。

徳川家康は、一度江戸に立ち寄り、情勢を見極め、態勢を整えた上で東軍に合流しようと思っていました。徳川家康が最も恐れたのは、石田三成が豊臣秀頼を担ぎ出すのではないかということ。武断派の武将達は、反石田三成で結束していましたが、元々は豊臣恩顧でした。そのため、豊臣秀頼が西軍に付いた場合、武断派武将の離脱によって、東軍が弱体化する恐れもあったのです。

そして、豊臣秀頼が「中立」の立場を取ったことで、東軍(徳川家康)と西軍(石田三成)の対立は、「徳川対豊臣」の構図ではなく、外形上、豊臣政権内における権力闘争になりました。主君である豊臣家に対する逆臣となってしまうことを免れた徳川家康は、西軍との決戦に向けて、本格的に準備を開始します。

東軍、初戦に勝利

岐阜城

岐阜城

徳川家康の命令によって、清洲城で待機していた東軍は、西軍側の「織田秀信」(おだひでのぶ)が城主を務めていた「岐阜城」の攻め落としを決定しました。東軍諸将による攻撃を受けた織田秀信は、「大垣城」と「犬山城」に援軍を要請しましたが、援軍は来ず。その結果、わずか1日で降伏となりました。

大垣城から岐阜城に援軍が来た場合に備えて、「黒田長政」(くろだながまさ)や「藤堂高虎」(とうどうたかとら)らは、「河渡川」付近に進軍を開始。そこには西軍が布陣していたため、すぐに戦闘が始まります。東軍の諸将が迂回して川を渡り、西軍に襲い掛かると、西軍も応戦。混戦となりましたが、数に勝る東軍が徐々に西軍を圧倒し始め、西軍は大垣へと退却しました。

このとき、石田三成は軍議を開いていましたが、河渡川で戦いが始まっていることを知ると、大垣への退却を検討し始めます。島津軍は墨俣(すのまた)にいましたが、石田三成は島津軍を置き去りにして撤退を始めてしまいました。

墨俣にいた島津軍は無事に撤兵することができたため事なきを得ましたが、この行動によって、石田三成と島津軍を率いる島津義弘の間に溝ができてしまったことは事実。これが関ヶ原の戦いにおける島津軍の「不参戦」につながっていったのです。

杭瀬川の戦い(くいせがわのたたかい)

岐阜城が落とされ、河渡川の戦いでも敗退。これでは西軍の士気が上がるはずはありません。

追い討ちをかけるように、東軍の総大将・徳川家康が美濃(現在の岐阜県)に到着。西軍兵に動揺が走りました。兵士達の動揺を見て危機感を抱いた島左近は、大垣城を出陣します。「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)軍の「明石全登」(あかしたけのり)もこれに続きました。

島左近に率いられた部隊は、杭瀬川(くいせがわ)に布陣していた東軍の中村隊を挑発。飛び出してきた中村隊の兵を射殺します。それを見た中村軍は出撃してきましたが、島左近はしばらく応戦したあとわざと退却。伏兵を潜ませていた場所まで誘導します。こうして追撃してきた中村軍の退路を断ち、退却していた兵も反転して中村軍を挟撃。「釣り野伏せ」と呼ばれる戦法を採りました。

島左近による釣り野伏せによって、中村隊が危機に陥っている様子を見た有馬隊は、即座に救援に向かいます。これに島左近と蒲生隊が応戦して激しく交戦。徳川家康は、最初こそ上機嫌でこの戦いを見ていましたが、東軍側の兵士の苦戦する様子に、撤退を決意したのです。

島左近が出陣した目的は、敵兵をせん滅することではなく、西軍の兵の士気を高めること。総大将・徳川家康が合流した東軍を撤退させたことで、目的は達成されたと言えました。

関ヶ原の戦い前夜

天下分け目の戦いを目前にした石田三成の心配は、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)と毛利輝元でした。

小早川秀秋は、不審な進軍をしていて時間を稼いでいるように見受けられ、西軍の総大将である毛利輝元は出陣要請にも動かず、大坂城に留まったまま。毛利輝元の出陣を待ってから東軍を攻めるべきだと主張する武将もいましたが、石田三成は、毛利輝元の出陣は難しい状況であるという感触を持っていました。

また、薩摩の勇・島津義弘は、夜襲をかけた方が良いと意見します。しかし、天下分け目の戦には夜襲は似つかわしくない、という理由で却下。関ヶ原で東軍を迎え撃つことを決め、決戦当日を迎えました。

関ヶ原の戦い

関ヶ原へ進軍開始

9月14日未明、西軍は関ヶ原に向けて進軍を開始します。石田三成軍は、笹尾山に本陣を設け、その200~300m東に島左近と「蒲生頼郷」(がもうよりさと)を配置しました。

小早川秀秋は、関ヶ原が一望でき戦の様子が良く見える松尾山に布陣。不穏な動きを見せる小早川秀秋を見張るかのように、大谷吉継が松尾山の麓に布陣します。

開戦

「松平忠吉」(まつだいらただよし)軍の発砲で合戦が開始。福島隊と宇喜多隊が激突する中、石田三成軍については、ちょっとした戦闘はあったものの、大きな戦闘には発展していません。

そこで、石田三成は島左近と蒲生頼郷に黒田長政隊への突撃を命じます。対する黒田長政隊は、迂回して石田三成軍の側面から鉄砲を乱射。この攻撃を受けた島左近は、ひとまず退却することを余儀なくされました。

西軍、機能せず

島津義弘

島津義弘

石田三成軍の横に布陣していたのは島津軍でした。しかし、島津軍は、ただ時間が経つのを待っているだけという感じで同じ場所で動く気配がありません。

たまりかねた石田三成が使者を送り、馬上から進撃するように伝えますが、島津義弘は、馬上からものを言われたことを無礼だとして、使者を追い返してしまいました。

その後、石田三成は直接、島津義弘に進撃を依頼しましたが、「戦の勝敗はもうついているから勝手にさせてもらう」と、要請を断られます。

島津義弘は、並の武将ではありません。西軍の戦いぶりを見て、東軍に勝つのは難しいと感じていたとも考えられます。加えて、前述したような、石田三成による数々の「不義理」が積み重なっていた経緯もあり、島津義弘は「動かない」という選択をしたのです。

石田三成が頼りにしていた「小西行長」(こにしゆきなが)隊も開始早々に戦線離脱します。懸命に戦っているのは宇喜多隊、大谷隊、石田軍くらい。残りの部隊は、東軍部隊が攻めてくれば応戦する程度だったと言われています。毛利隊、小早川隊という西軍の中で大規模だった部隊は、全く戦闘に参加する気配がありませんでした。

小早川秀秋の裏切り

宇喜多隊や大谷隊の奮闘で、西軍は優勢に戦を進めていました。東軍の総大将・徳川家康は、思わぬ苦戦にしびれを切らし、小早川隊に寝返りの決断を促す射撃をするように命じます。

驚いた小早川秀秋は、寝返ることを決め、大谷軍に突撃を開始。小早川秀秋の裏切りを知った、脇坂、朽木、小川、赤座の各部隊も続き、一斉に大谷隊に襲い掛かりました。大谷隊も必死に応戦しましたが、徐々に押され始め、大谷吉継は自刃しました。

小早川秀秋の裏切りによって、形勢は一気に東軍有利に傾きます。奮闘していた石田三成軍でしたが、東軍の勢いに負け、徐々に押され始めました。島左近は、石田三成を戦場から逃がそうと、敵軍に突撃。最後は銃弾を浴びて死んだと言われています。

島左近が用いた家紋

丸に三つ柏紋(まるにみつかしわもん)

丸に三つ柏紋

丸に三つ柏紋

古代において、柏の葉は神様にお供えをするときの食器代わりとして使われていたと言われています。

現代でも、神社に参拝したとき柏手をしますが、この名前に柏が使われていることから、柏と神様は関係があることが分かるのです。

また、柏の葉は翌年新しい葉が出るまで落ちないという特徴があり、「代が途切れない」という意味でも、家紋に使用されるようになったと言われています。

島左近が残した名言

すでに時を失いぬ

この言葉は、関ヶ原の戦いの前年、徳川家康が石田三成の動向を探ろうと、家臣「柳生宗矩」(やぎゅうむねのり)を遣わしたときに、石田三成の家臣だった島左近との会話中の言葉です。

これは、徳川家康を殺す機会は今まで度々あったはずなのに、石田三成は大義などと言ってその機会を逃し、また、自分の味方を増やすような努力も怠り、大勢は徳川家康に傾いてしまった状況を嘆くと共に、もうなにをするにも遅いという気持ちで発せられた言葉であると言われています。

ただ城下の繁栄に驕って、下々の憂苦を思わず、武具にのみ力を入れて城郭を構築しても、徳と礼儀がなければ甚だ危うい

上に立つ人が今の結果だけを見て満足し、下の人の努力や苦労を考えることなく新しい仕事に取り組んでいたら、下の人が上を信頼することができず、それが仕事をする姿勢にも表れ始め、そのうち問題が起きるという意味の言葉です。

島左近は、石田三成の良さも知っていましたが、悪いところも知っていました。石田三成は仕事こそできますが、人の扱いが下手。人の気持ちを考えて指示を出すことができず、横柄だと受け取られる言動を取ってしまいます。それを戒めている言葉だと言えるのです。

島左近

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