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増田長盛

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「豊臣秀吉」が死の直前、嫡男である「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を託した五奉行と言えば、内政や外交で能力を発揮する文官のイメージが強いと思います。「増田長盛」(ましたながもり)についても、甲冑を身に付けて戦場を駆け回る軍務を担当するのではなく、政務に突出している人物です。 ここでは、「石田三成」と並ぶ存在だった、五奉行のひとりである増田長盛をご紹介します。

豊臣秀吉の下で能力を発揮

五奉行に抜擢されるまで

増田長盛のイラスト

増田長盛

「増田長盛」(ましたながもり)の出生については、不明な部分が多く、詳細はよく分かっていません。

1545年(天文14年)の生まれで、出生地としては、尾張国(現在の愛知県西部)の増田村、あるいは近江国(現在の滋賀県)の益田郷という説が有力です。

父や母についても分かっていませんが、弟に「増田長俊」(ましたながとし)の名前があります。かつては一向宗徒だったとの説も。

増田長盛の名が史料に登場するのは、1573年(元亀4年)、「織田信長」に仕えていた頃の「豊臣秀吉」に仕えるようになってからのことです。増田長盛は28歳の頃、豊臣秀吉に200石(あるいは300石とも)で仕えました。

豊臣秀吉に仕えるのと同時に、増田長盛は織田信長の重臣だった「森可成」(もりよしなり)の娘を正室に迎えたのです。森可成は、織田信長配下の武将で、1570年(元亀元年)に浅井・朝倉連合軍との激戦の末、討ち死にしました。

増田長盛は、森家の当主を継いでいた森可成の嫡男「森長可」(もりながよし)と姻戚の間柄となります。森長可はまだ16歳でしたが、織田信長にすでに重臣のひとりとして扱われていました。父の森可成と同様に槍術に優れ、「鬼武蔵」と敵に畏怖されています。

1577年(天正5年)から、豊臣秀吉は、「毛利元就」(もうりもとなり)が領地とする中国攻めを任されることになりました。増田長盛が活躍し始めるのは、この時期からです。

1581年(天正9年)、豊臣秀吉は鳥取城を攻めました。兵糧攻めを行ない、城主の「吉川経家」(きっかわつねいえ)を切腹に追い込み、開城させます。

このとき、増田長盛は「陣中萬の物商の奉行」に任命され、合戦の重要な役割を果たしました。

豊臣秀吉

豊臣秀吉

翌年の1582年(天正10年)には「本能寺の変」が起こり、豊臣秀吉は、織田信長が切り開いた天下統一への道のりを引き継ごうと奔走します。

増田長盛は、越後国(現在の新潟県)の巨大勢力である「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)との外交交渉を担当しました。

それまで内政や外交を担当する文官としての活躍が目立った増田長盛でしたが、「織田信雄」(おだのぶかつ)と「徳川家康」の連合軍と豊臣秀吉が激突した、1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」では、これまでの文官としての働きだけでなく、兵を率いる能力や武力を伴った武将としての活躍を見せます。

増田長盛は先陣を務め、敵将2人を討ち取る武功を上げた結果、2万石に加増されました。さらに、1585年(天正13年)の紀州攻めにも従軍し、鉄砲で武装した根来衆の敵将を討つ活躍をしたことで、従五位下・右衛門尉の官位を得ます。

1590年(天正18年)の「小田原の役」では、安房国(現在の千葉県房総半島南端)の里見家への申次を行なう交渉役として、「里見義康」(さとみよしやす)の豊臣秀吉への臣従の意志を確認。里見家の領地安堵に努めました。この働きが認められて、近江国の水口6万石を領有し、水口岡山城の城主となります。

増田長盛は、その後も行政面で活躍。豊臣秀吉が天下統一したのちに実施した「太閤検地」では、石田三成や「長束正家」(なつかまさいえ)と共に中心的な役割を担い、豊臣政権の安定化に努めました。工事などの普請でも才能を発揮。京において、伏見城建設の他、三条大橋や五条大橋の改修工事にも着手しています。

戦場での指揮にも非凡な才能を見せた増田長盛は、朝鮮出兵にも参加しました。宇都宮家、里見家、成田家といった関東の大名が結集した軍勢を率いて、朝鮮半島の漢城(現在のソウル)まで進軍しています。石田三成や「大谷吉継」(おおたによしつぐ)らと同じく漢城に駐留し、兵糧などの物資輸送や占領地統治の奉行を務めました。

朝鮮出兵の戦況が膠着し朝鮮半島から撤退したのち、増田長盛は、大和国(現在の奈良県)の郡山城20万石を与えられることになります。それは、豊臣秀吉の異父弟で「大和大納言」と呼ばれた、「豊臣秀長」(とよとみひでなが)の後継者である「豊臣秀保」(とよとみひでやす)が早世したからです。

1595年(文禄4年)は、豊臣家中で身内の粛正があり、豊臣秀吉の後継者の座にあった関白の「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)が、謀反の罪で豊臣秀吉に切腹を命じられる事態もありました。

大名にまでなった増田長盛は、豊臣秀吉の死の直前には、政権中枢部にいて内政を行なう五奉行となります。

関ヶ原の戦いでの立場

徳川家康

徳川家康

豊臣秀吉が亡くなると、徳川家康と石田三成の権力争いが激化。のちの「関ヶ原の戦い」で勝敗に大きくかかわるのが、増田長盛です。

増田長盛は、1596年(慶長元年)に、紀伊国(現在の和歌山県)と和泉国(現在の大阪府南部)の蔵入地(くらいりち:直接支配していた直轄地)の管理も任されており、豊臣政権下で重要な地位にありました。

勢力を強大化する徳川家康に対して、五奉行を退き冷遇されている立場にあった石田三成が挙兵します。臣従しない上杉景勝に徳川家康が謀反の罪を着せ、会津討伐に出陣した1600年(慶長5年)のことです。

増田長盛は、徳川家康の行動を弾劾する書状に署名しているのですが、実際には中立的な態度を保とうとし、徳川家康を打倒する意志をあからさまには見せませんでした。

京の伏見城を攻略したのち、本戦となる関ヶ原の戦いが始まると、増田長盛は出陣を控え、大坂城の西の丸に守備固めを名目にして駐留したままとなりました。そこでは、徳川家康に内応して、石田三成の動向について間者を使って伝えていたとも言われます。

関ヶ原の戦いに石田三成が指揮する西軍が敗れたあと、増田長盛は徳川家康に謝罪しました。しかし、許されずに改易処分となり、高野山に追放となります。一方で、増田長盛と同様に静観を決め込み徳川家康に内通していた「前田玄以」(まえだげんい)は、本領を安堵されました。

1615年(元和元年)、増田長盛の嫡男である「増田盛次」(ましたもりつぐ)は、尾張藩主の「徳川義直」(とくがわよしなお)の下で「大坂冬の陣」で活躍します。ところが、豊臣家が滅亡する直前、徳川義直のもとを離れ、大坂城に入城。 「大坂夏の陣」では、徳川軍と敵対し討ち死にしています。

増田長盛は、この件を徳川家康にとがめられ、71歳で自害しました。

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増田来国次

1657年(明暦3年)、江戸で発生した「明暦の大火」で消失してしまったのが、増田長盛の愛刀とされる「増田来国次」(ますだらいくにつぐ)です。

豊臣秀次が所持していた短刀が、豊臣秀吉の手に渡り、豊臣秀吉が亡くなった際に形見分けとして、増田長盛に贈られました。

長さ9寸7分(36.8㎝)と伝わっており、増田長盛亡きあと、徳川家康が所持したのち、2代将軍の「徳川秀忠」(とくがわひでただ)によって尾張徳川家に与えられています。

その後、再び江戸幕府に献上されましたが、大火によって消失してしまいました。

増田長盛

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土岐頼芸

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