戦国武将一覧

大谷吉継

文字サイズ

「大谷吉継」(おおたによしつぐ)は、病と闘いながら戦国の乱世を生き抜いた武将として知られています。戦場では顔を白い布で覆い、類稀な才能を発揮。「小田原征伐」などで活躍しました。その才能は、豊臣秀吉からも認められたほど。ここでは、ミステリアスな部分も多い武将・大谷吉継についてご紹介します。

大谷吉継とは

病を患いながらも、戦国の乱世を戦い抜いた知将「大谷吉継」(おおたによしつぐ)の生涯は、波乱万丈でした。

異例とも言えるスピードで大出世を果たした一方、最期を迎えた「関ヶ原の戦い」では、盟友「石田三成」との友情に殉じて西軍で参戦。

小早川秀秋」の裏切りによって追い込まれ、自刃しました。

大谷吉継の出生

大谷吉継

大谷吉継

大谷吉継の出生に関しては、諸説入り乱れている状況です。

父親が病気療養のために赴いた豊後(現在の大分市)で大友氏の家臣になっていたときに生まれた息子だという説や、「豊臣秀吉」の正室「高台院」(こうだいいん=おね)の侍女が母親だったという説もあります。

また、大谷吉継が異例とも言える出世を果たしたことから「豊臣秀吉の隠し子」という説も。

しかし、これに関しては都市伝説的な物だという受け取り方が一般的です。

さらに、前述した母と高台院との関係から、大谷吉継の「吉」の字は、豊臣秀吉の「吉」から与えられたのではないかという説もあります。

この説が正しければ、大谷吉継と豊臣秀吉は、全くの無関係ではなく、豊臣秀吉にとっての大谷吉継は、自らの名前の一文字を与えても良いほどの存在となったと言え、異例のスピード出世にも説明が付くのです。

大谷吉継の幼名は「慶松」(けいまつ)。この名前には伝説があります。

なかなか子どもを授からなかった大谷吉継の両親は、夢の中で「神社の松の実を食べよ」という宣託を受け、夢の通りに神社の松の前に落ちていた松の実を食べたことで、子宝に恵まれました。これにちなんで両親は、息子を慶松と名付けたのです。

大谷吉継の年表

戦国の乱世を生き抜いた大谷吉継の、活躍と生涯を簡単にご紹介します。

大谷吉継年表
1559年
(永禄2年)
近江国(現在の滋賀県)に生まれる。
その後、豊臣秀吉の小姓となる。
1577年
(天正5年)
織田信長からの命を受けた豊臣秀吉と共に播磨国攻略に従軍。
1582年
(天正10年)
4月27日に豊臣秀吉、「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)と共に「備中高松城」水攻めに参加。
1585年
(天正13年)
紀州征伐で活躍、同年7月に従五位下刑部少輔。
1586年
(天正14年)
九州征伐において石田三成の配下となり、功績を上げる。
1589年
(天正17年)
敦賀城主となり、越前国敦賀郡に2万石の領地を与えられる。
1590年
(天正18年)
小田原征伐に続いて、奥州仕置に従軍。出羽国の検地を担当。
1592年
(文禄元年)
豊臣秀吉の「朝鮮出兵」において船奉行として活躍。
1600年
(慶長5年)
関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍に与して敗北、自害。

義理の息子は真田幸村(真田信繁)

真田幸村(真田信繁)

真田幸村(真田信繁)

真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)と言えば、2016年(平成28年)の大河ドラマ「真田丸」の主人公としても知られている、人気の高い戦国武将です。

そんな真田幸村(真田信繁)の正室は、大谷吉継の娘「竹林院」(ちくりんいん)。

大谷吉継にとって、真田幸村(真田信繁)は義理の息子でした。

2人を含めた両家の関係は良好だったと言われ、関ヶ原の戦いが行なわれた際、大谷吉継は、真田幸村(真田信繁)の父「真田昌幸」(さなだまさゆき)の正室「山手殿」(やまのてどの)を人質という名目で保護しています。

歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

知将として知られた才覚

大谷吉継は、武器を手に戦場に赴いて自ら戦うこともありましたが、才覚を発揮したのは、兵を動かす「軍師」としての役割でした。

その才覚は、天下人・豊臣秀吉をして「大谷吉継に100万の兵を与え、自由に指揮させてみたいものだ」と言わしめたと伝えられるほど。

これが本当であれば、大谷吉継の知略が非常に高く評価されていたことを窺い知ることのできるエピソードです。

石田三成との友情

大谷吉継の生涯を語る上で、欠かせない人物が石田三成です。大谷吉継と石田三成が深い友情で結ばれていたことは、よく知られています。石田三成は、大谷吉継の生き方に大きな影響を与えたのです。

友情の証

石田三成

石田三成

大谷吉継と石田三成との友情が深まるきっかけになったのは、「大坂城」で催された茶会での出来事だったと言われています。

その席では、お茶が入った茶碗をひとり1口ずつ飲んで、次の人に回すという飲み方をしていました。問題は、この席に大谷吉継がいたこと。

病に侵されていた大谷吉継が口を付けたあと、他の武将は茶碗に口を付けることを嫌がったのです。そして、ほとんどの者が、茶碗に口を付けたふりをして、次に回したと言われています。

しかし、石田三成だけは違いました。皆が嫌がった茶碗を受け取ると、そのままいつもと同じように飲み干しました。大谷吉継が口を付けたあとの茶碗には膿が浮いていたとも言われていますが、石田三成は気に留める様子もなく一飲みすると、おかわりを要求したとも伝えられています。

大谷吉継と石田三成の友情を示すものとして有名な逸話ですが、はっきりとした出所は分かっていません。しかし、関ヶ原の戦い直前において、東軍に合流するはずだった大谷吉継が、石田三成の要請を聞き入れ、一転して西軍に与したことから見ても、2人の間ではこれに近い出来事があったと推測することができるのです。

  • 石田三成のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

  • 歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

  • 歴史上の人物と日本刀にまつわるエピソードをまとめました。


西軍への合流

徳川家康

徳川家康

豊臣秀吉亡きあと、「徳川家康」は豊臣秀頼の補佐役を務めた「五大老」の筆頭格でした。

対する石田三成は、事務方である「五奉行」のひとりとして豊臣政権を支えてきましたが、「福島正則」(ふくしままさのり)、「加藤清正」(かとうきよまさ)ら「武断派」の武将による襲撃を受け、徳川家康に仲介を依頼。

このことがもとで奉行の職を解かれ、領国・佐和山に蟄居となりました。

両者の対立が深まるにつれて、多数派工作は激化。徳川家康は、豊臣恩顧の武断派武将を東軍に引き入れ、勢力拡大を図ります。人を動かす力に関しては、政治力に長けた徳川家康が1枚も2枚も上手でした。

大谷吉継も、当初は徳川家康による「会津征伐」の一員に加わる予定でしたが、その途中、石田三成の居城「佐和山城」に立ち寄ったときに石田三成から徳川家康と対決する覚悟を告げられます。これを聞いた大谷吉継の答えは、「思いとどまるべき」だというもの。両者の間にはそれほど大きな差があったのです。

しかし、石田三成はあきらめません。何度も何度も大谷吉継を説得。無二の親友からの度重なる説得を受けた大谷吉継は、当初の予定を翻し、西軍に付くことを決心しました。

戦国きっての知将・大谷吉継は、厳しい戦いとなることを理解していたはずです。そんな状況で、石田三成側に付いたということは、自らの命を石田三成に捧げたといっても過言ではありません。このような選択をした大谷吉継は、とても情に厚く義理堅い人物だったと言えます。

  • 徳川家康のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

  • 歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

  • 歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

  • 加藤清正のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

石田三成への直言

大谷吉継は、関ヶ原の戦いに臨むにあたって、石田三成に対しこんな言葉を投げかけています。

「お主(石田三成)が檄を飛ばしても、普段の横柄ぶりから、豊臣家安泰を願う者すら内府(徳川家康)の下に走らせる。ここは安芸中納言(毛利輝元[もうりてるもと])か備前宰相(宇喜多秀家[うきたひでいえ])を上に立て、お主は影に徹せよ」 。

今風に言えば、「お前がいくら檄を飛ばしても、普段の態度が横柄なせいで、みな徳川家康のところに行ってしまう。西軍のトップは毛利輝元か宇喜多秀家に任せて、お前は裏方に徹するべきだ」 。

本人を目の前に、このような発言をした場合、相当な信頼関係がなければ、関係が破綻しても不思議ではありません。2人がいかに信頼し合っていたかがよく分かるエピソードです。

大谷吉継の呪い

小早川秀秋

小早川秀秋

関ヶ原の戦いにおいて、石田三成を中心とした西軍は、わずか6時間で徳川家康率いる東軍に敗れてしまいました。東軍が有利であると言われていた戦いではありますが、これほどの短時間で勝敗が決するとは誰も予想していなかったと言えます。

これほどのスピードで石田三成率いる西軍が敗北してしまったのは、小早川秀秋の裏切りがありました。小早川秀秋と戦場で相まみえた武将のひとりが大谷吉継だったのです。

大谷吉継は、小早川秀秋の軍が「戸田勝成」(とだかつしげ)と「平塚為広」(ひらつかためひろ)に押し戻された際に、追撃を仕掛けます。元々、大谷吉継をはじめとする西軍の武将は小早川秀秋の「裏切り」を警戒し、備えていました。

大谷吉継にとっての誤算は、小早川秀秋の裏切りに備えていた4つの部隊も、このタイミングで東軍に寝返ってしまったこと。そして、大谷吉継隊に攻撃を加えてきたのです。この想定外の裏切りによって、大谷吉継は追い込まれてしまいます。

このとき、大谷吉継の部隊は前、横、後ろのすべてを敵に囲まれる形になってしまいました。数々の戦で戦果を上げてきた大谷吉継でしたが、この包囲網を突破することはできず、部隊は壊滅状態となります。

限界を悟った大谷吉継は、自害にいたりました。そのとき大谷吉継は、小早川秀秋の陣に向かって「3年の間に祟りをなさん」という呪詛(じゅそ:のろい)の言葉を残しています。その言葉の通り、小早川秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に原因不明の死を遂げました。

  • 小早川秀秋のエピソードや、関連のある刀剣・日本刀をご紹介します。

  • 歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

敵将が建てた大谷吉継の墓

藤堂高虎

藤堂高虎

大谷吉継の死後、墓を建てたのは東軍の武将「藤堂高虎」(とうどうたかとら)でした。

大谷吉継の側近「湯淺五助」(ゆあさごすけ)が、大谷吉継の首を隠すように埋めていたのですが、この湯淺五助も闘いの最中「藤堂高刑」(とうどうたかのり)に捕らわれてしまいます。

湯淺五助は、大谷吉継の首を埋めた場所を正直に話した上で「供養してほしい」と頼みながら討たれました。これに感銘を受けた敵将の藤堂高刑とその主君・藤堂高虎は、湯淺五助の願いを叶え、大谷吉継の墓を建てたのです。

大谷吉継の首は、本来であれば徳川家康の下に届けられるべき物でしたが、大谷吉継と湯淺五助の死にざまに感銘を受けた藤堂高虎は、首の在処を主君に隠して埋葬しました。

最後まで戦い抜いた大谷吉継と、その首を守り抜いた湯淺五助。そして、その死に様を称えて大谷吉継の首を埋葬した藤堂高虎。戦国の世を生きた男達の心意気を感じるエピソードです。

歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!

大谷吉継を蝕んだ病

大谷吉継と言えば、病に侵されて顔を白い布で覆っている姿を思い描く人も多いのではないでしょうか。大谷吉継の病と、その病にまつわるエピソードを紹介します。

ハンセン病説

大谷吉継と言えば、白い布で顔を覆っている姿がよく描かれています。2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」でも、大谷吉継は白い布で顔を隠した姿で劇中に登場していました。

大谷吉継の病については諸説あり、目の病気だったという説や、そもそも病ではなかったという説なども存在します。その真偽のほどは不明ですが、一般的なのが「ハンセン病」だったという説です。

顔を布で覆っていた理由

ハンセン病は、かつては「らい病」と呼ばれていました。今では治療法が確立されており、感染力が弱い病気として正しい理解が進んでいます。

しかし、大谷吉継が生きていた時代には、ハンセン病(らい病)に関する正しい知識はほとんどありませんでした。また、この時代には、ハンセン病を罹患することは「前世からの因果」という考え方があったのです。

ハンセン病に感染すると、皮膚に赤や白の斑点が現れ、腫れが生じます。決して見た目が良いとは言えない状態になってしまうのです。大谷吉継は、斑点ができたり腫れたりしている顔を隠すために、白い布で顔を覆っていたと考えられます。

また、現代のように原因が究明されておらず、治療法が確立されていなかった時代だったこともあり、身近な人に感染させないようにする配慮もあったとも言われています。

大谷吉継の家紋

大谷吉継の家紋は2種類あります。有名な「向かい蝶紋」と、関ヶ原の戦いで使用していたと言われている「違い鷹の羽紋」です。

向かい蝶紋(むかいちょうもん)

向かい蝶紋

向かい蝶紋

1579年(天正7年)、大谷吉継が従五位下刑部少輔に叙任されたのを機に使用しはじめたと言われています。

2匹の蝶が向かい合っているこの家紋は、それより前に使用していた、違い鷹の羽の家紋から変更した物です。

違い鷹の羽紋(たがいたかのはねもん)

違い鷹の羽紋

違い鷹の羽紋

大谷吉継が向かい蝶の前に使用していた違い鷹の羽紋は、強さの象徴でした。

自身が最期を迎えることになる関ヶ原の戦いでは、向かい蝶ではなく、違い鷹の羽の家紋を掲げて戦っています。

厳しい戦いを覚悟して臨んだ関ヶ原の戦いにおいて、大谷吉継が強さを象徴する家紋を使用したことは、興味深いエピソードです。

大谷吉継続辞世の句

大谷吉継は、関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍で戦いましたが、自害し、その生涯を閉じました。

戦国屈指の知将が残した辞世の句は、「契りあらば六つのちまたに待てしばしおくれ先立つたがひありとも」。

その意味は「もしあの世でも縁があるとするのなら、死後の世界の入り口(三途の川)で待っておいてくれ。遅かれ早かれ、私もそこへ行くだろうから」。

この句は、戦場で相まみえた平塚為広の辞世の句「名のために(君がため) 棄つる命は 惜しからじ 終にとまらぬ浮世と思へば」(主君のためになら、命を捨てることは惜しくない。永遠に生きられる訳でもないのだから)に対しての句です。

短刀 銘 吉光(名物 包丁藤四郎)

大谷吉継の愛刀として知られている刀剣は、複数あります。その中で、現存している1振が名物「包丁藤四郎」です。

身幅の広い姿が包丁に似ていることからこう呼ばれているこの短刀は、関ヶ原の戦いで大谷吉継が自刃した際に、東軍が強奪。徳川家康に献上されたと言われています。徳川家康の死後は、尾張徳川家に形見分けされ、代々受け継がれました。

「藤四郎」とは、作者「粟田口吉光」の通称。粟田口吉光は、豊臣秀吉から「正宗」、「郷義弘」(ごうのよしひろ)と並んで「天下の三名工」と称されました。

包丁藤四郎
包丁藤四郎
吉光
鑑定区分
その他
刃長
26
所蔵・伝来
多賀高忠 →
大谷吉継 →
徳川家康 →
徳川家

日本刀の歴史に名を残した、数々の名工をご紹介します。

合戦の街 関ヶ原合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。

大谷吉継

大谷吉継をSNSでシェアする

「戦国武将一覧」の記事を読む


山内一豊

山内一豊
「山内一豊」(やまうちかずとよ)と言えば、「司馬遼太郎」(しばりょうたろう)の名著「功名が辻」(こうみょうがつじ)の主人公としても知られる戦国武将です。妻の「千代」(ちよ)による内助の功などにより大出世を果たし、やがて土佐国(現在の高知県)202,600石の大名へと出世を遂げました。伝記によれば、山内一豊は口数の少ない穏和な性格で、華々しい武勲もそれほど多くなかった戦国武将でしたが、その反面、「織田信長」や「豊臣秀吉」、「徳川家康」という天下人達から厚い信頼を得ていたのです。 そんな山内一豊の生涯を追いながら、妻と共に果たした立身出世の道のりを辿っていきます。

山内一豊

蒲生氏郷

蒲生氏郷
「織田信長」や「豊臣秀吉」などの天下人に一目置かれながら、40歳の若さで生涯を閉じた「蒲生氏郷」(がもううじさと)。数々の戦場で武功を立てただけでなく、領地の経営や家臣団の統制にも長け、「世に優れたる利発人」と称された戦国武将でした。その一方で、キリシタン大名や「千利休」(せんのりきゅう)の高弟「利休七哲」(りきゅうしちてつ)のひとりとしての顔も持ち、当代きっての文化人としても知られた人物です。「六角氏」(ろっかくし)の重臣一族から「織田家」の家臣、そして、東北一の大大名へとのし上がった蒲生氏郷の生涯をたどり、その人物像に迫っていきます。

蒲生氏郷

最上義光

最上義光
「最上義光」(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県・秋田県)の小さな勢力であった「最上家」を、東北有数の大大名へと押し上げた武将です。父や弟との骨肉の争いに始まり、調略を駆使して領土を拡大しましたが、一方で合戦の際には、勇猛果敢な戦いぶりを見せ、「虎将」とも称されました。そんな最上義光の戦いの軌跡や、逸話から見える人物像に注目。ほぼ一代で、東北の大大名へとのし上がった、その生涯に迫っていきます。

最上義光

結城秀康

結城秀康
「結城秀康」(ゆうきひでやす)は「徳川家康」の子でありながら、数奇な運命を背負った戦国武将です。元服前には「豊臣秀吉」の養子に出されただけでなく、豊臣秀吉が甥の「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)を後継者に定めると、下総国(しもうさのくに:現在の千葉県北部、茨城県南西部)の「結城晴朝」(ゆうきはるとも)の養子となり、豊臣家の中枢から遠ざけられました。天下人の家に生まれながら不遇な目に遭い、それでも道を切り開いた結城秀康にまつわる数々の逸話をご紹介すると共に、その生涯を辿っていきます。

結城秀康

山本勘助

山本勘助
「山本勘助」(やまもとかんすけ)は戦国時代の武将で、「武田信玄」の伝説的軍師として広く知られています。「架空の人物」説が長く定説とされており、実在が確認されてもなお、その実像はいまだ謎に包まれた存在です。

山本勘助

森蘭丸

森蘭丸
「森蘭丸」(もりらんまる)は、「織田信長」の側近として最期まで献身的に仕えた小姓(こしょう:武将などに仕えた世話役)です。ゲームや時代劇、映画には、「美少年」として描かれている有名な人物。織田信長のお気に入りとして多くの逸話が残されている森蘭丸の生涯を、逸話・名言・家紋と共にご紹介します。

森蘭丸

毛利輝元

毛利輝元
「毛利輝元」(もうりてるもと)は、偉大な祖父「毛利元就」(もうりもとなり)を持つ名門武将です。「織田信長」とは敵対したものの、「本能寺の変」後は「豊臣秀吉」と和解し、「豊臣五大老」のひとりとして大活躍しました。 しかし、豊臣秀吉が亡くなったことで、運命の歯車が狂い始めるのです。「関ヶ原の戦い」で西軍の総大将に担がれた、名門・毛利家に育った毛利輝元の一生についてご紹介します。

毛利輝元

毛利元就

毛利元就
「毛利元就」(もうりもとなり)は、安芸国(あきのくに:現在の広島県西部)の国人領主から、中国地方全域を統一した戦国時代の豪傑。幼少期に両親を失い、19歳で兄を失い、さらに甥までをも亡くしたことで、次男にして毛利家の家督を相続します。権謀術に長け、稀代の策略家としても有名な武将です。一代で中国地方統一を成し遂げた、毛利元就の生涯を見ていきましょう。

毛利元就

三好長慶

三好長慶
一時は畿内のほぼ全域を掌握し、「三好政権」と呼ばれる独裁政権を樹立した「三好長慶」(みよしながよし)は、下克上の代名詞とも言える戦国武将です。若くして頭角を現し、室町幕府の管領(かんりょう:将軍を補佐して政治を統括していた役職)を務めていた「細川晴元」(ほそかわはるもと)のもとで勢力を拡大。やがて主家をしのぐ力を付けて反旗を翻すと、近隣諸国を次々と支配していきます。しかし晩年は、家中の権力争いや敵対勢力の反発により優秀な弟達や嫡男を失い、徐々に衰退。三好長慶も失意の中、病没してしまうのです。そんな三好長慶の栄枯盛衰をたどりながら、その人物像を掘り下げていきます。

三好長慶

注目ワード
注目ワード