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織田有楽斎(織田長益)

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「織田有楽斎(織田長益)」(おだうらくさい[おだながます])は、あの「織田信長」の弟という宿命で生まれてきた人物。他人を見る目の確かさで、激動の時代を生き延びました。武家茶道「有楽流」の開祖としても有名。屋敷があった場所は現在も「有楽町」と名前が残るなど、多くの人の心を惹き付ける魅力を持っていたのです。そんな織田有楽斎(織田長益)の生涯をご紹介します。

織田家は子沢山!11番目の子として生まれる

織田有楽斎(織田長益)

織田有楽斎(織田長益)

「織田有楽斎(織田長益)」は、「織田信長」の弟です。

織田信長の父である、「織田信秀」(おだのぶひで)は、織田信長も含めて息子が12人、娘が10人という子沢山でした。

織田信秀にとって、織田信長は次男、織田有楽斎(織田長益)は、11男です。

織田信長の弟とは言え、母は別人。織田信長の母が正室・土田御前だったのに対して、織田有楽斎(織田長益)の母は、側室のひとりということが分かっているのみ。

織田信長とは年が13歳も離れていて、幼少期に関することは分かりません。

しかし、生まれ年は1547年(天文16年)と判明しており、織田信長の妹「お市の方」(母は土田御前)と同年生まれだったことが分かるのです。

歴史上の人物と日本刀にまつわるエピソードをまとめました。

傅役はあの平手政秀!

織田有楽斎(織田長益)の傅役(かしずきやく:お守役)は織田信長と同じく、「平手政秀」(ひらてまさひで)だったのではないかと伝わっています。平手政秀と言えば、織田信長の傅役として有名な人物。織田信長の奇行を嘆き、自分の命をもって諫めた、御家思いの忠臣です。

この平手政秀は、教養や文化にとても長けていました。公家の「山科言継」(やましなときつぐ)という人物が書いた「言継卿記」(ときつぐきょうき)には、京都から尾張に遊びに向かった際に、平手政秀のもてなしを受け、大変感銘したという内容の記載があることからも、それが伺えます。

のちに茶人となる織田有楽斎(織田長益)も、教養・文化にとても長けていたことから、平手政秀からの影響を大きく受けて育ったのではないかと伝えられています。また織田有楽斎(織田長益)は、平手政秀の娘を正妻にしていることからも、関係は深かったのではないかと考えられるのです。

武勇よりも学問に長けていた織田有楽斎(織田長益)

織田信長

織田信長

織田信長は、尾張国(現在の愛知県)を統一して、「今川義元」を討ち果たしたあと、齋藤氏3代目の「齋藤龍興」(さいとうたつおき)が守る「美濃国」(現在の岐阜県)を手に入れようと画策します。

織田信長は美濃攻めに備え、住居を「清洲城」(きよすじょう:現在の愛知県清須市)から、美濃国に近い「小牧山城」(こまきやまじょう:現在の愛知県小牧市)に引っ越しました。

当時、戦のたびに城を引越すなどという概念はなく、この行動からも織田信長が合理的な考え方の持ち主であったことが見えてきます。

1567年(永禄10年)に美濃攻めである「稲葉山城の戦い」(いなばやまじょうのたたかい)が始まりますが、その前哨戦に当たる「森部の戦い」(もりべのたたかい)が、織田有楽斎(織田長益)の初陣です。

この時、織田有楽斎(織田長益)は21歳。残念ながら、何も武功を挙げられなかったと言われています。織田有楽斎(織田長益)の補佐役に付けられた「佐々成政」(さっさなりまさ)が、織田有楽斎(織田長益)を助け回る羽目になり、そのせいで佐々軍が少しも活躍できず、織田信長の機嫌を損ねたという逸話も残されているほどです。

おまけに織田有楽斎(織田長益)は、城へと帰る道中で馬から落ち、骨折したという逸話も。これ以降、織田有楽斎(織田長益)は戦には出陣しても、前線に回されることはなくなりました。

しかしこれは、織田信長による考え。織田信長は、織田有楽斎(織田長益)の学問や文化・教養に深いところを買って、交渉役や文化交流、小姓たちの教育係に使うことに変更したと言われています。合理主義な織田信長であったからこそ、適材適所に役目を与えることができたのです。

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織田家の宿命と天下の形勢をすべて変えた本能寺の変

織田信忠

織田信忠

1572年(元亀3年)、織田信長の長男「織田信忠」(おだのぶただ)が元服。叔父である織田有楽斎(織田長益)は、織田信長の長男・織田信忠の配下に付けられます。

長男・織田信忠の配下として一向一揆のひとつである「石山合戦」や武田家との戦いなど、長男・織田信忠が出陣した戦には、織田有楽斎(織田長益)も共に参戦。

しかし、織田有楽斎(織田長益)が織田信忠の配下に付いてから10年後、1582年(天正10年)、織田信長の家臣である「明智光秀」(あけちみつひで)が謀反を起こし、「本能寺の変」が勃発します。

長男・織田信忠と織田有楽斎(織田長益)は、当時「妙覚寺」(みょうかくじ)にいたのですが、織田信長が明智光秀に襲撃されたという知らせを受け、援軍に向かいます。しかし一足遅く、織田信長自刃の知らせを聞いて、二条城へと陣を変えて、明智軍と勇猛に戦いました。しかし手勢も少なく、気が付けば明智光秀の援軍も辿り着き、形勢不利を知った長男・織田信忠は、自刃してしまうのです。

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豊臣秀吉に付いたり、徳川家康に付いたり

豊臣秀吉

豊臣秀吉

織田信長、織田信忠親子がこの世を去ったあと、織田有楽斎(織田長益)は、しばらく織田信長の次男・織田信雄(おだのぶかつ)の庇護を受けていました。

本能寺の変を知った織田家の家臣、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が明智光秀を討ち、織田家の行く末を決めた「清須会議」(きよすかいぎ)にて、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は織田家の跡取りを、織田信長の長男・織田信忠の嫡男で、わずか3歳の「三法師」(織田秀信)に決定します。

この三法師(織田秀信)の後継人として、織田信長の次男・織田信雄と、3男・織田信孝(おだのぶたか)の2人が付きましたが、そのうち豊臣秀吉は天下を取るべく動き出し、3男・織田信孝を排除しようと考え始めます。

豊臣秀吉は、清須会議の取り決めを反故にして、三法師(織田秀信)の後継人を次男・織田信雄のみにします。このことがきっかけで、次男・織田信雄を担ぐ豊臣秀吉派と、3男・織田信孝を担ぐ織田家の重鎮、柴田勝家(しばたかついえ)派で、争いになるのです。

当然、織田有楽斎(織田長益)は、次男・織田信雄の庇護を受けているのですから、豊臣秀吉派。ついに、1583年(天正11年)豊臣秀吉と柴田勝家との最終決戦、「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)が起きるのです。結果、豊臣秀吉派が勝利し、柴田勝家派が敗北。柴田勝家と再婚していた織田信長・織田有楽斎(織田長益)の妹・お市の方は、柴田勝家と共に自害。さらには3男・織田信孝も戦の責を問われ、切腹させられたのです。

しかし豊臣秀吉は、今度は次男・織田信雄も排除しようと動き出します。そこで、次男・織田信雄と織田有楽斎(織田長益)は、「徳川家康」を頼り同盟を結ぶのです。次男・織田信雄も織田有楽斎(織田長益)も織田家の血筋ですから、御家を乗っ取ろうとする豊臣秀吉に対抗するため、徳川家康と組むのは当然と言えば当然でした。

そしてついに、1584年(天正12年)「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)が勃発。次男・織田信雄と織田有楽斎(織田長益)、そして徳川家康連合軍は、豊臣秀吉と対決します。しかし、なぜか突然、次男・織田信雄と織田有楽斎(織田長益)は、豊臣秀吉と和睦。大義名分を失った徳川家康は、これ以上戦う訳にも行かず、終戦します。

そうして織田有楽斎(織田長益)は、徳川家と豊臣家の間で和睦交渉役をすることに。この結果、次男・織田信雄と織田有楽斎(織田長益)は、またしても豊臣秀吉の配下になりました。この一連の流れの中で、織田有楽斎(織田長益)は豊臣の姓(かばね)まで授かっています。

出家して、自分の立ち位置を確保

豊臣秀吉は天下を取ると、徳川家康を三河国(現在の愛知県東部)から関東へと国替えさせ、都から遠ざけました。

その流れで、次男・織田信雄を三河国へと国替えさせようとしたのですが、織田信雄は美濃国(現在の岐阜県)から離れたくないとごねて、「改易」(かいえき)となっています。改易とは武士に対する処分のことで、身分や領地、給料にあたる家禄(かろく)までも取り上げられるという厳しい処分のことです。

織田有楽斎(織田長益)は自分の身を守るため、次男・織田信雄が改易された1590年(天正18年)に、髪を剃り落とし、見事、豊臣秀吉に取り入ります。その際どのような手を使ったかは残されていませんが、この頃から「有楽斎」と名乗り、豊臣秀吉の「御伽衆」(おとぎしゅう)のひとりとして摂津(現在の大阪府)に2,000石の領地を貰いました。なお、御伽衆とは将軍や大名の側近にいて、知恵を貸したり、話し相手になったりする役目のことです。

のちに豊臣秀吉の側室となり豊臣秀吉の子を2人も産んだ「淀殿」(茶々)は、織田有楽斎(織田長益)の妹・お市の方の娘で、織田有楽斎(織田長益)にとっては姪っ子です。お市の方が柴田勝家と自害したあと、お市の方が産んだ3人の娘達は保護され、織田有楽斎(織田長益)が面倒を見ていたという話も残されています。

織田有楽斎(織田長益)は、この立場を大いに利用したのでしょう。それを裏付けるかのように、淀殿(茶々)が豊臣秀吉の最初の子・鶴松(早世)を産んだときは、織田有楽斎(織田長益)が出産に立ち会ったという逸話まで残されています。

人を見抜く目は確か。徳川家康の味方に

徳川家康

徳川家康

御伽衆として豊臣秀吉に仕えていた織田有楽斎(織田長益)ですが、豊臣秀吉が亡くなったあと、「豊臣五大老」の徳川家康と「前田利家」(まえだとしいえ)の間で言い争いが勃発したときに、徳川家康の屋敷警護に出向いています。

豊臣秀吉亡きあと、豊臣家では「石田三成」を含む五奉行と呼ばれる事務方の家臣と、五大老のひとりである徳川家康との間で、実権争いが始まっていました。

豊臣家として考えるのなら、始めは家臣同士の争いでしたが、徳川家康が徐々に幅を利かせていくことに石田三成は反発し続け、結果として天下分け目の「関ヶ原の戦い」が始まります。

織田有楽斎(織田長益)はこのとき、何故か徳川家康側の東軍に付いています。この戦では、織田有楽斎(織田長益)が首を獲って手柄を立て、大和国(現代の奈良県)に3万2,000石の領地を与えられていますが、この手柄についての逸話があります。

江戸時代初期に書かれた「慶長見聞集」(けいちょうけいもんしゅう)によれば、織田有楽斎(織田長益)はこのとき、吞気に馬でぶらついていたところ、後ろから西軍の「蒲生頼郷」(がもうよりさと)に見付けられてしまいます。

あわや切り付けられそうになった織田有楽斎(織田長益)は、その瞬間、運良く反対側に落馬。そこに家臣達が助けに駆け付け、蒲生頼郷を討ち取ってから織田有楽斎(織田長益)に首を獲らせたという逸話が残されているのです。

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茶人としての織田有楽斎(織田長益)

織田有楽斎(織田長益)がいつの頃から茶にかかわり始めたかは不明ですが、本格的に始めたのは、本能寺の変の前後であるのが通説です。師は堺の豪商で、茶人でもあった「武野紹鴎」(たけのじょうおう)と伝えられています。

一方で「千利休」にも弟子入りしたとされ、「利休十哲」(りきゅうじってつ)のひとりと呼ばれることもあります。

織田信長も千利休の茶を嗜んでいたことから、織田有楽斎(織田長益)も織田信長と共に茶を楽しんだことは間違いないでしょう。

茶室「如庵」

茶室「如庵」

関ヶ原の戦いのときは、徳川家康の味方に付いた織田有楽斎(織田長益)ですが、その後も淀殿(茶々)と豊臣秀吉の息子である「豊臣秀頼」の後継人的立場で豊臣に出入りしつつ、京にある建仁寺(けんにんじ)に付属する小寺院として正伝院(しょうでんいん)を再建。その中に自分の茶室「如庵」(じょあん)を作り、茶や文化を楽しむ人生を過ごしました。

なお如庵とは、織田有楽斎(織田長益)のクリスチャンネーム。織田有楽斎(織田長益)はキリシタンになったと言われています。現在如庵は、愛知県犬山市のホテルに移行され、国宝に指定。公開は一時休止されています。

また、東京・南青山にある「根津美術館」には、織田有楽斎(織田長益)が作った、お茶を入れる際に使う茶杓(ちゃしゃく)が残されていますが、その名はなんと「玉ぶりぶり」。有楽斎の名付けセンスに、何とも言えないユーモアを感じます。

武道や言葉、建築、マナーなど、現代に息づく武士の風習についてご紹介。

大坂夏の陣にはうまいこと大坂城を出た織田有楽斎(織田長益)

豊臣家対徳川家康の対決となった「大坂冬の陣」までは大坂城にいて、争いはいけないと集まった浪人達や家臣達に進言し、和睦に動いた織田有楽斎(織田長益)。しかし、この戦をきっかけに大坂城は堀を埋められ、丸裸になってしまいます。

織田有楽斎(織田長益)は、豊臣家対徳川家康との最終決戦となる「大坂夏の陣」前に、わざわざ徳川家康のもとへ行き、「もう誰も私の言うことは聞いてくれないので…」とお断りとお許しを得た上で、大坂城を離れました。

その後、大坂夏の陣が起き、姪っ子の淀殿(茶々)も大甥になる豊臣秀頼も自刃して、豊臣家は滅亡したのです。ここでも生き残った織田有楽斎(織田長益)は、その後京へと移り住み、茶と趣味に生きることとなったのです。

なお、織田有楽斎(織田長益)は、徳川家康から江戸にも屋敷が用意され、茶人として名を馳せました。諸説ありますが、東京の「有楽町」という地名は有楽斎の屋敷があったことに由来しており、その一帯は現在も有楽町と呼ばれ、賑わいを見せています。

織田有楽斎(織田長益)の家紋

織田木瓜紋(おだもっこうもん)

織田木瓜紋

織田木瓜紋

織田家の象徴とも言って良いこの木瓜紋は、瓜(うり)を輪切りにした形や、鳥の巣をイメージして作られたと伝えられています。

木瓜紋は、五大紋(ごだいもん)のひとつで、現代でも幅広く一般家庭にも使われている家紋です。鳥の巣のイメージから、子孫繁栄の願いが込められていると伝わっています。

織田有楽斎(織田長益)もこの家紋を使用。生き延びるために色々とありましたが、織田有楽斎(織田長益)も織田家の一員というプライドがあったのだと分かるのです。

織田有楽斎(織田長益)の名言

茶道有楽流に伝わる口伝

「相手に窮屈な思いをさせぬこと」、「相手に恥を掛かせないこと」、「相手に満足感を与えること」

織田有楽斎(織田長益)の茶道は、現在も茶道「有楽流」として続いています。織田有楽斎(織田長益)が言ったのかは不明ですが、有楽流に伝わる口伝として、この3つのことが引き継がれているのです。

「客をもてなすことが、有楽の茶」が信念とされていることから、織田有楽斎(織田長益)が接待役としてかなり優秀だったことが分かります。

人生を楽しんだ織田有楽斎(織田長益)

関ヶ原の戦いのあと、3万石の大和領を武功として得ていた織田有楽斎(織田長益)。大坂城から去ったあと、4男の「織田長政」に1万石、5男の「織田尚長」に1万石を分け与え、自分のためには隠居料として1万石分をしっかり確保。茶人としての余生を大いに楽しみ、75歳まで長生きしました。

織田有楽斎(織田長益)は、武力よりも教養を磨いた人物です。しかし、兄・織田信長や織田信長を討った明智光秀、織田家を乗っ取った豊臣秀吉の誰よりも長生きし、明智家、豊臣家の滅亡を見ることができました。実は、これこそが織田有楽斎(織田長益)の使命だったのかもしれません。

短刀 銘 来国光(名物 有楽来国光)

国宝の「短刀 銘 来国光」(名物 有楽来国光)は、織田有楽斎(織田長益)が、大甥である豊臣秀頼から拝領したと伝えられる1振です。

作刀したのは、短刀に傑作が多いと言われる「来国光」。強い地鉄(じがね)で厚く付いた地沸(じにえ)が流麗で美しく、刃文は大丁子乱れに互の目(ぐのめ)が交じり、粒が大きく美しいが盛んに付き、真に華麗。特に、帽子の荒々しく沸崩れた様は、正しく覇気に溢れて重要な見どころとなっています。

また、差表に素剣が彫られているのが特徴。1931年(昭和6年)に旧国宝、1955年(昭和30年)に国宝に指定されている、極上品です。

短刀 銘 来国光(名物 有楽来国光)
短刀 銘 来国光(名物 有楽来国光)
来国光
鑑定区分
国宝
刃長
27.7
所蔵・伝来
豊臣秀頼 →
織田有楽斎 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

  • 江戸時代の代表的な100藩を治世などのエピソードをまじえて解説します。

  • 日本刀の歴史に名を残した、数々の名工をご紹介します。

織田有楽斎(織田長益)

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