うつけ、婆娑羅(ばさら)、傾き者(かぶきもの)。戦国の世には、個性豊かな武将や大名が数多く登場します。「織田信長」しかり、「佐々木道誉」(ささきどうよ)しかり、「前田慶次」(まえだけいじ)しかり。魅力的な武将をたくさん挙げることはできますが、「水野勝成」(みずのかつなり)ほど「型破り」の言葉が似合う人物はなかなかいません。
藩主の息子に生まれながら、腕一本を頼りに諸国を放浪し戦いに明け暮れ、「徳川家康」の側近となっても、なお先頭で戦い続けた武将です。そのどこを切ってもエネルギーに満ちあふれた水野勝成の生涯を追い、数多く残る逸話から、戦国自由人・水野勝成の魅力を探っていきます。
水野勝成
1564年(永禄7年)水野勝成(みずのかつなり)は、水野氏当主「水野忠重」(みずのただしげ)の長男として三河国刈谷(現在の愛知県刈谷市)、もしくは鷲塚(現在の愛知県碧南市)にて誕生しました。
水野氏は、さかのぼれば清和源氏に繋がる家系と称しており、水野勝成は徳川家康の従兄弟にあたります。
1579年(天正7年)の遠江(現在の静岡県西部)の「高天神城」攻めでは、敵将「武田勝頼」(たけだかつより)が撤退したため戦にならず、同年2度目の高天神城攻めが水野勝成の初陣となりました。
織田信長の陪臣(ばいしん:家臣の家臣)だった父親の水野忠重と共に参戦した16歳の水野勝成は、大激戦の中で首級を挙げ、織田信長から感状を与えられています。
織田信長が「本能寺の変」で討たれたとき、京都にいた水野勝成は、かろうじて脱出に成功。そののち徳川家康に仕えます。
1582年(天正10年)の「天正壬午の乱」でも、まだ19歳だった水野勝成が先頭を切って突撃し、多くの首級を挙げる勇猛ぶりを見せました。
快調に飛ばす若い水野勝成は、1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」でも活躍。長久手での合戦で、父親の水野忠重は「丹羽氏次」(にわうじつぐ)と共に「豊臣秀吉」の甥「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)隊への襲撃を果たします。
一緒に参戦していたはずの水野勝成は、ここでも先駆けを行なって一番首を挙げる武功を立てました。しかし、息子のやり方を良く思わなかった水野忠重の怒りを買ってしまうことになります。
厳格な父親とは平素より折り合いの悪かった血気盛んな水野勝成。あるとき、父・水野忠重の逆鱗に触れる事件を起こします。
1584年(天正12年)、「蟹江城」(現在の愛知県海部郡蟹江町)合戦の最中、父親の家臣が水野勝成の素行不良を告げ口したことに怒り、その家臣を斬り殺してしまったのです。激怒した水野忠重は、他家へも仕官ができない事実上の「破門」である「奉公構」(ほうこうがまえ)として、水野勝成を勘当してしまいました。
「勝成を雇った家は、水野家の敵である」と見なされる処分では、徳川家康でさえ水野勝成をかばうことはできません。しばらく徳川家康に匿われたあと、水野勝成は金を貰って逃走、各地を転々としながら京都へ向かいます。
京都では怪しげな者達とも交遊し、時には騒動を起こしました。1585年(天正13年)には、豊臣秀吉陣営に入り込んで紀州雑賀攻めに参加したり、同年の四国攻めでは「仙石秀久」(せんごくひでひさ)のもとで働いたりなど、腕一本を頼りに活躍。
しかし、せっかく豊臣秀吉から700石の知行を授かりながら、それを捨てて逃亡するなど、不可解な行動も見られます。
水野勝成は九州でも転戦し、数々の武功を挙げることに。1587~1589年(天正15~17年)の間に「佐々成政」(さっさなりまさ)、「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)、「小西行長」(こにしゆきなが)、「加藤清正」(かとうきよまさ)、「立花宗茂」(たちばなむねしげ)などの主に仕え、多くの戦いに参戦しています。
立花宗茂のもとから出奔した水野勝成は、再び浪人生活に戻りました。この辺りの動向については、よく分からない部分もあります。
1594年(文禄3年)には、備中(現在の岡山県西部)の「鶴首城」(かくしゅじょう)城主である「三村親成」(みむらちかしげ)の食客(しょっかく:客の待遇で養われている人)となりましたが、宴席で茶坊主に無礼討ちをして再び出奔。その後また復帰し、自分の世話係だった娘との間に長男の「水野勝俊」(みずのかつとし:のちの福山藩2代藩主)をもうけました。
徳川家康
1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が没したことで諸侯の力関係が変わり、混乱する豊臣政権の渦中へ登場した水野勝成は、再び徳川家康に仕えます。その折、徳川家康の手回しによって水野勝成と父・水野忠重の4年ぶりの和解が成立したのです。
ところがその直後、「石田三成」(いしだみつなり)の差し金により(※諸説あり)、「加賀井重望」(かがのいしげもち)によって父・水野忠重が殺されてしまいます。加賀井重望自身は、水野忠重と同じく襲撃された「堀尾吉晴」(ほりおよしはる)に返り討ちにされました。
すでに37歳となっていた水野勝成は、「刈谷城」へ戻って家督を相続し、以降、徳川家康の側近となったのです。
百戦錬磨の水野勝成は、敵に回せば危険極まりない男ですが、味方に付けるならこれほど頼りになる武将はいません。1600年(慶長5年)、東西に分かれて戦った「関ヶ原の戦い」では、当然水野勝成は徳川家康側の東軍に付きます。
前哨戦では「曽根城」(現在の岐阜県大垣市)に威嚇行為を行なう「島津義弘」(しまづよしひろ)を追い払い、関ヶ原の戦いでは「大垣城」(岐阜県大垣市)対策に回って守将「福原長堯」(ふくはらながたか)を降伏・開城させました。その際、父親を殺した加賀井重望の息子(名前は不詳)を見つけ、処刑しています。
その後、徳川家康は、自分の故郷である重要拠点の三河を従兄弟の水野勝成に一任。水野勝成は刈谷城を改修して三河刈谷藩主となったのです。
真田幸村(真田信繁)
1614年(慶長19年)、51歳の水野勝成は「大坂冬の陣」で息子の水野勝俊と共に参戦し、先鋒大将でありながら一番槍を果たしました。
続く「大坂夏の陣」では、水野勝成の馬印を見ただけで大坂方の「大野治房」(おおのはるふさ)軍が撤退するなど、水野勝成の武勇は広く知れ渡っていたのです。
水野軍は、あの「真田幸村(真田信繁)」(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)の軍にも攻め寄せ、「松平忠直」(まつだいらただなお)、「本多忠政」(ほんだただまさ)、「松平忠明」(まつだいらただあきら)らと共に真田隊を壊滅。さらには「明石全登」(あかしぜんとう/てるずみ/たけのり)の部隊を撃退する活躍を見せました。
敵の首97を挙げて大坂城桜門に一番旗を立てた水野勝成と水野軍。官名が「日向守」(ひゅうがのかみ)だった水野勝成は、「鬼日向」と呼ばれ畏怖されたほどです。「名将言行録」という書物では、水野勝成のことを「倫魁不羈」(りんかいふき)つまり、「あまりに凄すぎて、誰にも縛り付けることはできない」と評しています。
大坂冬の陣・夏の陣の論功行賞が行なわれ、水野勝成は1615年(元和元年)、郡山(現在の奈良県大和郡山市)に3万石増の6万石で転封となりました。そして4年後の1619年(元和5年)、「福島正則」(ふくしままさのり)の改易に伴って新たに10万石を与えられ、福山(現在の広島県福山市)へと移っています。例外的に、禁じられていたはずの新築の城を築くことも許されました。
福山で新居の城を持った水野勝成でしたが、歴戦の勇将・水野勝成を幕府が放っておくはずがありません。1638年(寛永15年)、75歳の水野勝成は、幕府からの「島原の乱」鎮圧への参加要請を受け、兵6,000の軍を率いて参戦しました。九州以外から参戦した唯一の大名であることを知れば、いかに彼が頼りにされていたかが分かります。
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島原の乱の翌年、水野勝成はついに家督を嫡子・水野勝俊に譲って隠居。それでも藩政にはかかわりながら、禅修行などを経て仏門に入ることに。俳諧や能楽などの趣味も楽しんだとのこと。
そして、1651年(慶安4年)3月15日に「福山城」内で88歳にて没し、激しい生涯の幕を閉じました。その亡骸は、広島県福山市にある水野家の菩提寺「賢忠寺」に眠っています。
水野勝成は、実に多くの逸話を残しました。ただ年表をたどるだけではなく、彼のユニークな逸話を知れば、人間・水野勝成をより理解できるのです。彼の豪放さ、自由人ぶり、そして名君ぶりを逸話でたどってみましょう。
<逸話その1>
永楽銭
しかも、その数15級。主君・織田信長も驚く働きぶりです。
織田信長から感状に加えて、永楽銭(えいらくせん)の旗印まで貰っているほどですから、かなりの活躍をしたのは間違いありません。
<逸話その2>
1582年(天正10年)の天正壬午の乱で、水野勝成は味方の「鳥居元忠」(とりいもとただ)と抜け駆けについて揉め、「もう命令は受けない!」と鳥居元忠に言い捨てて敵に突撃。その後、多くの首級を携えて帰ってきたという逸話があります。
徳川軍の裏をかいて攻めてきた北条勢10,000に対し、少ない手勢で攻め込んだ剛胆さ。北条勢は大混乱となりました。水野勝成は獲った首級300を道に吊し、それを見た敵方は完全に戦意を喪失してしまいます。このとき水野勝成19歳。恐るべき若武者です。
<逸話その3>
重くても暑くても、武将ならば合戦の折には身の安全のため甲冑を身に付けます。しかし、水野勝成の考え方は違っていました。
1584年の小牧・長久手の戦いでは、「結膜炎の目が痛いから」という理由で兜を着用せずに鉢巻きをしただけで出陣。一番首を取って戻ってきています。
<逸話その4>
浪人中の水野勝成は、虚無僧や姫谷焼の器職人にもなりました。
そもそも水野勝成が父親に勘当されたのは、水野勝成の素行の悪さを父・水野忠重に告げ口されたことで、父の部下を斬り殺したためですが、彼はまったくそのことを学びません。京都では喧嘩が原因で人を殺す事件を起こしたこともあったのです。
腕の立つ水野勝成は、数多の武将から引く手あまたではあったのですが、気分で突然出奔、ささいな原因で人を殺すなど同じ過ちを繰り返しています。
<逸話その5>
浪人中には、自分の身体の垢を丸めて、それを薬だと嘘を吐いて子供に飲ませた、という酷い話も。なぜそのようなことをしたのか、詳細は分かっていません。
水野勝成の型破りな生き方は、年齢を重ねても落ち着くことはありませんでした。人生の後半戦でもその傑出ぶりに衰える様子はなかったのです。
<逸話その6>
1601年(慶長6年)、水野勝成は従五位下に叙任され「日向守」となります。
実は、織田信長を裏切った「明智光秀」の官名だった「日向守」は誰もが避けていたのですが、水野勝成はまったく気にせず喜んで受けました。
<逸話その7>
52歳になっていた水野勝成ですが、まだまだ意気盛ん。大坂冬の陣・夏の陣では、大和(現在の奈良県)方面軍の先鋒大将という軍の最高責任者でありながら先陣に立ち、相変わらず一番乗りを果たしたことで徳川家康に怒られました。
<逸話その8>
宮本武蔵
大坂冬の陣・夏の陣のとき、水野勝成の配下には、あの剣豪「宮本武蔵」(みやもとむさし)がいたのです。
宮本武蔵は、水野勝成の息子・水野勝俊の護衛として働いています。型破り武将と剣豪は、顔を合わせていたのです。
<逸話その9>
1638年(寛永15年)の島原の乱へ参加したときの水野勝成は、なんと75歳。幕府から要請を受け、約6,000人の兵を従え、嫡男・水野勝俊、孫の「水野勝貞」(みずのかつさだ)と共に3世代で参戦しました。
<逸話その10>
88歳で亡くなった水野勝成ですが、87歳のときに鉄砲を離れた的に命中させ、人々を驚かせたことがあります。
87歳と言うと現代のイメージではあまり驚かないかもしれませんが、当時の平均寿命は50歳付近であったことを考えると、驚異の一言です。
関ヶ原の戦いのあと、西軍の敗将・石田三成、小西行長、「安国寺恵瓊」(あんこくじえけい)らが大坂や堺を引き回されたとき、水野勝成は用意しておいた編み笠を被せてやりました。放浪時代に世話になった小西行長の恩を忘れなかった、彼のせめてもの優しさだったのです。
また、水野勝成が福山藩主になってから、当時凋落していた「三村親成」(みむらちかしげ)を家老に迎えています。三村親成は、放浪時代に世話になった人物で、そのことを水野勝成は忘れていませんでした。
ささいなことで人を斬り殺すこともあった水野勝成ですが、藩主として家臣には寛容だったとのことです。
ここからは、水野勝成がかかわった3つの城についてご紹介します。
刈谷城跡
1533年(天文2年)、水野勝成の祖父「水野忠政」(みずのただまさ)によって築城された城です。水野勝成は、この刈谷城を父親から引き継ぎ、刈谷藩が設けられると、1601年(慶長6年)に初代藩主となりました。
のちに水野勝成は郡山城、そして福山城へと移っていきますが、明治維新を迎えるまで水野分家、そして譜代大名達が藩主となって続き、それに伴い刈谷も城下町として発展していきます。
郡山城跡
大和を統一した「筒井順慶」(つついじゅんけい)によって築かれた城が郡山城です。豊臣秀吉の弟である「豊臣秀長」(とよとみひでなが)が筒井家のあとを引き継いで入城したことで、郡山の町が発展しました。
水野勝成が入城したのは1615年(元和元年)で、居城としたのは約4年でしたが、城や城下の再整備などを行なっています。
なお、1873年(明治6年)に取り壊されるまで城は残っており、のちに復元されました。
福山城
福山城は、西国の外様大名に睨みを利かせることを目的として、徳川幕府が徳川家康の従兄弟である水野勝成を配置した城です。
水野勝成が10万石の福山藩主として入封したのは1619年(元和5年)で、城は1622年(元和8年)に完成しました。
天守は、御三家さえ許されることのなかった5重5階地下1階の造りで、背後に山並みが迫る北側壁面には、大砲の攻撃に備えて鉄板が張られていたと言います。近世の城郭としては最後の名城だったのです。
水野勝成は、戦場での豪放さとはまた別の熱意で城下町の建設や城下の経済、産業の振興に尽くします。広い人脈を活かして地元の領主・郷士を登用し、全国初の藩札の発行、上水道網の整備、新田開発や鉱山開発、寺社や宗教の保護にも積極的でした。学問も奨励しており、朱子学・崎門(きもん)学派の三傑「佐藤直方」(さとうなおかた)、「浅見絅斎」(あさみけいさい)、「三宅尚斎」(みやけしょうさい)などが輩出されています。
水野勝成が治めていた時代では、目付や監視役、法度などを発布しなくても藩内は平和で、江戸時代に3,200件以上起きた農民一揆は一度も発生しませんでした。それを知った隣国備前(現在の岡山県南東部)岡山藩主「池田光政」(いけだみつまさ)は、「勝成こそ良将」と評したとのこと。
このように、藩主としての水野勝成は、放浪時代の水野勝成とは別人のような治政を行なっていたのです。
福山城は、1945年(昭和20年)に空襲を受け、国宝に指定されていた天守や御湯殿も焼失してしまいました。現在の福山城はのちに復元された建物です。
刀剣や甲冑を観ることができる城郭を地域別に検索できます。
とにかく暴れ者イメージの強い水野勝成ですが、水野勝成自身が徳川家康の従兄弟であることからも分かるように、水野家は古くからの名家でした。
水野沢瀉
水野家の家紋は種類が多いのですが、いずれも「沢瀉」(おもだか)という花と葉が図案化されています。
起源は古く、沢瀉は奈良時代から文様として使われてきました。水野氏は、清和源氏の流れを汲むと言われており、古い起源の家紋であるのも頷けます。
水野家の家紋としてよく知られるのは、「水野沢瀉」(みずのおもだか)です。真ん中に立つ沢瀉の葉の左右に、背後から覗くように花が立ち、3本の茎の根元にうっすらと波打つ水が表現されています。
水野家菩提寺などに使用されている家紋は「抱き沢瀉」(だきおもだか)と呼ばれ、中心の花を両側から葉が抱きかかえるような意匠です。
徳川家康が水野勝成の従兄弟となるのですが、「徳川秀忠」の側近として活躍した「水野忠元」(みずのただもと)も従兄弟にあたります。この水野忠元の末裔が、のちに天保の改革を行なったことで知られる江戸時代後期の老中「水野忠邦」(みずのただくに)で、その家紋も沢瀉紋です。
「すべての士に、身分の貴い、賤しいはない。主君となり、従者となって、互いに頼み合ってこそ、世は立つ習いである。だから、大事のときは身を捨てて忠義をなすのだ。汝らは我をば親と思われよ。我は汝らを子と思わん」
父のもとから飛び出し、身ひとつで諸国を放浪していたときには、荒れ寺の片隅で夜を明かし、野山を歩き暮らし、人から謗られたこともあったと伝えられています。それらの経験から世の情けを知った水野勝成。戦に明け暮れる怒濤の時代にあっても、平和な藩政のもとでも、主君と家臣が親子のように支え合って生きることの大切さを説いた言葉です。
自らの苦労を通して培った志は、生涯ぶれることのない水野勝成の姿勢となり、それが彼の領内における治政にも表れました。
水野勝成の愛刀と言えば、短刀の名品で国宝にも指定されている「名物 日向正宗」(めいぶつひゅうがまさむね)です。
水野勝成が1600年(慶長5年)に大垣城を攻めた際、降伏した敵将の「福原長堯」(ふくはらながたか)から奪いました。これは石田三成から福原長堯が拝領していた短刀です。のちに水野勝成の官名である日向守から取って日向正宗と名付けられました。
制作者の正宗は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に相模国(現在の神奈川県)で活躍した刀工です。身幅の広い短刀で、大乱れ(おおみだれ)と呼ばれる華麗な刃文が特徴。
武将の誰もが憧れた、数ある刀剣の中でも最高傑作だと言われるこの名刀は、現在「三井記念美術館」の所蔵となっています。