「刀装具」とは、「日本刀」の外装のことで、元々は刀を守る役割の保護具でした。しかし、時代を経るにしたがい、歴史に名を残す将軍や戦国武将をはじめ、武士階級以外の者もそれぞれの嗜好に合わせた刀装具をあつらえるなどしたため、見た目を意識した物へと変化していったのです。
古くから日本刀は、戦の道具であると共に、忠孝・礼儀・忍耐など武士としての精神を象徴する存在でした。そのため、武士は刀に対して並々ならぬ熱い思い入れを持ち、携帯性や扱いやすさといった「機能性」のみならず、佇まいの美しさや個性を感じさせる「芸術性」をかね備えた日本刀を求めるようになったのです。
ここでは、様々な刀装具とその役割についてご説明します。
刀装具の部位と名称
鍔
「鍔」は、日本刀を持つ部分である「柄」(つか)と、刀身の間に位置する盤状の金具です。
相手の刀身から自身の持ち手を守りつつ、相手を剣先で突いた際に手が滑り、自身の刃で手を負傷することを防ぐ役割があります。刀身に装着するために、鍔の内側に銅片などを埋め込むことで、刀身の太さと鍔の穴の寸法を調整し、固定。
「笄」(こうがい)や「小柄」(こづか)を出し入れするための「櫃孔」(ひつあな)が設けられている鍔もあります。
縁・頭
刀を持つ部分である柄のうち、刀身に近い側が「縁」、反対の先端側が「頭」です。
金属や水牛の角などが素材として用いられ、日本刀の外装を美しく見せるうえで重要な刀装具と言えます。
目貫
刀身が柄から抜けないように、刀身の根元で柄に隠れる部分の「茎」(なかご)と柄を連結させるために使う釘そのものや、釘を覆う金具が「目貫」です。
実用面では、両手で柄を握り構えた際に、左右の手のひらにあたって滑り止めになるよう互い違いに装着されている点が特徴ですが、時代と共に、実用的というよりは装飾的な意味合いが強くなりました。
笄
髪を整える道具で、武士が守刀(まもりがたな)に差し込んで携帯していたのが笄です。
両端が鋭利で、どちらからも髪に抜き差しできる物や、一方に耳かきが付いている形状の物があります。
小柄
木を削るための刃物、あるいは緊急時の武器としても用いられていました。
なお、目貫、笄、及び小柄を同一作者・同一意匠で揃えた物を「三所物」(みところもの)と呼び、数ある刀装具の中でも、この3つは格上に位置付けられています。
柄
日本刀を手で握る部分です。刀身の根元である茎を木で囲い、その上を鮫皮などで覆って作られています。
鮫皮以外にも金や銅の薄板、革や布を着せて漆を施した物がありました。
鞘
刃が傷付かないように刀身を守る筒状の刀装具であると同時に、刀身を外部にさらし周囲に危害が加わることを防ぐ役割もあります。
素材としては、朴の木(ほおのき)が一般的ですが、時代によっては杉や檜なども用いられていました。
下緒
鞘に取り付ける紐のことです。武士などが着ている帯に固定する、あるいは戦闘時のたすきとして使用するなど、役割には諸説あります。
絹や綿などが素材に用いられることが多く、装飾的な意味合いもあるため、色柄の種類が豊富です。
このように、刀装具には武士の美意識や嗜好が強く反映されており、数ある武士の装備品の中でも特別に扱われてきた歴史があります。
ひとくちに刀装具と言っても、様々な観点が存在。
16世紀末、イタリア人の司祭「アレッサンドロ・ヴァリニャーノ」は、訪日した際に当時の武士が1振の日本刀に金貨数千枚をつぎ込んでいることに驚き、イエズス会本部への報告書に、武士の刀装具に対する美意識とその驚きを記しました。
その意見に対して、戦国大名「大友宗麟」(おおともそうりん)は、「ヨーロッパの人々のように戦において全く役に立たない宝石に大金を投じることに比べ、自らが実用する武器に多額のお金を支出する方が大変意義がある」と述べたとされています。
大友宗麟が説いた日本刀への強い思い入れ。それは、戦国武将それぞれの個性として、柄や鞘、鍔などの刀装具に表れています。
江戸時代初期にまとめられた武将の逸話集「常山紀談」(じょうざんきだん)には、「豊臣秀吉」が広間に置かれた刀を見て、その持ち主を当てたと記されており、この逸話からも日本刀やその刀装具への強い思い入れを見て取ることができるのです。
美麗を好んだとされる「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)は、日本刀に黄金を散りばめました。
「前田利家」(まえだとしいえ)は、初心を表す革巻の柄を使用。他にはない個性を求めた「毛利輝元」(もうりてるもと)は、鞘に金箔を貼り、その上に黒漆で龍の絵を描いた刀装具の日本刀を所有したなど、戦国武将それぞれの趣味嗜好を日本刀や刀装具から読み取ることができます。
また、「徳川家康」は質実な刀装具を好んだと言われていますが、愛刀「宗三左文字」(そうざさもんじ)や「菖蒲正宗」(しょうぶまさむね)の替鞘(かえさや)を複数保有。それらを常時、腰に帯びていたと伝えられていることから、刀装具の重要性を認識していたと考えられます。
こうした派手な刀装具を好む風潮は、徳川幕府の成立により一変。幕府から極端に長い刀や大きな鍔、朱塗や黄塗の鞘を所持することを禁止する法令が出されるなど、刀装具に対する厳しい制約が設けられました。
こうした世の流れにより、地域や趣味嗜好によって大きく異なっていた刀装具は徐々に個性を失い、画一化が進むこととなります。
鞘や柄糸(つかいと)、鍔など人目につく刀装具で個性を発揮するのが難しくなったことは、逆に武士の美意識を一層洗練させる要因となりました。武士達は目貫や小柄、笄など日本刀の細部に施された刀装具に着目し、自然風景や和歌、謡曲(ようきょく)、狂言などの伝統芸能から得た教養を、模様として刀装具にあしらい、表現したのです。
このように、時代の変化に合わせて新たな要素を取り入れながら、刀装具の新たな意匠を創り出していきました。
姓名や号、花押など作者を特定できる物を銘として入れます。名誉として賜わった受領名(○○守、○○介など)や僧位を入れるのに加えて、作者の居住地や年齢、制作年、注文主などを入れることもあり、史料としても価値が高いです。
大宝元年(701年)に制定された「大宝律令」は、同2年から施行されていますが、この大宝律令の中の「栄繕令」(ようぜんりょう)と「関市令」(げんしりょう)には、「年月及ビ工匠ノ姓名ヲ鐫題セシム」と記載があります。即ち、歴史的には、これ以降に銘入れが義務付けられたということ。
ただ、現存する日本刀において刀工銘が入れられている最も古い現存作は、平安時代末期の物であることから、日本刀や刀装具において銘入れが普及するのには時間がかかったということが分かります。
刀装具の作りには流派があり、鍔など特に技法が凝られている物については、流派によってその特徴が異なるのです。ここでは、著名な流派をご紹介します。
正阿弥
江戸時代以前までの初期の作品を「古正阿弥」(こしょうあみ)と呼びます。
この「正阿弥」の技法をもとに、各地で流派が起こりました。
後藤家
後藤家は、戦国時代には「織田信長」、豊臣秀吉、徳川家康にも仕えたとされています。
平田派
平田彦三は、「細川忠興」(ほそかわただおき:戦国時代~江戸時代初期の大名)と共に、肥後国(熊本県)に移住したとされており、細川忠興の三男が熊本藩主となったときから、「平田派」はその御用工として長く活躍しました。
奈良派
その後、三代目の利治(としはる)になって初めて鍔や小柄などの制作に従事するようになりました。
「奈良派」は塗師から発展したため、人物・花鳥・動物など多様な図柄を取り入れた作品を多く残しています。