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島津義弘

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「島津義弘」(しまづよしひろ)は、武勇において名を轟かせた武将です。
1572年(元亀3年)の「木原崎の戦い」では、「釣り野伏せ戦法」で3,000にも及ぶ敵の大軍をわずか300の兵で打ち破り、1592年(文禄元年)の朝鮮出兵では、敵から「鬼石曼子」(グイシーマンズ)と恐れられるほど勇敢に戦いました。また、「関ヶ原の戦い」での撤退の際、正面突破を決行した戦いぶりは、のちに「島津の退き口」として語り継がれています。
そんな戦国大名として活躍していた島津義弘の戦歴や人物像だけでなく、島津義弘が残した名言や家紋、愛用していた刀について解説します。

島津義弘、九州統一を目指す

島津義弘の初陣

島津義弘のイラスト

島津義弘

「島津義弘」(しまづよしひろ)は、1535年(天文4年)、「島津貴久」(しまづたかひさ)の次男として生まれました。

1554年(天文23年)、大隅国西部(現在の鹿児島県霧島市西部)の「祁答院良重」(けどういんよししげ)、「入来院重嗣」(いりきいんしげつぐ)、「蒲生範清」(かもうのりきよ)、「菱刈重豊」(ひしかりしげとよ)の連合軍と「岩剣城」(いわつるぎじょう)で戦い、初陣を飾ります。

その功績によって岩剣城主を任されました。

3年後の1557年(弘治3年)には、蒲生氏との戦いで初めて敵の首級を上げましたが、島津義弘も5本の矢を浴びて重傷を負います。

1566年(永禄9年)、父・島津貴久が隠居。兄「島津義久」(しまづよしひさ)が当主になりました。

これ以降、島津義久が領国統治を行ない、合戦には島津義弘が大将として出陣するという役割分担がなされ、島津義弘は多くの武功を挙げたのです。

釣り野伏せ戦法

1572年(元亀3年)、「伊東義祐」(いとうよしすけ)が3,000の大軍を率いて攻めてきました。いわゆる「木原崎の戦い」です。

敵方の攻撃に対して、島津義弘は、わずか300の兵でこれを打ち破りました。このとき採った戦法が「釣り野伏せ」です。

釣り野伏せとは、隊の配置を左右と真ん中にし、左右の隊はあらかじめ隠れておきます。真ん中の隊は敵の正面に激突させ、押されているふりをして退却し、追撃してきた敵を隠れていた左右の隊で挟み撃ちにする戦法です。真ん中の隊も攻撃に転じれば、左右、正面の3方向から攻撃できます。

この戦法は、少数で大軍を殲滅させるのに有効でした。島津軍は、釣り野伏せ戦法を効果的に使いこなすことで、数の上では不利な戦を何度も勝利することになります。

耳川の戦い

大友宗麟

大友宗麟

1577年(天正5年)、島津氏は伊東義祐を日向(現在の宮崎県)から追放。これに危機を感じた「大友宗麟」(おおともそうりん)は、大軍を率いて日向侵攻を開始します。

これに対し、島津軍は耳川以南の伊東家勢力を掃討し、大友軍との決戦に備えました。

1578年(天正6年)、耳川での戦いが開戦。耳川の北に布陣している大友軍が南下し、島津軍の高城を包囲します。

島津軍が大友軍を撃破するために採った作戦は、陽動部隊と3つの伏兵に分けて迎撃することでした。

具体的には、まず陽動部隊が大友軍に攻撃し埋伏地点までおびき出し、伏兵部隊で3方向から大友軍を攻撃したのです。この作戦が的中し、ダメージを負った大友軍は退却しました。

この退却によって、大友軍内は和議派と交戦派に二分されます。交戦派が和議派を押し切ったことで、両軍は再び激突。島津軍は、また伏兵を忍ばせ一斉に大友軍に攻撃する戦法を採りました。再び被害に遭った大友軍は、耳川方面に敗走。溺死する者も多数出たと言われています。

耳川の戦いの影響

大友軍は、耳川の戦いにおいて、多くの有力家臣が討ち取られたことに加え、生き残った家臣や国人の離反が相次ぎ衰退していきました。

また当時、毛利家に身を寄せていた「足利義昭」(あしかがよしあき)は、毛利氏が上洛しないのは大友氏の存在が足かせとなっていると推察。大友氏の力を抑えるために、九州の大名に書状を送ります。

この書状によって、家臣だった秋月氏や龍造寺氏が謀反を起こしただけではなく、大友氏は、書状を受け取った島津氏や長曾我部氏ら、有力大名とも対立。

その結果、島津氏は九州南部の支配をより強固なものとし、九州統一に向けて、周辺国に侵攻していきました。

沖田畷の戦い

1584年(天正12年)、島津氏は肥後の平定に取り掛かります。当時、肥後北部は龍造寺氏の勢力圏。龍造寺氏の支援を受けていた「有馬晴信」(ありまはるのぶ)は、島津義久と通じ龍造寺氏攻めを画策しましたが、これを相手側に知られてしまいました。

有馬晴信の裏切りを知った「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)は、島原北部に侵攻。この動きに対し有馬晴信は、島津氏に援軍を要請します。これに対して島津義久は、有馬晴信に援軍を出すことに決定。

しかし、大軍を供出した場合、その隙を突いて大友氏が南下してくる不安も払拭できません。そこで、島津義久は3,000人だけ援軍を送りました。

龍造寺軍内では、島津氏に対する警戒感から長期戦に持ち込んで、島津氏の援軍が撤退するのを待って、有馬氏を攻め滅ぼせば良いと進言する家臣もいましたが、龍造寺軍は島津・有馬連合軍と比べ圧倒的大軍であったため、龍造寺隆信はそのような声を気にとめませんでした。

島津義弘の命を受け、援軍として送り込まれた「島津家久」(しまづいえひさ)は、決戦の地を湿地帯である沖田畷(おきたなわて:現在の長崎県島原市)に選定。兵力に勝る龍造寺軍をおびき出し、殲滅(せんめつ:残らず滅ぼすこと)させる作戦を採ることに決めました。

島津軍は、龍造寺軍が攻めてくると、おびき寄せるため応戦することなく退却。それを追撃してきた龍造寺軍に伏兵が鉄砲や弓を打ち込む奇襲攻撃で、龍造寺軍にダメージを与えました。龍造寺軍は、前線が退却しているにもかかわらず、後方に控えていた部隊が前進。これにより、身動きが取れなくなるなど、大混乱に陥ります。この戦いで龍造寺隆信は討ち取られ、沖田畷の戦いは、島津・有馬連合軍の大勝利となりました。

沖田畷の戦いの勝利によって、島津氏の勢力は北九州まで拡大。九州には島津氏に対抗できる勢力はなく、九州統一目前という状況でした。

豊臣秀吉による九州征伐

九州停戦令を無視

豊臣秀吉

豊臣秀吉

沖田畷の戦いに勝利した島津氏にとって、九州統一に向けた障害になりそうな存在は、大友氏だけとなりました。もっとも、耳川の戦い以降、力を落としていた大友氏には単独で島津氏と対抗できる軍事力はありません。

そこで、大友宗麟は、「豊臣秀吉」に助けを求めます。豊臣秀吉は、大友宗麟の頼みを聞き「九州停戦令」を発令。島津氏に対して、大友領への侵攻を止めるように命じました。

島津氏は、豊臣秀吉へ「鎌田政近」(かまたまさちか)を遣わし、耳川の戦いは、大友氏が攻撃を仕掛けてきたのに防戦しただけという旨の弁明をさせます。対する大友氏も同様のことを豊臣秀吉に主張。両者の言い分は平行線をたどりました。

豊臣秀吉は、島津氏に対して占領した領地を大友氏に返還するように命令しました(九州国分案)。この分国案は、島津氏には薩摩・大隅に加え日向半国・肥後半国・豊前半国を安堵するもの。

しかし、島津氏はこれを拒否し、大友領侵攻を再開します。島津氏からすれば、九州統一を目前にした段階で、占領した領地を返すことは到底納得できるものではありませんでした。

戸次川の戦いに勝利

島津氏が命令を無視し、九州各地に侵攻していることを受け、豊臣秀吉はまず、毛利軍と「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)、「仙石秀久」(せんごくひでひさ)、「十河存保」(そごうまさやす)ら四国の大名に対して九州渡航を命じます。

1586年(天正14年)12月、島津氏は豊後に侵入。大友氏の居城「鶴岡城」を攻撃しました。仙石秀久は、これを救援しようと戸次川(へつぎがわ)を渡り、攻撃することを主張しましたが、長宗我部元親が反対。仙石秀久は、長宗我部元親の制止を振り切って戸次川を渡りました。しかし、川を渡りきるのを隠れて待っていた島津軍の急襲を受け、大敗北を喫します。

この戦いで、四国大名による連合軍は2,000人以上の死者を出し、「長曾我部信親」(ちょうそかべのぶちか)、十河存保などの有力武将が討ち死にしました。

根白坂の戦いに敗北

1587年(天正15年)豊臣秀吉軍は、20万以上の大軍で九州に上陸します。日向方面軍は弟「豊臣秀長」(とよとみひでなが)が、肥後方面軍は豊臣秀吉が自ら率いました。

島津氏は、豊臣秀吉軍による2方向からの侵攻作戦に気付き、薩摩・大隅・日向の守りを固める方針を採りました。これに対し、日向方面軍は、日向の要塞・高城を包囲。兵糧攻めを行ないます。さらに薩摩からの島津軍の進攻に備え、根白坂(ねじろざか:現在の宮崎県児湯郡[こゆぐん])に砦を築きました。

数日遅れで、豊臣秀吉率いる肥後方面軍も、薩摩に向けて南下。島津義久は、日向方面軍に備えるために軍勢の大半を日向方面に集結させていたため、軍勢を出す余裕はありませんでした。

島津義久は、この状況を打破すべく日向方面軍に決戦を挑むことに決め、根白坂を夜襲。しかし、根白坂には要塞化した砦が造られており、攻め落とすことができません。このとき、島津義弘は自ら前線に赴いて戦うことで、島津軍の兵を鼓舞したと言われています。

島津軍が根白坂の砦を攻め落とせず、こう着状態となっているところへ、豊臣秀長本隊が救援にきました。圧倒的な兵力差の前に島津軍は敗北し、島津義久は降伏を決断。島津義久が降伏したあとも、島津義弘は降伏することに反対の立場を取っていましたが、島津義久の説得によって子「島津久保」(しまづひさやす)を人質に出すという条件で降伏を受け入れたのです。

島津義久は、剃髪して名を「龍伯」(りゅうはく)と改め出家。豊臣秀吉を訪ねて降伏を伝えます。その結果、島津氏は薩摩・大隅の2国と日向の諸県郡が安堵されました。

朝鮮出兵

藤堂高虎

藤堂高虎

島津氏は、1592年(天正20年)からの「文禄の役」において、4番隊所属で10,000の軍役を課せられましたが、軍役動員がスムーズにいかず、出陣が遅れてしまいます。

文禄の役では目立った戦果を上げることはできませんでしたが、「慶長の役」では「藤堂高虎」(とうどうたかとら)と連携して朝鮮水軍の敵将を討ち取るなど、結果を残しました。

1598年(慶長3年)の「泗川の戦い」では、朝鮮の大軍を7,000人で打ち破り30,000以上の敵兵を討ち取ります。この大勝利は島津家にとって大きな自信となりました。

朝鮮からの撤退が決まったあとの、最後の海戦となった「露梁海戦」(ろりょうかいせん)では、孤立していた小西行長を救出するために出撃。

明・朝鮮水軍の待ち伏せで後退せざるを得ないなど、苦戦を強いられましたが、小西行長の救出に成功します。こうした活躍に、朝鮮軍・明軍は島津義弘を「鬼石曼子」(グイシーマンズ)と呼び、恐れていました。その働きは国内でも認められ、島津氏は5,000石の加増を受けます。

国内外にその強さを示し、諸大名からも一目置かれるようになった島津氏でしたが、領国内には問題を抱えていました。朝鮮への長期に亘る出兵の反動で、領国・薩摩の国力は低下。帰国後は国の建て直しに専念することを余儀なくされたのです。

また、朝鮮出兵の最中の1593年(文禄2年)、朝鮮の巨済島で島津義弘の子・島津久保が病死。帰国後、島津義弘は剃髪して「惟新斎」(いしんさい)と名乗りました。

関ヶ原の戦い

関ヶ原前哨戦

1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が死去。天下人の死によって、日本国内には不穏な空気が漂い始めます。

時を同じくして、島津氏でも内部分裂が発生していました。島津義弘の子「島津忠恒」(しまづただつね)が当主・島津義久に仕えていた家老を殺害。これに乗じて反乱を起こす家臣も現れます。反豊臣の島津義久と、親豊臣の島津義弘の間で島津家は分裂状態となったのです。

石田三成と徳川家康

石田三成と徳川家康

その頃、大坂では「徳川家康」と「石田三成」の間の確執が表面化。これがのちの「関ヶ原の戦い」につながっていきます。

島津氏の軍事面を担っていた島津義弘は、参戦のための準備を進めていましたが、島津義弘には薩摩にいる島津軍を動かす権限がなく、大坂にいた1,000人ほどの兵隊で出撃するしかありませんでした。

島津義弘は当初、東軍に加勢する予定だったと言われています。徳川家康から「伏見城」にいる「鳥居元忠」(とりいもとただ)への援軍要請を受け、兵を率いて行きましたが、鳥居元忠は聞いていないとして入城を拒否。

そこで、島津義弘は石田三成から再三の要請をされていたこともあり、西軍への参加を決めたのです。

関ヶ原の戦い決戦前夜

黒田長政

黒田長政

天下分け目の戦いとなった関ヶ原の戦いは、10万クラスの大軍勢が激突した戦いでした。

島津義弘が率いた1,000程度の軍勢は、小さな存在。そのため、西軍の石田三成などの武将は、島津軍を軽視しているような態度を取ることがあったと言われています。

軍議において島津義弘が提案した奇襲や、夜襲を行なうべきであるという意見にも耳を傾けてもらえません。こうした出来事によって、島津義弘の心の中のモヤモヤは大きくなっていきました。

関ヶ原の戦い直前、島津義弘の下に、東軍の「黒田長政」(くろだながまさ)から調略の書状が届きます。前述した西軍内における扱いもあり、島津義弘の胸中には、東軍への寝返りなど様々な思いが交錯。態度を決めかねているうちに、関ヶ原の戦い当日を迎えたのです。

関ヶ原の戦い当日

関ヶ原の戦い当日。島津義弘は、西軍の一員として陣は敷きましたが、軍議における自身の扱いのこともあり、積極的に戦闘に参加する気はありませんでした。当日、戦場において石田三成からの援軍要請を受けましたが、使者が馬から下りなかったことが無礼だとして追い返しています。

開戦直後、戦を優勢に進めたのは西軍でした。しかし、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)の裏切りをきっかけに、これまで戦局を見守っていた西軍の武将が次々と東軍に寝返ります。これにより形勢は、一気に東軍へと傾きました。

西軍の敗色が濃厚となると、それまで奮闘していた「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)、石田三成、小西行長隊なども敗走を始め、西軍の一員として布陣していた島津軍は、敵に囲まれ、退路がなくなってしまいます。ここから、島津義弘の伝説的な戦いが始まりました。

島津の退き口

島津義弘は、一時は切腹も考えましたが、家臣の説得で考え直し、正面突破での撤退を決意します。このときに島津義弘が言ったとされている言葉が、「たとえ討たれると言えども、敵に向かって死ぬべし」です。

島津隊は、まず東軍の前衛部隊である福島隊を突破。続いて「井伊直政」(いいなおまさ)部隊を突破し、徳川家康本隊に迫ったところで方向を変え、伊勢街道を南下しました。

このとき、島津隊が採ったのが、何人かが留まって敵を止め、それが全滅するとまた何人かが留まって敵を止める、という捨て奸戦法を採用。この退却戦は「島津の退き口」として後世に語り継がれることになるのです。

関ヶ原後の島津家

島津家の言い分

島津氏は、徳川家康軍の侵攻に備えて国境の防御を固める一方、和平交渉も進めていました。

その仲介役を、関ヶ原から退却するときに重傷を負わせてしまった東軍の井伊直政や、「福島正則」(ふくしままさのり)などに依頼。改易だけは免れること、西軍への参加は、島津義弘の独断でやったことであり、島津氏には関係ないと主張しました。

本領安堵

関ヶ原の戦い後の島津氏は、軍備を増強しつつ上洛を拒み続けました。こうした島津氏の態度に対する徳川家康の決断は、九州の大名による島津討伐。

しかし、島津本隊は関ヶ原の戦いには参加しておらず、無傷のため、戦が始まった場合激しい戦闘になることが予想されました。その結果、両軍とも動くことができず、膠着状態が続きます。こうした状態が長引けば、徳川家康に不満を持っている大名が結集しかねないという恐れもありました。

我慢比べのような状況の中、徳川家康が選んだのは話し合いによる決着。徳川家康は、まず島津討伐部隊を撤退させると、1602年(慶長7年)には島津氏の言い分を聞き入れ、本領安堵、島津義弘の罪も不問としました。

その後、島津義弘は大隅の加治木(現在の鹿児島県中部)に隠居し、若者の教育に力を注いだのです。

島津義弘が用いた家紋

十字紋(じゅうじもん)

島津十文字

島津十文字

島津氏が鎌倉時代から用いていた由緒ある家紋です。

源平合戦で活躍した「島津忠久」は、「源頼朝」からこの家紋を授与されます。以後、筆書の書体で書かれた「島津十文字」として定着しました。

十字紋は、魔除けや、2匹の龍、おまじないを意味しているなど、由緒には諸説あり、十字架とは無関係だと言われています。

丸に十字紋(まるにじゅうじもん)

丸に十字紋

丸に十字紋

筆書体の「十」を礼装用に整えた家紋が「丸に十字紋」です。

変化した時期や具体的な理由については明らかになってはいませんが、鹿児島市のマークとしても類似した意匠の物が用いられるなど、鹿児島(薩摩)を象徴する家紋であると言えます。

この丸に十字紋は、島津氏の分家においてアレンジをして用いられました。

島津義弘が残した名言

たとえ討たれると言えども 敵に向かって死すべし

関ヶ原の戦いにおける撤退戦で、周りを敵に囲まれているときに発した言葉だと言われています。

その意味は、「たとえ討たれるとしても、後ろから討たれるのではなく、敵に向かって行って、正面から討たれるべき」というものです。

関ヶ原における撤退戦では、島津義弘の家臣達は主君を逃がすため、東軍の大軍勢に臆することなく、強い覚悟を持って立ち向かいました。

こうした家臣達の奮闘がなければ、歴戦の猛者・島津義弘と言えども、薩摩への帰還を果たすことができたか否かは分かりません。勇猛果敢で知られる薩摩武士の心意気をよく表している言葉であると言えます。

刀 無銘(島津正宗)

島津義弘の愛刀として知られている1振が、名物「島津正宗」です。

江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」が、刀剣鑑定家の「本阿弥家」(ほんあみけ)に編集を命じた「享保名物帳」(きょうほめいぶつちょう)にも記載されている名刀で、作者は相州伝を確立したと言われている「正宗」。

この日本刀は、島津家から徳川将軍家に献上され、その後、天皇家に渡りましたが、いつの間にか所在不明となっていました。

2013年(平成25年)、島津正宗を所有していた個人が「京都国立博物館」に寄贈したことで、約150年ぶりに、その存在が確認されたのです。

島津正宗
島津正宗
無銘
鑑定区分
未鑑定
刃長
68.7
所蔵・伝来
紀州徳川家 →
前田家 →
徳川将軍家 →
天皇家

合戦の街 関ヶ原合戦の街 関ヶ原
「関ヶ原の戦い」の経緯や結末、関ヶ原の現在についてご紹介します。

島津義弘

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