日本史と聞くと、学校で習うような堅いイメージを持つ人が多いかもしれません。しかし、まだまだ日本史には学校で教えてもらえていない、数々の珍説があるのです。刀剣ワールドでは戦国武将を主に、様々な珍説をまとめました。あの人物の意外すぎる一面や、びっくり仰天な珍説をお楽しみ下さい。

オカルティック戦国

日本史の珍説も、突き詰めていくとまるでオカルトのようなものがあります。幽霊であったり、予言であったり、さらには埋蔵金伝説まで。 今も昔も、こうした珍説は存在したようです。

「兼知未然」、かねていまだ然らざるを知る。これは「日本書紀」における聖徳太子に関する記述。聖徳太子は「まだ実現していないことを、あらかじめ知っていた」という。つまり聖徳太子は未来を語る予言者。その予言を記したとされる「未来記」(みらいき)は後世の人々も興味津々だったよう。現在未来記が実在したかどうかは謎とされているが、南北朝時代の終わり頃に成立した「太平記」には、聖徳太子の未来記を見た楠木正成のエピソードが紹介されている。
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テレビ番組で放送されているお馴染みの「徳川埋蔵金」。この名を聞くと、思わず番組に釘付けになってしまう。実は徳川だけでなく、戦国の世を生きた名将達にも埋蔵金の噂がまことしやかに囁かれている。さあ、一攫千金を夢見て、戦国のロマン・埋蔵金を追ってみようではないか!
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動物・植物大集合

日本史の歴史を変えたのは、戦国武将や歴史上の人物ばかりではありません。動物や植物にまつわる珍説を知ると、これらなくして、時代の変化はなかったのではないかと思うほどです。そんな意外性溢れる珍説をご紹介します。

動物好きのお殿様と言えば、「犬公方」と呼ばれた江戸幕府第5代将軍徳川綱吉。犬や猫はもちろん、ドジョウやウナギ、虫なども保護の対象とした「生類憐れみの令」はあまりにも有名だ。しかし程度の差はあれ、日本の歴史を紐解くと、動物好きのお殿様は他にもたくさんいたようだ。
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室町幕府3代将軍足利義満に、6代将軍足利義教、8代将軍足利義政、織田信長…、ときの権力者がこぞって欲しがったという香木(こうぼく)がある。香木とは心地良い芳香を持つ木片、木材のことで、一般的には伽羅(きゃら)・沈香(じんこう)・白檀(びゃくだん)を指す。奈良時代、中国を経由して聖武天皇の手に渡ったその香木は、「蘭奢待」(らんじゃたい)という雅な名前が付けられ、権力や権威の象徴として天下人達のあこがれとなった。
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日本は海に囲まれた島国。明治時代になって獣肉食が一般化するまでは、日本人の主たるたんぱく源と言えば魚であった。歴史上の偉人達も一般庶民も、みんな魚を食べて暮らしていた。近年は否定されているが、徳川家康はタイの天ぷらにあたって死んだという逸話が流布していたように、武将と魚にまつわるエピソードは数多くある。
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実は私、〇〇でした

一般的に知られている歴史上の人物が、実際はイメージと異なるという話も、日本史における珍説のひとつです。男性だと言われているが実は女性だったり、豪快なイメージがあるのに本当は繊細だったりと、あなたの固定概念を覆す珍説をまとめました。

おくのほそ道で知られる江戸時代前期の俳人、松尾芭蕉。「閑さや岩にしみ入る蝉の声(しずけさや いわにしみいる せみのこえ)」、「五月雨をあつめて早し最上川(さみだれを あつめてはやし もがみがわ)」など、旅の途中に見た風景を詠んだ句は、東北の豊かな自然をありありと想像させ、旅情を誘う。そんな、きな臭い話とは無縁そうな松尾芭蕉だが、その正体は忍者で、おくのほそ道は幕府の密命を受けた隠密の旅だったという説がある。
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江戸幕府15人の将軍のうち、第9代家重はあまり存在感がない。生まれながらに障害があり言語が不明瞭だったため、人前で話すことはほとんどなかったという。そんなミステリアスな生涯からか、実は女性だったのではないかという噂がある。
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身長5尺9寸8分(約180cm)、体重29貫(約110kg)。現代人と比べても見劣りしない、たくましい体に恵まれた西郷隆盛。しかし、子供時代には腕の神経を切る怪我を負い、流刑された沖永良部島では病気に感染し、晩年は肥満にも苦しめられるなど、西郷隆盛の一生は病気や怪我との戦いの日々でもあった。
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あと数年生まれてくるのが早ければ、天下人になっていたかもしれないと言われる伊達政宗。1581年(天正9年)に14歳で初陣を飾ると、破竹の勢いで畠山氏や蘆名氏を倒し、東北各地を制覇した泣く子も黙る戦国武将だ。しかし、実は料理好きという一面も。地元仙台には、伊達政宗が生み出したと言われる料理が数多く存在する。
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東郷平八郎と言えば、日露戦争、日本海海戦で連合艦隊司令長官として卓越したリーダーシップを発揮し、世界屈指の戦力を誇ったロシアのバルチック艦隊を破って日本を勝利に導いた人物。なぜ東郷平八郎が世界各国で注目され、今なお称えられているのか?世界中の人々に愛される理由は、戦時中の活躍はもちろんだが、終戦後の東郷自身の人柄にもあった。それでは、東郷フィーバーの知られざるエピソードを紐解いていこう。
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駿河の今川氏、美濃の斎藤氏、甲斐の武田氏を破竹の勢いで攻略し、天下統一も目前かと思われた1582年(天正10年)、「本能寺の変」によって、志半ばで散った織田信長。戦国時代きっての名将だが、「信長公記」によると、若い頃はうつけと呼ばれ、流行りの茶筅髷(ちゃせんまげ)に萌黄色(もえぎいろ)の紐をまき付けて、袖を抜いて着た浴衣に半袴、縄を巻いた長い柄(つか)の日本刀(刀剣)、大・小をさして、腰には火打ち袋や瓢箪を7つ8つぶら下げて町を練り歩いていたという。そんな軽薄なうつけ者も、見ようによっては好奇心旺盛なパイオニア。フランシスコ・ザビエルが来日してキリスト教の布教活動を始めると、信長はこれを庇護し、南蛮文化も柔軟に取り入れていった。
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戦国事件の真相

策略、裏切り、暗殺と、天下を取るために手段を選ばない武将達。そんな中でもひときわ異彩を放つ事件の当事者をまとめました。一方で、シリアスな事件に反してあの歴史的建造物に落書きをするという、ちょっと変わった珍説も紹介します。

季節外れの雪が降る1860年(安政7年)3月、江戸城の桜田門外で、幕府の老中、井伊直弼(いいなおすけ)が水戸藩士らに暗殺された。「桜田門外の変」(さくらだもんがいのへん)と呼ばれるこの事件は、幕府によって行なわれた弾圧「安政の大獄」(あんせいのたいごく)によって引き起こされた。しかし実はその根底には、井伊直弼と徳川斉昭(とくがわなりあき)の間で起きた、牛肉をめぐるいざこざがあったことをご存知だろうか。
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伊達政宗の母、義姫(よしひめ)は出羽国の戦国大名、最上義守(もがみよしもり)の娘。1564年(永禄7年)に政宗の父、輝宗(てるむね)に嫁ぎ、その3年後の1567年(永禄10年)に政宗を、その翌年に次男の小次郎を出産した。伊達政宗と陸奥国の大崎義隆(おおさきよしたか)が対立した1588年(天正16年)の「大崎合戦」では、女だてらに、両者の和睦に寄与した。実家の最上氏は大崎氏の分家で、実兄の最上義光(もがみよしあき)は大崎方の指揮官のひとり。義姫は自ら戦場に乗り込み、義光に停戦を迫ったのだ。そんな女傑、義姫だが、政宗毒殺未遂事件の犯人とも言われている。その真相はいかに?
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冷酷で無慈悲で尊大、良心が欠如し、罪悪感も薄いが、ときとして非常に魅力的。そんなサイコパスの特徴を持った武将は少なくないが、宇喜多直家(うきたなおいえ)もそのひとり。尼子経久(あまごつねひさ)、毛利元就(もうりもとなり)とともに中国の三大謀将と呼ばれている宇喜多直家。その梟雄(きょうゆう)ぶりは、弟の宇喜多忠家(ただいえ)をして「兄は腹黒く、何をたくらんでいるか分からない。会うときは服の下に鎖帷子(くさりかたびら)を付けたものだ」と語るほど。宇喜多直家の常套手段は娘の婚姻を利用して信頼関係を結び、相手を安心させたあとに暗殺。かと思いきや、譜代の家臣を手にかけることはなく大切にしたという一面も見せた宇喜多直家。しかしその優しさも、冷徹な損得勘定の結果だとしたら空恐ろしい。
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加賀百万石の前田家初代当主、前田利家は「かぶき者」(戦国時代末期から江戸時代初期にかけて流行した、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動を取る者。)として知られ、若い頃は、長く派手な装飾の槍を持ち歩いたため「槍の又左」と呼ばれていたという。そんな利家のかぶいた血を、もっとも濃く引き継いだのが3代目当主で、加賀藩2代目藩主の前田利常(まえだとしつね)。名君か暗君か? ときに鼻毛を、ときに股間をさらした、利常の奇天烈な行動の真意とは?ちなみに槍の又左の又左は利家の元服名、前田又左衞門利家からきている。
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豊臣秀吉の叔母を母に持ち、幼い頃から秀吉に仕えた福島正則。秀吉と柴田勝家が戦った1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)」で功を立て、「賤ヶ岳の七本槍」に名を連ねる槍の名手として知られている。しかし、その一方で酒豪としても知られ、酒の上での武勇伝にもこと欠かない。
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戦国武将の中でも最大のうつけものと言えば、織田信長を超える者はいないだろう。本能寺の変で家臣・明智光秀の謀反により、自害するという劇的な最期を迎えたが、信長を殺そうと謀っていたのは光秀だけでなかったのだ。
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アンコール・ワットは12世紀前半に、クメール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって建立されたヒンドゥー教の寺院。1992年に周辺の遺跡群とともに「アンコール遺跡群」として世界遺産に登録されている。長い間、クメール王朝の崩壊とともに廃墟と化していたが、1860年にフランスの博物学者アンリ・ムオーが調査を始めたことで、世界的に認知されるようになった。しかし、それよりずっと以前の1632年にこの地を訪れ、伽藍に落書きをした武士がいたという。
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戦国愛のカタチ

昔は「正室」「側室」など様々な形の妻がいたこともあり、我々の常識を越えるような「愛のカタチ」が日本史にも登場します。また、今でこそLGBTが社会に認知されてきていますが、戦国時代でも様々な恋模様もあったようです。現代から見る驚きの珍説を紹介します。

LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダーの頭文字)やSOGI(Sexual Orientation and Gender Identityの頭文字)といった言葉が世間を賑わし、セクシャルマイノリティーの人権が叫ばれる現代ですが、歴史を振り返れば、かつての日本の恋愛は、今よりもっと開放的でした。男色を意味する「衆道」は本来、「主君への忠義のためなら命も捨てる」という武家の少年が持つべき精神性を表す言葉だったとか。裏切り、謀略なんでもありの戦国時代には、命を懸けた深い信頼で結ばれた主従関係が恋愛に発展するケースも多かったのです。勇猛果敢なイメージのある武田信玄や伊達政宗などの戦国武将も家臣と恋愛関係を持っていた戦国武将のひとり。彼らが同性の恋人に送った熱烈な恋文から、戦国武将の恋愛を垣間見ることができます。
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1563年(永禄6年)に生まれた細川忠興(ほそかわただおき)と細川ガラシャ。この同級生カップルの夫婦関係を示す逸話にこんなものがある。ある日、2人が庭先で食事をしていたときのこと。庭師がガラシャに見とれていたと激高した忠興は、庭師の首を切り落とし、日本刀(刀剣)に付いた血をガラシャの着物で拭うという暴挙に出た。ところがガラシャはその惨状をものともせず、食事を続け、汚れた着物を数日間着続けたと言う。そんな姿を見て忠興が「蛇の様な女だな」と言うと、ガラシャは冷ややかな表情で「鬼の女房には、蛇がお似合いでしょう」と答えた。嫉妬に狂う夫と冷めた妻。この温度差が生まれるまでの夫婦の歴史を振り返ってみよう。
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日本の歴史を振り返ると、「腐女子」(ふじょし)と呼ばれるBL(ボーイズラブ)ファンの女子達が喜びそうなエピソードに事欠かない。中でも絵になりそうなのが足利義満と世阿弥(ぜあみ)のカップル。室町幕府の若き三代目将軍と、見目麗しき少年猿楽師(しょうねんさるがくし)、世阿弥との浮き名はBLファンの妄想をかきたてる。
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上杉謙信ゆずりの「義」を重んじ、主君、上杉景勝(うえすぎかげかつ)と民のために生きた愛の武将、直江兼続(なおえかねつぐ)。兜の前立にも「愛」の一文字を掲げていたことで有名だが、その意図するところには諸説あるようだ。
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同一人物説

日本史をはじめ、歴史を掘り下げると「あの人物は合戦で死んでいなかった」、「その人物は架空の存在だった」という説は多くあります。中でも様々な説を呼ぶものが「同一人物説」です。一見何の繫がりもない人物がなぜ?と思いたくなる珍説を集めました。

2020年、大河ドラマの主人公に選ばれ、今、注目度NO.1の戦国武将「明智光秀」。歴史上では「本能寺の変」で織田信長に反旗を翻した謀反人としてあまりにも有名だ。謀反人としてネガティブな面がクローズアップされることが多いが、実は政治や城造りには秀でた才能を持っていたとも言われている。
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歴史学者の織田完之(おだかんし)によって書かれた1907年(明治40年)発行の「平将門故蹟考」(たいらのまさかどこせきかんが)には、「菅原道真は延喜三年死す、将門此の歳に生る故に菅公の再生という評あり」と記されている。道真が大宰府で亡くなった903年(延喜3年)に平将門は生まれたことから、将門は道真の生まれ変わりだと言うのだ。しかし二人の間には、没年と生年の一致以外にも、後世の人に生まれ変わりを想像させる、運命的な因縁があった。
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悲劇のヒーローとして有名な源義経には、突拍子もない伝説や逸話が多い。義経に対する人々の同情心が「判官贔屓」という言葉を生み、数々の物語や伝説が生まれてきた。ちなみに「判官(ほうがん)」とは、後白河法皇が義経に与えた役職のこと。判官贔屓は「はんがんびいき」とも読むが、特に義経を指して使われるときは「ほうがんびいき」と読むのが一般的だ。そんな判官贔屓から生まれた伝説のひとつに、義経とチンギス・ハーンは同一人物だったという説がある。現在、学術的には完全に否定されているが、江戸時代中期頃には、この説をまことしやかに語る文化人も少なくなかった。
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「神の子」として崇められ、わずか16歳で日本史上最大の一揆と呼ばれる「島原の乱」を総大将として戦った天草四郎。派手なひだ衿に黒いマント、どこか異国情緒のある神秘的な佇まいとカリスマ性は人々の想像力を刺激し、「海の上を歩いた」、「盲目の少女の視力を回復させた」といった数々の奇跡のエピソードとともに、「実は天草四郎は織田信長の孫だった!?」という驚愕の噂も生んだ。
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徳川家康には影武者説が数多く存在する。最も有名なのは、民間史論家の村岡素一郎(むらおかそいちろう)が、1902年(明治35年)に出版した「史疑徳川家康事蹟」(しぎとくがわいえやすじせき)で唱えた説だ。初版は500部発行されたが、徳川家の圧力によって重版はされなかった。しかし村岡の影武者説は後世の作家達の想像力を刺激し、これを題材にした小説が次々と誕生した。学術的には否定されているが、こんな妄想ができるから歴史は面白い。
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日本刀(刀剣)に秘められた幾多の魅力を皆様にお届けするサイト、バーチャル刀剣博物館「刀剣ワールド」。こちらのページは「日本史の珍説」のトップページです。
一口に日本刀(刀剣)と言っても、実は歴史が長い日本刀(刀剣)。あなたが知らない新事実もまだまだたくさんあるかもしれません。日本刀(刀剣)・甲冑(鎧兜)に関する様々な記事があるので、ぜひご覧下さい。
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