戦国武将一覧
山本勘助
戦国武将一覧
山本勘助

文字サイズ

「山本勘助」(やまもとかんすけ)は、戦国時代の武将で、武田信玄の伝説的軍師として広く知られています。「架空の人物」説が長く定説とされており、実在が確認されてもなお、その実像はいまだ謎に包まれた存在です。

武者修行から武田家臣へ

山本勘助

山本勘助

山本勘助は、1493年(明応2年)、もしくは1500年(明応9年)に三河国(現在の愛知県東部)、または駿河国(現在の静岡県東部)で生まれたと言われています。

諸国を巡って兵法や築城術などを極めましたが、色黒で隻眼(せきがん:片目)、背が低く、手指や足が不自由と、ひどく風采の上がらない見た目だったため、40歳を過ぎても牢人(ろうにん:浪人)のままでした。

1536年(天文5年)、駿河の今川義元に仕官を希望しますが、体面を気にする今川家では、勘助の外見と供ひとり連れていないことから、追い返されてしまいます。

さらに牢人暮らしは続き、1543年(天文12年)勘助の噂を聞きつけた武田信玄に、破格の知行200貫で召し抱えられてようやく、50歳前後にして仕官することが叶ったのです。

しかし、いくら信玄でも、素性の分からない者を破格の待遇で登用するだろうか?という疑問は残ります。実は勘助の家系は、清和源氏(せいわげんじ)の流れを汲む駿河源氏・吉野氏の子孫だとする説があり、吉野氏の親戚で武田家一門・穴山氏とのつながりから推挙されたとも言われています。

勘助の活躍と最期

松代城の城跡

松代城の城跡

信玄に仕官してからは、持ち前の情報収集能力と天才的な戦略、優れた築城術で頭角を現し、活躍しました。

1546年(天文15年)、北信濃(現在の長野県北部)の豪族・村上氏の戸石城攻めに従軍します。村上軍の激しい応戦で武田軍は総崩れとなりますが、勘助の策で形勢逆転、武田軍を勝利に導きました。この戦功により、勘助は知行800貫の足軽大将へと加増されます。

村上氏が越後の上杉謙信を頼ったことから、1553年(天文22年)、信玄と謙信の間で北信濃を巡って合戦が始まりました。これが「川中島の戦い」です。この戦いは10年間に行なわれた5度の合戦の総称ですが、第4次以外は、ほんの小競り合いで終わっています。唯一の本格的な戦となった第4次合戦が、勘助の最後の戦となったのです。

勘助は、川中島に「海津城」(松代城)を築城し、武田軍の拠点とします。1561年(永禄4年)、上杉軍が海津城の向かいにある「妻女山」(さいじょさん)に布陣したことから、勘助は兵を2手に分けて別働隊により妻女山を襲撃し、山を降りた上杉軍を八幡原(はちまんばら)に布陣した本隊と別働隊で挟み撃ちにするという作戦を立てます。この作戦は、キツツキが木をつついて、驚いて木の中から飛び出した虫を食べることに似ていることから「啄木鳥戦法」(きつつきせんぽう)と名づけられました。

ところが、勘助の作戦は謙信に見破られ、別働隊が到着したときには、妻女山はもぬけの殻。慌てて本隊の待つ八幡原に向かいますが、別働隊より少ない武田軍本隊は、上杉軍の総攻撃を受け、信玄の弟の信繁をはじめとする武将たちが何人も討ち死にし、大きな損害を出しました。

武田軍を窮地に追い込んだ責任を感じた勘助は、死を決意して敵陣に突入し、自ら大太刀を抜いて戦いますが、四方を上杉軍に囲まれ、体中を槍で突かれるという壮絶な最期を迎えます。

大河ドラマの功績

勘助の存在は、近年まで甲斐武田家の軍学書「甲陽軍艦」(こうようぐんかん)によってのみ確認され、それ以外の戦国から江戸時代の史料には記されていませんでした。一時は「甲陽軍艦」その物の信憑性も疑われていたので、勘助も架空の人物というのが定説に。ところが、その説に一石を投じる事件が起きたのです。

1969年(昭和44年)NHKの大河ドラマ「天と地と」で、武田信玄の花押(かおう:署名の代わりに書いた一種の記号)の入った書状を見た視聴者が、「うちにも同じ物がある」と先祖伝来の古文書を図書館に持ち込み、鑑定の結果、真物であると判定されました。その信玄の書状(市河文書)に山本勘助の名前が載っていたのです。この出来事によって、架空の人物とされていた勘助の実在が、図らずも証明されることとなりました。

ヤマカンの由来?

こうして実在については確認された勘助ですが、天才的軍師としてのイメージや彼の残した功績は、「甲陽軍艦」や江戸時代の講談等での脚色とも言われ、その実像はよく分かっていません。

「あてずっぽうなこと」を「山勘」(ヤマカン)と言いますが、由来は「山師の勘」だと言われています。山師(やまし)は鉱脈を掘り当てる人のことで、その博打(ばくち)的な職業形態から、「ペテン師」をさす言葉としても使われるようになり、転じて、山勘には「人をごまかす行ない」・「詐欺」という意味も含められるようになりました。

実は山勘には、山本勘助の名前から来たという説もあります。勘助の生没年以前からこの言葉が使われているので、現在はこの説は疑問視されていますが、そんな説が唱えられる程、勘助は「計略に長けた天才肌の軍師」というイメージが作られていたのです。

山本勘助

山本勘助をSNSでシェアする

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

「戦国武将一覧」の記事を読む


源義経

源義経
「源義経」(みなもとのよしつね)と言えば、鎌倉幕府の将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)の弟。「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)で平家を滅ぼした最大の功労者であったにもかかわらず、兄・頼朝からの信頼を得ることができず、悲劇的な最期を遂げました。剣術に優れ、戦術も天才的。そんな義経に一体何が起こったのでしょうか。その生涯を見ていきましょう。

源義経

源頼朝

源頼朝
「源頼朝」(みなもとのよりとも)と言えば、鎌倉幕府の初代将軍。圧倒的なリーダーシップで源氏・東国御家人をひとつにまとめ上げ「平家滅亡」を成し遂げます。また、政治の実権を朝廷から奪って武家政権を確立。容姿端麗・頭脳明晰・武術に優れたスーパーヒーロー。「組織作りの天才」と尊敬を集めた、頼朝の生涯に迫ります。

源頼朝

浅井長政

浅井長政
「浅井長政」(あざいながまさ)と言えば、織田信長の妹「お市の方」の夫。知勇に優れた美男子と評されていました。一度は義兄・信長と同盟を結ぶも、朋友「朝倉義景」(あさくらよしかげ)との友情を優先したため敵対。一家離散、自害へと追い込まれることに。長政はなぜ、そんな選択をしたのでしょうか。長政の生涯に迫ります。

浅井長政

井伊直虎

井伊直虎
「井伊直虎」(いいなおとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)井伊谷(いいのや)の領主です。井伊家は江戸時代には30万石の彦根藩主となり、井伊直弼(いいなおすけ)などの大老職を数名輩出し、譜代大名筆頭の家柄となりました。そんな井伊家の礎を作ったのが、「女領主」であったと言われる直虎です。

井伊直虎

織田信長

織田信長
戦国時代、天下布武を目指し、その後の歴史を大きく変えた織田信長。400年経った今でも織田信長のリーダー像に惹かれる人は多く、人気は衰えません。歴史的史料である「信長公記」や「名将言行録」をもとに、天下人となった織田信長の生涯をご紹介します。

織田信長

斎藤道三

斎藤道三
「斎藤道三」(さいとうどうさん)と言えば、戦国時代に美濃国を乗っ取った、成り上がりとして有名です。「権謀術数」(他人を巧みに欺く策略)に長け、親の腹を食いちぎって生まれる「マムシ」のようだと恐れられましたが、皮肉にも息子「義龍」(よしたつ)と対立し、討ち死にします。「下剋上大名」と恐れられた、斎藤道三の生涯に迫ります。

斎藤道三

真田幸村(真田信繁)

真田幸村(真田信繁)
「真田幸村」(さなだゆきむら)は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した武将・大名です。その勇敢な活躍と華々しい最期が、のちの史料において「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と評されたことから、英雄として庶民の間に浸透し、高い人気を誇っています。

真田幸村(真田信繁)

柴田勝家

柴田勝家
「柴田勝家」(しばたかついえ)と言えば、織田信長の筆頭家老。戦上手で勇猛果敢、情に厚いが武骨なためか59歳まで独身でした。ところが60歳のときに、あの織田信長の妹「お市の方」の再婚相手に選ばれます。天下人・豊臣秀吉の最大のライバルと言われた男の「人生の分岐点」に迫ります。

柴田勝家

武田信玄

武田信玄
「武田信玄」(たけだしんげん)は、甲斐(現在の山梨県)の戦国大名です。「甲斐の虎」と呼ばれた彼の率いる武田軍は当時最強と言われ、その武勇はのちの天下人・織田信長の耳にも届き、恐れさせる程でした。天下を目指していた信玄が、上洛を前に病に倒れることがなければ、日本の歴史は変わっていたかもしれません。

武田信玄

注目ワード

ページトップへ戻る