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酒井忠次

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「酒井忠次」(さかいただつぐ)は、徳川四天王のひとりに数えられる名将です。徳川家康の父親「松平広忠」(まつだいらひろただ)の時代から徳川家の家臣として仕えていた人物で、のちの「徳川家康」となる幼い頃の「竹千代」が、今川家の人質になる際にも同行しました。
徳川家康からの信頼が厚く、最後まで徳川家に仕えた忠義の人としても知られる、酒井忠次の生涯とエピソードに迫ります。

リーダーナビ
トップインタビューサイト「リーダーナビ」に掲載された日本美術刀剣保存協会 酒井忠久会長のインタビュー記事がご覧頂けます。

酒井忠次ってどんな武将だった?

徳川四天王や徳川十六神将と称される名将

酒井忠次

酒井忠次

「酒井忠次」(さかいただつぐ)は、「徳川四天王」や「徳川十六神将」と称される戦国きっての名将です。

酒井忠次の主君である「徳川家康」は、幼いころ今川家に人質として赴いています。

織田信秀」が岡崎に総攻撃を行なおうと軍を送る動きを見せたところ、竹千代の父である「松平広忠」が「今川義元」に援軍を依頼したことがその理由。

のちに徳川家康は、天下分け目となる「関ヶ原の戦い」に勝利して日本を治めることになりますが、幼い頃はかなりの苦労人だったと言われています。

母親は離縁して去り、6歳で織田家、8歳で今川家と人質生活をしているうちに、父親は家臣に惨殺されているのです。

この幼い竹千代に付き添ってずっと側で守ってきた人物が、酒井忠次。

徳川家康が今川義元の人質時代、駿府は今川義元の城下町として「戦国三大文化都市」とも呼ばれるほどの繁栄をみせており、その軍事力、影響力は強大なものでした。

強大な力をもった今川義元のもとに人質として身を置き、今川家の支配下にいることを前提として育てられた徳川家康の側に付いていた酒井忠次に、ただならぬ苦労があったことは想像に難くありません。そのような苦労をものともせず、忠実に仕えてきたのです。

酒井忠次以外の徳川四天王は、「本多忠勝」、「榊原康政」、「井伊直政」といった名だたる武将。この四天王の働きは目を見張るものがあり、「豊臣秀吉」がうらやむほど優秀で勇猛な家臣でした。その中でも酒井忠次は、徳川家康に戦の采配などを教えています。

酒井忠次の生涯

酒井忠次は、1527年(大永7年)に、徳川氏の前身となる松平氏の家臣であった「酒井忠親」の次男として、三河額田郡(現在の愛知県)「井田城」で誕生。

成長し元服を終えると、父親と共に「松平広忠」の家臣となります。その後、徳川家康に生涯をささげました。

1560年(元禄3年)の「桶狭間の戦い」以降は、徳川家の家老を務めるに至り、様々な思惑や裏切りが常であった戦国の世において、一度も徳川家康を裏切ることなく忠義をまっとうしたのです。

酒井忠次の年表

酒井忠次の活躍と生涯を、簡単にご紹介します。

酒井忠次年表
1527年
(大永7年)
酒井忠親の次男として生まれる。
1556年
(弘治2年)
「福谷城の戦い」で「柴田勝家」に勝利する。
1570年
(元亀元年)
姉川の戦い」で戦功を立てる。
1584年
(天正12年)
「羽黒の戦い」で「森武蔵守長可」に勝利する。
1596年
(慶長元年)
10月28日、京都桜井屋敷で死去。享年70歳。

海老すくいで飲み会の場を盛り上げた

戦国武将や徳川四天王と言われると、威厳があるイメージですが、酒井忠次には「海老すくい」という芸で飲み会の場を盛り上げたという変わったエピソードもあるのです。

酒井忠次が披露した海老すくいがどのようなものだったのかは、残念ながら正確に伝わっていませんが、今で言う「ドジョウすくい」のようなものだったのではないかと言われています。

戦での活躍だけでなく、宴を盛り上げることもできるような多彩な才能があってこそ、家臣として信頼され部下からも慕われていたのです。徳川家康にその生涯を捧げた忠義の武将、酒井忠次は意外とひょうきんな人物だったと言えます。

戦での活躍がとにかくすごかった

福谷城で柴田勝家を撃破

柴田勝家

柴田勝家

徳川家が織田家と同盟を結ぶ前、三河にある「福谷城」(うきがいじょう)は、今川家と織田家の勢力圏の境にありました。

今川義元の存命中は、三河と尾張は激しく戦っており、1556年春、福谷城に織田家の軍勢が押し寄せてきたのです。敵将は、あの柴田勝家。

2,000騎で福谷城を攻められた酒井忠次は城外に出て戦い、激しい攻防の末、勝利に終わったのです。柴田勝家は負傷して敗走し、この戦いが酒井忠次のデビュー戦となりました。

酒井忠次は、とても武術に長けており、この闘いでは自ら城の外に出て戦ったのです。この功績については、のちに徳川家と織田家が同盟関係になったということもあって、あまり資料が残されていません。

このあとの戦いでも、酒井忠次は戦で先陣を任されることが多く、今川義元から最前線の城を任されるほど期待されていた、とても勇敢で腕のたつ武将だったのです。

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長篠の戦いでの活躍

武田勝頼

武田勝頼

織田信長」が、鉄砲隊を指揮して勝利を収めたことで知られている「長篠の戦い」。酒井忠次は、この戦いでも大活躍し、窮地に追い込まれていた長篠城を救っています。

織田側の武将として戦に臨み、分遣隊(ぶんけんたい:本隊から分けて派遣される部隊)を率いる総大将であった「武田勝頼」の背後から奇襲をかけました。武田勝頼の陣の背後には、「鳶ヶ巣山」(とびがすやま)という山があり、奇襲が困難であったにもかかわらずです。

武田勝頼の家臣には、「馬場晴信」(ばばのぶはる)や「内藤昌豊」(ないとうまさとよ)、「山県昌景」(やまがたまさかげ)などの歴戦の強者揃い。父親であった「武田信玄」の時代から武田家を支えてきた、優秀な武将が名を連ねていました。

そんな中、酒井忠次は織田信長に自ら「背後から奇襲させてほしい」と進言したと言われています。鳶ヶ巣山砦があったことから織田信長から認められず一蹴されつつも、見事陥落させたのです。

窮地に追い込まれていた長篠城を救ったのは、この酒井忠次の働きがあってこそでした。武田勝頼の背後にあった鳶ヶ巣山砦からの強襲を敢行し、鳶ヶ巣山砦を陥落させて長篠城を救出した上に、武田勝頼の叔父「河窪信実」(かわくぼのぶざね)などを討ち取ったのです。

また、長篠の戦いで、有力な武将が名を連ねていた武田家に勝利することは、今後の戦いの生末を計る上で非常に重要なものでした。実際、この戦いのあと、戦に敗れた武田家は衰退の一途をたどったため、酒井忠次の奇襲はまさに時代を形作ったと言っても過言ではありません。

酒井忠次の功労を認めた織田信長は「背に目を持つごとし」(まるで背中に目が付いているようだ)との言葉を残しています。酒井忠次は、あの織田信長も認めるほどの戦の才能と強さをかね備えた名将だったのです。

また長篠の戦いのあとも、「小牧・長久手の戦い」や羽黒の戦い、「本能寺の変」ののちに「明智光秀」を討つなど、大きな功労を残しています。

酒井の太鼓

酒井忠次と言えば、「酒井の太鼓」のエピソードが有名です。これは、「三方ヶ原の戦い」で徳川家康が敗走し「浜松城」に帰ったあと、酒井忠次が城の櫓上で太鼓を大音量で鳴らして味方の士気を上げたという逸話のこと。

徳川家康が敗走したとなれば、味方の士気が下がるのは必須。闘いの場においてのその行動力は、憂慮するべきものでした。そこで酒井忠次は、味方を鼓舞しつつ、敵の武田軍にはあたかも伏兵がいるとカモフラージュをもしたのです。

この太鼓を聞いた武田軍は引き返していき、徳川軍は九死に一生を得ることになりました。

このエピソードに関しては諸説あり、「事実ではない」とする見方もありますが、酒井忠次を代表する逸話として広く知られています。

酒井忠次が解決できなかった松平信康切腹事件とは

1579年(天正7年)に起こった松平信康切腹事件

徳川家康

徳川家康

戦での武功が多い酒井忠次ですが、歳を重ねてからは徳川家の家老として、多くの家臣の複雑に絡み合った人間関係を取り持つようになり、重鎮としての役割が増えていきました。

このような役割も見事にこなしていきましたが、酒井忠次にも解決できなかった事件があります。それが、1579年(天正7年)の「松平信康切腹事件」です。

徳川家最大のタブーとも言われているこの事件は、酒井忠次を大いに悩ませるものでした。

この事件の主役は、徳川家康の長男にあたる「松平信康」(まつだいらのぶやす)。わずか9歳にして織田信長の娘である「徳姫」と結婚して「岡崎城」に入り、幼くして城の主となった人物です。この結婚は、いわゆる政略結婚で、織田信長と徳川家康が同盟関係となった象徴のような出来事でした。

当時、小さな大名に過ぎなかった徳川家にとって、織田家とのつながりは家を守るためにどうしても必要だったのです。

その後、無事に成長した松平信康は、14歳で初陣を迎え、長篠の戦いなどで多くの武功を収めます。勇猛果敢な武将として知られるまでに成長し、一見、順風満帆に見える松平信康の人生は、なんとわずか20歳にして、切腹という形で幕を閉じるのです。

松平信康を取り巻く環境に暗い影が見えだしたのは、1579年(天正7年)のことでした。父親である徳川家康が突如として岡崎城に現れて、松平信康を城から追放。

多くの戦で武功を挙げた自慢の息子だったであろう松平信康を徳川家康が追い出して、最後には切腹を命じるまでに至った経緯については、あまり詳しい資料が残されていません。その理由は徳川家最大のタブーとも言われるこの事件を、のちの世に残したくなかったのではないかと言われています。

ただし一説によると、嫁姑問題が事の発端だという説も。松平信康の正妻である徳姫と、母親である「築山殿」との関係が悪かったにもかかわらず、夫の松平信康は妻の味方をすることがなかったというのです。

織田信長

織田信長

松平信康には、なかなか男児に恵まれませんでした。それを理由に徳姫は姑に嫌みを言われ続け、その不満は夫の松平信康に向かいます。

徳姫は、長年のつもりつもった不満を父親である織田信長に手紙で訴えたのです。

ここで怒ったのが織田信長でした。可愛い娘をわずか9歳で嫁に出した訳ですから、大切にされていない事実を知り、何事かと激怒。

すなわち、松平信康は義父にあたる織田信長の逆鱗に触れてしまったと言えます。もしこれが今の世の中だったら、離婚すれば済む問題ですが、乱世ではそうはいきません。松平信康にとっては、義理の父にあたる人物はあの織田信長。その織田信長の機嫌を損ねたとなれば、もはや切腹もやむなしという世の中だったのです。

松平信康と徳姫の結婚が、両家の同盟関係の象徴であったという側面からみても、許されない事実。この騒動は当時、徳川家の家老であった酒井忠次にとっても、決して他人事ではありませんでした。

自らが仕えている主君である徳川家康の長男が、天下に最も近いと言われていた織田信長を怒らせてしまったのですから、それはとんでもない事態だったのです。

酒井忠次は、徳川家家臣の「大久保忠世」(おおくぼただよ)と共に、使者としてこの事件を解決するように徳川家康に命じられ、必死になんとかしようと関係者の間を奔走。しかしながら、その努力もむなしく徳川家康は長男に切腹を命じることになってしまいました。なお、別の説では、松平信康に切腹を命じたのは織田信長だったとも言われています。

切腹を命じたのがどちらであったとしても、切腹後の首が、一旦織田信長のもとに送られていることからも、織田信長の思惑があったことは間違いありません。酒井忠次にとって、非常に後味の悪い結果になりました。

この事件を機に、徳川家康と酒井忠次の関係は悪化。徳川家康を幼少のころから守ってきた酒井忠次に対して、徳川家康は「家老である酒井忠次がもっとしっかりしていれば、切腹を命じることにはならなかった」と思っていたのです。

乱世において、戦で活躍できる人物としても、そして徳川家と織田家の同盟関係を象徴する夫婦としても存在感を放っていた長男は、徳川家康にとって重要な人物だったことは当然のこと。その怒りを向けられてしまったのは、酒井忠次にとっては不運なことでした。

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徳川家康からの嫌み

徳川家の汚点とも言うべき事件を経たあとも、酒井忠次は徳川家に仕え続けました。そして、酒井忠次が隠居したあとには息子の「酒井家次」(さかいいえつぐ)が家督を継ぎ、酒井家次には、徳川家康から3万石ほどの領地を与えられたのです。

しかし、他の徳川四天王の井伊直政、本多忠勝、榊原康政などには10万石程度の領地が与えられており、その差は歴然としていました。

酒井忠次は、この扱いを非常に不満に思い、徳川家康に「息子の領地を増やしてほしい」と直談判したと言われています。確かに、徳川家に対する過去の功績などを考えれば、この扱いを不当なものと感じても無理のないことです。

それに対して、徳川家康は「お前でも自分の息子は可愛いのか?」と嫌味を言い放ったとされています。切腹事件で使者を務めていた酒井忠次は、徳川家康の長男であった徳川信康を見殺しにしたと言われても仕方のない状態だったということ。つまり、自らの息子を失った徳川家康の嫌味だったのです。

晩年の酒井忠次と徳川家康との関係については諸説ありますが、このエピソードをもとに「あまり関係は良くなかったのではないか」と考える人も多くいます。

少なくとも徳川家康は、徳川信康の切腹事件に関して酒井忠次に大きな責任があると思っていて、その結末は納得できる結果ではなかった。それが根に持つに至ったのです。

裏を返せば、幼少の頃から自分を守ってくれた酒井忠次なら、切腹事件の際にも「なんとかしてくれるに違いない」という期待と信頼があったのですが、その期待に応えられなかったため、嫌味を言われるまで関係が悪化してしまったと考えられます。

重鎮として人間関係の調整にも才を発揮した

切腹事件では、力が及ばなかった酒井忠次ですが、人間関係の調整役としてこんな功績を残しています。

榊原康政と井伊直政の仲を取り持った

長篠の戦いののち、武田家は滅亡にいたります。しかし、生き残った大半の武田家の家臣は井伊直政に仕えることになりました。

そのとき、武田家の家臣のひとり、榊原康政にはほとんど部下がいない状態になってしまったため、井伊直政に大きな不満を持っていたのです。

戦国の世において上司である「主家」のあるじに不満を持つということは、今後起こってくる戦の際の大きな懸念事項でもありました。この軋轢(あつれき)を取り除くことは、年長者である酒井忠次の役割でもあったのです。

酒井忠次は、井伊直政と榊原康政を叱ったり、相談にのるなど潤滑油のような役割を果たしながら、2人の仲を取り持つことに成功。井伊直政と榊原康政の2人は、親友になるほどの関係修復に至りました。

酒井忠次の家紋

丸に片喰紋(まるにかたばみもん)

丸に片喰紋

丸に片喰紋

酒井忠次の家紋は、丸に片喰紋。

片喰は「カタバミ」と読む、生命力が強い植物で、子孫繁栄という意味が込められていました。

この家紋は、日本10大家紋のひとつとしてもよく知られています。

剣片喰紋(けんかたばみもん)

剣片喰紋

剣片喰紋

藤原北家秀郷流多田氏族(ふじわらほっけひでさとりゅうただしぞく)の酒井氏が使用していた家紋のひとつが剣片喰紋。

とてもやわらかなイメージの片喰紋よりも、剣を付けた剣片喰紋は強い印象です。

酒井忠次の名言

首を取ることなかれ、斬り捨てにせよ、白旗を挙げば軽く引きて、敵を追うことなかれ

小牧・長久手の戦いのとき、豊臣秀吉は青塚に陣し、徳川家康は小牧に陣を構えていました。豊臣秀吉の先鋒である森武蔵守長可(もりむさしのかみながよし)は羽黒にいましたが、その先手が本陣から遠く離れた場所で備えていたのです。

酒井忠次は、これを見て「武蔵の先手は味方を離れています。将もその部下も、兵法に練れていないので、今これを撃って、鬼武蔵と言われる者の鋒を挫けば、味方は勝利に乗り、敵は鋭気を失うはずです。今少し御旗本を敵に寄らせれば、私が手勢を以て衝き崩しましょう」と進言すると、徳川家康は酒井忠次に任せることにしました。

酒井忠次は、軍勢に対して「首を取ることなかれ、斬り捨てにせよ。白旗を上げれば軽く引き、逃げる敵を追ってはならない」と軍令を定め、静々と斬ってかかり、森武蔵守長可の先手を撃ちとったのです。

これに森武蔵守長可は怒り酒井勢に駆け向かいましたが、その頃に酒井勢はすでに引き取っていて、森武蔵守長可はもはやどうにもできませんでした。

これは、首を取ることばかり考えるのでなく、敵を斬り捨てることもありと言っています。考えた末の決断であれば、去る者追わず、ということが良い場合も。

そんな酒井忠次は、徳川家康第一の功臣として称えられている徳川最古参の重臣。確実に徳川家発展に貢献した、信頼のおける人物なのです。

刀 銘 正真 金象嵌 猪切

村正刀工一派である三河文珠派「藤原正真」が鍛えた酒井忠次の愛刀「猪切」(いのししぎり)。

徳川家康のお供で狩りに出たときに猪を倒し、(なかご:刀身のに被われる部分)に猪切と金象嵌(きんぞうがん:茎に金で銘文を嵌入した物)を入れたことにちなんでいます。

本刀は、酒井忠次の7男「松平甚三郎久重」の家に伝来し、「先求院様(忠次)御名誉の刀」と鞘書がありました。

猪切

猪切

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
正真/
裏金象嵌銘
猪切
室町時代 酒井忠次→
松平甚三郎久重→
三河武士のやかた
家康館

刀剣ワールド財団所蔵の「酒井家」から伝来した刀剣

太刀 銘 光則
太刀 銘 光則
無銘
鑑定区分
重要刀剣
刃長
72.4
所蔵・伝来
徳川家治 →
酒井家 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
短刀 銘 備前国住雲次
短刀 銘 備前国住雲次
備前国住雲次
鑑定区分
重要美術品
刃長
28.0
所蔵・伝来
庄内藩主 酒井家 →
菅家 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

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