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仙石秀久

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「豊臣秀吉」の家臣団のうち、最古参の武将として知られる「仙石秀久」(せんごくひでひさ)は、自らの腕と勇敢さを武器に、大名へと上り詰めた人物。戦場では危険を顧みず突進し、主君のためなら死も厭わない覚悟で数々の修羅場をくぐり抜け、やがて一国一城の主にまで昇進したのです。そんな波瀾万丈な仙石秀久の生涯を、数々の逸話や戦歴と共に振り返りながら、その人物像に迫っていきます。

仙石秀久の生い立ち

四男坊が仙石家の家督を継ぐ

仙石秀久のイラスト

仙石秀久

仙石秀久は、1552年(天文21年)に美濃国(現在の岐阜県南部)の土豪「仙石久盛」(せんごくひさもり)の子として生まれました。

四男だったため、叔母の嫁ぎ先だった越前国(現在の福井県北東部)の「萩原国満」(はぎわらくにみつ)のもとへ養子に出されますが、1563年(永禄6年)頃に急遽呼び戻され、「仙石家」の家督を相続します。

当時は、美濃国内で尾張国(現在の愛知県西部)の「織田信長」に付くか、美濃国を治める「斎藤龍興」(さいとうたつおき)に付くのかで、各土豪が割れていました。

仙石家は「織田家」に味方するため、斎藤派の嫡男「仙石久勝」(せんごくひさかつ)を廃嫡にして、仙石秀久が跡を継ぐことになったのです。

織田家への出仕

1564年(永禄7年)、美濃国へ侵攻中だった織田軍のもとへ馳せ参じた仙石秀久は、臣従を誓うために織田信長と対面。このとき仙石秀久は、わずか13歳でしたが、織田信長はその顔つきを見るなり、「風貌が勇ましい」と大変気に入り、その場で召し抱えました。

さらには、限られた家臣のみが使うことを許されていた「永楽銭紋」(えいらくせんもん)を与えたのです。当時の貨幣である永楽銭を図案化した意匠で、その後仙石家は、代々この紋を家紋として使うことになります。

仙石秀久の配属先は、「木下藤吉郎」(のちの豊臣秀吉)の与力。当時、木下藤吉郎の周りを固めていたのは、野武士上がりの人物がほとんどだったため、初めて由緒のある武将を配下に迎えた格好でした。以後、木下隊の馬廻衆(うままわりしゅう:大将の馬の周りに控えて、護衛などを行なう武闘派集団)に属した仙石秀久は、持ち前の武勇を発揮していきます。

豊臣秀吉のもとで武名を轟かす

武勇と義理深さを兼備

豊臣秀吉

豊臣秀吉

仙石秀久が参陣した様々な合戦において、とりわけその働きが目立ったのは、1570年(永禄13年/元亀元年)に、「浅井家」(あざいけ)・「朝倉家」(あさくらけ)の連合軍を破った「姉川の戦い」でした。

先陣に立ち、十文字槍を振るいながら敵に突進した仙石秀久は、浅井家の家臣「山崎新平」(やまざきしんぺい)を討ち取るなどの活躍を見せます。戦後、豊臣秀吉が「長浜城」(現在の滋賀県長浜市)の城主になると、仙石秀久にも、近江国・野洲郡(現在の滋賀県野洲市)に1,000石の所領が与えられたのです。

仙石秀久が豊臣秀吉から寵愛を受けていた理由はいくつかありますが、武勇一辺倒の人物ではなく、非常に面倒見の良い武将であったことは特筆すべき点です。

1578年(天正6年)、織田信長を裏切った「荒木村重」(あらきむらしげ)が、居城の「有岡城」(ありおかじょう:現在の兵庫県伊丹市)に立てこもったことがありました。この際、豊臣秀吉の軍師であった「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)が説得に向かいますが、そのまま拘束されてしまい、織田家中に黒田官兵衛が裏切ったという噂が流れます。しかし仙石秀久は、「黒田家」の残党をかくまい、黒田官兵衛が解放されるまで、面倒を見続けました。

また、黒田官兵衛が有岡城で幽閉された際、黒田家の家臣達は、同家の命令に従う旨を記した誓紙(せいし)をしたためています。しかし、黒田家の家臣のひとりである「藤岡九兵衛」(ふじおかきゅうべえ)が、誓紙への署名を拒否したことにより、その甥であった「後藤基次」(ごとうもとつぐ)、及びその一族は、黒田家から追放となりました。このとき、仙石秀久は、行き場を失っていた後藤基次を、自身の家臣として引き受けていたのです。

淡路攻略戦での活躍

長宗我部元親

長宗我部元親

織田信長の命により、豊臣秀吉が「毛利家」を始めとする中国方面の攻略に着手すると、仙石秀久も従軍します。一連の合戦の中で、特に仙石秀久の名声を高めたのが、1581年(天正9年)に行なわれた「淡路攻略戦」でした。

四国の大部分を制圧していた「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)を討つため、織田信長より、本州から四国への経路の確保を命じられた豊臣秀吉は、仙石秀久を引き連れて淡路国(現在の兵庫県淡路島)へ上陸。毛利家に荷担していた安宅家(あたぎ家)が守る「岩屋城」(現在の兵庫県淡路市)や「由良城」(ゆらじょう:現在の兵庫県洲本市)を次々と陥落します。

さらに、豊臣秀吉が「姫路城」(現在の兵庫県姫路市)へ戻ったあとは、仙石秀久が戦線を引き継ぎ、有力土豪らの鎮圧戦を展開。淡路国平定を成し遂げ、豊臣家中でも確固たる地位を築き上げたのでした。

国持大名からの転落

一国一城の主へと出世

本能寺の変」のあと、豊臣秀吉が「山崎の戦い」で「明智光秀」を討ったとき、仙石秀久は淡路島に留まり、明智方に与した「菅達長」(かんみちなが)らを掃討します。その後、豊臣秀吉と「柴田勝家」による「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)が勃発すると仙石秀久は、再び四国への抑えを任され、「洲本城」(すもとじょう:現在の兵庫県洲本市)に入りました。

この動きを知った讃岐国(現在の香川県)の「十河存保」(そごうまさやす/ながやす)は、四国統一に邁進する長宗我部元親を打倒するため、仙石秀久に援軍を要請。その求めに応じて「引田城」(ひけたじょう:現在の香川県東かがわ市)に入城し、「引田の戦い」に臨むのです。

しかし、長宗我部軍の兵力に劣る仙石軍は、緒戦(しょせん/ちょせん:合戦が始まったばかりの頃の戦闘)こそ優位に進めたものの、長宗我部軍の増援部隊が到着すると、劣勢に追い込まれ、仙石秀久は引田城に籠城。やがて、抵抗むなしく淡路国への退却を余儀なくされました。

ところが洲本城に戻った仙石秀久は、次の四国征伐に向けて、淡路島と小豆島(しょうどしま:現在の香川県小豆郡)の守りを強化し、瀬戸内海の制海権を死守したのです。豊臣秀吉はこの功績を認め、仙石秀久に淡路国50,000石を与えています。

その後、本格的な四国征伐に乗り出した豊臣家は、総勢100,000人余りの兵力で長宗我部軍を蹂躙(じゅうりん)。わずか2ヵ月足らずで四国を制圧します。仙石秀久も「喜岡城」(きおかじょう:現在の香川県高松市)を落とすなどの働きを見せたことで、讃岐国130,000石(うち20,000石は十河存保の領地)を拝領し、ついに国持大名へと出世を遂げたのです。

九州征伐での大失態

大友宗麟

大友宗麟

1586年(天正14年)、豊臣秀吉は家臣達に対し、停戦命令に背いて九州北部へ侵攻を続ける「島津家」(しまづけ)討伐の号令を発します。豊後国(現在の大分県)の「大友宗麟」(おおともそうりん)の手引きによって、まずは先遣隊(せんけんたい)として、長宗我部家や十河家らによる四国勢が九州に上陸。その統括役に、仙石秀久が任じられました。

このとき仙石秀久は、豊臣軍本隊が到着するまで「大友館」(おおともやかた:現在の大分市)で待機するように命じられています。しかし、戦功を挙げたいばかりに焦りが募り、独断で出撃を決定すると、島津軍が対峙する「戸次川」(へつぎがわ:現在の大野川下流)へと向かいます。豊臣軍は総勢約6,000人、対する島津軍は約10,000人。仙石秀久が属していた豊臣軍は、兵力的にも不利な状況だったのです。

さらに仙石秀久は、長宗我部元親らの忠告を無視して戸次川を渡ろうとしますが、敵将「島津家久」(しまづいえひさ)のおとり作戦に引っかかり、豊臣軍は大混乱に陥ります。仙石秀久は、辛うじて讃岐国へと逃亡しますが、頑強に抵抗した長宗我部軍と十河軍は、島津軍の集中攻撃を受けて全滅。長宗我部元親の嫡男「長宗我部信親」(ちょうそかべのぶちか)と十河存保が戦死してしまうのです。

この報を受けた豊臣秀吉は大激怒。その後、九州征伐は豊臣軍の圧勝に終わりましたが、豊臣秀吉の怒りは収まらず、仙石秀久は領地没収の上、謹慎を命じられたのでした。

仙石秀久が戦功を焦った背景には、彼なりに万全の下調べをしていた自負心があったためと推察されます。江戸時代に編纂された逸話集「常山紀談」(じょうざんきだん)によれば、仙石秀久は、事前に敵情視察の任務を受けて九州へ入り、商人に変装しながら九州の地理を調べていたのです。この情報を過信し、また費やした労力を戦功へ繋げたいという思いから、無謀な戦いを仕掛けてしまったとも言えます。

なお、四国勢の大将でありながら、ひとり逃げ帰るという醜態をさらした仙石秀久は、「三国一の臆病者」という、不名誉なあだ名を付けられてしまいました。

また、宣教師の「ルイス・フロイス」は、九州に上陸してきた仙石軍に対して「恥や慈悲などの人間的感情をいっさい持たない輩であり、略奪ばかり繰り返していた」とまで酷評。仙石秀久がこれまで積み上げてきた所領から人間性、家中の評判に至るまで、この「戸次川の戦い」によって、すべて失われてしまったのです。

小田原征伐での鈴鳴り特攻

領地を没収され、高野山(こうやさん:現在の和歌山県・紀伊山地の一部)へと追放された仙石秀久は、汚名返上の機会を窺い続けていました。

そんな中で1590年(天正18年)、仙石秀久に好機が訪れます。豊臣秀吉が関東の「後北条家」(ごほうじょうけ)を成敗するために、「小田原征伐」の号令を全国へ発したのです。仙石秀久は、即座に旧臣約20人 を集めて参陣。豊臣秀吉に無断で、「徳川家康」の陣に入ります。

しかし、その装束はあまりに奇抜でした。仙石秀久は、自らの陣羽織に無数の鈴を縫い込み、動くだけでジャラジャラと音が鳴り響く仕掛けを施していたのです。目立つことで、敵を自分の周りにおびき寄せるのが目的でした。実際、縦横無尽に戦場を駆け回る仙石秀久に対して、敵は首取りの手柄を求めて次々と襲来。それをことごとく討ち取りながら、敵の城へと突き進む姿は鬼神そのものでした。一躍「鈴鳴り武者」の評判は敵味方に広がり、大いに味方を鼓舞したと言います。

また、小田原征伐随一の激戦地だった「山中城」(現在の静岡県三島市)攻めでは先陣を務め、敵の本拠「小田原城」(現在の神奈川県小田原市)の早川口攻めでも、虎口(こぐち:城郭の要所にある出入り口)のひとつを占領する快挙を成し遂げます。

このような抜群の働きによって仙石秀久は、豊臣秀吉との謁見が叶い、ようやく許しを得ました。その後、「小諸城」(こもろじょう:現在の長野県小諸市)の城主に任命され、大名に返り咲くことができたのです。

豊臣秀吉の死後、徳川家に尽くす

関ヶ原の戦いでの忠義心

真田昌幸

真田昌幸

1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が没すると、仙石秀久は、小田原征伐の際に陣借りした恩義などから、徳川家康に近付きます。

関ヶ原の戦い」において仙石秀久は、関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)へと進軍する「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の軍に合流し、「上田城」(現在の長野県上田市)に籠城する「真田昌幸」(さなだまさゆき)攻めに参加。しかし攻略に手間取り、足止めを食ってしまうのです。

すると仙石秀久は、自ら「真田家」の人質になることを提案。徳川秀忠を一刻でも早く、関ヶ原へ向かわせようとしました。ところが徳川秀忠は「そなたは徳川の家臣ではないから、人質とは認められず殺されてしまう。忠義の人材を死なせるわけにはいかない」と却下。その結果、徳川秀忠は、関ヶ原の決戦に遅参する失態を犯してしまうのです。

当然、徳川家康から厳しい叱責を受けますが、その際、身を挺してかばい続けたのも仙石秀久でした。徳川秀忠は、「そなたの忠義は決して忘れない」と喜び、以降、仙石家を重用するようになりました。

小諸の地場産業を奨励

江戸幕府が開かれると、仙石秀久は小諸藩の初代藩主となり、城下町や街道の整備、荒廃した農村の復興などに着手します。しかし、領民に重労働を強いたことで逃亡が相次ぎ、民心掌握に苦しみます。

そこで仙石秀久は、年貢の減額や農村の有力者を家臣に取り立てるなど、領民に寄り添う政策に舵を切り、少しずつ信頼を回復。さらに地場産業を発展させるため、「蕎麦」に着目し、城内に村役人を招いて「蕎麦切り」を振る舞うなどの催しを開くようになりました。これが功を奏し、領内では、蕎麦栽培が盛んに行なわれるようになります。やがて江戸や京、大坂などの大都市へ蕎麦粉を輸送するほど生産力が上がり、領内の経済も活性化。小諸は、蕎麦の名産地としても知られるようになったのです。

領内整備もひと段落した1614年(慶長19年)、江戸から帰国中だった仙石秀久は病に倒れ、武蔵国(現在の埼玉県東京都23区・神奈川県の一部)で息を引き取ります。家督は三男の「仙石忠政」(せんごくただまさ)が相続。小諸藩はその後、上田藩へ移封され、明治維新まで続きました。

仙石秀久の人となりが分かる逸話

徳川秀忠のお気に入り大名

徳川秀忠

徳川秀忠

徳川秀忠が江戸幕府2代将軍に就任すると、厚い信頼を得ていた仙石秀久は、外様大名らしからぬ厚遇を受けます。江戸城内では準譜代大名として扱われ、「秀忠付」(ひでただつき)という名誉職まで賜るのです。

さらに、参勤交代で江戸へ向かう際は、必ず幕府の上使(じょうし)が板橋宿(いたばししゅく:現在の東京都板橋区)まで出迎えに訪れ、本来禁じられている妻子の同伴まで許可。徳川秀忠が、いかに仙石秀久を信頼していたかが分かります。

あるとき、徳川秀忠が仙石秀久の末子に会いたいと言い出したこともありました。「まだご恩に報いるような働きはしておらず、滅相もございません」と丁重に断ったにもかかわらず、どうしてもと懇願され対面が実現。すると徳川秀忠は、会ったばかりの末子に3,000石を与えたと言われています。ここまで厚遇を受けた外様大名は、仙石秀久以外にはいませんでした。

石川五右衛門を捕縛した人物

仙石秀久には、天下の大泥棒として知られる「石川五右衛門」(いしかわごえもん)を捕縛したという伝説も残っています。

1594年(文禄3年)、豊臣秀吉暗殺のため、「伏見城」(ふしみじょう:現在の京都市伏見区)の寝所に侵入した石川五右衛門は、枕元に置かれた千鳥の香炉が不意に鳴き出したことで発見され、最初に駆け付けた仙石秀久に、捕縛されたと伝えられているのです。その真相は定かではありませんが、数々の武名と豊臣秀吉への忠義が相まって生まれた逸話だと言えます。

仙石秀久

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