「加賀百万石」の初代の大名として北陸を治めた「前田利家」(まえだとしいえ)。「そろばん好きの堅実な大名」、「愛妻家の武将」として有名ですが、大名としての成功を果たすまでには、どんな決断と苦悩があったのでしょうか。 ここでは、前田利家の生い立ちから、「織田信長」、「豊臣秀吉」との関係、そして加賀百万石に至るまでの功績について詳しく解説していきます。
前田利家
加賀(現在の石川県南部)・越前(現在の福井県北東部)・能登(現在の石川県北部)の北陸一帯を治めたことで有名な前田利家ですが、生まれたのは尾張国荒子村(現在の愛知県名古屋市中川区荒子町)です。
前田利家は幼少期、大胆な性格であることから「犬千代」(いぬちよ)というあだ名で呼ばれ、幼少期以降も多くの武将からその愛称で親しまれました。
また、前田利家が生まれた1537年(天文6年)は、「豊臣秀吉」生誕の年でもあります(※説によっては前田利家の生誕を1538年[天文7年]、または1539年[天文8年]としている場合あり)。
豊臣秀吉との親交を深めていく中で、同じ尾張出身で同世代であるという事実は、少なからず影響を与えたと考えられています。
織田信長
「そろばん好きの大名」、「堅実な性格」として有名になった前田利家ですが、青年期は「織田信長」に仕え「うつけ仲間」として異様な格好で街を練り歩いていました。
この頃の前田利家は、けんかっ早い性格で、派手な長槍を持ち歩いていたため、街で前田利家を見た人は避けて通ったと言われています。
1552年(天文21年)8月、前田利家は、織田信長と「清洲城」(現在の愛知県清須市)城主「織田信友」(おだのぶとも)との間に起こった「萱津の戦い」(かやづのたたかい)で首級を挙げる戦果を出しました。
このあとも、「稲生の戦い」(いのうのたたかい)、「浮野の戦い」(うきののたたかい)に従軍し功績を挙げ、前田利家の強さは多くの人に知られるようになったのです。織田信長も、前田利家の強さを心から称賛し、厚く寵愛しました。
まつ
1558年(永禄元年)、22歳の前田利家は、当時12歳だった「まつ」と結婚することになります。まつは、幼い頃から容姿端麗で賢く、読み書きそろばんをも嗜む才媛だったのです。
前田利家とその妻・まつのエピソードは、NHK大河ドラマ「利家とまつ」でも話題となりました。このドラマをきっかけに、生涯をかけて前田利家を支え、前田利家の死後も自分の身を犠牲にして前田家を守ったまつは、前田利家と同じくらい有名になったと言えます。
前田利家とまつは非常に仲が良く、生涯で11人の子供を産みました。
また、まつは「安土城」(現在の滋賀県近江八幡市安土町)下の屋敷に住んでいた頃、隣に住んでいた豊臣秀吉の妻「ねね」と親しくしていたとも伝えられています。
才媛である妻と結婚し、織田信長から寵愛を受けていた前田利家。順風満帆に見えましたが、血気盛んな性格が災いし、大きな事件を起こしてしまいます。
それがいわゆる「笄斬り」(こうがいぎり)です。前田利家は、織田信長に仕えるお気に入りの同朋衆(将軍の近くで雑務や芸能を行なっていた人のこと)の「拾阿弥」(じゅうあみ)を、織田信長の目の前で斬殺。織田信長は激怒し、前田利家を出仕停止処分としました。
前田利家が拾阿弥を斬殺した直接の理由については、前田利家が大切にしていた日本刀の笄を、拾阿弥が盗んだことにあるとされています。笄を盗まれ激怒した前田利家を、織田信長は仲裁しようとしましたが、拾阿弥が態度を改めなかったばかりか、一度許した前田利家を拾阿弥が悪く言ったため前田利家の怒りが頂点に達し、殺害に至ったのです。
理由はともあれ、織田信長の怒りを買ってしまった前田利家は仕える家をなくし、浪人として諸国を放浪することとなりました。
織田家から追放され、浪人の身となった前田利家。織田家からの寵愛を失ったことで信頼していた友や家臣も次第に離れていき、失意のどん底にあったと言えます。
しかし、前田利家が真価を発揮するのは、このどん底からの巻き返しです。前田利家が「加賀百万石」となるまでに築き上げた功績について、詳しく解説していきます。
今川義元
織田信長からの寵愛を失ったものの、前田利家はこれまでの恩に報いるため、織田家への帰参を果たそうと数々の戦績を挙げ、織田信長へ忠誠心を示しました。
1560年(永禄3年)、「今川義元」(いまがわよしもと)と織田信長が戦火を交えた「桶狭間の戦い」では、織田側の軍勢として無断で戦闘に参加。
3つの首を挙げる功績を残しましたが、やはり織田信長からの許しは得られませんでした。
そこで前田利家は、さらなる功績を挙げようと考え、「斎藤義龍」(さいとうよしたつ)と争った「森部の戦い」にまで無断で参加。そこでも数々の功績を挙げ、ようやく織田家に戻ることが認められました。
織田家に戻った前田利家は、それまで以上に織田信長に対して忠誠を誓い、領土拡大に大きく貢献したと言われています。
再び織田家の家臣として仕えるようになったのち、家督を継ぐよう織田信長に命じられ、1569年(永禄12年)、前田利家は前田家の当主となりました。
前田利家の父である「前田利春」(まえだとしはる)の死後、当主として家督を継いでいたのは長男の「前田利久」(まえだとしひさ)でしたが、前田利久には子供がおらず、また病弱であったため、武勇に優れた前田利家が前田家を継ぐべきだという織田信長の判断があったとされています。
前田利家が前田家の家督を継ぎ、生誕地の「荒子城」城主として前田家の領地一帯を治めることが決定すると、前田利久だけでなく、その養子の「前田慶次」(まえだけいじ)や、前田家の重臣「奥村永福」(おくむらながとみ)も城を去り、前田利家は名実共に前田家の主となりました。
姉川
もともと優れた槍使いとして数々の功績を挙げてきた前田利家ですが、織田信長からの信頼を取り戻したあと、浅井氏、朝倉氏と争った「金ヶ崎の戦い」では、織田信長の警護を任されるほどになりました。
特に1570年(元亀元年)、織田信長・「徳川家康」連合軍と「浅井長政」(あざいながまさ)・「朝倉義景」(あさくらよしかげ)連合軍が争った「姉川の戦い」では、浅井長政の配下にあった武将「浅井助七郎」(あざいすけしちろう)を討ち取り、「日本無双の槍」と称されるまでに至ったのです。
この他にも石山本願寺と争った「春日井堤の戦い」では、退却する織田軍を守るため、ただひとり戦場に踏みとどまり、味方が逃げるのを助けました。
そして「一乗谷での戦い」、「長島一向一揆」、「長篠の戦い」でも首級を挙げ、織田信長からさらに厚い信頼を得ると、前田利家の名声は戦国の世に広く知られるようになります。
柴田勝家
前田利家は織田家への帰参後、1574年(天正2年)からは「柴田勝家」(しばたかついえ)に与し、一向一揆の鎮圧など多くの戦いを経験。
そして翌1575年(天正3年)、越前の一向一揆を平定したことで「佐々成政」(さっさなりまさ)、「不破光治」(ふわみつはる)と共に越前府中(現在の福井県北東部)10万石を与えられました。
こうして前田利家は「府中三人衆」のひとりとなり、佐々成政、不破光治と共に越前国を治めることとなります。
一向一揆以降も、前田利家は柴田勝家のもとで華々しい活躍を見せ、佐々成政らと共に「上杉謙信」と戦うなど、特に北陸地方での領土拡大・防衛に尽力しました。
また織田信長からの命もあり、「有岡城の戦い」や「三木合戦」(みきかっせん)にも参加。北陸以外の戦いにおいても、数々の戦果を残しています。
1581年(天正9年)、前田利家は、織田信長から能登23万石の領有を任されました。難攻不落と言われた「七尾城」(現在の石川県七尾市)に代わり、新しく「小丸山城」(現在の石川県七尾市)を築き、北陸を代表する大名として領地の運営・整備にも力を注いでいきます。
しかし1582年(天正10年)、歴史的大事件である本能寺の変が起こり、前田利家は一転して不穏な立場へ置かれてしまいました。
豊臣秀吉が明智光秀を討った「山崎の戦い」の最中、前田利家は柴田勝家のもとで別の領地を攻略していたためこの戦いに参加できず、織田信長の仇を討つことはできなかったのです。
そして山崎の戦いのあと、織田家の後継者について話し合う「清洲会議」が行なわれると、協力関係にあった柴田勝家と、長年親交を深めてきた豊臣秀吉が真っ向から対立。
前田家を守るため、さらには今まで築き上げてきた自分の信念と忠誠心を貫くため、どちらに付けば良いのか、前田利家は判断に迷い、苦しんだとされています。
織田信長の後継者を決める清洲会議において、前田利家は協力関係にあった柴田勝家側に付くこととなりました。
このときも、本当に柴田勝家側に付いて良かったのか、前田利家は苦悩したと言われています。
清洲会議後、前田利家は柴田勝家側の大名として豊臣秀吉との和議を行なうこともありました。しかし、変化の激しい戦国の世、最終的に前田利家は「賤ヶ岳の戦い」で柴田勢を裏切り、豊臣秀吉側に付くという大きな決断を下します。
1583年(天正11年)4月、最初、前田利家は柴田勝家側の軍勢として戦いに出陣。ところが戦いの最中、前田利家は豊臣秀吉側からの誘いに乗り、合戦中に突然自軍すべてを撤退させたのです。そのことがきっかけで柴田軍は総崩れとなり、柴田勝家は敗走を強いられました。
結局、前田利家の判断により、賤ヶ岳の戦いは豊臣秀吉が勝利。以降、豊臣秀吉からの信頼を勝ち取った前田利家は豊臣秀吉に仕え、戦後新たに加賀二郡の領地を得ることとなったのです。
歴史上の人物が活躍した合戦をご紹介!
金沢城
加賀に新たな領地を得た前田利家は、本拠地を小丸山城から「尾山城」(現在の金沢城)に移し、北陸地方の統治を強化して行きました。
一方1584年(天正12年)に東海地方において、豊臣秀吉軍と徳川家康・「織田信雄」(おだのぶかつ)連合軍が対立する「小牧・長久手の戦い」が勃発。
その隙を突いて、以前より能登・加賀地方を狙っていた佐々成政が、前田利家の治める能登へ侵攻してきました。これが「末森城の戦い」です。
佐々成政は能登の要所、「末森城」を包囲。一時は三の丸が打ち破られ、二の丸まで危機に陥ります。しかし、金沢城にて末森城が危機にあるとの知らせを受けた前田利家は、すぐさま精鋭2,500人と共に能登へ出陣。15,000人もいた佐々成政の手勢を背後から攻める奇襲を行ない、わずかな兵で末森城を奪還しました。
その後、小牧・長久手の戦いにおける局地戦のひとつ「長久手の戦い」で豊臣秀吉が敗れたあとも、前田利家は北陸での戦いに尽力し、領地を守り抜いたのです。
豊臣秀吉
豊臣側に付き、末森城の戦いで能登を守った前田利家ですが、佐々成政との戦いは翌1585年(天正13年)にまでもつれ込みました。
しかしその間、前田利家は加賀と越中(現在の富山県)の境にある砦に侵攻。そして「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)の協力のもと、越中まで進出していきました。
さらに、関白に就任した豊臣秀吉が100,000人の大軍を送り、佐々成政が籠城していた富山城を包囲。この戦いの中で、前田利家は10,000もの兵を率いて戦いを先導します。織田信雄の仲介もあり、佐々成政は降伏することとなりました。
そして前田利家を攻めた佐々成政は領土没収の命を受け、前田利家の長男「前田利勝」(まえだとしかつ)が越中三郡を豊臣秀吉から賜ります。
北陸での戦いが終わったのち、越前を治めていた「丹羽長秀」(にわながひで)が没したことで国替え(大名の領地を他の場所に移し替えること)が行なわれ、丹羽家が持っていた領土を前田利家が引き受けることとなりました。
こうして前田利家は、加賀・越前・能登の三国を支配し、加賀百万石初代の大名として北陸を治めるに至ったのです。
加賀百万石の大名として有名な、前田利家が使った代表的な家紋2種について、それぞれ由来や意味を解説していきます。
加賀梅鉢紋
前田家の家紋として最も有名なのが、この「加賀梅鉢紋」(かがうめばちもん)です。この家紋は、前田家の養子である前田慶次も使っていました。
この「梅鉢」の家紋の由来は、学問の神様と言われる「菅原道真」(すがわらのみちざね)公にあります。
真偽のほどは分かりませんが、前田利家はたびたび「自分は道真公の子孫だ」と自称しており、この梅鉢紋を好んで使用していました。
本当に菅原道真公の子孫かどうかはさておき、真面目で堅実な前田利家が、菅原道真公を尊敬していたことが分かる家紋だと言えます。
五七桐
「五大老」とも呼ばれ、豊臣秀吉から厚い信頼を受けていた前田利家は、豊臣秀吉から賜ったこの「五七桐」(ごしちのきり)の紋も積極的に使っていたとのことです。
もともとこの五七桐は、豊臣秀吉が織田信長から賜り、自身の家紋として用いていました。
そして豊臣秀吉は、配下の武将達へこの五七桐を受け渡したため、前田利家以外にも、この五七桐を使っていた戦国武将は西日本を中心に数多くいると言われています。
青年期は不遇の浪人生活を経験し、その後も冷静な判断力と武勇で戦国の世を駆け抜けた前田利家。残した名言は数多くありますが、ここでは現代に生きる人々の心にも響く、2つの名言をご紹介します。
前田利家は、若い頃から織田信長に仕え、寵愛を受けていました。ところが、拾阿弥を殺害してしまったことにより織田家から追放されてしまいます。
織田信長という大きな後ろ盾を失ったあと、信頼していた友や家臣が離れていき、前田利家は友情や信頼の脆さを知ることとなりました。
この言葉からは、前田利家が「真の友情や信頼こそを最も大切にすべきだ」と考えていることが伝わってきます。
数多くの兵と共に戦場を駆け抜ける大軍の大将。一般的に考えれば、より多くの兵を率いていた方が戦いを有利に進められるはずです。
しかし、前田利家は織田信長のもとで、何度も少数の兵が大軍を破るのを目の当たりにしています。そして自身も、末森城の戦いで奇襲を仕掛け、佐々成政率いる大軍を破った経験を持っていました。
そのため、前田利家は「率いている兵の数が多いからと言って、決して油断してはならない」と自分自身に言い聞かせていたと考えられます。
前田利家が大切にしていたのは、本当に親しくしている人への信頼と、いつでも冷静に状況を判断できる能力。この2つがあったからこそ、競争の厳しい戦国時代で多くの人望を得ることができたのです。
本短刀に切られた銘は「備州長船住長義」(びしゅうおさふねじゅうちょうぎ)。「名物」と評され、「大坂長義」(おおさかちょうぎ)の異名を持つこの名刀は、前田利家が豊臣秀吉より大坂城にて拝領したと伝えられています。それ以来、本短刀は前田家の家宝として長く伝来しました。
本短刀を制作した「長義」は、備前長船(現在の岡山県瀬戸内市)の刀工で、鎌倉時代末期に相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)で活躍した名工「正宗」の10人の高弟「正宗十哲」(まさむねじってつ)のひとりです。
その作風は、地刃の沸(にえ)が強い覇気あふれる刀姿が特徴。本短刀においても、鍛えは板目肌立ちごころに地沸(じにえ)が付き、刃文は沸のよく付いた大乱れで、足・葉(よう)入り。金筋・砂流しがかかるなど、長義ならではの豪壮にして華やかな1振となっています。
戦国大名の来歴をはじめ、ゆかりの武具などを紹介します。