戦国武将一覧
真田幸村(真田信繁)
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真田幸村(真田信繁)

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「真田幸村」(さなだゆきむら)は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した武将・大名です。その勇敢な活躍と華々しい最期が、のちの史料において「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)と評されたことから、英雄として庶民の間に浸透し、高い人気を誇っています。

実はよく分かっていない前半生

真田幸村

真田幸村

幸村は、信濃の豪族で武田家家臣の「真田昌幸」(さなだまさゆき)の次男として誕生。

真田家は武勇に優れ、武田家でも重用されていました。「武田二十四将」に一族の中から複数名が入っており、これ程多く選ばれている例は他にないのです。

幸村の前半生は不明な点が多く、生まれた年もはっきりしていません。

亡くなった1615年(慶長20年)には、49歳もしくは46歳だったという記録があるので、そこから1567年(永禄10年)説や1570年(元亀元年)説があります。

「真田幸村」と名乗ったことはなかった!

真田幸村の名前で有名で他にも複数の名前がありました。幼名の「弁丸」(べんまる)、仮名の「源次郎」(げんじろう)、官名の「左衛門佐信繁」(さえもんのすけのぶしげ)、そして実名の「真田信繁」(さなだのぶしげ)です。真田信繁が自筆した史料には、「信繁」と署名されていました。反対に、生前本人が「真田幸村」と名乗っている確かな史料は存在していません。この名前が最初に登場するのは、真田幸村の死後に書かれた軍記物なのです。

真田幸村という名の根拠も、実ははっきりとは分かっていません。定説とされているのは、「幸」は真田家の通字(とおりじ:先祖代々名前に入れられた特定の漢字)だからというものです。「村」は、諸説あり、姉の「村松殿」からとする説、徳川家に仇なすと恐れられた妖刀「村正」が由来とする説などがあります。

徳川家康に投げ付けた真田幸村の日本刀(刀剣)は、村正だったとも言われますが、真田幸村の武器は「十字槍」だというのが定説なので、現在では村正説はのちに作られた俗説であるとされているのです。

実名の真田信繁という名は、父・真田昌幸の主君「武田信玄」の弟で、人望が厚く、兄をよく支えた「武田信繁」と同じです。真田昌幸は武田信繁を非常に尊敬しており、自分の次男である真田幸村にも、武田信繁のように兄・真田信之を補佐していってほしいと望んでいたのかもしれません。しかし皮肉にも、真田幸村と真田信之はのちに袂(たもと)を分かつようになってしまうのです。

武田家滅亡と人質生活

1582年(天正10年)、武田家が滅亡すると、昌幸は武田家を滅ぼした信長の配下に入りますが、信長もまもなく死亡。信州上田の真田家は、徳川・北条・上杉と強国に囲まれていたため、のらりくらりとその時々で追従する相手を替えて、何とか生き延びます。最終的に上杉氏に従属することを決め、19歳の幸村は越後に人質として送られました。

1585年(天正13年)、家康から命ぜられた沼田領引渡しを昌幸が拒否したことから、「第一次上田合戦」が勃発。圧倒的兵力差がありながら、真田軍は見事勝利します。このとき幸村は、まだ初陣前だとされており、昌幸と信之が活躍しました。家康は2人の能力を高く評価し、徳川家臣・本多忠勝の娘を信之の正室に与え、懐柔を試みます。

一方、昌幸は台頭した秀吉に接近し、信濃の大名として扱われるようになります。幸村は人質として越後から大坂へ移され、豊臣家臣・大谷吉継の娘を正室に迎えました。このことが、兄弟の運命を分けることとなったのです。

関ヶ原の戦いとその後

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い

1600年(慶長5年)、秀吉の死後、五大老筆頭として台頭した家康(東軍)と、対立する他の五大老(西軍)との間で戦いが起こります。これが「関ヶ原の戦い」です。

このとき昌幸は、表向きは家康にしたがっていましたが、西軍を率いる石田三成の妻と自分の妻が姉妹であることから、妻が西軍の大谷吉継の娘である幸村と共に離反して西軍に付くことを決め、上田に帰還します。兄の信之は、妻が家康家臣・本多忠勝の娘であることから、東軍に組することになりました。これには、どちらが勝っても真田の名が残るように分かれて戦ったという説もあり、大坂の陣を勝ち抜いた信之は93歳まで生き、その系統は明治維新後まで続いて伯爵家となったのです。

昌幸と幸村は、上田城で徳川秀忠軍を迎え撃ちます。この戦いが「第二次上田合戦」です。目的は、徳川主力の秀忠軍を上田に足止めして関ヶ原の戦いに参加させないことでした。真田軍は3,000程度の少ない軍勢で、38,000もの大軍である徳川軍を巧みに翻弄して勝利。甚大な被害を出した徳川軍は関ヶ原の決戦にも間に合わず、昌幸と幸村の目的は達せられたのです。

しかしながら、本戦の関ヶ原の戦いで西軍が敗北。昌幸と幸村は、一時は死罪を命ぜられますが、信之と岳父・本多忠勝の助命嘆願のおかげで高野山(九度山)に流罪となりました。失意のうちに1611年(慶長16年)昌幸は逝去します。

大坂冬の陣と真田丸

1614年(慶長19年)、徳川氏との関係悪化から、戦いの準備を始めた豊臣家は浪人を募り、幸村は九度山を脱出、真田旧臣や嫡男・幸昌を連れて大坂城へ駆け付けました。その年の「大坂冬の陣」では、幸村は五人衆に選ばれ軍事会議では大坂城籠城に反対しますが、当時まだ無名で、徳川方に寝返るのではと警戒されていた幸村の提案する策は、ことごとく却下されます。

唯一許されたのが、大坂城の弱点である南側に土作りの出城を造ること。これが名高い「真田丸」で、幸村は徳川方の前田氏などを引き付けては反撃し、大きなダメージを与えました。この戦いは幸村の武名を天下に知らしめますが、徳川主導で和議が成立。徳川方により、大坂城は本丸以外を破却、堀がすべて埋め立てられ、真田丸も破壊されてしまいます。

大坂夏の陣と幸村の最期

大坂冬の陣での幸村の活躍を見た家康より、信之(叔父という説あり)を通じて、「信濃一国」を餌に寝返るよう誘いを受けますが、幸村は拒絶。この頃幸村は、すでに豊臣方の負けを覚悟し、それでも豊臣方に付くことを詫びる手紙を親族等に書き送っています。

ついに最後の決戦となった「大坂夏の陣」では、幸村率いる真田隊は、家康の本陣まで攻め込み、あと一歩のところまで家康を追い込みます。家康が2度も自害を覚悟したと言われる程、真田隊の勢いは凄まじかったのです。しかし、家康の首を取ることは叶わず、すでに多くの兵を失った幸村は、徳川の援軍の前に力尽きます。大坂夏の陣は東軍の勝利に終わり、豊臣家は滅亡、徳川の時代が始まりました。

こうして幸村の生涯を追うと、彼の半生は20代までは父や兄の陰に隠れ、30代は蟄居(ちっきょ:家の中にとじこもっていること)生活を余儀なくされ、彼が本当に活躍したと言えるのは40代での大坂の陣だけなのです。では、歴戦を勝ち抜いて活躍した数多(あまた)の武将がいる中で、彼が戦国武将No.1と言われる程の人気を誇るのは、なぜなのでしょうか。

幸村が多くの日本人に愛されるのは、彼の人生が日本人の心の琴線に触れるからなのでしょう。勝者・徳川方に寝返ることもできたのに、義を貫いて敗者・豊臣方に付き、人生の最期を華々しく飾って散った、その散り際の桜のような美しさ、潔さが、「武士魂の象徴」として今なお多くの人々の心を捕らえて離さないのです。

真田幸村(真田信繁)

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