青年期から「織田家」に仕え、宿老「柴田勝家」(しばたかついえ)と並ぶ双璧として、「織田信長」の天下統一事業を支えた「丹羽長秀」(にわながひで)。戦いでは勇猛果敢な活躍を見せる一方、造船や築城などの行政面にも優れた手腕を発揮し、文武両道を実践して、主君の厚い信頼を獲得しました。また、血気盛んな武将が揃う織田家の家臣団の中にあって、温厚な性格だったことでも有名です。
今回は、派手な武勲こそ少ないものの、誠実な人柄と多彩な才覚で天下人の腹心となった丹羽長秀の生涯と、その人物像についてご紹介します。
丹羽長秀
「丹羽長秀」(にわながひで)は、1535年(天文4年)、「丹羽長政」(にわながまさ)の次男として、尾張国春日井郡(現在の名古屋市西区)に生まれました。
「丹羽家」は代々、尾張国の守護「斯波家」(しばけ)に仕えた豪族でしたが、父の代には、斯波家に代わって台頭した「織田家」に従属。
父の死後、小姓として織田信長に仕えるようになった丹羽長秀は当時16歳で、織田信長はひとつ年上の17歳。織田信長と年の近い丹羽長秀は、早くからその寵愛を受け、「友であり、兄弟である」と言わしめるほどの親密な関係を築きました。
名前の「長」の字は「信長」からもらい受けており、こうした偏諱(へんき)を賜った織田家の家臣は、丹羽長秀と「金森長近」(かなもりながちか)だけです。
なお、丹羽長秀の家紋である「丹羽直違紋」(にわすじかいもん)は、2本の直線を交差させた「直違紋」の一種。同音で「筋違」とも書く直違とは、柱と柱の間に入れる建物の補強部材のことで、一家や城を守るという意味が込められています。
丹羽直違紋はやや縦に長いのが特徴で、一説では、丹羽長秀が戦で敵を討ち取った刀剣を2度に亘って拭いたところ、付着した血の跡が「×印」になったことに由来。また、竹に16枚の短冊を付けた丹羽長秀の「馬印/馬標」(うまじるし:武将の所在を示すため、軍陣に立てた旗)が、合戦後に2枚だけ×印状に残っていたためとも言われています。
織田信長
丹羽長秀が織田信長に仕え始めた頃、尾張国は、織田家の内紛によって分断状態にありました。
1555年(天文24年/弘治元年)、織田信長が本拠の「清洲城」(きよすじょう:現在の愛知県清須市)から出陣して、敵対する「織田信賢」(おだのぶかた)の居城「岩倉城」(いわくらじょう:現在の愛知県岩倉市)を攻撃した際、丹羽長秀も従軍。包囲戦の末に勝利を収め、織田信長は尾張国の統一を成し遂げます。
また丹羽長秀は、1560年(永禄3年)、尾張へ侵攻してきた駿河国(現在の静岡県中部、北東部)の「今川義元」(いまがわよしもと)を迎え撃った「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)において、織田信長から「共に出陣したことで皆が必死に戦い抜き、ついに今川義元の首を得た」と、ねぎらわれるほどの活躍を見せました。
そして、1563年(永禄6年)、織田信長は丹羽長秀への信頼の大きさを物語るかのように、養女「桂峯院」(けいほういん:庶兄にあたる織田信広[おだのぶひろ]の娘)を丹羽長秀のもとに嫁がせています。
尾張国を手中に収めた織田信長は、北に接する美濃国(現在の岐阜県南部)の攻略に着手。30代となった丹羽長秀は、総大将として織田軍を率い、数々の武功を積んでいきました。美濃を治める「斎藤家」の配下にあった「猿啄城」(さるばみじょう:現在の岐阜県坂祝町)への攻撃では、先陣を切って山を攻め上がると、城へ通じる水路を遮断。籠城を断念させることによって、あっという間に敵を降伏に追い込んだのです。
さらに、美濃国と飛騨国(現在の岐阜県北部)を繋ぐ交通の要衝にあった「加治田城」(かじたじょう:現在の岐阜県富加町)での攻防戦では、丹羽長秀が内通工作を仕掛け、斎藤家に属していた城主の「佐藤忠能」(さとうただよし)を寝返らせることに成功。1567年(永禄10年)には、斎藤家の居城である「稲葉山城」(現在の岐阜県岐阜市)攻めに参加し、城主の「斎藤龍興」(さいとうたつおき)を敗走させました。
こうして織田信長は、7年がかりで美濃国を平定。稲葉山城を「岐阜城」と改め、天下統一への足場とします。一連の戦いで多くの功労を重ねた丹羽長秀は、織田信長の重臣としての地位を確立することになったのです。
1565年(永禄8年)、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)が、畿内の武家一族「三好三人衆」(みよしさんにんしゅう)に殺されると、幕府再興を期する弟の「足利義昭」(あしかがよしあき)は、織田信長を頼って尾張国へ身を寄せます。
上洛を計画するにあたって織田信長は、近江国(現在の滋賀県)南部の「六角家」(ろっかくけ)に協力を要請しますが、これを拒否されたため討伐を決定。
丹羽長秀は、3,000の兵を率いて「佐久間信盛」(さくまのぶもり)や「木下藤吉郎」(のちの豊臣秀吉)ら織田家の家臣と共に、六角方の支城「箕作城」(みつくりじょう:現在の滋賀県東近江市)を攻撃します。
このときに丹羽長秀は、「鬼五郎左」(おにごろうざ:五郎左衛門は丹羽長秀の通称)と呼ばれるほどの勇猛な戦いぶりを見せ、1日にして城を陥落させました。
1568年(永禄11年)、上洛を果たした織田信長は、足利義昭を室町幕府の15代将軍に担ぎ上げます。反対勢力を抑え込んで基盤固めを行ない、越前国(現在の福井県北東部)の「朝倉義景」(あさくらよしかげ)にも上洛を促しますが、朝倉義景はその要請に応じませんでした。これにより、織田家と朝倉家は対立状態に突入。
1570年(永禄13年/元亀元年)、「徳川家康」の支援を得た織田軍と、かつて盟友だった近江国の「浅井長政」(あざいながまさ)と朝倉家の連合軍が、「姉川の戦い」で激突します。丹羽長秀は、浅井家の家臣が守る「佐和山城」(現在の滋賀県彦根市)を攻囲して勝利に貢献し、その翌年には、代わって同城の城主となりました。
1573年(元亀4年/天正元年)、朝倉家を滅ぼした「一乗谷の戦い」(いちじょうだにのたたかい)で、丹羽長秀は朝倉義景の母とその世継ぎであった「愛王丸」(あいおうまる)の捜索にあたり、織田信長の命令で2人を殺害。
これらの功績により丹羽長秀は、若狭国(現在の福井県西部)一国を拝領し、織田家の家臣で最初の国持大名となりました。
天下統一を目指す織田信長と、室町幕府の再興を熱望していた足利義昭は、やがて対立するようになります。足利義昭は、周辺諸国の大名らを取り込んで、織田信長に反旗を翻しました。これに応じて織田信長も、足利義昭が立てこもる「二条御所」(現在の京都府京都市)へ向けて挙兵を決意。
しかし、京都へ向かう途中の近江には、足利義昭に味方する六角家や、「浄土真宗本願寺派」の門徒が勢力を張っていました。これを避けるために、琵琶湖を船で渡るという迂回策が企てられ、丹羽長秀は、その船の建造を任されたのです。
丹羽長秀は、織田信長に仕える尾張の宮大工「岡部又右衛門」(おかべまたえもん)を棟梁に抜擢すると、佐和山城の近くに作業場を設け、長さ30間(約54m)、横幅7間(約13m)の巨大軍船を、1年がかりで完成させます。
1573年(元亀4年/天正元年)に織田信長は、この船を使い、琵琶湖東岸の佐和山城から西岸の「坂本城」(現在の滋賀県大津市)へ湖上を一気に抜けて難なく上洛。足利義昭が籠城した二条御所や「槇島城」(まきしまじょう:現在の京都府宇治市)を攻め落とし、室町幕府を崩壊へ追い込むことに成功したのです。
安土城跡
丹羽長秀が成し遂げたもうひとつの大きな仕事が、「安土城」(あづちじょう:現在の滋賀県近江八幡市)の普請でした。
織田信長は、本拠の岐阜城が朝廷のある京都から遠く、天下統一を進める上で不都合が多いことから、琵琶湖東岸の「安土」に居城を移すことを計画。これにあたって、築城の総奉行に任命されたのが丹羽長秀だったのです。
大工棟梁には、前述の軍船を手掛けた岡部又右衛門が再び起用され、堀や門など、城郭の配置を決める「縄張奉行」(なわばりぶぎょう)には、豊臣秀吉が任じられています。
安土城は、それまで主流だった山城と異なり、石垣の上に天守を頂く、当時としては画期的な造りでした。その石垣の普請にあたったのが、近江国の「坂本」の地で活動していた石工集団「穴太衆」(あのうしゅう)。
織田信長は、1571年(元亀2年)に浅井・朝倉連合軍に味方した「比叡山延暦寺」の焼き討ちを行なっており、その事後処理を任されていた丹羽長秀は、焼け残った石垣の堅牢さに注目。石垣を築いた穴太衆に目を付け、築城にあたって協力を仰いだとも言われています。
1582年(天正10年)5月、織田信長は臣従を拒んだ土佐国(現在の高知県)の「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)に対して、3男「織田信孝」(おだのぶたか)を総大将とする討伐軍の派遣を決定します。副将を命じられた丹羽長秀は6月2日、織田信孝と共に四国へ渡るため、大坂に滞在していました。そんなときに京都で起きたのが、明智光秀による謀反、「本能寺の変」だったのです。
この当時の豊臣秀吉は、「毛利家」との戦いで「備中高松城」(現在の岡山県岡山市)に、柴田勝家は「上杉家」との戦いで「魚津城」(うおづじょう:現在の富山県魚津市)に出征中であったため、織田家の重臣の中では、丹羽長秀が京都に最も近い場所にいました。織田信孝を擁していち早く上洛し、明智光秀を討つこともできる立場にいたわけです。しかし、織田信長の死に動揺した兵達が離散してしまったため、大坂に留まらざるを得なかったと言われています。
このとき丹羽長秀は、討伐軍に同行していた織田一族の「津田信澄」(つだのぶすみ:明智光秀の娘婿)を共謀の疑いありとして誅殺。さらに、本能寺の変の一報を受けて急遽帰還した豊臣秀吉と合流し、豊臣軍の一翼として「山崎の戦い」で明智軍と戦い、勝利を収めます。常に支える側の立場に居続けるのが、丹羽長秀の生き方でした。
豊臣秀吉
明智光秀の討伐後、織田家の首脳陣が清洲城に集まり、織田信長の後継者を決める「清洲会議」が開かれます。
列席したのは柴田勝家、丹羽長秀、豊臣秀吉、「池田恒興」(いけだつねおき)の4人。
後継者候補として名前の挙がった織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)、3男の織田信孝、長男「織田信忠」(おだのぶただ)の嫡子「三法師」(さんほうし)のうち、柴田勝家は織田信孝を推しましたが、豊臣秀吉は三法師を支持します。
結局、丹羽長秀と池田恒興が豊臣秀吉に同調したことで、三法師が後継者となりました。それは、豊臣秀吉が三法師の後見人となり、実権を握ることを意味していたのです。
1583年(天正11年)、豊臣秀吉と柴田勝家が死闘を繰り広げた「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)や、「北ノ庄城の戦い」(きたのしょうじょうのたたかい)でも、丹羽長秀は豊臣秀吉側に付き、勝利に貢献。その功績により越前国(現在の福井県北東部)の大部分と加賀国(現在の石川県南部)2郡の加増を得て、123万石の所領を持つ大大名となります。
しかし、それ以降丹羽長秀は、越前国の「北ノ庄城」(現在の福井県福井市)に籠りがちとなり、「大坂城」(現在の大阪府大阪市)落成の際に、豊臣秀吉から上洛を促されても応じませんでした。一説には、賤ヶ岳の戦いで柴田側に付いた織田信孝の母や娘を処刑し、織田信孝本人も自害に追い込むなど、織田信長の遺族をないがしろにした豊臣秀吉に対して、反感を抱いていたためとも言われています。
茶器
織田信長から幅広い政務を任されていた丹羽長秀は、「側用人」(そばようにん:主君に仕えて庶務を担った側近)の「松井友閑」(まついゆうかん)と共に、「名物狩り」と称する茶器の名品集めにも従事。
京都や堺に出かけて、豪商や寺院から金、銀、米と引き換えに、中国渡来の茶壷、花入れ、水墨画など、茶の湯に供される道具類や美術品を召し上げては、織田信長に届けました。
茶会は当時、政治的な接待の場であり、そこに用意される名品の数々は、大名の政治力を誇示する重要な存在。また、それによって財産的価値を高めた茶器は、臣下の武将達に論功行賞として下賜することで、支配の手段としても利用されました。
丹羽長秀も安土城普請の褒美として、「わび茶」の巨匠「村田珠光」(むらたじゅこう)旧蔵の「珠光茶碗」を、織田信長から下賜されています。
丹羽長秀は、1585年(天正13年)、51歳で世を去りました。腹に巣くった寄生虫が死因との説があり、病に屈することを忌み嫌った丹羽長秀は、刀剣で虫もろとも腹を刺してこれを殺し、息を引き取ったと伝えられているのです。
ただし、奇妙な伝説も残っています。丹羽長秀の死因は胃がんで、自ら腹を割いて握りこぶしほどの腫瘍を取り出し、横暴が目に余る豊臣秀吉にそれを送り付けたと言うのです。やがて豊臣秀吉が、書状で丹羽家の所領安堵を約束したのを見届けてから絶命したと伝わっていますが、真相は分かっていません。
丹羽長秀の死後、家督を継いだ嫡男の「丹羽長重」(にわながしげ)は、豊臣秀吉からたびたび失政をとがめられ、加賀国「松任」(まっとう:現在の石川県白山市)4万石にまで領土を縮小させられてしまうのです。一説では、丹羽家の求心力を恐れた豊臣秀吉が、勢力を弱体化させたとも言われています。
安土城普請の功労により、丹羽長秀が織田信長から下賜された珠光茶碗は、1579年(天正7年)になぜか召し上げられ、代わりに名刀が与えられました。それは、鎌倉時代の刀工「長光」(ながみつ)が手がけた「鉋切長光」(かんなぎりながみつ)です。
鍛えは板目で地景(ちけい)が入り、刃文は匂(におい)深く、華やかな丁子乱(ちょうじみだれ)になっています。身幅は広く、猪首鋒/猪首切先(いくびきっさき)も堂々とした小太刀です。
本太刀はもともと、近江国の武士「堅田又五郎」(かただまたごろう)が所有した1振。あるとき、堅田又五郎が出入りの大工と山へ出かけたところ、大工が突然斬りかかってきました。堅田又五郎が刀剣を抜いて応戦すると、大工は持っていた鉋で防御。しかし、大工は鉋と共に、真っ2つに切られてしまったのです。それ以来本太刀は、「鉋切」の名で知られるようになりました。
鉋切は、やがて近江国の六角家が所有し、その後「六角義賢」(ろっかくよしかた)を降伏させた織田信長の手へ渡り、丹羽長秀へ下賜されたのです。