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宇喜多秀家

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月のような形をした大きな立物が特徴的な兜と甲冑を身にまとい、安土桃山時代から江戸時代前期を生きた戦国武将「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)。わずか10歳で家督を継ぎ大きな権力を持った宇喜多秀家の人生は波乱万丈でした。一体どんな人生を送った武将だったのでしょうか。
宇喜多秀家の輝かしい前半生と流罪で苦しんだ50年に亘る八丈島での後半生について、歴史的資料「宇喜多秀家年譜」や「百家系図」をもとに解説します。宇喜多秀家が「豊臣秀吉」に愛された理由や50万石の戦国大名となった半生、関ヶ原の戦いの敗北理由、妻である「豪姫」(ごうひめ)との強い絆など、宇喜多秀家の波乱に満ちた人生に迫ります。また、宇喜多秀家の家紋や刀についてもご紹介しているので、ご覧下さい。

宇喜多秀家の華麗なる前半生

10歳で家督を継いだ宇喜多秀家

宇喜多秀家

宇喜多秀家

宇喜多秀家は、1572年(元亀3年)、備前国「岡山城」(現在の岡山県岡山市北区)の城主であった「宇喜多直家」(うきたなおいえ)の次男として生を受けました。

宇喜多氏はもともと小さな家でしたが、宇喜多直家が下剋上により主君や親戚を討ち取ったことで、勢力を拡大したのです。

宇喜多直家は毛利氏に付いたのち、織田氏に付くこととなりますが、1581年(天正9年)に悪性の腫瘍で病死します。

翌年、宇喜多直家が臣従していた「織田信長」によって、宇喜多氏は手厚く保護されました。

織田信長から宇喜多氏の本領を安堵されたことで、宇喜多秀家は宇喜多氏の家督を継ぎます。

宇喜多秀家がわずか10歳での出来事でした。

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宇喜多秀家は織田信長や豊臣秀吉の寵臣として大活躍

豊臣秀吉

豊臣秀吉

宇喜多直家の死後、宇喜多軍は織田信長の命により、中国地方への遠征を進めていた豊臣秀吉の遠征軍に組み込まれます。

当時、織田方の豊臣秀吉は毛利攻めの最終局面を迎えていたことから、宇喜多軍も中国地方を転戦しました。

また宇喜多軍は、豊臣秀吉による「備中高松城」(現在の岡山県岡山市)攻めにも参戦します。

宇喜多秀家はまだ幼かったため、叔父である「宇喜多忠家」(うきたただいえ)が代理となり宇喜多軍を率いたとのこと。「宇喜多三老」である「戸川秀安」(とがわひでやす)、「長船貞親」(おさふねさだちか)、「岡利勝」(おかとしかつ)ら重臣が、宇喜多秀家を補佐しました。

1582年(天正10年)に「本能寺の変」が起き、織田信長が亡くなります。織田信長が亡くなったことで、豊臣秀吉と「毛利輝元」(もうりてるもと)は和睦。

また、宇喜多秀家は所領の安堵によって、わずか11歳で備中(現在の岡山県西部)の東部から美作(現在の岡山県津山市)と備前を領有する57万石の大大名となり、毛利家の監視役を務めるようになったのです。

宇喜多秀家は、元服を迎えた際、豊臣秀吉から「秀」の字を与えられたため、「秀家」と名乗るようになりました。宇喜多秀家は豊臣秀吉の猶子(ゆうし:後見人になる場合などの便宜的な養子)となり、養子と同じように厚遇を受けます。

豊臣秀吉にたいそう気に入られたことから、宇喜多秀家は1588年(天正16年)以前に、豊臣秀吉の養女であり、「前田利家」(まえだとしいえ)の娘である豪姫を正室として迎えました。

その結果、宇喜多秀家は外様大名でありながら、豊臣秀吉の一門衆として扱われるようになるのです。

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宇喜多秀家の目覚ましい活躍!豊臣五大老となる

1584年(天正12年)、宇喜多秀家は「小牧・長久手の戦い」において「大坂城」(現在の大阪城大阪府大阪市)を守り、「雑賀衆」(さいかしゅう:紀伊半島南西部を支配した勢力)の侵攻を撃退しました。

1585年(天正13年)には「紀州征伐」に参戦し、四国攻めにおいて宇喜多秀家は讃岐(現在の香川県)へ上陸、のちに阿波(現在の徳島県)の戦いにも加わっています。

1586年(天正14年)に行なわれた「九州征伐」にも、「豊臣秀長」(とよとみひでなが)のもと、毛利輝元や「藤堂高虎」(とうどうたかとら)、「宮部継潤」(みやべけいじゅん)らと日向戦線に加わりました。

その後も数年に亘り、着実に武勇を重ね、豊臣秀吉へ忠義を尽くした結果、豊臣姓(本姓)と羽柴氏(名字)を与えられたのです。

1590年(天正18年)に「小田原征伐」へ参戦した宇喜多秀家は、ここでも軍功を挙げ、豊臣政権を大いに支えました。

朝鮮出兵

朝鮮出兵

1592年(文禄元年)から行なわれた「文禄の役」で、宇喜多秀家は大将として朝鮮へ出兵。

破竹の勢いで、李氏朝鮮(1392年[元中9年]から1910年[明治43年]に存在した朝鮮半島の国家)の都、漢城に入り京畿道(けいきどう/キョンギド)の平定にあたりました。

1593年(文禄2年)に「李如松」(りじょしょう)率いる明軍が攻めてくると、宇喜多秀家は「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)らと迎撃し、日本軍が勝利したのです。同年のちには「晋州城」(しんしゅうじょう/チンジュソン)を攻略しました。

宇喜多秀家は武功を重ねたことが評価され、1594年(文禄3年)に参議から従三位権中納言に昇叙(しょうじょ:官位が上がること)します。

1597年(慶長2年)から行なわれた「慶長の役」において、宇喜多秀家は「毛利秀元」(もうりひでもと)と共に再び朝鮮へ渡りました。日本軍は、全軍を右軍と左軍に分けて進軍。宇喜多秀家は左軍を率いて、「南原城」を攻略します。

さらに軍を前進させ全羅道(ぜんらどう/チョルラド)と忠清道(ちゅうせいどう/チュンチョンド)を席捲しました。のちに宇喜多秀家は南岸へ戻り、「順天倭城」(じゅんてんわじょう)の築城を進めて完成させるなどの活躍を見せます。

また宇喜多秀家は、朝鮮出兵前の1590年(天正18年)に、豊臣秀吉から岡山城の改築も命じられていました。改修工事は1597年(慶長2年)に終わり、新たな岡山城が完成したのです。

宇喜多秀家は戦いに出るばかりではなく、近世的な城郭構想に基づいて、城下町の建設にも乗り出し、商工業者を城下に集めたことで岡山発展の基礎を築きました。

1598年(慶長3年)に2度目の朝鮮出兵から帰国した宇喜多秀家は、朝鮮での軍功や岡山城の改修など、多岐にわたる功績によって、豊臣秀吉から豊臣五大老のひとりとして任命。宇喜多秀家はついに、名実ともに豊臣政権の実力者として、名を連ねることとなったのです。

ところが、同年8月に豊臣秀吉は亡くなってしまいます。

宇喜多秀家の運命が一転した宇喜多騒動

豊臣秀吉が亡くなったのちの1599年(慶長4年)、宇喜多秀家は、宇喜多家の重臣であった「戸川達安」(とがわみちやす)や「岡貞綱」(おかさだつな)らから、宇喜多秀家の側近である「中村次郎兵衛」(なかむらじろうべえ)の処分を迫られていました。

中村次郎兵衛は宇喜多秀家の正室である豪姫の輿入れと共に、前田家から宇喜多家の新参家臣となった人物です。宇喜多秀家は、経理に明るく土木築城技術に優れていた中村次郎兵衛を、大坂屋敷の家老とするなど重用していました。

しかし宇喜多家の重臣達と、中村次郎兵衛が対立。宇喜多秀家は、宇喜多家の重臣達から迫られた中村次郎兵衛の処分を拒否します。中村次郎兵衛は前田家に逃れますが、宇喜多家の重臣である戸川達安らが大坂の屋敷を占拠。

これは「宇喜多騒動」と言われ、宇喜多秀家は騒動の首謀者を戸川達安とし、暗殺を謀りました。

ところが宇喜多秀家と対立していた従兄弟の「宇喜多詮家」(うきたあきいえ:のちの坂崎直盛[さかざきなおもり])が、戸川達安をかばい大坂玉造の自邸へ立て籠もってしまいます。宇喜多秀家と宇喜多詮家は、一触即発の状態でした。

騒動の調停には当初、越前「敦賀城」(現在の福井県敦賀市)の城主だった「大谷吉継」(おおたによしつぐ)と、「徳川家康」の家臣「榊原康政」(さかきばらやすまさ)があたっています。榊原康政は伏見への在番任期が終わっても、居残り調停を続けていました。

その結果、国許での政務が滞り、榊原康政は徳川家康から叱責をうけ、国許へ帰ることになります。そうして宇喜多秀家や戸川達安らの対立は、いつまでたっても解消されなかったため、大谷吉継も手を引かざるを得なくなってしまいました。最終的に徳川家康が裁断し、宇喜多家の内乱は回避できたのです。

この宇喜多騒動の原因については諸説ありますが、下記の5つが挙げられます。

  • 新参者ながら宇喜多秀家に重用された、中村次郎兵衛らの専横に対する他の重臣達の不満
  • 家臣達の政治的内部紛争
  • 宇喜多秀家の素行問題
  • 中村次郎兵衛が出費を補うために行なった増税
  • キリシタン対策

中村次郎兵衛らへの不満や家臣達の内紛は先述した通りです。宇喜多秀家の素行や増税については、朝鮮出兵から帰国したのちに問題となりました。

宇喜多秀家は朝鮮より帰国したあと、遊ぶことに夢中になります。特に鷹狩りや猿楽(さるがく:滑稽なものまねなどの演芸)などに興じ、金銭を湯水のように使い始めました。

当時の宇喜多家は岡山城の築城と、2度に亘る朝鮮出兵によって莫大な出費を重ねたことから、ひどい財政難に陥っていたのです。家老が宇喜多秀家へ進言すると、「必要な金は民衆から取るように」と言い、豊臣秀吉が行なっていた検地を拡大強化します。さらに家臣達の領地まで削り、寺社領も没収しました。

また、キリシタンであった豪姫が病気をした際に、日蓮宗の僧侶に祈祷させたところまったく効果がなかったことから、全土において日蓮宗からキリシタンへの改宗を命じます。

はっきりとした宇喜多騒動の原因は断定されていません。しかし、宇喜多秀家が行なった無理な政策に対して、家臣は賛成派と反対派に分かれることになったのです。

結果として一連の宇喜多騒動が勃発し、宇喜多秀家の父である宇喜多直家の時代から仕える優秀な家臣達や、一門衆の多くが宇喜多家を去っていきます。退去した家臣達のうち、戸川達安、岡貞綱らはのちに徳川家康の家臣となりました。

騒動のあと、宇喜多家は軍事的にも政治的にも急速に衰退してしまいます。

宇喜多秀家の後半生。八丈島で過ごした50年

宇喜多家が壊滅する理由となった関ヶ原の戦いの敗北

石田三成

石田三成

豊臣秀吉が亡くなったのちの1599年(慶長4年)、あとを追うように義父の前田利家が死去。「豊臣秀頼」(とよとみひでより)の後見役だった前田利家が亡くなったことで、豊臣家内で派閥抗争が表面化しました。

武断派の「加藤清正」(かとうきよまさ)や「福島正則」(ふくしままさのり)らと、文治派の「石田三成」(いしだみつなり)や「小西行長」(こにしゆきなが)らの対立です。

1599年(慶長4年)3月、武闘派の加藤清正ら7将によって、石田三成の襲撃事件が起きました。事件勃発を受けて、宇喜多秀家は「佐竹義宣」(さたけよしのぶ)と共に石田三成を救出します。

この騒動を仲裁することで、豊臣政権下で影響力を強めていったのが、豊臣五大老だった実力者、徳川家康でした。

1600年(慶長5年)、徳川家康が会津(現在の福島県)を征伐するべく出兵した機を見計らい、石田三成は毛利輝元を盟主として、徳川家康を討つため挙兵しました。

宇喜多秀家は西軍の副大将として、石田三成や大谷吉継らとともに西軍の主力となります。「伏見城の戦い」(現在の京都府伏見区)に宇喜多秀家は総大将として参戦し、攻略を果たして本隊と別れたあとも伊勢国「長島城」(現在の三重県桑名市)を攻撃。続いて美濃国「大垣城」(岐阜県大垣市)へ入城した宇喜多秀家は、西軍本隊と合流します。

迎えた「関ヶ原の戦い」では、本戦において宇喜多秀家が西軍の第1陣となり、17,000人の兵を率いていました。

宇喜多秀家軍に対した東軍は福島正則軍です。宇喜多氏と福島氏の対決が、関ヶ原の戦いにおいて1番の激戦だったと伝えられています。両軍は攻防を重ね、一進一退の激闘を繰り広げました。宇喜多秀家の戦いぶりは素晴らしく、勇猛な福島軍でさえ容易には討ち破れなかったと言うことです。

小早川秀秋

小早川秀秋

しかし、戦が佳境を迎えた頃、宇喜多秀家は同じ豊臣氏の一門であった「小早川秀秋」(こばやかわひであき)の裏切りに遭います。松尾山(岐阜県不破郡関ヶ原町)に陣取っていた小早川秀秋が、突如東軍に寝返ったのです。

小早川秀秋に続いて「朽木元綱」(くつきもとつな)、「赤座直保」(あかざなおやす)、「小川祐忠」(おがわすけただ)、「脇坂安治」(わきさかやすはる)の4軍が、共に西軍の大谷吉継に攻撃を仕掛けます。

大谷吉継は、小早川秀秋がかねてより徳川家康と繋がっていることに気付いていましたが、他の4軍については想定外でした。思わぬ攻撃を受けた大谷吉継は、自軍を討ち破られたことから自害します。宇喜多秀家は、大谷吉継の軍が討ち破られてからも、なお中央にて奮戦していました。

しかし、小早川秀秋をはじめとする裏切り部隊や、徳川軍らが一気に攻めてきたことで、完全に崩されてしまいます。

宇喜多秀家は小早川秀秋の突然の裏切りを許すことができず、小早川秀秋と刺し違えようとしますが、家臣に止められ関ヶ原から脱走。小早川秀秋が裏切ったことによって、西軍は敗北、世は徳川家康の天下となることが決まったのです。

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宇喜多秀家、八丈島に流罪となる

徳川家康

徳川家康

関ヶ原の戦いのあと、宇喜多家は徳川家康によって改易(かいえき:身分と領地や屋敷などを取り上げること)されます。

宇喜多秀家は関ヶ原から脱出したのち、伊吹山(滋賀県米原市)の山中に逃げ込みました。その際、落ち武者狩りの「矢野五右衛門」(やのごえもん)と遭遇しますが、哀れに思った矢野五右衛門は宇喜多秀家を自宅に招き入れ、40日以上の長きに亘り匿い通します。

宇喜多秀家が匿われている中、家臣の「進藤三左衛門」(しんどうさんざえもん)は宇喜多秀家から脇差を請い受け、伏見にある徳川屋敷へ自首します。進藤三左衛門は、宇喜多秀家の脇差「鳥飼来国次」(とりかいらいくにつぐ)を差し出し、「宇喜多秀家は自害し、遺体は高野山[和歌山県高野町]へ葬った」と伝えたのです。

進藤三左衛門の身柄は、徳川家康の家臣「本多正信」(ほんだまさのぶ)預かりとなりました。徳川方は進藤三左衛門の言うことを全面的には信用していませんでしたが、詮索の手は緩められたのです。

矢野五右衛門は、詮索の手が緩んだ隙をついて、「黒田勘十郎」(くろだかんじゅうろう)と共に宇喜多秀家を宇喜多家の屋敷に連れ戻します。しかし、宇喜多秀家は大坂屋敷に戻ったものの、長くいることはできませんでした。

宇喜多秀家の夫人である豪姫は実家の加賀前田家に相談。前田家としても長期間見て見ぬふりをすることは困難だったのです。また、前田家は豪姫に対して、宇喜多秀家を徳川方へ差し出すか、九州へ落とすか決めるよう迫ります。

徳川方へ差し出すことを断固拒否した豪姫により、宇喜多秀家は薩摩(現在の鹿児島県)へ行くことになりました。宇喜多秀家は薩摩に入り平野氏に守られましたが、これも長くは続きません。

それというのも、島津家と徳川家で和解が成立し、宇喜多秀家を引き渡すことになったのです。島津家や前田家は徳川に、宇喜多秀家の命だけは助けるよう願い出ます。そのおかげで宇喜多秀家は死罪を免れ、駿河久能山(静岡県静岡市駿河区)へ幽閉されました。

徳川方としては宇喜多秀家を助命したものの、処断に困り、ようやく3年経ったのちに徳川幕府として決定を下します。内容は「八丈島遠島」(はちじょうじまえんとう)でした。

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宇喜多秀家の後半生の舞台は八丈島

宇喜多秀家は、息子の「宇喜多秀高」(うきたひでたか)、「宇喜多秀継」(うきたひでつぐ)、家臣10名と共に八丈島(現在の東京都八丈町)へ送られます。

八丈島に到着した宇喜多秀家は名字を「浮田」、号を「久福」と改めました。当時の八丈島は「鳥も通わぬ」と言われた絶海の孤島だったのです。

宇喜多秀家らは、妻・豪姫の実家である加賀前田氏や、宇喜多家の旧臣だった「花房正成」(はなぶさまさなり)らの援助を受け、約50年の流刑生活を過ごしました。宇喜多秀家らへの援助は最初、秘密裏に行なわれましたが、晩年、公に隔年で70俵の援助を得ることを幕府から許されたのです。

また高貴な身分であったことから、他の流人より厚遇されていたとも伝えられています。

宇喜多秀家の妻、豪姫との絆

豪姫

豪姫

豪姫は前田利家の4女として生まれました。実子のいなかった豊臣秀吉の養女となり、たいへん可愛がられて育ちます。豊臣秀吉は常々豪姫には「三国一の婿を」と口にしており、婿として選ばれた相手が宇喜多秀家でした。

結婚した宇喜多秀家と豪姫は仲睦まじく、2男1女に恵まれます。しかし、関ヶ原の戦いから2人の運命は一変。戦いに敗れた宇喜多秀家は、薩摩へ逃れる最中に備前屋敷へ寄り、豪姫と数日過ごしました。

のちに船で薩摩へ向かいますが、2人にとってこれが今生の別れとなります。

豪姫は宇喜多秀家らと同行し、共に苦労することを望みますが、受け入れられませんでした。

宇喜多秀家が死罪を免れることができたのは、豪姫の働きかけによる影響が大きいとされています。夫である宇喜多秀家や息子達の身を案じ、豪姫は八丈島への仕送りを絶えず続けました。

豪姫は生涯、宇喜多秀家のみを夫とし、他の家に嫁ぐことはなく、実家の前田家で最期を迎えます。宇喜多秀家もまた八丈島で新たに妻を娶ることはなく、生涯を終えました。いかに2人が互いを思い合っていたかが分かる逸話です。

宇喜多家の家紋「逆境でも花を咲かせる」

剣片喰

剣片喰

剣片喰

宇喜多家の家紋は「剣片喰」(けんかたばみ)という家紋を用いていました。

「片喰」とは、日本に古くから存在する、なじみの深い植物です。ハートの形をした葉が特徴的で、家紋にもよく表れています。

片喰は環境が良くない場所でも花を咲かせる植物のため、「逆境でも花を咲かせる」という意味から武将達の家紋に多用されるようになりました。

また、繁殖力が強い植物で子孫繁栄の意味も含んだことから、縁起の良さに繋がったとされています。

児

宇喜多家と言えば、「児」(こ)の紋が印象的。

中央にある文字は、現在使われていない文字で、児のもとになった漢字です。

宇喜多家は「太平記」に登場する、「児島高徳」(こじまたかのり)という人物の子孫であると言われたことから、児という紋を旗印に使用するようになりました。

朝鮮出兵で宇喜多秀家が用いた実践薙刀

宇喜多秀家は、1592年(文禄元年)に始まった文禄の役で、豊臣秀吉から総大将に任じられて朝鮮半島へ出陣しています。

そのとき使用されたとされるのが本薙刀であり、海を渡って武功を挙げた宇喜多秀家を支えたことから、「渡海龍」(とかいりゅう)という号が付けられました。

制作者の「広賀」は、伯耆国(現在の鳥取県)の刀工で、その作風である末相州の特徴が、本薙刀の堂々たる姿によく表されています。

薙刀 銘 伯耆国住広賀
薙刀 銘 伯耆国住広賀
伯耆国住広賀作
天正二年八月日
鑑定区分
保存刀剣
刃長
55.8
所蔵・伝来
宇喜多秀家 →
加賀前田家伝来 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

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