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毛利元就

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「毛利元就」(もうりもとなり)は、安芸国(あきのくに:現在の広島県西部)の国人領主から、中国地方全域を統一した戦国時代の豪傑。幼少期に両親を失い、19歳で兄を失い、さらに甥までをも亡くしたことで、次男にして毛利家の家督を相続します。権謀術に長け、稀代の策略家としても有名な武将です。一代で中国地方統一を成し遂げた、毛利元就の生涯を見ていきましょう。

不遇の幼少期と養母・大杉方

毛利元就

毛利元就

毛利元就は、1497年(明応6年)生まれ。

父は安芸国の国人領主「毛利弘元」(もうりひろもと)で、その次男として養育されます。

毛利元就の生まれた時代は、1467年(応仁元年)にはじまった「応仁の乱」(1454年[享徳3年]の享徳の乱からという説もあります)を発端に幕を開けた戦国時代。

毛利元就は、戦国時代の中でもやや初期の生まれでした。同じ年代には、「斎藤道三」(さいとうどうさん)などがいます。

なお、この頃、現在の広島県にあたる地域には、安芸国と備後国(びんごのくに:現在の広島県東部)の2つの国が存在。それぞれ毛利家のような小領主が複数存在している状態でした。

その周りを囲むように勢力を誇っていたのが、九州北部から山陽にかけて力を持っていた大名・大内氏、そして山陰を牛耳っていた大名・尼子氏です。

安芸、備後の小領主達は、生き残りを賭けて大内氏に付くか、尼子氏に付くか、不安定な状態でした。

この時代、毛利氏が従属していたのが大内氏です。1500年(明応9年)頃になると、単に大内氏、尼子氏という関係だけでなく、大内氏が先の室町幕府将軍「足利義植」(あしかがよしたね)を擁護したことで、その他の勢力も巻き込まれていきます。ついには、室町幕府派、反室町幕府の巨大な2つの勢力争いによって毛利氏も翻弄されるのです。

こうした中で、毛利元就の父・毛利弘元は隠居を決意。家督を嫡男「毛利興元」(もうりおきもと)に譲って、まだ幼い毛利元就と共に、「鈴尾城」(諸説あり)から「多治比猿掛城」(たじひさるがけじょう)へ居を移すのでした。

1501年(明応10年)、毛利元就が4歳のときに母が死去。続いて1506年(永正3年)、毛利元就が10歳のときに父も酒毒で死去してしまいます。家臣に家禄を横領され、さらには城までも奪われた毛利元就は、そのまま城を追い出されて孤児となり、「乞食若様」(こじきわかさま)と呼ばれるほど貧しい生活を送るはめに。

そんな毛利元就を不憫に思った父の継室「杉大方」(すぎのおおかた)は、毛利元就を引き取り養育します。のちに杉大方について、「11歳の孤児の私を再婚もせずに育ててもらった」と、自身の長男に宛てた手紙に記しているほど、毛利元就にとって杉大方は偉大な存在となりました。

27歳にして、家督を相続

養母の杉大方の下、青年に成長した毛利元就は、1511年(永正8年)に元服を終えました。実際に「元就」の名を使いだしたのはこの頃。 それまでは「松寿丸」(しょうじゅまる)という幼名でした。

そして時は流れ、毛利元就が19歳の頃に、思いもよらない事件が起こります。兄・毛利興元も酒毒で急逝したのです。

毛利興元には、嫡男の「幸松丸」(こうしょうまる)がいましたが、まだ2歳の幼子で後見人が必要でした。 兄のあとを継いだ甥の幸松丸の後見人として、名が挙がったのが毛利元就です。

こうして毛利家当主は、短期間の内に次々と代替わりを繰り返していたため、これを好機と見る勢力もありました。幸松丸が毛利家を継いだ翌年となる1517年(永正14年)に、佐東銀山城主の「武田元繁」(たけだもとしげ)が、吉川領「有田城」に侵攻してきたのです。吉川氏は、毛利元就の妻のルーツで、婚姻の時期は不明ですが、吉川氏と毛利氏は何らかの同盟関係で結ばれていたと言われています。

これにより、毛利元就は幸松丸に代わって、吉川氏援護のために出陣。吉川氏と共に安芸武田氏と戦いました。これが「有田中井手の戦い」です。毛利元就にとっては初陣でした。

毛利元就は、初陣にもかかわらず、安芸武田氏の重鎮にして猛将と言われた「熊谷元直」(くまがいもとなお)を討ち取り、さらには武田元繁までも討ち取る大勝利。敵軍安芸武田氏の5,000の兵に対し、毛利側は1,200~2,000の兵に過ぎなかったことから、毛利元就の名は広く知られることになりました。そのため、後世においてこの戦は、毛利家の「明」と安芸武田家の「暗」を分ける「西国の桶狭間」と言われるようになります。

その後も、毛利元就は後見役として尽くし、大内氏から尼子氏へ従属先を変えたり、戦に出向いたりなど、毛利家存続のために奮闘しました。しかし1523年(大永3年)、幸松丸が病気で他界し、毛利元就は27歳にして毛利家の家督を継ぐことになったのです。

安芸・備後・石見にまで力を広げる

家督相続の少し前から、大内氏から離れ尼子氏に付いていた毛利元就でしたが、幸松丸の死去による家督継承をめぐって、「尼子経久」(あまごつねひさ)と対立するようになっていました。

他にも十分な恩賞が得られないなどの不満があり、毛利元就は徐々に尼子経久と距離を置くようになります。

家督相続から2年後の1525年(大永5年)、毛利元就は大内義隆の傘下に入ることを明言します。毛利元就は大内氏の下、安芸と備後両国の軍事を指揮するようになりました。

1529年(享禄2年)、毛利元就は、幸松丸の母の実家でありながら尼子氏側に付いた安芸石見国の領主連合率いる「高橋氏」を、大内氏軍などと協力して滅ぼします。これにより安芸から石見(いわみ:現在の島根県西部)にかけての広大な領土を手に入れたのです。

さらに1535年(天文4年)には、隣国・備後の「多賀山城」を攻めて降伏させています。 まだこの頃は大内氏に従属していたため、あくまでも大内氏の配下でしたが、事実上、安芸・備後・石見の盟主という地位を手に入れたのでした。大内氏の下に付いたことで、毛利元就は広大な土地とその実質的な権力を握ったことになります。

毛利元就が安芸・備後を上手く取り込めたもうひとつの訳

毛利元就が毛利家の家督を継いだ頃、毛利家の領地は狭く、現在の広島県安芸高田市吉田町辺りの限られた範囲でした。それでも毛利家が存続してこられたのは、毛利元就が家督を継ぐ以前からの国人連合があったからに他なりません。

これは、毛利氏含む周辺の国人領主がお互い共存できるように、対等な関係で約束を交わすというものでした。毛利元就が安芸国を超え、備後、石見と勢力を伸ばせたのも、この国人連合が深く関係していました。平和的に盟主の座に就くために、この国人連合は、恰好のシステムだったのです。

毛利両川体制

大内氏の下、確実に勢力を広げていた毛利元就ですが、これを快く思わないのが、尼子氏でした。1540年(天文9年)、「尼子晴久」(あまごはるひさ)の30,000の兵が、毛利元就の居城「郡山城」に進軍してきたのです。

しかし、この危機も国人連合、大内氏の援軍によって切り抜けます。これで勢い付いた毛利元就は、同年の「吉田郡山城の戦い」で、安芸武田氏を滅亡させました。

こうして、国人領主・大内氏の協力も得ながら、盟主の座を固めていった毛利元就でしたが、本当の意味での国主ではありません。

そこで、毛利元就は大内氏から独立することを決意します。しかし、一介の国人領主にすぎない毛利元就がそのまま独立すれば、尼子氏、大内氏に狙われることは火を見るよりも明らかです。

そこで毛利元就が考えたのが、周辺の国人領主を懐柔して、自分の手中に収めることでした。そのために、元毛利就は次男を妻のルーツ・吉川氏に養子に出し、3男を水軍のある小早川氏に養子に出し、それぞれ家督を相続させたのです。

2人の子は、「吉川元春」(きっかわもとはる)、「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)と名乗り、毛利元就と共に「毛利両川体制」を築きました。これにより、大内氏、尼子氏とも引けを取らない、新勢力・毛利氏が誕生したのです。

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中国地方の制覇

毛利両川体制を築く最中、毛利元就は1546年(天文15年)に長男の「毛利隆元」(もうりたかもと)に家督を譲っていました。しかし、それは表向きで、実際は毛利元就が権力を掌握していたと言われています。

そんな中、毛利両川体制により、基盤を固めていた毛利元就に、思いもよらない知らせが舞い込みました。主君であった「大内義隆」(おおうちよしたか)が、大内氏の家臣「陶晴賢」(すえはるかた)の謀反により殺害され、陶氏が実権を握ったのです。

この混乱に乗じて、毛利元就は旧安芸武田氏の領地を奪取。傘下に入らない国人領主らを粛正し、さらなる勢力の拡大を図りました。危機感を覚えた陶氏は、毛利元就から国人連合の長の座を奪おうとします。これにより、両者の関係はますます冷え込みました。

1554年(天文23年)、毛利元就は大内氏から独立し、その間、大内氏内での分裂を工作することで大内氏の衰退を図りました。ただ独立するだけでは、まだ兵力の差が大きすぎたのです。

1555年(弘治元年)、大内義隆を倒した「陶晴賢」を、「厳島の戦い」で撃破。1557年(弘治3年)には、「大内義長」(おおうちよしなが)を討ち、大内氏を滅亡させました。これにより毛利元就は、大内氏の治めていた長門国(ながとのくに:現在の山口県北西部)、周防国(すおうのくに:現在の山口県東部)を手に入れます。

1560年(永禄3年)には、尼子晴久が死去。そして、1562年(永禄5年)までに石見国を完全に平定した毛利元就は、尼子氏の居城「月山富田城」を包囲して尼子氏を降伏させました。これにより出雲国(いずものくに:現在の島根県東部) 、隠岐国(おきのくに:現在の島根県隠岐諸島)、伯耆国(ほうきのくに:現在の島根県中西部)を獲得。

その後、四国の伊予国(いよのくに:現在の愛媛県)の一部まで勢力を拡大した毛利元就は、名実ともに中国地方を代表する大名となったのです。

こうして、一代で中国地方の統一を果たした毛利元就は、1571(元亀2年)、その生涯を閉じます。享年75歳でした。

毛利元就の策略

智略に優れていたと言われる毛利元就ですが、実際にどのようなものだったのでしょうか。吉田郡山城の戦い、厳島の戦い前の工作、「月山富田城の戦い」においても、数々の策略を行なっています。

佐東銀山城の戦い

吉田郡山城

吉田郡山城

1540年(天文9年)の吉田郡山城の戦いでは、安芸武田氏が城に籠もったことで、毛利元就軍は厳しい戦局を迎えていました。

できるだけ少ない犠牲で、堅固な「佐東銀山城」を破るには何か秘策が必要。

そこで、毛利元就は農民達に大量の草鞋を持ってこさせ、草鞋油に浸して1,000足に火を付けて、夜間に太田川に流させました。

これにより、佐東銀山城に籠もる武田軍は大軍が攻めてきたと勘違い。武田軍を引き寄せ、勝利したと言われています。

厳島の戦い前の工作

厳島の戦いよりも前のこと。いずれ合戦になると予想していた毛利元就は、大内氏を乗っ取った陶氏との戦力差に頭を悩ませていました。その差は、大内氏30,000に対し、毛利元就は5,000と言われています。そこで毛利元就が考えたのが、陶氏の戦力を大きく減らすこと。

標的にされたのが、陶氏の家臣「江良房栄」(えらふさひで)です。毛利元就は、江良房栄が「謀反を企てている」というデマを流し、筆跡を真似て内通を約束した書状まで偽造。これにより、陶氏側では内乱が起き、陶氏は自らの手で江良房栄を殺害しました。

第2次月山富田城の戦い

尼子晴久死去後、毛利元就は月山富田城を攻めます。開戦から落城まで4年の月日がかかっていますが、これは毛利元就が兵糧攻めを行なったためでした。

「第1次月山富田城の戦い」で大内氏に属していた際、大軍で攻めたにもかかわらず、毛利元就は危うく命を失いかけたため、月山富田城攻略に向けては、慎重になっていたのです。

兵糧攻めによって、兵糧が得られなくなった月山富田城の兵達は、次々に落命。投降した者も斬り捨てたと言われています。冬に入る頃、毛利元就は投降を認める立札を立てました。さらには粥の炊き出しを行なうなど、精神的に揺さぶりをかけます。立札を見た兵士達は、雪崩を打ったように投降。最終的に尼子氏は降伏せざるを得なくなりました。

モットーは「一族団結」

権謀術に優れている人物であると聞いた場合、狡猾な人物を思い浮かべることが一般的です。しかし、素顔の毛利元就は酒を呑まず、家臣を気遣い、どんなに身分の低い者にでも一声掛ける、「優しい」気性だったと言われています。

また、一族が一致団結することを誰よりも望んでいました。毛利元就が書いたとされる三子教訓状が根拠で、3mにも亘る書状には、14の心構えが書かれ、家族で一致団結して支え合っていかなければならないという内容を記しています。前述の3兄弟以外にも多くの子を持ち、兄弟同士の諍いを懸念したのです。

戦国時代は下剋上の時代。多くの戦国大名達が骨肉の争いで滅亡したことを考えると、一族団結という毛利元就の教えは、戦乱の世を生き抜くための「道しるべ」でした。毛利元就による「教え」が代々続いたかどうかは分かりませんが、子孫は長州藩の藩主となり、その血筋は現在も継承、繁栄しています。

毛利元就の家紋

一文字に三つ星

一文字に三つ星

毛利元就の家紋は、「一文字に三つ星」(いちもんじにみつぼし)です。

毛利氏が代々使ってきた家紋と言われ、遡っていくと大江氏にたどり着きます。

毛利元就の先祖は、鎌倉幕府で「源頼朝」の側近として重要な役割を担った「大江広元」(おおえのひろもと)であるためです。

一文字は、大江広元より前の平安時代の先祖が、親王から次女を下げ妻としてもらい受けた際にすでに妊娠しており、親王の落としだねだったために親王の位・一品を示したもの。もっとも、武士の間では打ち勝つという意味があったと言われています。

三つ星は、オリオン座の3つの星を示したもので、宗教的なものでもあります。古代、星が信仰されていた名残によるものです。

毛利元就の名言

1本の矢ではたやすく折れるが、3本束にすれば折れがたい

毛利元就の逸話の中で、最も有名なのが「3本の矢」のエピソード。

毛利元就の3人の息子、毛利隆元、毛利元春、毛利隆景に1本ずつ矢を渡し、「折ってみなさい」と促します。1本の矢は、当然簡単に折ることができます。それを見ていた毛利元就は、次に3本の矢を渡しました。

3本の矢は1度には折れません。1本の矢では、いとも簡単に折れてしまいますが、3本の矢を一気に折ろうとしても折れないことを見せ、「このように、ひとりでは弱くても、兄弟3人で力を合わせれば、どんな困難をも乗り越えることができる」と矢を例にして説いたという逸話です。

しかし、創作だという説もあり、三子教訓状から、この3本の矢の話に発展したのではと考えられています。

太刀 伝友成

毛利元就の愛刀として知られている1振が、国の重要文化財に指定されている「太刀 伝友成」です。

この太刀は、が「備前國□□」となっており、作者については確実な資料があるとは言えませんが、古備前の名工「友成」(ともなり)による作と伝えられています。

腰反り高く、腰元に踏ん張りのある姿に、古備前の特色がよく現われている1振。

また、には刀剣による切り込みの痕が残っており、この太刀が実戦を潜り抜けてきたことを示しています。

太刀 伝友成

太刀 伝友成

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
備前國□□ 平安時代 後期 重要文化財 毛利家→
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