戦国武将一覧
毛利元就
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毛利元就

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「毛利元就」(もうりもとなり)は、安芸国(現在の広島県西部)の国人領主から、中国地方全域を統一したスゴイ人物。幼少期に両親を失い、19歳で兄を失い、甥を失い、「次男」にして毛利家の家督を相続します。権謀術数に長け、稀代の策略家としても有名。一代で大成を成し遂げた、毛利元就の生涯を見ていきましょう。

27歳にして、家督を相続!

毛利元就

毛利元就

毛利元就は、1497年(明応6年)生まれ。父は安芸国の国人領主「毛利弘元」(もうりひろもと)で、この次男として育ちます。

しかし、1501年(明応10年)、元就が4歳のときに母が死去。1506年(永正3年)、元就が10歳のときに父も酒毒で死去し、城を追い出されて孤児となり、「乞食若様」(こじきわかさま)と呼ばれるはめに。不憫に思った父の継室「杉大方」(すぎのおおかた)に養育してもらうのです。

元就が19歳のときに、兄「興元」(おきもと)も酒毒で急逝。兄のあとを継いだ甥の「幸松丸」の後見となります。

元就の初陣は、ちょうどこのとき。1517年(永正14年)の「有田中井手の戦い」でした。佐東銀山城主「武田元繁」が、有田城に侵攻。安芸武田氏重鎮で猛将と言われた「熊谷元直」を討ち取り、次に武田元繁も討ち取り、大勝利。安芸武田5,000の兵に対し、毛利側は1,200~2,000の兵に過ぎなかったことから、元就は広く名前を知られることになります。

この戦が、毛利家の「明」と安芸武田家の「暗」を分ける「西国の桶狭間」と言われる程に。1523年(大永3年)に幸松丸が夭逝し、元就は27歳にして毛利家の家督を継ぐことになるのです。

中国地方全域を支配!

元就は、家督継承をめぐって「尼子経久」(あまごつねひさ)と対立するようになり、大内義隆の傘下に入ることを明言します。1529年(享禄2年)、安芸石見国の領主連合を率いていた「高橋氏」を滅ぼし、安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れます。

1535年(天文4年)には、隣国の多賀山城を攻めて降伏させ、1540年(天文9年)には、「吉田郡山城の戦い」で安芸武田氏が滅亡。1555年(弘治元年)、大内義隆を倒した「陶 晴賢」(すえはるたか)を「厳島の戦い」で撃破。そして、大内義長、尼子氏を討ち、中国地方全域を支配します。

元就の策略とは!?

智略に優れていると言われる元就ですが、実際に数々のスゴイ策略を行なっています。

1540年(天文9年)吉田郡山城の戦いでは、草鞋1,000足に火を付けて、夜間に太田川に流し、佐東銀山城に籠もる武田氏に動揺を与えたこと。

1555年(弘治元年)、厳島の戦いでは、陶の家臣・江良房栄が「謀反を企てている」というデマを流し、本人の筆跡を真似て内通を約束した書状まで偽造。これにより、陶側では内乱が置き、陶は自らの手で江良房栄を暗殺、自滅に追い込んだこと。

また、1560年(永禄3年)、月山富田城を包囲して兵糧攻めに持ち込むと、粥を炊き出して城内の兵士の降伏を誘い、投降者が続出したこと。

このように、相手を精神的に操ることに長けていたのです。

モットーは「一族団結」

権謀術数に優れていると、少しズル賢い感じがする物ですが、元就は酒を呑まず、家臣を気遣い、どんなに低い身分の者でも一声掛ける「優しい」気性だったと言われています。

いちばん有名なのが、「3本の矢」のエピソード。3人の息子「隆元」、「元春」、「隆景」に1本ずつ矢を渡し、「折ってみなさい」と促します。1本の矢は、当然簡単に折ることができます。次に3本の矢を渡すのです。3本の矢は1度には折れません。このように、ひとりでは弱くても、兄弟3人で力を合わせれば、どんな困難をも乗り越えることができる、と矢を例にして説いています。

斎藤道三織田信長など、他の戦国大名達が骨肉の争いで滅亡したことを考えると、一族団結という元就の教えは、まさに的確。元就は75歳まで長生きし、子孫は長州藩の藩主となり、その血筋は現在も継承、繁栄されているのです。

毛利元就と城毛利元就と城
毛利元就の生涯と、ゆかりのある城について紹介します。

毛利元就

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