戦国武将一覧
井伊直虎
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井伊直虎

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「井伊直虎」(いいなおとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての遠江国(とおとうみのくに:現在の静岡県西部)井伊谷(いいのや)の領主です。井伊家は江戸時代には30万石の彦根藩主となり、井伊直弼(いいなおすけ)などの大老職を数名輩出し、譜代大名筆頭の家柄となりました。そんな井伊家の礎を作ったのが、「女領主」であったと言われる直虎です。

許婚の逃亡と出家

井伊直虎

井伊直虎

直虎は、遠江国の国人・井伊直盛(いいなおもり)の嫡子として誕生。生年ははっきりしていませんが、おそらく1535年(天文4年)前後に誕生したのではないかというのが定説です。

直虎の生涯には謎が多く、「女性説」や「井伊直虎=次郎法師説」も確実な史料が存在せず、信憑(しんぴょう)性に乏しいのですが、ここでは「井伊直虎=次郎法師=女性」という説に沿ってお伝えします。

当時の遠江の国人領主は、強国に囲まれており、大名の勢力争いに巻き込まれ、非常に不安定でした。そんな中、家臣・小野政直(おのまさなお)が今川義元に讒言(ざんげん:事実を曲げて、ありもしないことを告げ口すること)したため、直虎の祖父の弟・直満(なおみつ)と直義(なおよし)の2人は、無実の罪で義元に誅殺されてしまいます。

直満の嫡子・直親(なおちか)は、直虎の許婚でしたが、井伊谷を出て信濃に逃れ、その命を守るため、生死すら秘密にされました。まだ10歳程の直虎には、小野政直の息子との縁談が持ち込まれますが、失意の直虎は剃髪して出家(出家名:次郎法師)したと言われています。

再会と別れ

桶狭間の戦い

桶狭間の戦い

10年後の1555年(弘治元年)、直親が今川家に復帰。亡くなったとばかり思っていた婚約者の帰還は直虎を喜ばせましたが、同時に失望もさせました。直親は信濃に逃亡していた際に、井伊一族の奥山家の娘を正室に迎えていたのです。

当時は井伊氏のような小領主でも、複数の妻を持つことは珍しいことではありませんでしたので、直虎と直親が結婚することに問題はなかったはずですが、2人は結婚しませんでした。その理由には諸説ありますが、よく言われる、直虎が出家したため婚姻できなかったとするのは、のちに還俗(げんぞく:出家者が俗人に戻ること)していることから疑問が残ります。

また、嫡流出身の直虎が、庶流である直親の側室になることは考えられなかったため、という説もあり、こちらのほうがより現実的です。直親は直盛の養子となり、直盛の後継者となりました。

1560年(永禄3年)、織田信長が今川義元を破った「桶狭間の戦い」で、今川勢の本隊の先鋒を務めた父・直盛が戦死すると、直親が井伊家当主となります。ところが、今度は小野政直の息子・政次(まさつぐ)の讒言で、直親は今川氏真(いまがわうじざね)によって殺されてしまいました。直虎たちにも累が及びそうになり、井伊家最大のピンチを迎えますが、直虎の母の兄で、今川家一族の新野親矩(にいのちかのり)などの嘆願によって何とか救われるのです。

女領主の誕生

直親の嫡子・直政はまだ幼少なため、隠居していた直虎の曽祖父・直平が後見役となりますが、同年に急死してしまいます。井伊家の男子は誅殺や戦死で短命な者が多い中、唯一直平は、息子や孫に先立たれながら、当時としては長命の70過ぎ(享年75歳もしくは85歳説あり)まで生きたのですが、死因は謎です。複数説あり、今川家臣に毒茶を勧められたことによる服毒死、合戦による討死など、はっきりしたことは分かっていません。

直平の死によって後継者の途絶えた井伊家で、ついに直虎は、還俗して家督を継ぎます。女領主となり、直政を養子にして養育するのです。直虎の晩年については、詳しいことは分かっていませんが、1582年(天正10年)に亡くなると、家督は直政が継ぎました。直政は15歳で徳川氏に出仕し、徳川四天王として家康を支え、遠江の国人に過ぎなかった井伊家が、譜代大名筆頭にまで登り詰める基礎を築くのです。

女性説含め、謎多い生涯

直虎が女性だったことは定説のように語られますが、実際のところは依然謎のまま。そのゆえんも、唯一「井伊家伝記」に見られる「次郎法師は女こそあれ」という一文だけなのですが、そもそも「井伊家伝記」の信憑性が乏しいため、疑問視されています。

仮に次郎法師が女性で井伊家当主だったとしても、井伊直虎は別人で、男性であった可能性も高いのです。また、井伊直虎が誰かという問題にも諸説あり、今川家臣の息子という説、直親の父らを死なせた小野政直の息子・政次であるという説等、定説は定まっていません。

家系図にも諸説あり、史料による生年から年齢差を算出すると、計算が合わなくなってしまいます。父・直盛の生年は1506年(永正3年)と1526年(大永6年)の説がありますが、1506年(永正3年)説を取ると、1479年(文明11年)もしくは1489年(延徳元年)生まれの曽祖父の直平とは、17~27歳しか離れていないことになるのです。そこで、父を1526年(大永6年)生まれとすると、1535年(天文4年)前後に誕生したとされる直虎は、父が10歳前後のときに生まれたことになってしまいます。当時の人たちが早婚だったとは言え、さすがに早過ぎです。

「直虎=女性説」も「直虎=次郎法師説」も確たる証拠はありませんが、井伊直盛には「祐圓」(ゆうえん)と言う法名を持つ娘がいたことが分かっています。しかし、これが次郎法師のことなのかははっきりしません。

ただひとつ分かっていることは、この井伊直虎や次郎法師に当たる人物がいなければ、井伊家ののちの隆盛はなかったと言うことです。

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