「井伊直虎」(いいなおとら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての遠江国(現在の静岡県西部)井伊谷(いいのや)を治めた領主です。井伊家は、江戸時代には30万石の彦根藩主となり、「井伊直弼」(いいなおすけ)などの大老職を数名輩出し、譜代大名筆頭の家柄となりました。
そんな井伊家の礎を作ったのが、「女領主」であったと言われる井伊直虎です。井伊直虎の生涯には謎が多く、「女性説」や「井伊直虎=次郎法師説」も確実な史料が存在せず、信憑性に乏しいのですが、ここでは「井伊直虎=次郎法師=女性」という説に沿ってお伝えします。
井伊直虎
「井伊直虎」(いいなおとら)は、遠江国の国人「井伊直盛」(いいなおもり)の嫡子として誕生。
母は、今川家の家臣であり井伊家の目付として今川氏より送られていた「新野親矩」(にいのちかのり)の妹と言われています。
生年ははっきりしていませんが、1535年(天文4年)前後に誕生したのではないかというのが定説です。
井伊直虎の生まれた当時の遠江は、強国に囲まれており、大名の勢力争いに巻き込まれ、非常に不安定でした。
井伊直虎が誕生したと推定されるわずか20年ほど前の1513年(永正10年)には、曾祖父「井伊直平」(いいなおひら)が今川氏に敗れ、一度遠江を奪われています。
井伊直平は、娘を今川氏に人質として送り、従属することによって遠江領主の座を取り戻していました。
井伊家が今川氏に監視されていたこと、さらには井伊直虎の母が監視役である今川氏家臣の身内であるのは、従属していたためです。
今川氏のもと、かろうじて家を存続させていた井伊家でしたが、問題は井伊直虎の父・井伊直盛に嫡男がいないことでした。井伊直虎は井伊直盛の、たったひとりの娘だったのです。
そこで井伊直盛は、井伊直虎にとって祖父の兄弟にあたる「井伊直満」(いいなおみつ)の子「亀之丞」(かめのじょう)を井伊直虎の許嫁とし、井伊家の存続を図ろうとします。
亀之丞はのちの「井伊直親」(いいなおちか)で、2人は1544年(天文13年)に婚約しました。井伊直虎、わずか9歳での出来事です。
今川義元
井伊家の当主である井伊直盛の嫡子と、同じ井伊家の血を引く者同士が婚姻すれば、それに勝ることはないはずでした。
しかし、2人の婚姻を快く思わない者がいたのです。井伊家の家老「小野政直」(おのまさなお)、別名「小野道高」(おのみちたか)でした。
今川派の小野政直は、亀之丞の父である井伊直満が、今川氏の従属から独立を望んでいたことを知っており、井伊直虎と亀之丞が結婚して、亀之丞が井伊家の家督を継ぐことになれば、反今川の気運が高まると考えたのです。こうした経緯もあり、小野直政は今川氏の間者だったのではないかとも言われています。
そして遂に、小野政直は「今川義元」(いまがわよしもと)に、井伊直虎の祖父の兄弟である井伊直満とその弟「井伊直義」(いいなおよし)が、隣国の武田氏と内通していると讒言(ざんげん:事実を曲げて、ありもしないことを告げ口すること)。井伊直満と井伊直義の2人は、無実の罪で今川義元に誅殺されてしまうのでした。
これにより、井伊直虎の許嫁である亀之丞も、井伊直満の嫡子ということで命を狙われる身になったのです。亀之丞は、井伊谷を出て信濃(現在の長野県)に逃れ、その命を守るために生死すら秘密にされました。
井伊直虎には、小野政直の息子との縁談が持ち込まれますが、結婚を拒否。一説によると、井伊直虎は失意のあまり出家したと言われています。
また、井伊直虎は女性であったため、はじめは尼僧になることを決意しましたが、井伊家出身の「南渓和尚」(なんけいおしょう)に止められました。
南渓和尚は、井伊家存続のため、いつでも還俗(げんぞく:出家した者が世俗へ戻ること)できるように井伊直虎に僧侶になることを勧めます。当時、尼僧は還俗できないとされていたのです。
これにより、井伊直虎は南渓和尚より井伊家の跡継ぎを表す「次郎法師」(じろうほうし)の名を与えられました。
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亀之丞が逃亡生活を始めて11年後の1555年(弘治元年)、ようやく井伊家への復帰が叶います。
井伊直虎が出家したとされる1554年(天文23年)に、亀之丞の父を陥れた小野政直が病死したのです。これにより、亀之丞の命が狙われる心配がなくなり、遠江に戻ってくることになりました。
亡くなったとばかり思っていた婚約者の帰還は井伊直虎を喜ばせましたが、同時に失望もさせます。亀之丞は、信濃に逃亡していた際に、遠江に連れ帰りはしなかったものの、すでに別の女性と結婚して子どもまで儲けていたのです。
当時は、井伊氏のような小領主でも、複数の妻を持つことは珍しいことではありませんでしたので、井伊直虎と亀之丞が結婚することに問題はなかったはずですが、2人は結婚しませんでした。
その理由には諸説ありますが、一説にある、井伊直虎が出家したため婚姻できなかったとするのは、のちに還俗していることから疑問が残ります。
他に、嫡流出身の井伊直虎が、庶流である亀之丞の側室になることは考えられなかったため、という説もあり、こちらの方がより現実的です。亀之丞は井伊直虎の父・井伊直盛の養子となり、名を井伊直親に改めました。これにより井伊直親は、井伊一族である奥山家の娘を正室として迎えます。
桶狭間の戦い
井伊直虎の元婚約者だった井伊直親が井伊本家の養子に入ることで、井伊家の家督問題は解決したように思われました。
しかし、戦乱の世は今川氏配下の井伊家をも飲み込んでいきます。
「織田信長」が今川義元を破る「桶狭間の戦い」が起こったのです。1560年(永禄3年)のことでした。この戦いで、今川義元はじめ、今川勢本隊の先鋒を務めた井伊直虎の父・井伊直盛も戦死してしまいます。これにより、養子の井伊直親が井伊家当主となりました。
しかし、悲しいことばかりではありません。父の悲劇があった翌年の1561年(永禄4年)、井伊家に喜ばしいできごとが起こります。井伊直親が奥山家の娘を正室にしてから6年、待望の嫡男が誕生したのです。名を「虎松」(とらまつ)と言いました。のちの、「井伊直政」(いいなおまさ)です。
そんな喜びもつかの間、井伊家の悲劇は繰り返されてしまいます。井伊家を継いだ井伊直親が殺されてしまったのです。これは、過去に井伊直親の父を死に追いやった小野政直の息子「小野政次」(おのまさつぐ)、別名「小野道好」(おのみちよし)による、井伊直親が「徳川家康」と通じているという讒言により起こされました。
小野政次よりこの話を聞いた今川家当主「今川氏真」(いまがわうじざね)は、今川義元亡きあと、次々と家臣達に見放され、疑心暗鬼に陥っていたのです。これ以上今川氏の力を弱めるわけにはいかないと、家臣に命令して井伊直親を殺害したのでした。
井伊直親の子・虎松や井伊直虎達にも累が及びそうになり、井伊家最大の危機を迎えますが、井伊直虎の母の兄である今川家一族の新野親矩などの嘆願によって、辛くも救われます。
しかし、井伊直親の件など井伊家では災難が度重なり、本家の男子は曾祖父・井伊直平のみで、虎松を含めてもわずか2人になっていました。
井伊直親は、嫡男誕生の1年後に亡くなっているため、虎松はまだ1歳くらいであり、このような状況では幼さすぎて領主になることはできません。
そこで、隠居していた井伊直虎の曽祖父・井伊直平が後見役となります。井伊家の男子は誅殺や戦死で短命な者が多い中、井伊直平は、息子や孫に先立たれたものの、当時としては長命の70歳過ぎ(享年75歳もしくは85歳説あり)でした。
しかし、そんな井伊直平も1563年(永禄6年)、井伊直親が殺された翌年に急死してしまいます。これには複数説があり、今川氏家臣に毒茶を勧められたことによる毒殺、合戦による討死など、はっきりしたことは分かっていません。
井伊直平の死によって実質的な後継者の途絶えた井伊家ではさらに悲劇が続き、井伊直虎を救った新野親矩はじめ、次々と頼れる重鎮達が命を落としていきました。時代は、今川氏の末期。徳川氏や織田氏などの脅威の中、さらに時局は混乱を極めたのです。
そして、1565年(永禄8年)、ついに井伊直虎は、還俗して女領主となるのです。さらに、虎松の後見人となって養育しました。井伊直虎が女領主であった期間はわずか3年という短期間でしたが、今川氏真の圧力にも屈することなく、2年間、領内での今川氏真の「徳政令」(とくせいれい:債権者への債権放棄令)を突っぱねたと言います。
徳川家康
徳政令の実行を2年も引き延ばした井伊直虎でしたが、今川氏の命令を聞かなかったという理由で領主を罷免されてしまいました。
井伊直親を死に追いやり、その後、事実上井伊谷を治めることになった、あの小野政次の策略によると言われています。
こうして「井伊谷城」(現在の静岡県浜松市)を追われた井伊直虎と虎松は、再び命の危機にさらされるのでした。虎松がまだ7歳のときです。
井伊直虎は、虎松と虎松の母を守るため、井伊一族の南渓和尚を頼りました。虎松は「鳳来寺」(愛知県新城市)に預けられ、のちに身の安全を守るため、母の再婚を機に井伊家の旧臣・松下家に入っています。
一方、井伊家を追い出した小野政次でしたが、城代として君臨できた期間はわずかでした。今川氏の力が弱まってきていたためです。そうした今川氏の状況に付け込み、徳川家康は遠江へ、「武田信玄」(たけだしんげん)は駿河(現在の静岡県中部)へ侵攻。
そして、井伊谷城の攻略を目前とした徳川家康は、井伊家と縁戚の者などの有力者を味方に付けていきます。井伊直虎もこれを聞き付け、徳川家康と会談し井伊一族諸共従軍することを誓いました。井伊直虎自身も、井伊谷城攻略のため自ら甲冑を付けて出陣したと言います。ただ、危機を察知した小野政次はすでに逃げ出しており、今川氏もすぐに滅亡してしまいました。
井伊直虎は井伊谷城を取り戻し、再び領主の座に返り咲きます。こうして、徳川氏配下に置かれるようになった遠江でしたが、武田氏などの脅威もあり、安心できるまでまだ時間がかかる状況でした。遠江にようやく平穏が訪れたのは、武田信玄の死後のことです。
こうして、松下家にいた虎松を呼び寄せる準備が整います。そして、徳川家康と虎松を何としても引き合わせられるように、井伊直虎と南渓和尚は動くのでした。徳川家康と虎松、2人の面会が叶ったのは、1575年(天正3年)のこと。虎松は15歳になっていました。
徳川家康には、「築山殿」(ちくやまどの)という井伊家出身の正室がおり、虎松の身の上を聞いた徳川家康は驚き、小姓にすることを決めたと言います。さらに徳川家康は、松下家ではなく井伊家に戻るよう虎松を促し、徳川家康の幼名「竹千代」(たけちよ)にちなんで、虎松に「万千代」(まんちよ)という名を与えました。
こうして、虎松は徳川家康に召し抱えられることになり、井伊家の確たる存続が実現したのです。
井伊直政
万千代の初陣は、1576年(天正4年)、徳川家康が東遠江に侵攻したときのことでした。
このとき万千代は、徳川家康の命を狙った間者にいち早く対応し、徳川家康より加増を受けます。徳川家康から賜った土地は、かつての井伊家の領地・井伊谷でした。
井伊直虎は、すでに40歳前後。無事万千代が成長するのを見届け、さらに徳川家に取り立てられたことで井伊家も安泰だと考え、役目を終えようとしていました。
1578年(天正6年)、自身の母を看取ったことを機に、井伊直虎は尼僧の名「祐圓」(ゆうえん)を南渓和尚よりもらい受けます。
そして1582年(天正10年)、病気の悪化により、井伊直虎死去。万千代は、甲斐(現在の山梨県)で「北条氏直」(ほうじょううじなお)軍と交戦していました。
万千代は、井伊直虎のことを気遣い、初陣を経ても長い間元服せずにいましたが、井伊直虎亡き3ヵ月後に元服し、名を井伊直政に改めます。
井伊直政はのちに「徳川四天王」として徳川家康を支え、遠江の国人に過ぎなかった井伊家が、譜代大名筆頭にまで登り詰める基礎を築くのでした。
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井伊直虎が女性だったことは定説のように語られますが、実際のところは依然謎のままなのです。女性説の根拠も、唯一「井伊家伝記」に見られる「次郎法師は女こそあれ」という一文だけなのですが、そもそも井伊家伝記の信憑性が乏しいため、疑問視されています。
また、仮に次郎法師が女性で井伊家当主だったとしても、井伊直虎は別人で、男性であった可能性も高いのです。こうした場合、井伊直虎が誰かという問題にも諸説あり、今川氏家臣の息子という説、井伊直親の父らを死なせた小野政直の息子・小野政次であるという説等、定まっていません。
さらに家系図にも諸説あり、史料による生年から年齢差を算出すると、計算が合わなくなってしまいます。父・井伊直盛の生年は1506年(永正3年)と1526年(大永6年)の説がありますが、1506年(永正3年)説を取ると、1479年(文明11年)もしくは1489年(延徳元年)生まれの曽祖父の井伊直平とは、17~27歳しか離れていないことになるのです。
そこで、父を1526年(大永6年)生まれとすると、1535年(天文4年)前後に誕生したとされる井伊直虎は、父が10歳前後のときに生まれたことになってしまいます。当時の人達が早婚だったとは言え、早過ぎるのです。
「井伊直虎=女性説」も「井伊直虎=次郎法師説」も確たる証拠はありませんが、井伊直盛には「祐圓」という法名を持つ娘がいたことは分かっています。
しかし、これが次郎法師のことなのかははっきりしません。ただひとつ、この井伊直虎や次郎法師にあたる人物がいなければ、井伊家ののちの隆盛はなかったとだけは言えます。
丸に橘
井伊直虎の家紋は、「丸に橘」(まるにたちばな)です。これは、日本10大家紋とされる橘紋の一種。
橘は、柑橘系の植物で爽やかな香りがし、年中緑であることから、永遠や奥ゆかしさを表現しているとされています。
この丸に橘は、井伊直虎が井伊直政の後見人になる以前から使われていた家紋です。
井戸から生まれたとされる井伊家祖先の生誕地近くに橘が自生していたために、橘を家紋に使うようになったと言われています。
なお、のちに彦根藩井伊家で使われるようになった「彦根橘」は、丸に橘とは絵図が少し異なる家紋です。江戸時代に入ってから使われるようになったと考えられ、井伊直虎の時代は使われていませんでした。
井桁紋
そして、井伊家のもうひとつの家紋であり、「替紋」(かえもん)と言われる軍の旗印には、井伊家の井の字を取った「井桁」(いげた)と呼ばれる紋が使用されています。
井伊直虎に関する史料は乏しいため、井伊直虎の時代にもこの井桁が使用されたかは不明です。
しかし、少なくとも井伊直虎が守った井伊直政は、徳川氏のもと、戦場で井桁をはためかせていました。
(蜂前神社蔵【井伊直虎関口氏経連署状】より)
井伊直虎が謎の多い人物だと言われるのは、根拠となる史料が乏しいためです。井伊直虎の名前が入った書状もいまだ1通しか見付かっていないと言います。
その1通が、今川氏真が徳政令を出し、井伊直虎は長らく令の実行を引き延ばしたものの、どうしても受け入れざるを得なくなったときの書状です。
「去る寅年に氏真公の花押を持って徳政令を仰せつかっていたものの、債権者である銭主をひどく苦しめるために、今まで令を出してこなかった。しかし、百姓の訴訟は先の花押の通りである。前々からの由緒ある名職などの受け取りは良いが、銭主の負担が大きいとしても銭主の訴訟は令を持って認められない。」という意味です。
これは徳政令を伝える書状であるため、井伊直虎本人の心が如実に表れているわけではありません。しかし、徳政令の延期を銭主の負担が大きくなるからとやってこなかったが、今回どうしても受け入れざるを得ないことに無念を感じるような書状です。井伊直虎がしっかり政(まつりごと)を捉え、領主として自分の役目を果たしてきたことが垣間見えます。
また、この書状の注目される点はもうひとつあり、井伊直虎の名前の花押があることです。花押とは署名のことで、本来高い身分の男性が用います。井伊直虎が女性である説が正しいとすれば、井伊直虎は女性でありながら、男性として振る舞っていたということです。
お家断絶の危機を何度も乗り越え、「家」を守り抜いた井伊家。そんな井伊家は、幕末までに約600振もの刀剣を所蔵していたと伝わっています。
しかし、1923年(大正12年)に起こった関東大震災での罹災や、第2次世界大戦中の供出、そして戦後にはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による接収などがあり、所蔵刀の多くが失われてしまいました。その中で、約200振が焼身の状態ながら保管され、現存しているのです。
本刀「刀 (金粉銘) 弘行琳雅(花押)」は、現代まで受け継がれた井伊家伝来の1振。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、筑前国(現在の福岡県西部)で活躍した刀工「弘行」(ひろゆき)が鍛えました。
弘行は、九州地方で最も優れた技巧を持つとされた「左文字一派」(さもんじいっぱ)の名工です。
相模国(現在の神奈川県)で栄えた「相州伝」(そうしゅうでん)の流れをくむ左文字一派は、他の九州鍛冶とは一線を画し、身幅が広く反りの浅い豪壮な刀姿の特徴は、本刀にも顕著に表れています。