「毛利輝元」(もうりてるもと)は、偉大な祖父「毛利元就」(もうりもとなり)を持つ名門武将です。「織田信長」とは敵対したものの、「本能寺の変」後は「豊臣秀吉」と和解し、「豊臣五大老」のひとりとして大活躍しました。
しかし、豊臣秀吉が亡くなったことで、運命の歯車が狂い始めるのです。「関ヶ原の戦い」で西軍の総大将に担がれた、名門・毛利家に育った毛利輝元の一生についてご紹介します。
毛利輝元
「毛利輝元」は、中国地方を制覇した「毛利元就」の長男「毛利隆元」(もうりたかもと)の跡取り息子として、1553年(天文22年)、安芸国(あきのくに:現在の広島県)にある吉田郡山城(よしだこうりやまじょう)で誕生しました。幼名は、「幸鶴丸」(こうつるまる)。
幼少時代の逸話は、ほとんど残っておらず不明ですが、幸せという字と、千年生きると言われる縁起の良い鶴の名前を付けられていることから、毛利家の跡取り息子として誕生を喜ばれ、期待されたことが分かるのです。
そんな毛利家と言えば、「3本の矢」の逸話が有名。
病床に伏せていた毛利元就が3人の息子、長男・毛利隆元、次男「毛利元春」、そして3男「毛利隆景」に、「1本の矢は折ろうと思えばすぐに折ることができるけれど、3本束ねるとなかなか折ることができない。3人の兄弟がよく結束して毛利家を守って欲しい」と、結束の重要性を説いたというお話です。
しかし実際には、毛利輝元が生まれる前の1546年(天文15年)に、すでに毛利元就は隠居して家督を長男・毛利隆元に譲り、実権はそのまま握っているという状態。次男の毛利元春は、1547年(天文16年)に吉川家の養嗣子(ようしし:家督相続人となる養子)となり「吉川元春」(きっかわもとはる)に。3男の毛利隆景も1550年(天文19年)に小早川家の養子となり、「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)となっていたのです。
毛利元就
1563年(永禄6年)、毛利輝元(幸鶴丸)が11歳のとき、父・毛利隆元は何者かに毒を盛られて突然死しました。
実権は元々毛利元就が握っていたので、しばらくは毛利元就が当主に復活。
2年後の1565年(永禄8年)に、毛利輝元(幸鶴丸)が元服しました。室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)より諱(いみな)を貰い、「輝元」と改名しています。
この毛利輝元の元服を機に、すでに69歳の高齢だった祖父・毛利元就は、隠居を宣言。
しかし、まだわずか13歳だった毛利輝元は、「父には41歳まで指導していたのに、私を見捨てるのですか!」と祖父に泣き付きます。
この結果、毛利元就は孫のために、しばらく実権を握り続けることになったのですが、毛利元就はかなり高齢です。仕方がないので、毛利輝元にとっては叔父にあたる吉川元春(毛利元春)と小早川隆景(毛利隆景)が、後見人続投となったのです。
歴史を動かした有名な戦国武将や戦い(合戦)をご紹介!
毛利家は祖父・毛利元就の代から、独立と中国地方(現在の鳥取県、島根県、岡山県、広島県、山口県)制覇を目指して、下剋上で躍り出てきた家柄です。
元々は、この地方の守護大名である大内家に仕えたり、台頭してきた尼子家との間をうろうろしたり、石見銀山を巡って戦が続いていました。
しかし、毛利輝元が元服した頃には、大内家は滅び、尼子家も残党がいる程度。毛利輝元が参戦した初陣は、この尼子家の城である「月山富田城」(がっさんとだじょう)を落とす戦いでした。
この第2次月山富田城の戦いで、尼子を滅ぼし、ついに毛利家は中国地方を制覇して、120万石の大名となったのです。しかし、残念ながらこの手柄は毛利輝元ではなく、祖父・毛利元就のものとなりました。
小早川隆景
晩年、毛利輝元は、祖父と叔父のしつけが厳しかったと、「毛利家文書」(もうりけもんじょ)と呼ばれる古文書に残しています。
祖父には殴られ、叔父達には怒鳴られと書いてあるのですが、特に、小早川隆景には相当きついしつけをされたようです。
毛利輝元の母「尾崎局」(おざきのつぼね)は、若い当主になった息子を心配し、祖父や叔父達に、「息子を何卒よろしくお願い致します」と、心配する手紙を送っています。
祖父・毛利元就が亡くなったとき、毛利輝元は19歳でしたが、叔父達はまだ30代。叔父達から見れば毛利輝元は、まだまだハナタレ小僧に見えたのでしょう。小早川隆景は、皆が見ている前では毛利輝元に対して、当主としてのかかわり方をしていたようですが、毛利輝元が何か失敗すると、陰で折檻したと言われています。
小早川隆景のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。
足利義昭
祖父・毛利元就が亡くなってからしばらくは目立った戦もなく、毛利輝元には穏やかな日々が続きました。しかし、毛利輝元が24歳となった1576年(天正4年)、突如、室町幕府15代将軍「足利義昭」が毛利輝元を頼って訪れたのです。
足利義昭は、あの「織田信長」の庇護を受けて、やっと将軍になれたお方。天下布武を目指していた織田信長にとっては、京への道筋を付けるために利用しただけの人物でした。
織田信長に邪見に扱われて、足利義昭は面白い訳もなく、織田信長のもとから毛利輝元のもとへ泣き付いてきたのです。
この2年前、足利義昭は朝廷に頼み、毛利輝元は「右馬寮」(うめりょう)と呼ばれるお役目に任命され、幕府の「御相伴衆」(ごしょうばんしゅう)という将軍が出掛ける際に付き添う役目も与えられています。
このときから足利義昭は、毛利家の力を利用しようとして、恩を売っていたように感じられるのです。毛利輝元は、そんな足利義昭を匿い、鞆(とも:広島県鞆の浦)に御所まで作ってあげました。
このようにして、毛利家という力強い後ろ盾を得た足利義昭は、あちらこちらの有力大名に向け、織田信長討伐と幕府再建の手紙を出し、動きはじめるのです。
実は毛利輝元は、足利義昭が訪れた際に、しっかりと織田信長と連絡を取り、将軍の処遇について聞くなど、親交を深めようとしていました。
しかし、どのような心境の変化があったのか、毛利輝元はこのあと、織田信長が天下布武のために一番手を焼いたと言っても過言ではない、石山本願寺の一向宗門徒達が挙兵した際、兵糧を運ぶなど、物資援助をしてしまったのです。
このことが織田信長の怒りに火を点け、毛利家は織田軍「豊臣秀吉」に進軍(中国征伐)されることになりました。
まだ豊臣秀吉が進軍していない頃は、足利義昭が送った手紙のおかげで、越後の虎と呼ばれた「上杉謙信」が織田家に敵対し、毛利輝元の叔父である小早川隆景率いる毛利水軍が大活躍。毛利軍は順調に勝ち戦を進めていました。
しかし、奇才・豊臣秀吉は、播磨(はりま:現在の兵庫)で更なる知恵者「黒田官兵衛(黒田孝高)」と出会い、これにより勢いを吹き返します。
鳥取城
鉄壁と言われた毛利水軍も、次の戦いでは鉄を張った船で攻めてきた織田軍に惨敗。
さらに毛利に付いていた「宇喜多直家」(うきたなおいえ)が織田軍に寝返り、また上杉謙信が病死したことで援軍が激減しました。
追い打ちを掛けるように、豊臣秀吉と黒田官兵衛(黒田孝高)が奇策を開始。
これはのちに「秀吉の三大城攻め」と呼ばれるもので、「兵糧攻め」により、織田から毛利に寝返った三木城、毛利家家臣の「吉川経家」(きっかわつねいえ)が守る鳥取城を落とします。
続いて「水攻め」をして備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)も落としました。「三木の干し殺し」、「鳥取のかつ渇殺し」(かつえごろし)と呼ばれるこの2つの城では、城内では人馬に至るまで食べたと言われるほどの、悲惨な戦場となったと言われています。
毛利輝元も叔父達と援軍に駆け付けていますが、助けることはできませんでした。さらに、備中高松城は壮大な水攻めで城を落とされます。なすすべもなく見守る毛利軍は、このあと、豊臣秀吉と和睦を結んだのです。
実はこの備中高松城での戦中、織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」が発生。豊臣秀吉はこれを毛利軍に気が付かれないようにさっさと和睦して、さっさと撤退して行きました。これがのちに、「中国大返し」と呼ばれる撤退劇なのです。
豊臣秀吉
豊臣秀吉が天下を取ったあと、毛利輝元はあっさりと豊臣秀吉の臣下に下ります。この頃毛利輝元は、すでに32歳の立派な大人。
しかし、豊臣秀吉の配下に付くことは、毛利輝元自らが考えたのではなく、叔父の小早川隆景と、毛利家の軍僧であった「安国寺恵瓊」(あんこくじえけい)の策と思われます。
豊臣秀吉が各大名を集めたとき、毛利輝元は叔父・小早川隆景と共にすみやかに上洛。この上洛がとても楽しかったようで、毛利輝元は道中の記録を付けた「天正記」や「輝元公上洛日記」などに、細かくスケジュールや気持ちなどを残しています。
初めは気の進まない上洛でしたが、豊臣秀吉の心尽くしの接待を受け、毛利輝元はすっかり豊臣秀吉に夢中になったようです。豊臣秀吉も西の大国の長である毛利輝元を気に入ったようで、豊臣と羽柴の姓まで与えました。
その後、毛利輝元は「羽柴安芸宰相」(はしばあきのさいしょう)と呼ばれるようになり、豊臣秀吉の天下統一のために尽力して、最終的には「豊臣五大老」のひとりとなっています。
しかし、華々しい戦の戦歴などは毛利輝元には残されておらず、上洛前の「九州征伐」では先方となって出陣した記録はありますが、毛利輝元の武功詳細は分かりません。
ただ、この九州討伐では各軍の兵糧が手薄で、毛利輝元は困った大名達に兵糧を気前よく渡し、のちに返そうとした大名達に「皆での勝利の祝品として贈り物とします」と答え、応じなかったとのこと。毛利輝元の人の良さが垣間見られる逸話は、多く残されています。
徳川家康
「織田がつき、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは徳川」との言葉がある通り、豊臣秀吉亡きあと天下を取ったのは、「徳川家康」でした。
1600年(慶長5年)、打倒・徳川家康を目指していた「石田三成」が豊臣政権を取り戻すため、立ち上がります。しかし、友人「大谷吉継」に「お主に誰が付いて行くと言うのだ」と大将になることを止められ、総大将を毛利輝元にしようと画策されたのです。
まだこの段階では、豊臣家には跡継ぎ息子「豊臣秀頼」がいました。徳川家康は、形としては豊臣五大老のひとりとして実権を取ろうとしている状態なので、同じ五大老の毛利輝元を担ぎ出すのも理解できます。
毛利輝元自体が率先して西軍の総大将になったというよりは、豊臣家と毛利家の連絡係を担っていた安国寺恵瓊に説得され、総大将に就いた状態です。この頃は叔父・小早川隆景がすでにこの世を去っており、この叔父が豊臣秀吉びいきだったこともあって、毛利輝元は断り切れない状況化にあったのではないかとも考えられます。
何故なら毛利輝元は、西軍の総大将になったと言っても、徳川家康が「関ヶ原の戦い」の前哨戦である上杉討伐に会津へと出陣した際、徳川家康に取って代わって大坂城に入り込み、そのまま引き籠っていただけだからです。
結局何かした訳ではない毛利輝元は、関ヶ原の戦いのあとに負けを知り、領土安堵という徳川家康の約束を聞いてからは早々に大坂城から退却し、徳川家康に素直に詫び状を書いて隠居しました。
毛利輝元が許されることになったのは、本人に野心が見えなかったこと。従兄弟である「吉川広家」(きっかわひろいえ)が、「毛利輝元は西軍の首謀者ではない」と力説したからなどと言われています。代わりに、総大将にとそそのかした安国寺恵瓊は、石田三成と共に斬首され、晒し首にされました。
なお、関ヶ原の戦いでは毛利家も一枚岩ではなく、安国寺恵瓊の主戦派がいる一方、毛利輝元のいとこにあたるもうひとりの叔父・吉川元春の息子・吉川広家は、毛利家を守るために徳川家康側に寝返ることを決めていました。
また、小早川隆景亡きあとの小早川家は、豊臣秀吉の正妻であった「ねね」の甥である「小早川秀秋」(こばやかわひであき)が養子になったことで不満を抱いた家臣達が、毛利家本家である毛利輝元の家臣になったり、出奔したりとバラバラな状態でした。
一文字三つ星紋
毛利家と言えば、「一文字三つ星紋」(いちもんじみつぼしもん)の家紋が有名ですが、これは毛利家の先祖である「大江広元」(おおえのひろもと)が使っていた物です。
一文字は、物事の始まりを表し、下の3つの丸は、「将軍の星」と呼ばれたオリオン座
のベルト部分を表していると言われています。
五七胴紋
毛利輝元は元服の際、室町幕府13代将軍・足利義輝より一字授かって輝元と改名しましたが、そのとき将軍家の家紋でもあり、朝廷で帝の御衣(おんころも)にも使用される由緒ある、「五七桐紋」(ごしちのきりもん)の使用を許されました。
桐は、鳳凰がとまる神聖な木と伝わっており、権威ある証しとして使われている紋です。
菊紋
「菊紋」(きくもん)は、天皇家が使用した文様ですが、祖父・毛利元就から使用を許可されました。
106代天皇「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)がお金に困り、3年もの間即位の礼ができなかった際、毛利元就は多額の献金をしたことから、菊紋の使用が許されたと言われています。
関ヶ原の戦いから今も伝わる故事に、「宰相殿の空弁当」(さいしょうどののからべんとう)と呼ばれる逸話があります。
この宰相殿とは、もちろん毛利輝元のこと。しかし、先ほども説明したように、毛利輝元は関ヶ原の戦いでは戦場には出ていません。大坂城に籠もっていただけ。
実は戦場には、いとこでもあり、自分の養子とした毛利秀元(もうりひでもと)を大将として出しており、その補佐役を吉川広家が行なっていました。
しかし、吉川広家は最初から徳川家康と内通しており、戦うつもりはありません。毛利家は徳川家康の背後にある、「南宮山」(なんぐうさん)と呼ばれる絶好の場所に陣を張りましたが、吉川広家が前方にいてちっとも動きません。
大将である毛利秀元や、後ろに控える「長宗我部盛親」(ちょうさかべもりちか)などが、早く攻撃しようと吉川広家を焚き付けますが、その都度「霧が濃い」、「まだ時期じゃない」などと言い訳をして、動きませんでした。
言い訳も出尽くして、またしても出撃をせっつかれた吉川広家の口から出た言葉は、「これから弁当を食うから…」と言う、苦しい言い訳だったのです。このことから、「宰相殿の空弁当」と呼ばれるようになりましたが、あくまでもやったのは吉川広家で、毛利輝元が指示した訳でありません。さらに、豊臣側の人間でありながら小早川の養子に入った小早川秀秋も寝返ったので、西軍はあっさり負けてしまいました。
関ヶ原の戦いに負けたことで大減封となり、周防・長門(すおう・ながと:現代の山口県)に押し込められた毛利家。毛利輝元隠居後からは長州藩となっています。
毛利家はその後も続いていきますが、幕末期の長州藩主で、毛利家の25代当主となった「毛利敬親」(もうりたかちか)もまた、何でも家臣に任せる殿様で、「そうせい候」とあだ名が付けられてしまったことに、毛利輝元の血を感じずにはいられません。
戦国大名の来歴をはじめ、ゆかりの武具などを紹介します。