「織田信長」や「豊臣秀吉」などの天下人に一目置かれながら、40歳の若さで生涯を閉じた「蒲生氏郷」(がもううじさと)。数々の戦場で武功を立てただけでなく、領地の経営や家臣団の統制にも長け、「世に優れたる利発人」と称された戦国武将でした。その一方で、キリシタン大名や「千利休」(せんのりきゅう)の高弟「利休七哲」(りきゅうしちてつ)のひとりとしての顔も持ち、当代きっての文化人としても知られた人物です。「六角氏」(ろっかくし)の重臣一族から「織田家」の家臣、そして、東北一の大大名へとのし上がった蒲生氏郷の生涯をたどり、その人物像に迫っていきます。
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蒲生氏郷
蒲生氏郷は1556年(弘治2年)、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)の「日野城」(別称:中野城)の城主「蒲生賢秀」(がもうかたひで)の嫡男として生まれました。
蒲生氏は、近江国を治めていた六角氏に臣従していた一族で、もとは「源頼朝」や「足利尊氏」に仕えていた名家。家紋には、室町時代から「蒲生対い鶴」(がもうむかいづる)が使われています。
そのきっかけは、1441年(嘉吉元年)に起こった、「嘉吉の乱」(かきつのらん)と呼ばれる事件です。これはその当時、3ヵ国の守護を務めていた「赤松満祐」(あかまつみつすけ)が、室町幕府6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)を暗殺し、室町幕府衰退の要因を作った出来事。その際、窮地に立たされた蒲生氏の先祖「藤原秀綱」(ふじわらのひでつな)が、鶴に先導されたことで難を逃れたという逸話から生まれた意匠です。
柴田勝家
蒲生氏郷は1570年(永禄13年/元亀元年)、父・蒲生賢秀と共に、織田氏の重臣「柴田勝家」(しばたかついえ)の「与力」(よりき:大名や有力武士に仕える下級武士)になると、持ち前の才覚を発揮し、武功を立てていきます。
14歳になった蒲生氏郷は、蒲生賢秀にしたがって「大河内城の戦い」(おこうちじょうのたたかい)に参陣。「北畠氏」(きたばたけし)の「今徳城」(こんどくじょう:現在の三重県津市)を攻略。1570年(元亀元年)には「姉川の戦い」で浅井・朝倉軍を退け、1571年(元亀2年)、「長島一向一揆」を鎮圧するなど、織田氏の主要な戦いにおいて、次から次へと武功を挙げていきます。さらに室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)を京都から追放した「槇島城の戦い」(まきしまじょうのたたかい)では、織田信長から褒賞を与えられるほどの手柄を立てました。
このように、武勇に優れていた反面、時代の先を読む能力にも長けていた蒲生氏郷。その才覚が特に際立ったのが、1582年(天正10年)に起こった「本能寺の変」以降に示した、機転の数々です。
まず、織田信長が本能寺で討たれたことを、いち早く知った蒲生氏郷は、「安土城」(あづちじょう:現在の滋賀県近江八幡市)にいた蒲生賢秀と連携し、織田信長の妻子を迅速に保護。自身が居城としていた日野城へかくまいました。
当時、「明智光秀」の勢力下にあった近江国において、明確に対決姿勢を示した武将は、蒲生氏郷と、「勢多」(せた:琵琶湖南岸一帯)を治めていた「山岡景隆」(やまおかかげたか)のみ。山岡景隆は、琵琶湖にかかる「瀬田の唐橋」(せたのからはし)を落として、明智軍の進路妨害をしたあと、山中へと逃走。そのため蒲生氏郷が、ほぼ近江国唯一の反明智勢力となり、明智勢に睨みを利かせていたのです。
1582年(天正10年)に「山崎の戦い」で、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が明智光秀を討つと、蒲生氏郷は羽柴氏に臣従。1583年(天正11年)、柴田勝家との「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)では柴田方の一大勢力「滝川一益」(たきがわかずます)と戦い、滝川軍が籠もる伊勢国(現在の三重県北中部)の「峯城」(みねじょう:現在の三重県亀山市)を攻略します。さらには、近江国へ侵攻してきた滝川軍を数度に亘って撃退し、羽柴軍の勝利に貢献しました。
その後、羽柴秀吉が「徳川家康」と対峙した1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」でも武功を挙げた蒲生氏郷は、翌年には羽柴秀吉より、伊勢国に12万石を加増されて転封しています。そして、「松ヶ島城」(まつがしまじょう:現在の三重県松阪市)に本拠を構え、羽柴氏屈指の重臣としての地位を確立したのです。
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蒲生氏郷を語るうえで欠かせないのが、キリシタンとしての側面です。
蒲生氏郷はもともと、キリスト教にはまったく興味を持っていませんでしたが、その当時を代表するキリシタン大名であり、親友でもあった「高山右近」(たかやまうこん)から話を聞くうちに信仰心が芽生え、1585年(天正13年)、キリスト教へ入信しました。
洗礼名を「レオン」とした蒲生氏郷は、ローマに使節団を遣わそうとするほどの信仰心を持っていました。洗礼を授けたイエズス会の「オルガンティーノ神父」も、その熱心な姿に感銘を受けたと伝えられています。
千利休
しかし、キリシタンでありながら、日本の伝統文化への造詣が深かったのも蒲生氏郷の個性的な特徴です。茶の湯に深く通じた蒲生氏郷は、「侘茶」(わびちゃ)を完成させた茶人として名高い千利休の7人の高弟「利休七哲」の筆頭者に、名前が挙げられていました。
江戸時代初期に成立した「茶道始祖伝書」によると、蒲生氏郷は、日本の中でいちばん気の長い武将だったと書かれています。
1590年(天正18年)、関東地方の覇者となっていた「後北条氏」(ごほうじょうし)を降伏させ、「陸奥国」(東北地方北西部:別称「奥州」)の諸大名も帰順させた豊臣秀吉は、「奥州仕置」(おうしゅうしおき)と呼ばれる領土の再分配を行ないました。このとき蒲生氏郷は、豊臣秀吉から陸奥国の会津地方への移封が命じられたのです。
これにより、36歳の若さで42万石(のちに92万石に加増)の大大名へと出世を果たします。これは、豊臣政権下において、「徳川氏」や「毛利氏」、そして「前田氏」に続く石高でした。
しかし当時の会津は、北側に不穏な動きを見せる「伊達政宗」、南側には徳川家康がおり、非常に舵取りが難しい地域。会津の領主は、両者の監視役を務める重大な任務もかねていたため、高い政治手腕と有事の際の軍事力が求められていたのです。
そこで蒲生氏郷は、会津への移封の際、有能な浪人達を召し抱える許可を豊臣秀吉より得て、柴田勝家の旧臣などを巧みに取り込み、蒲生氏における家中の人材を拡充してから、会津へと向かったのでした。
このときにも、蒲生氏郷の人柄が垣間見える逸話があります。「佐久間安政」(さくまやすまさ)と「佐久間勝之」(さくまかつゆき)という、武勇に優れた兄弟が蒲生家に引き取られることになったのですが、仕官のあいさつの際、緊張からか、畳の縁につまずき転倒してしまいました。
思わず吹き出してしまった蒲生家の小姓(こしょう:貴人のそば近くに仕え、様々な雑用を担当した者。多くは少年であった)達を見た蒲生氏郷は、「この兄弟は畳の上で奉公する者ではない。お前達の中に、この2人に笑われないほど、武勇に優れた者がいるのか」と一喝。小姓達は沈黙するしかなかったのです。
その後、この佐久間安政・勝之兄弟は、1590年(天正18年)の「葛西大崎一揆」(かさいおおさきいっき)の鎮圧などで、大きな武功を立てたのでした。
会津に入った蒲生氏郷は、次々と領内の改革に着手します。「黒川城」(福島県会津若松市:のちの「鶴ヶ城」[別称:若松城])の改修では、近江国から引き連れた多くの技術者によって、「野面積」(のづらづみ)の天守台を構築。
その上には、7層にも及ぶ天守閣がそびえ、蒲生氏の家紋である「蒲生対い鶴」に倣い、「鶴ヶ城」と名付けました。
また蒲生氏郷は、城下町の整備にも力を注ぎます。領内の河川である「車川」の流れを利用して外堀を築くと、郭内に家臣の屋敷、郭外に庶民を住まわせ、要所には、神社や寺などを移したのです。この区画整備は、現在の会津若松市街の骨格にもなっています。
さらに交易の発展のために「楽市楽座」を導入し、城下町に定期市を設けました。現在の会津若松市の地名にも残っていますが、「馬場町」(ばばまち)は1と8が付く日、「本郷町」(ほんごうまち)は2と7、「三日町」(みっかまち)は3、「桂林寺町」(けいりんじまち)は4と9、「大町」(おおまち)は5と10、「六日町」(むいかまち)は6というように、定期市を毎日開催できるように整備したのです。
この他にも蒲生氏郷は、近江国から「木地師」(きじし)や「塗師」(ぬりし)を移住させ、「会津漆器」の基礎を形成。さらには、綿花の栽培を奨励することで、会津木綿の発展にも尽くしました。
会津の郷土玩具として名高い「起き上がり小法師」(おきあがりこぼし)も、蒲生氏の家臣が正月に売り出したことが起源と言われています。
蒲生氏郷が会津に本拠を構えていたのは、1590年(天正18年)から、40歳で病死した1595年(文禄4年)までの約4年間に過ぎません。しかし、蒲生氏郷はこの短い期間に、城下町の整備から地場産業の振興まで幅広く領内整備を進め、現代へ続く会津若松市の基礎を築きました。それはひとえに、蒲生氏郷の内政手腕が優れていたためです。
蒲生氏郷の死因については、当初から諸説が飛び交い、病死説の他、謀殺説まであります。
病死は、現代で言う黄疸(おうだん)や直腸がん、大腸炎、胃がんなどの疾患であったと推測されており、謀殺に関しては、「石田三成」が蒲生氏郷の器量を危惧し、「瀬田正忠/瀬田掃部」(せたまさただ/せたかもん)によって、架空の鳥「鴆」(ちん)の羽にあるとされる毒を盛ったとする説、蒲生氏郷がキリスト教弾圧に対して、辛辣な意見を述べたことに豊臣秀吉が憤怒し、毒殺した説など、いずれも憶測の域を出ませんが、周囲の人々が疑心暗鬼になってしまうほど、蒲生氏郷の才能が優れていたことが窺えます。
蒲生氏郷が松ヶ島城を居城として間もなく、資金繰りに苦労してしまい、家臣への恩賞が十分に出せなかったことがありました。その際、蒲生氏郷はせめてもの褒美として、手柄を立てた家臣を、屋敷に招いてもてなすことを考案します。
料理が振る舞われたり、風呂を勧められたりするなど、主君である蒲生氏郷からの手厚い歓迎を受けて、感激する家臣達。主家の風呂に入れる機会は、そうそうありません。喜んで風呂に浸かっていると、風呂の外から「湯加減はどうだ?」と、蒲生氏郷の声が聞こえてきました。不思議に思って風呂の外を覗いてみると、そこには、煤(すす)で真っ黒になりながら、一生懸命に薪をくべ続ける蒲生氏郷の姿があったのです。
主君が自ら体を張ってもてなしてくれる心意気に、その家臣は心を打たれ、以来家中で「蒲生風呂」は語り草となりました。家臣達は、「自分も手柄を立てて殿の風呂を頂きたい」と、いっそう忠義を尽くしたと伝えられています。
また蒲生氏郷は、1590年(天正18年)に、伊勢国12万石から陸奥国会津42万石へ加増転封になったときには、家臣達の収入も増やしたいと考え、皆に希望の俸禄(ほうろく:給与)を聞いたことがありました。
その合計が約100万石に達してしまい、さすがに石高が足りません。そんな中、蒲生氏郷は自身の取り分を9万石にまで削って、できる限り家臣の希望に添って、俸禄を支払ったのです。これは、「家臣に対する報酬は、俸禄と情の2種類があり、それは、車の両輪のように両立させなければならない」という蒲生氏郷の考え方に基づいた行動でした。
手柄を立てた家臣には、可能な限り報いていた蒲生氏郷ですが、戦場においては、過剰なまでの厳しさで家臣に接しました。その最たる例が、1591年(天正19年)に陸奥国糠部郡(むつのくにぬかのぶぐん:現在の青森県東部から岩手県北部)で起こった、「九戸政実の乱」(くのへまさざねのらん)での出来事です。
蒲生氏郷は、この戦の前に「蒲生氏郷法度条目」と称される17条の軍法を発布。この軍法では戦場までの道のりや合戦の最中に、私語や寄り道、勝手に止まることなどを禁じていました。
しかし、蒲生氏郷や「南部信直」(なんぶのぶなお)らで構成された「奥州仕置軍」が行列を組み、戦場に向かって移動していたところ、とある家臣が立ち止まってしまいます。引き連れていた馬の草鞋(わらじ)が脱げてしまったため、その場で履かせようとしたのです。この様子を見た蒲生氏郷は、家臣の行動を軍法違反と見なし、戦場までの移動中にもかかわらず、その家臣を刀剣で切り付けて処刑してしまいます。
この当時、馬が山道や砂利道などを歩く際、蹄(ひづめ)に傷が付くことを防止するため、脚に草履を履かせていました。そのため家臣は、その場ですぐに履かせようとしたと思われますが、蒲生氏郷は、いかなる理由があっても一切の例外を認めず、自身の軍法にしたがって処刑したのです。
これを目の当たりにした石田三成は、豊臣秀吉に「蒲生氏郷はただ者ではございません。これほど軍法に厳しい部隊は見たことがありません」と報告しています。
また蒲生氏郷は、戦場でたびたび、部隊の先頭に立って敵陣に突撃。「戦場でいちばんに敵中へ攻め入る大将が、家来を見捨てることはない」という言葉も残しています。軍法を自身で体現しているからこそ、厳格な軍法が成り立っていたのです。
武具にも強いこだわりを持っていた蒲生氏郷は、名刀を多数所持していました。なかでも、室町時代後期に相模国(現在の神奈川県)で活躍した「新藤五一派」(しんとうごいっぱ)の名工「国光」が手掛けた短刀「会津新藤五」(あいづしんとうご)は、誰もが認める最高傑作。直刃(すぐは)の名人とされた国光だけに、刃文の細直刃は非凡。小板目肌(こいためはだ)が細かく詰まれ、地沸(じにえ)がよく付き、精美な鍛えが冴えています。
「会津新藤五」は、会津藩の藩主であった蒲生氏郷が所持していたことにちなんで名付けられた号であり、国宝に指定されている名刀です。
鯰尾兜
また、蒲生氏郷の武具として有名な兜が、「銀鯰尾兜」(ぎんなまずおかぶと)。
鯰は、古来地震を起こす生き物として恐れられていたため、敵を威圧する験担ぎ(げんかつぎ)が込められていました。
蒲生氏郷は、新参の家臣に「我が家には銀鯰尾兜をかぶった兵がいて、戦いのたびに、真っ先に進み出てよく働いている。この男に劣らず振舞うようにいたせ」と発破をかけていたと言われています。
この銀鯰尾兜をかぶる人物とは、もちろん蒲生氏郷のこと。戦場での勇猛さと大胆さを如実に表す兜です。