戦国武将一覧
柴田勝家
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柴田勝家

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「柴田勝家」(しばたかついえ)と言えば、織田信長の筆頭家老。戦上手で勇猛果敢、情に厚いが武骨なためか59歳まで独身でした。ところが60歳のときに、あの織田信長の妹「お市の方」の再婚相手に選ばれます。天下人・豊臣秀吉の最大のライバルと言われた男の「人生の分岐点」に迫ります。

信長の弟・信行(信勝)の家老だった!

柴田勝家

柴田勝家

柴田勝家は1522年(大永2年)生まれ。元々、織田信長の父・信秀の家臣で、1551年(天文20年)に信秀が死去すると、29歳で信長の弟・信行(信勝)の家老になります。

当時、信長は奇行が目立つ「うつけ者」、信行(信勝)は礼儀正しく有能と言われていました。勝家は、同じく信行(信勝)の近臣・林秀貞(はやしひでさだ)、津々木蔵人(つづきくらんど)とともに、信行(信勝)を後継者にしようと、1556年(弘治2年)「稲生の戦い」(いのうのたたかい)を起こし、信長打倒を企てます。

ところが、これが大失敗。実母「土田御前」の取り成しによって、何とか信行(信勝)は助命され、勝家・秀貞・蔵人も、信長に謝罪し忠誠を誓うことで、赦免となります。

信行(信勝)を見限り、信長の家臣に

織田信長

織田信長

それでも信行(信勝)は、1557年(弘治3年)に、また信長謀反の計画を起こします。

稲生の戦い以降、信行(信勝)を見限っていた勝家は、それを知ると信長に密告。怒った信長は、信行(信勝)の暗殺を決意します。勝家は、信長が重い病にかかったと嘘を吐き、「もはや後見人と名指ししてもらうべき」と言って、信行(信勝)を清洲城に行くように唆(そそのか)します。そして、信行(信勝)は河尻秀隆らによって殺害されるのです。

この一件で、稲生の戦いの罪を許され、信長の家臣に。以後、勝家は信長から信頼され、織田軍先鋒の武将、重臣として数々の武功を挙げることになるのです。

第1の分岐点は、6月13日

勝家の戦における活躍は目覚ましい物でした。「木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に、退き佐久間」(木綿のように丈夫な藤吉[豊臣秀吉]、米のようになくてはならない存在の五郎左[丹羽長秀]、勇猛で突撃にかかる強い柴田[柴田勝家]、退却戦が上手い佐久間[佐久間信盛:さくましげもり])という織田家家臣の小唄があった程です。

実際に勝家は、1570年(元亀元年)「姉川の戦い」、1571年(元亀2年)「長岡一向一揆」・「比叡山焼き討ち」、1573年(天正元年)「将軍義昭を追放」・「一乗谷の戦い」・「小谷城の戦い」、1575年(天正3年)「長篠の戦い」に参加し、すべて勝利。1580年(天正8年)に「一向一揆」を鎮圧、1582年(天正10年)「魚津城の戦い」では、あの上杉謙信の子・景勝が治める魚津城を陥落します。それが、6月3日。

本能寺の変」は6月2日に起こり、勝家はそれを知らず、知ったのは6月6日夜でした。勝家は急いで駆け付けようとしたものの、途中で邪魔に遭い、近江に到着したのは6月18日。すでに秀吉が、6月13日に「山崎の戦い」にて、主君の仇・明智光秀を討ったあとだったのです。

第2の分岐点はお市の方と結婚か!?

1582年(天正10年)6月27日、信長の後継者を決める「清洲会議」が行なわれます。秀吉は信長の孫で当時わずか3歳の「三法師」(のちの織田秀信)を、勝家は信長の3男「信孝」を推しますが、結局は三法師に決定。また、信長の遺領配分においても、秀吉が28万石の加増となり、それまで筆頭家老だった勝家と立場が逆転します。明智光秀を討伐した秀吉の功績は、それ程絶大となっていたのです。

完全に出遅れてしまった勝家。頭の良い秀吉は不満が出ないようにと、勝家と信長の妹・お市の方との結婚を承諾します。このとき、勝家は60歳。お市の方は3人の連れ子がいる35歳。熟年の2人ですが、実は勝家は信長に初めて仕えたとき、当時10歳前後のお市の方を見て一目ぼれしていたのです。叶わぬ恋が叶うと勝家は大喜び。しかし、幸せボケした男のその隙を、秀吉が見逃す訳がありません。

1583年「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で、秀吉は勝家を破り、信長後継者の地位を確立します。正確に言うと、勝家が味方の前田利家に裏切られ、総崩れして退却。翌日、腹を十文字に割いて、お市の方とともに自害するのです。

しかし、勇猛果敢な男が、最期となる戦で退却するでしょうか。勝家は自害のとき、お市の方の連れ子の3人を脱出させることに成功しています。好きな女性の子どもを守ること。それこそが勝家にとっての「勝利」だったのではないでしょうか。

守るべき者ができた、情に厚い男が取るべき決断。のちにお市の方の連れ子の3人の内の1人、茶々(淀殿)が秀吉の側室になることは、あまりにも有名です。

婚姻わずか10ヵ月。幸せな結婚という秀吉の策略に、まんまとはめられたのかもしれません。

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