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今川義元

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「今川義元」(いまがわよしもと)について、あなたはどのようなイメージをお持ちでしょうか。
「公家かぶれの戦国大名」というイメージを持っている人も少なくないと思います。今川義元は「桶狭間の戦い」で、25,000以上の大軍を擁しながら、わずか2,000の「織田信長」に敗れたからです。
しかし、そんな今川義元は、実は優れた領国経営能力と家臣・太原雪斎(たいげんせっさい)の後ろ盾によって、米の生産量が多いとは言えなかった駿河・遠江・三河を豊かな国にすると共に、軍事力・外交力を用いて領地拡大に成功した手腕の持ち主。「今川義元」はその実力から、「海道一の弓取り」と呼ばれていました。
ここでは、一般的なイメージとはギャップのある今川義元の実像についてご紹介します。大河ドラマでも注目される戦国大名です。

太原雪斎と過ごした今川義元の幼少期

今川義元

今川義元

今川義元は、1519年(永正16年)に「今川氏親」(いまがわうじちか)の5男として誕生しました。

今川義元が生まれたときには、すでに2人の兄がいたため、4歳のときに「太原雪斎」(たいげんせっさい)に預けられ、太原雪斎と共に「山城国」(やましろのくに:現在の京都府)の「建仁寺」と「妙心寺」で学び、得度(とくど:出家して受戒すること)します。

「栴岳承芳」(せんがくしょうほう)という名で僧侶になりました。

ここで今川義元が習得した当時の最新知識は、のちの領国統治に活かされていきます。

今川義元の兄が相次ぐ死、家督争いの「花倉の乱」

1536年(天文5年)、兄で当主の「今川氏輝」(いまがわうじてる)が突然死去。同日に今川氏輝のすぐ下の弟「今川彦五郎」(いまがわひこごろう)も死去しました。死因については不明ですが、同日にふたりが死去していることから、毒殺や暗殺説も唱えられています。

今川氏輝の母「寿桂尼」(じゅけいに)や今川家の重臣達は、今川氏親の正室・寿桂尼の子である栴岳承芳(今川義元)を還俗(げんぞく)させて、当主にしようとしました。

しかし、遠江で外交・軍事を担っていた家臣の福島氏が反対します。今川義元には死んだ2人の兄以外にも、仏門に入っていた異母兄が2人おり、福島氏はそのひとり「玄広恵探」(げんこうえたん)を今川家当主にしようと反乱を起こしました。

福島氏が「花倉城」を中心に抵抗しているうちに、駿河・遠江では福島氏に加勢しようとする動きが現れ始めます。長期戦になることを恐れた今川義元側は、相模の北条氏に協力を頼み、一気に玄広恵探側を攻めると、玄広恵探は逃亡して自刃。「花倉の乱」は、戦闘が始まってから約2週間で終わり、今川義元が今川家当主となりました。

今川義元の領国統治

「今川仮名目録追加21条」の制定

今川義元の父・今川氏親は33条からなる分国法「今川仮名目録」(いまがわかなもくろく)を制定。

今川氏は「室町幕府」の支配下にあった守護大名でしたが、幕府の定めたルールに従うのではなく、自国は自分達の定めたルールで領国を統治していくということを宣言したのです。すなわち、守護大名から戦国大名になるという宣言でもありました。

今川氏親が制定した今川仮名目録は、領主と農民の関係や喧嘩の取り締まり、所領売買制限などについて規定。今川義元はこれに21条を追加し、「守護使不入」(しゅごしふにゅう)廃止を宣言しました。

守護使不入とは、幕府によって設定された荘園などに、犯罪者捕縛や徴税のために守護が立ち入ることを禁じること。領国統治において室町幕府の影響力を完全に排除したことで、今川義元は幕府との主従関係を解消したのです。

優れた経済政策

戦国時代における領国の経済力は、「石高」(こくだか)という米の収穫量によって示されていました。石高が高ければ高いほど、米の収穫量が多く、豊かな国であることの証左。

今川氏が統治していた駿河・遠江・三河は、3国合わせても100万石に届かないなど、決して石高が高い国であったとは言えませんでした。そんな中、今川義元が行なった政策は、積極的な金山開発。豊富な埋蔵資源を活用することで、領国を豊かにする道を探ったのです。

駿河には、「安部川」上流の「安倍金山」や富士山の麓の「富士金山」など、金山が複数ありました。そして、今川義元の時代には金・銀の精錬法である「灰吹法」(はいふきほう:金や銀を含む鉱石を一旦、鉛に溶かして金銀を抽出する方法)が伝来。金の生産量が飛躍的に増加したことで、駿河は一躍豊かな国へと変貌していきました。

また今川義元は、検地の必要性にもいち早く気付き実施したと言われています。土地の面積・種類・石高を正確に把握することで、石高に応じての租税徴収や、軍役を課すことが可能になりました。さらに商業政策では、物流網の整備・商人統制を強化。こうした領国経営によって、今川義元は税収を増やし、駿河を強国へと変貌させていったのです。

今川義元の外交・軍事政策

甲駿同盟~第一次河東一乱

1537年(天文6年)、今川義元は甲斐国(現在の山梨県)守護「武田信虎」(たけだのぶとら)の娘を正室に迎え、武田氏と縁戚関係を結びました。

先代・今川氏輝まで敵対していた武田氏と同盟を結んだのは、前述した花倉の乱で不安定になった国内を安定させるため。しかし、武田氏との同盟は、皮肉にも以前から同盟関係にあった相模(現在の神奈川県)の北条氏を刺激してしまいました。

北条氏による駿河侵攻を受けた今川義元は、これを迎え撃つために兵を出しましたが、花倉の乱で敵対した武将が遠江(現在の静岡県浜松市)で挙兵。その結果、挟み撃ちにされてしまいます。結局、富士川以東を北条氏に占領されてしまいました(第一次河東一乱)。

第一次小豆坂の戦い~第二次河東一乱

1540年(天文9年)、尾張(現在の愛知県西部)の「織田信秀」(おだのぶひで)が三河(現在の愛知県東部)に侵攻。今川義元はこれを撃退するため、三河の諸将に援軍を送りましたが、敗北したと言われています。

1545年(天文14年)には、「北条氏康」(ほうじょううじやす)を挟み撃ちにすべく、「上杉憲政」(うえすぎのりまさ)と同盟を結びます。さらに武田氏にも援軍を出してもらい、第一次河東一乱で占領された富士川以東を奪い返すべく、北条氏を包囲。北条氏は占領していた富士川以東を返す条件で、今川氏と和睦しました(第二次河東一乱)。

これ以降、今川氏と北条氏の緊張状態は徐々に緩和していき、のちの甲相駿三国同盟の成立に繋がっていったのです。

三河侵攻~第二次小豆坂の戦い

徳川家康

徳川家康

北条氏の脅威から解放された今川義元は、本格的に三河制圧に乗り出します。

三河の松平氏を帰順させ、「松平元康」(のちの徳川家康)を人質として迎え入れる約束を交わしたことを手始めに、徐々に三河の支配に乗り出していきました。

1548年(天文17年)、織田氏は三河に兵を出してきましたが、今川義元はこれを破り(第二次小豆坂の戦い)、織田氏の三河における拠点であった「安祥城」(あんじょうじょう)も攻略。三河から織田氏の勢力を完全に追い払ったのです。

これ以降、三河は今川氏の支配下に入り、今川義元は、駿河・遠江・三河三国を領国とする大名になりました。

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甲相駿三国同盟終結

駿河の富士川以東を北条氏から奪い返し、三河から織田氏を追い払った今川義元でしたが、同盟している武田氏も含め、駿河の三方を敵で囲まれたままだったことに変わりはありません。

この状況を打破するために、今川義元が選択したのは、当主・織田信秀が死去したばかりで、最も攻めやすいと思われた尾張に侵攻するために、北条氏と武田氏との間で三国同盟を締結すること。これにより、今川義元はさらなる領土拡大と領国の安定を目指したのです。

三国同盟の締結は、武田氏にとって越後・長尾氏との戦いに専念でき、北条氏にとっても、西を気にすることなく関東支配に専念できるメリットがありました。三国それぞれの嫡男に娘を嫁がせて婚姻関係を結ぶことで、同盟関係を築いたのです。

三国同盟を結んだことで、武田氏・北条氏の脅威が薄れた今川義元が目指したのは、尾張侵攻。こうして運命の「桶狭間の戦い」に突入していくことになりました。

寄親寄子制の導入

戦国時代において、動員兵力の目安は1万石につき250~300人と言われています。

駿河・遠江・三河の三国の石高は、合計約70万石。計算上の動員数は17,500~21,000人です。桶狭間の戦い時点で今川義元の動員兵力は、推定25,000人。加えて突然の敵襲など、万が一の事態に備えて国を守るための兵を置いていかなければいけないことを考えると、数千人単位で兵力が足りないことになります。

そんな今川氏の大兵力を可能にしたのは、「寄親寄子制」(よりおやよりこせい)を導入したことにありました。「寄親」となったのは、城主や侍大将クラス、「寄子」は有力農民クラスです。寄子は戦が始まると、自分の使用人を連れて寄親の下に集まり軍事指揮下に入り、戦いました。

寄親と寄子を結び付けていたのは利害関係。寄子は寄親の命令を聞いていましたが、恩給が少なかったり、普段の扱いに不満を持ったりした場合には離反し、違う寄親の寄子になることもあったと言われています。

織田信長の名を轟かせた桶狭間の戦い

尾張侵攻の背景

織田信長

織田信長

1548年(天文17年)、第二次小豆坂の戦いに勝利し、織田氏の三河の拠点である安祥城も攻略し、今川義元は三河をほぼ支配下に置きました。

さらに、駿河・甲斐・相模の三国同盟によって東と北の脅威から解放され、西の尾張攻略に専念できる状況になったことで、さらなる領国拡大を目指したのです。

また、織田家に問題が起こっていました。1551年(天文20年)織田信秀が死去したあと、嫡男「織田信長」とその弟「織田信行」(おだのぶゆき)の間で家臣を巻き込んだ跡目争いが勃発。結局、嫡男・織田信長側が勝利しましたが、尾張と三河の国境だけではなく、尾張国内も乱れ今川方に通じる者も現れるようになっていました。

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桶狭間の戦い前夜

1560年(永禄3年)、今川義元は25,000の兵を率いて駿府を出発し、「沓掛城」(くつかけじょう)に入ります。このあとの進路は、織田方の砦に囲まれている「鳴海城」(なるみじょう)と「大高城」(おおだかじょう)の救援。今川義元は南に位置する大高城に兵糧を運び、周りの砦を排除した上で、大高城を拠点として鳴海城に向かう策を採りました。

兵糧を大高城に運び込む役目を任された松平元康(徳川家康)は、大高城周りの砦からの攻撃に応戦しながら、なんとか兵糧を運び入れることに成功します。兵糧を運び入れた松平元康(徳川家康)は、周りの砦に攻撃を開始しました。

桶狭間の戦いにおける兵力配置

大高城に兵糧が無事に運び込まれ、周りの砦を攻撃し始めたことを聞くと、今川義元は沓掛城に守備兵を残して出発します。今川義元側の兵は、沓掛城に守備兵数千、大高城周辺の砦の攻撃に数千、今川義元本隊に残りの兵という配置。今川義元本隊にどのぐらいの兵がいたのかは定かではありませんが、兵力は確実に分散されていました。

昼頃、今川義元が桶狭間山に差し掛かったころ、大高城を囲んでいた砦を攻略したという知らせが届きます。大高城に入るのに障害となる砦は排除したことで、警戒心も薄れ、昼休憩に入ったのです。

一方、織田信長は「清洲城」(きよすじょう)を出発し、「熱田神宮」(あつたじんぐう)で戦勝祈願を行なったあと、善照寺砦に入り、そこに「佐久間信盛」(さくまのぶもり)以下500~1,000の兵を置き、残り2,000の兵を率いて桶狭間に向けて出発しました。

今川義元討ち死に

桶狭間の戦い

桶狭間の戦い

桶狭間の戦いは、豪雨の中での戦(いくさ)だったとされ、織田信長軍が今川義元本隊との間で大きな戦闘をすることなく、本陣に突撃できたとも言われています。

織田信長軍の襲撃を受けた今川義元本隊の兵力は、桶狭間の地形を考えてもせいぜい5,000人程度。しかも昼休憩中で戦闘態勢にはありません。

数時間の戦闘の末、今川義元は討ち取られてしまいました。

桶狭間の戦いの影響

桶狭間の戦いのあと、今川義元の嫡男「今川氏真」(いまがわうじざね)が今川氏の当主となりましたが、今川氏は急速に衰退していくこととなります。尾張から西三河に至る地域から今川氏の勢力が排除され、松平元康(徳川家康)が独立。松平元康(徳川家康)と同盟を結び、東からの脅威がなくなったことで、織田信長は美濃攻略、そして上洛に専念できるようになったのです。

また、今川義元の死をきっかけに今川氏と武田氏の関係が悪化しました。1568年(永禄11年)には「武田信玄」が同盟を破棄し駿河侵攻を開始。そして、今川氏は滅亡してしまいます。今川義元の死後わずか9年のことでした。

今川義元が用いた家紋

足利二引両紋

足利二引両紋

足利二引両紋

この家紋は、足利家が使用していた「足利二引両紋」(あしかがふたつひきりょうもん)です。

室町幕府成立後、足利将軍家は、この家紋を家臣達に下賜したことで、足利家の他にも、細川氏・斯波氏・畠山氏なども使用していました。

赤鳥紋

赤鳥紋

赤鳥紋

今川義元がもうひとつ使っていた家紋が「赤鳥紋」(あかとりもん)。

これが何を表しているかはっきりと分かっていません。初代当主「今川範国」(いまがわのりくに)が「赤い鳥と共に戦いなさい」と神託を受けたことから「幸運の象徴」を表しているとする説や、馬の毛をすく櫛である「垢取り」の当て字説など諸説あります。

今川義元が残した名言

「寄親は今川家への奉公を第一に心がけ、与力にもそう言葉かけよ」

今川仮名目録追加に記されている言葉で、将軍家ではなく今川家のために働くことを心がけなさい、ということです。

現代社会に当てはめるなら、会社の利益になるように心がけて働くことを、上司は部下にもしっかり教えておきなさい、という意味であると言えます。

「昨日なし 明日またしらぬ人はただ 今日のうちこそ命なりけれ」

昨日のことを覚えておらず、明日なにが起こるか知らないような人は、今日までの命である、という意味です。

過去から学び、未来を予測して行動できない人は、すぐに命を落としてしてしまうという一節は、幼少期に仏門に入り、兄の突然の死によって、跡継ぎ争いに巻き込まれて今川家当主を継いだ今川義元らしい言葉と言えます。

「義元の矛先には魔物だろうと鬼だろうとかなうまい」

大軍を率いて尾張侵攻する際に残したとされる言葉です。この言葉から、今川義元がいかに尾張侵攻に自信を持っていたのかがうかがえます。今川軍は25,000人、織田軍が2,000人だったことを考えると、今川軍が負けるはずはありませんでした。

しかし結果は最悪。今川義元の油断が言わせた言葉だったとも言えます。

「住職は弟子の持つ智恵や能力を検討せずに、勝手に寺を譲ってはならない」

今川仮名目録追加に記されている言葉。この時代の寺は、仏教の教えを説いたり、死者を供養したりするだけではなく、学問を学ぶ場所でもありました。今川義元も幼少期にお寺で学んでいます。

この言葉は、能力の低い弟子に寺を譲ってしまうと、その国の学力レベルが下がってしまうから慎むべきであるという意味。今川義元自身、幼少期に仏門に入りお寺の重要性を理解し、軍師としての太原雪斎の能力を高く評価していたからこその言葉だと言えます。

「海道一の弓取り」の異名を持つ今川義元

今川義元は、領国統治・外交で能力を発揮し、「海道一の弓取り」と呼ばれました。その意味は、東海道一の武将。桶狭間の戦いにおいて、兵力で圧倒的に優位だったにもかかわらず織田信長に敗れたことで過小評価されがちですが、戦国屈指の武将であったことに変わりはありません。

桶狭間の戦いで勝者となった織田信長は、今川義元と入れ替わるようにして上洛を果たすなど、天下統一路線を突き進んでいきました。桶狭間の戦いは、天下統一路線をかけた戦いであったと評価することも可能です。その意味では、今川義元には天下統一を成し遂げる資格・能力が備わっていたとも言えます。

刀 無銘 中心ニ「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀織田尾張守信長」ト金象眼アリ(義元左文字)

今川義元の愛刀として、最も有名な1振が名物「義元左文字」(よしもとさもんじ)です。

この日本刀は、桶狭間の戦いにおいて織田信長が今川義元から奪い取った逸話がよく知られています。その後、織田信長が天下統一路線を突っ走ったことから、「天下取りの刀」の異名が付けられたのです。

作者の左安吉(さのやすよし)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて活動していた刀工で、銘に「左」の一字を切っていたことから、「左文字」と呼ばれました。左安吉は、「相州伝」の「正宗」に入門したと言われ、「正宗十哲」のひとりに数えられています。

刀 無銘 中心ニ「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀織田尾張守信長」ト金象眼アリ(義元左文字)

刀 無銘
中心ニ「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀織田尾張守信長」ト金象眼アリ(義元左文字)

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
無銘 南北朝時代 重要文化財 三好正長→
武田信虎→
今川義元→
織田信長→
豊臣秀吉
豊臣秀頼→
徳川家康→
徳川将軍家→
建勲神社

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