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最上義光

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「最上義光」(もがみよしあき)は、出羽国(現在の山形県・秋田県)の小さな勢力であった「最上家」を、東北有数の大大名へと押し上げた武将です。父や弟との骨肉の争いに始まり、調略を駆使して領土を拡大しましたが、一方で合戦の際には、勇猛果敢な戦いぶりを見せ、「虎将」とも称されました。そんな最上義光の戦いの軌跡や、逸話から見える人物像に注目。ほぼ一代で、東北の大大名へとのし上がった、その生涯に迫っていきます。

最上家の来歴をはじめ、ゆかりの武具などを紹介します。

伊達家の服属から独立した小大名

最上義光の生い立ち

最上義光

最上義光

「最上義光」は1546年(天文15年)、「山形城」(現在の山形県山形市)城主「最上義守」(もがみよしもり)の嫡男として誕生。「最上家」は代々、室町幕府から「羽州探題」(うしゅうたんだい:出羽国を統括する役職)を任されていた由緒ある家柄でしたが、当時は勢力が衰退。「伊達家」に服属することで、命脈を保っていました。

その状況を脱したのは、1542年(天文11年)に起こった、伊達家の相続争い「天文の乱」(てんぶんのらん)。これに乗じて最上家は、領土の独立性を回復し、周辺諸国と同盟を結ぶことで勢力を維持していたのです。

そんな最上家の実情とは裏腹に、最上義光は、元服前から大器の片鱗を見せていました。背丈が高く筋力が並外れており、臆することのない性格だったのです。

その一例が、16歳の最上義光が、父や少数の家臣と共に訪れた蔵王温泉(ざおうおんせん:現在の山形県山形市)での出来事。遊びで家臣と力比べをすることになり、最上義光は、約190㎏の大石を軽々と持ち上げて、家臣を驚かせたのです。この大石は、現在も史跡として残され、「最上義光公の力石」と名付けられています。

さらにその日の夜、最上義光が宿で眠っていると、突然数十人の盗賊が襲来。このとき最上義光は、家臣達に先んじて戦い、盗賊に手傷を負わせて撃退します。これを見た父は、息子の武勇に大層喜び、家宝の名刀「笹切」(ささきり)を授けたと伝えられているのです。

父や弟との確執

伊達輝宗

伊達輝宗

最上義光が家督を相続したのは、1571年(元亀2年)頃。しかしこの時期、隠居した父・最上義守と確執が生じてしまいます。

理由は諸説ありますが、一部の家臣が最上義光を追い落とすために父を担ぎ出したとも、最上義守が弟の「中野義時」(なかのよしとき)を偏愛し、当主に据えようとしたためとも言われています。

この親子によるいさかいは、隣国を治める「伊達輝宗」(だててるむね:伊達政宗の父)の介入を招くことになりますが、直後の戦いで何とか伊達軍を退け、ことなきを得ました。

しかし、親子間の不和を危惧した最上家の重臣「氏家定直」(うじいえさだなお)は、重病を患っていたにもかかわらず、捨て身の説得で最上義守を諭し、親子を和解に導いたのです。

これ以降、最上義光は、隠居した父が暮らす「龍門寺」(りゅうもんじ:現在の山形市北山形)へたびたび訪れるようになったと言います。さらに最上義光は、父が大病に伏したときなどにあらゆる医術を施し、近隣の神社で治癒の祈願も行なったと伝えられています。

その反面、弟・中野義時との不和は最後まで解消されず、1574年(天正2年)、最上義光は、弟が守る「中野城」(現在の山形市中野)を攻め落とします。

命からがら落ち延びた中野義時はこれを恨み、兄を呪う祈祷を行ないますが、それを知った最上義光は弟に切腹を命令。相続争いに終止符を打ち、内憂(ないゆう:組織などの内部における心配ごと)を解決しました。

出羽国の統一を果たす

伊達家を始めとする近隣勢力との関係

義姫

義姫

当時の出羽国は、「天童家」(てんどうけ)を中心とする「最上八楯」(もがみやつだて:出羽国の有力国人の連合)を始め、「上山家」(かみのやまけ)や「大宝寺家」(だいほうじけ)などの群雄が割拠していました。最上義光はこれらの勢力を討つため、近隣の有力大名を味方に付けます。

まずは1564年(永禄7年)、妹の「義姫」(よしひめ)を伊達輝宗のもとへ嫁がせていながら、たびたび反目していた「伊達家」と講和。さらに奥州探題(おうしゅうたんだい:陸奥国[現在の東北地方北西部]の政務を司っていた役職)の「大崎家」(おおさきけ)から、正室を迎えて同盟を結び、背後を固めることに成功するのです。

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権謀術数を用いて出羽国を平定

最上義光は1578年(天正6年)、「上山城の戦い」において、同城の城主「上山満兼」(かみのやまみつかね)の重臣「里見義近」(さとみよしちか)・「里見民部」(さとみみんぶ)を裏切りに導き、上山満兼を討たせます。

また、1583年(天正11年)の「尾浦城の変」(おうらじょうのへん)でも、重臣の「東禅寺義長」(とうぜんじよしなが)をそそのかして謀反を起こさせ、主君「大宝寺義氏」(だいほうじよしうじ)を討伐。その後、東禅寺義長を傘下に収めることで、実質的な支配力を手に入れました。

さらに、「織田信長」への接近を図るなど、外交によって優位性を得ようとした「谷地城」(やちじょう:現在の山形県西村山郡)の「白鳥長久」(しらとり/しろとりながひさ)に対しては、まず、白鳥長久の娘を嫡男の「最上義康」(もがみよしやす)の正室に迎えて白鳥長久を油断させ、その上で最上義光は、自身が重病に罹ったと噂を流布。そして「自分の死後、最上義康の後見をお願いしたい」と弱気な手紙をしたため、居城へ見舞いに来させたのです。

床に臥せていた最上義光は、白鳥長久が枕元に接近したのを見るや、とっさに床の下に隠していた刀を抜き、その場で成敗したと言います。その後、主君不在の城を攻め落として、「白鳥家」の領土を獲得。自軍の損害を最小限に止めつつ、領土を拡大していったのです。

やがて、出羽国屈指の難敵・天童家、及び最上八楯との戦いにも、最上八楯の一廉(ひとかど)の人物、「延沢満延」(のべさわみつのぶ)を味方に引き入れることで天童城を孤立させ、同城を攻略。7年に及ぶ「天童頼澄」(てんどうよりずみ)の抵抗を退けたのです。

家臣から信頼されていた名君

調略が次々と成功した裏には、最上義光の人徳も影響していました。家臣からの信頼が極めて厚い大名だったのです。

例えば、会津藩(現在の福島県会津若松市)の藩士が、戦国時代末期の会津地方について記した「会津四家合考」(あいづしけごうこう)には、「親が子を慈しむように、家臣を深くいたわっていた」と書かれており、実際、最上義光は、調略によって味方となった武将は手厚く庇護し、領地などの加増も惜しみませんでした。

また、「寒河江家」(さがえけ)を攻めた際、最上義光は、家臣が止めるのも聞かず先陣を切り、見事敵の首級を挙げます。それを見た重臣の「氏家守棟」(うじいえもりむね)は、「一兵卒の首級など挙げて、誰に見せるおつもりか」と叱責。最上義光は我に返り、申し訳なさそうに、討ち取った首級を近くの兵士に与えたと伝えられており、家臣の忠告にも真摯に耳を傾ける大将だったことが分かります。

豊臣家への恭順と徳川家への傾倒

出羽国の大名として認められる

豊臣秀吉

豊臣秀吉

最上義光が出羽国をほぼ手中に収めた頃、中央では「豊臣秀吉」が天下を掌握。1590年(天正18年)に「小田原征伐」が始まると、その号令にしたがって最上義光も参陣します。下野国(現在の栃木県)の「宇都宮城」で豊臣秀吉と会見し、出羽国24万石の安堵を勝ち取るのです。

実は、この直前に最上義光は、父が亡くなり葬儀を執り行なっていたため、最後まで恭順を渋っていたことで知られる伊達政宗よりも、さらに参陣が遅れます。しかし、「徳川家康」の仲介によって、ことなきを得ました。

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「豊臣秀次事件」と愛娘の死

駒姫

駒姫

1591年(天正19年)、豊臣秀吉による「奥州仕置」(おうしゅうしおき)への反発で、「九戸政実の乱」(くのへまさざねのらん)が起こります。

このとき、豊臣秀吉の甥「豊臣秀次」(とよとみひでつぐ)は山形城に立ち寄り、最上義光の娘「駒姫」(こまひめ)に執心。側室にしたいと申し出ます。駒姫は、東国一の美女と噂されるほど美しい姫だったのです。最上義光は、一度は断ったものの豊臣秀次も譲らず、結局、駒姫が15歳になれば、差し出す約束をしてしまいました。

すると1595年(文禄4年)、側室になるために駒姫が京に入った矢先、豊臣秀吉への謀反の疑いにより、豊臣秀次が切腹を命じられます。一族にも処刑が言い渡され、その中には駒姫も含まれていたのです。

最上義光は、娘の命だけは助けたい親心で、徳川家康を介して嘆願しますが、豊臣秀吉からの返答はあまりに酷でした。「父の身分によって刑が変わるようでは、政道が成り立たない」。こうして駒姫は、わずか15歳で打ち首になるのです。この一件が引き金となって、最上義光の心は豊臣家から離れ、徳川家康に傾いていったとも言われています。

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関ヶ原の恩賞と最上家の転落

「奥州の関ヶ原」での奮戦

直江兼続

直江兼続

1600年(慶長5年)に起こった「関ヶ原の戦い」では、奥州にも戦いの火の粉が飛びました。西軍の上杉景勝(うえすぎかげかつ)と、東軍の最上義光、伊達政宗が激突したのです。動員された兵力は総勢約30,000人余にも及び、東北地方最大の合戦となります。

そのきっかけを作ったのは、上杉景勝の重臣「直江兼続」(なおえかねつぐ)です。居城の「米沢城」(現在の山形県米沢市)から、約20,000人余の兵を引き連れて北上。最上領を席巻しながら、山形城の南西約8㎞地点にある「長谷堂城」(はせどうじょう:現在の山形県山形市)を包囲します。

最上軍の総勢は約7,000人。最上義光は、長谷堂城主「志村光安」(しむらあきやす)と共に、激しい籠城戦となった「長谷堂城の戦い」を展開しました。

しかし、関ヶ原の戦いにおいて、わずか1日で東軍が勝利を収めたことを知った直江兼続は、すみやかに撤退を開始。最上義光は、伊達政宗の援軍と連れ立って追撃に転じ、上杉軍を会津地方まで押し戻します。この戦功により、出羽国と庄内地方などの領有を徳川家康に認められた最上義光は、約57万石の大大名になったのです。

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晩年に持ち上がった跡継ぎ問題

その後最上義光は、内政に着手。庄内平野に「因幡堰」(いなばぜき)などを開削し、土地の改良に尽力します。ところが、還暦が近づいても精力的に働く最上義光に、ある噂が立つのです。それは、嫡男の最上義康ではなく、次男「最上家親」(もがみいえちか)を自身の後継者に考えているのではないか、という内容でした。

そんな中で、最上義康が不注意によって刀で負傷したことに尾ひれが付き、「父を恨んで自刃を試みた」という噂が広まってしまいます。これに悩んだ最上義光は、江戸を訪れた際、徳川家康の意見を聞くことにしました。

しかし、そのとき、最上義康の器量に疑問を呈された最上義光は、廃嫡を決意してしまうのです。出家の命が下された最上義康は、高野山へと向かう道中で家臣に襲われて落命。これは、最上義光が命じたとも、最上家親派の家臣が独断で実行したとも言われていますが、真相は解明されていません。

最上義康が没したことにより、最上家の家督を継いだ最上家親でしたが、わずか3年後に急逝し、再び相続争いが勃発。江戸幕府が仲介に入ったものの内紛は収まらず、やがて最上家は家中不届きの咎(きゅう)で改易。最上義光の死から、たった9年後のことでした。

最上家の家紋

足利二つ引き

足利二つ引き

最上家が代々用いていた家紋は、2本の線を図案化した「足利二つ引き」(あしかがふたつひき)。その呼称の通り、「足利家」一門の家紋としても知られていますが、最上家の祖先である「斯波家」(しばけ)は、足利家の支流だったのです。

なお、最上義光の「義」の字は、室町幕府13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)から賜っており、この家紋からは、足利家との浅からぬ繋がりが見えます。

足利義輝のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

最上義光の知られざる素顔

妹や娘への愛情が深かった

最上義光と、伊達政宗の生母である妹・義姫は、極めて仲の良かった兄妹。当時では珍しく、個人的な事情や感情をしたためた手紙が多数残されているのです。

例えば1588年(天正16年)、出羽国中山(現在の山形県上山市)において、伊達政宗と最上義光が敵対したときのこと。最上義光と義姫がいくら仲睦まじい兄妹であったとは言え、義姫は伊達家に嫁いでおり、あくまでも伊達家側の人間です。最上義光からの手紙が義姫に届くまでには、伊達家による検閲があったことが推測されます。これを嘆いた最上義光は、「(検閲のせいで本音を書けないので、)義姫への手紙を書く気になれない」と落胆していることを、義姫に書き送っていました。

なお、この戦いにおいて義姫は、兄と息子の争いを止めるため、両軍の間に小屋を建築。戦場の真ん中に80日間も居座り続け、停戦に導きました。この際、最上義光は再び筆を執り、「講和は恥だが、そなたのことを思うとやむを得なかった」と手紙に記しています。

また最上義光が、妹以上に深く愛していたのが娘の駒姫。豊臣秀次事件で駒姫が切られたときには、「前世の報いか」と絶望の表情を浮かべ、数日間、食事も水も口にしなかったと伝えられているのです。

徳川家康への奉公心

徳川家康

徳川家康

最上義光が、徳川家康に抱いていた畏敬の念は、他の大名とは一線を画していました。その心意気を象徴する出来事が、1614年(慶長19年)、最上義光が病に倒れたときに取った行動です。

死の床に臥す体にむち打ち、徳川家康へ最後のあいさつをするためだけに、出羽国から駿河国(現在の静岡県中部・北東部)の駿府城(すんぷじょう:現在の静岡市葵区)まで、はるばる足を運んだのでした。

これには徳川家康も感激し、多数の薬や見舞い品などを与えたのです。そして、最上義光は、この3ヵ月後に亡くなっています。

徳川家康のエピソードをはじめ、それに関係する人物や戦い(合戦)をご紹介します。

最上家に伝わる宝刀「鬼切丸」

「鬼切丸」(おにきりまる)は、平安時代の武将「渡辺綱」(わたなべのつな)が鬼を切った伝説が由来となり、その名称が付けられた名刀です。

鎌倉幕府を打倒した名将「新田義貞」(にったよしさだ)が佩刀していたことでも知られ、その後、斯波家を経て最上家の手に渡り、同家の家宝となりました。

その切れ味は鋭く、罪人の首を試し切りした際に、同時に髭まで切れたという逸話があります。このことから、別名「髭切」(ひげきり)とも呼ばれている1振です。

鬼切丸(最上義光佩刀)

鬼切丸(最上義光佩刀)

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
國綱(安綱) 平安時代中期 重要文化財 源氏→新田義貞→斯波家→
最上家→
北野天満宮

最上義光

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